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2025年9月18日木曜日

市浦健、尾島俊雄、郭茂林、岸田日出刀、高山英華、坪井善勝、西山夘三、浜口隆一、早川和男、林昌二、前川國男、武藤清、山下寿郎:朝日新聞社編:現代日本 朝日人物事典,朝日新聞社, 1990年

 朝日新聞社編:現代日本 朝日人物事典,朝日新聞社, 1990

市浦 健 いちうらけん

 1904.01.241981.XX.XX 日本の公共住宅の設計を主導した建築家。東京都生まれ。1928年東京帝国大学(工学部)を卒業。戦前期には住宅営団にあって、戦後は日本住宅公団を指導する建築家として、日本の住宅問題に取り組んだ。建築の合理化、合理主義の建築を主唱した日本の近代建築のパイオニアのひとりである。昭和初期に、W.グロピウスの提案するトロッケン・モンタージュ・バウ(乾式構造)による組立住宅を逸早く設計、住宅生産の工業化、プレファブ住宅の先駆者でもある。団地やニュウタウンの計画や集合住宅の作品が中心で、公団のY字形の平面をしたスターハウスはその代表作のひとつである。(布野修司)

 

尾島俊雄 おじまとしお

 1937.XX.XX~ 建築学者。都市環境工学。富山県生まれ。1960年早稲田大学(理工学部)を卒業。65年講師、69年助教授を経て、74年早稲田大学教授。建築環境工学の分野から、都市環境そのものを対象とする都市環境工学の分野を切り開いた先駆者として知られる。また、東京の改造計画や地下空間の利用など、都市環境についての積極的提言も行なっている。大都市問題について比較文明論的な視点での研究を展開するなど、都市環境に対するアプローチはグローバルである。大阪万国博、つくば科学博の会場設計、多摩センター地区等の基幹施設の基本設計も手がけている。著書に『熱くなる大都市』、『絵になる都市づくり』、『東京大改造』などがある。(布野修司)

 

郭 茂林 かくもりん

 1921.08.07~  建築家。台北市生まれ。1940年台北工業を卒業。戦後まもなく、東京大学工学部建築学科吉武泰水研究室にあって、「木造総合病院試案」(1950年)、「成 小学校」(51年)、また2DKのモデルとなった「51C型公営住宅標準プラン」(51年)などを設計、公共建築のあり方に大きな影響を与えた。その後、独立し、KMG建築事務所を開設、多くの作品を手掛けている。1962年から1969年まで三井不動産の建築顧問をつとめ、日本最初の超高層建築「霞が関ビル」(1968年)の設計にあたった。また、この作品とともに「新宿三井ビル」(1975)でも日本建築学会賞を授賞している。(布野修司)

 

岸田 日出刀 きしだひでと 

  1899.02.061965.05.03 建築家、芸術院会員。福岡県生まれ。1920年東京帝国大学(工学部)を卒業。1929年に東大教授となり、59年に退官するまで建築界を指導する立場にあって活躍した。前川国男、丹下健三、吉武泰水など多くのすぐれた人材を世に送りだしたことで知られる。代表作は、東大安田講堂(26年)である。また、『オットー・ワグナー』(27年)、『過去の構成』(29年)、『ナチス独逸の建築』(40年)など多数の著作がある。オットー・ワグナーを逸早く日本に紹介し、日本の近代建築を方向づける役割を果たしたことが特筆される。47年から48年にかけて、日本建築学会長を務めた。(布野修司)

 

高山 英華 たかやまえいか   

 1910.XX.XX~  都市計画家。東京生まれ。1934年東京帝国大学(工学部)卒業。助教授を経て、XX年教授、62年に都市工学科を創設し、同学科教授、71年退官まで東京大学にあって、都市計画の分野をリードした。東京大学名誉教授。建築学の分野として都市計画が位置づけられるのは、1930年代以降のことであるが、その先駆けとして活躍した。戦前期には、大同や新京の都市計画など、植民地において、近代的な都市計画のモデルとなる仕事をなしている。「大同都邑計画覚書」、「新京都市計画案覚書」などの論文が残されている。戦後は、各地の復興計画にまず取り組んでいる。その論文「空間計画における時間的問題」は、その指針を与えるものとして評価された。また、その後、首都圏総合計画や新宿副都心の計画や各地のニュータウン計画など、重要な都市計画のほとんどに関わって、都市計画行政を指導してきた。特に、「高蔵寺ニュータウン」の計画においては、日本のニュータウン計画の基本となる理念、手法を提示した。都市計画関連の法制度の制定にも、各種審議員として関わっている。その間、多くの研究者、プランナーを育てている。都市工学科の創設は、その大きな功績である。戦後まもなく結成された(47年)建築運動組織、新建築家集団(NAU)の会長を務めた。また、6567年には、日本建築学会会長を務めている。(布野修司)

 

坪井 善勝 つぼいよしかつ        18

 1907.XX.XX~  建築構造学者。構造デザイナー。東京生まれ。1932年東京帝国大学(工学部)卒業。和歌山県営繕技師、九州大学技師を経て、41年?、東京帝国大学第二工学部教授、XX年、東京大学生産技術研究所教授。

 「矩形板に関する研究」で40年日本建築学会賞授賞。日本のシェル構造研究の第一人者である。また、すぐれた構造デザイナーとして、数々の作品を残している。東京オリンピックの諸施設など、60年代以降、シェル構造の建造物が日本でも数多く実現されるのであるが、その大きな功績とされる。特に、丹下健三との共同設計はよく知られる。「国立屋内総合競技場」、「東京カテドラル」、「万博お祭り広場」など、その主要作品のほとんどに関わっており、作品でも多くの賞を授賞している。

 

西山 夘三 にしやまうぞう

 1911.03.01~  建築学者。住宅問題、住宅・地域・都市計画。大阪生まれ。1933年京都帝国大学(工学部)を卒業。石本建築事務所、住宅営団、京都大学営繕課を経て、46年京都大学助教授、以後京都大学にあって、その庶民住宅に関する研究を基礎に日本の建築界に大きな足跡を残した。京都大学名誉教授。87年日本建築学会大賞授賞。京都大学学生時代のデザム、戦前の青年建築家連盟、戦後の新日本建築家集団(NAU)などを組織し、リードした建築運動家として知られる。また、建築評論に健筆をふるい、その発言は一貫して建築界に大きな影響力をもってきた。著作は、『西山夘三著作集』全四巻、『日本のすまい』全三巻、『日本の住宅問題』、『住み方の記』など多数にのぼる。とりわけ、戦後まもなく書かれた『これからのすまい』は、戦後の日本のすまいのありかたについての大きな指針となった。戦後住居の象徴となったダイニング・キッチンは、その食寝分離論によって生み出されたものである。(布野修司)

 

浜口 隆一 はまぐちりゅういち       

 1916.XX.XX~  建築評論家。東京生まれ。1938年、東京帝国大学(工学部)卒業。3843年、大学院で建築理論、近代建築史を研究、その間、前川國男に師事する。論文「国民建築様式の諸問題」で、評論家としてデビュー。48年、東京大学第二工学部助教授。近代建築の規定をめぐる論争などで建築ジャーナリズムの中心的存在となる。58年に東京大学を退職し、建築評論家としての自立を目指した。戦後を代表とする建築評論家のひとりである。『浜口隆一評論集』など著書、編著は多数。特に、戦後まもなくの『ヒューマニズムの建築ー日本近代建築の反省と展望』は、戦後建築の指針を示す書として広く読まれた。(布野修司)

 

早川 和男 はやかわかずお             

 1931.XX.XX~  建築学者。住宅問題。奈良県生まれ。1955年京都大学(工学部)を卒業。住宅問題、住宅計画の第一人者である西山夘三に師事。日本住宅公団、建設省建築研究所を経て、1978年神戸大学教授。日本住宅会議事務局長。「住宅は人権である」をスローガンに、住宅運動を展開する行動する研究者として知られる。その舌鋒は、政府の住宅政策の無策を追求して激しい。日本住宅会議を設立組織し、インタージャンルな研究活動も展開している。著書は、『空間価値論』、『住宅貧乏物語』、『土地問題の政治経済学』、『日本の住宅革命』、『新・日本住宅物語』など多数。(布野修司)

 

林 昌二 はやししょうじ          18    

 1928.09.23~  建築家。東京生まれ。1953年、東京工業大学(工学部)を卒業。同年より、大手の設計事務所である日建設計に勤務。組織事務所を代表する建築家のひとりとして活躍してきた。建築ジャーナリズムでの発言も多く、現実派のオピニオン・リーダーとしても知られる。1970年代半ば、超高層建築など巨大建築は是か否かという「巨大建築論争」が戦わされるのであるが、「社会が建築をつくる」という立場から、巨大建築擁護の論陣を張った。著書には『建築に失敗する方法』などがある。「ポーラ五反田ビル」(71年)で日本建築学会賞授賞。作品として、「三愛ドリームセンター」(60年)、「パレスサイドビル」(64年)、「日本IBMビル」(71年)、「日本プレスセンタービル」(76年)などがある。(布野修司)

 

前川 国男 まえかわくにお

 1905.05.14198X.04.2X 日本の近代建築を主導した建築家。新潟県生まれ。1928年東京帝国大学(工学部)を卒業。卒業と同時に、パリのル・コルビュジェのアトリエに入所。30年に帰国、A・レイモンド設計事務所に入所、「東京帝室博物館」など数々のコンペ(設計競技)に応募する。日本趣味、東洋趣味を条件とする戦前のコンペに対して、敢然とモダニズムのデザインを提出し続けたその戦いの過程は、日本の近代建築史の有名なエピソードのひとつである。35年、前川國男建築設計事務所を創設、その後、丹下健三、浜口隆一・ミホなど戦後建築を担う人材が入所している。以後、数々の名作を残す。

 工場生産木造組立住宅「プレモス」(46年)そして「紀伊国屋書店」(47年)以降、弟子である丹下健三とともに日本の戦後建築をリードする。「日本相互銀行」(52年)、「神奈川県立図書館・音楽堂」(54年)、「国際文化会館」(55年)、「京都会館」(60年)、「東京文化会館」(61年)、「蛇の目ミシン工業本社ビル」(65年)で日本建築学会賞、「埼玉県立博物館」で日本芸術院賞など多数の授賞作品がある。

 5962年、日本建築家協会の会長を務めるなど、建築家の職能の確立に大きな努力を払い、建築界の不透明な体質に警鐘をならし続けたことで知られる。近代建築家としての矜持を失わなかった建築家である。「国立国会図書館」(6168年)の設計をめぐる著作権問題や皇居前の「東京海上火災ビル」の設計(6574年)をめぐる「美観論争」において、毅然とした態度を貫いたことが多くの作品とともに記憶される。また、大高正人、木村俊彦、鬼頭梓など多くのすぐれた建築家を育てた。(布野修司)

 

武藤 清 むとうきよし                24

 1903.XX.XX1989.XX.XX 日本に超高層建築を可能にした建築構造学者。茨城県生まれ。1925年東京帝国大学(工学部)を卒業。1935年、東京帝国大学教授。1963年、東京大学を退官ののち、鹿島建設副社長、69年、武藤構造力学研究所所長。東京大学名誉教授。国際地震工学会名誉会長、日本建築学会名誉会員、日本土質工学会名誉会員。日本建築学会会長をはじめ、数多くの役職を歴任した。64年、日本学士院恩賜賞、XX年、文化勲章授賞。日本の耐震構造学の重鎮である。

 戦前より、建築構造学の分野を先導し、耐震構造学の体系を作り上げた。戦前期には剛構造論者として、柔構造論を退けたが、戦後、コンピューター技術の導入とともに動的解析法による耐震設計の技術を確立、地震国日本でも、柔構造による超高層建築が可能となることを明らかにした。それをもとに、63年、建築基準法の建物の高さ制限が撤廃され、68年、霞ヶ関ビルの竣工をみることになった。(布野修司)

 

山下 寿郎 やましたとしろう

 1888.04.021983.02.02 建築家。山形県生まれ。1912年東京帝国大学(工学部)を卒業。三菱合資会社地所部、芝浦製作所建築部、三井合名会社建築事務部を経て、29年、山下設計を設立。2047年、東京帝国大学講師。4951年、日本建築士会会長。5556年、日本建築設計管理協会会長。75年、全国建築士事務所協会連合会会長。日本建築学会名誉会員。戦前期から一貫して設計事務所を経営、山下設計を日本でも有数の建築設計事務所に育て上げた。また、建築界の要職を歴任し、建築家の職能の確立に務めた。作品としては、「霞ヶ関ビル」、「NHK内幸町」、「三和銀行」など多数がある。(布野修司)

 


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布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...