布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
K20 ジャワの首座都市-バタビアからメガ・シティへ
ジャカルタJakarta、西ジャワWest Jawa、インドネシアIndonesia
ジャカルタの地は、かつてスンダ・カラパと呼ばれた。スンダはジャワ西部の地方名、カラパは椰子を意味する。ヒンドゥー王国のスンダの中心都市であったが、マジャパヒト王国がバリに追われると、イスラーム化され、ジャヤカルタJayakartaに改称される。その1527年6月22日をもって都市誕生の日とされる。ジャヤカルタは「聖なる勝利」を意味するが、訛ってジャカトラJakatraと呼ばれるようになる。チリウン川西岸に位置し、四周はその支流と竹垣で囲われていた。中央にアルン・アルンと呼ばれる広場があり、クラトン(王宮)、モスク、北にはパサール(市場)が取り囲み、貴族達の住居はその周囲に建ち並んでいた(図1)。
図1 ジャカトラ 想定復元図 J.W.Ijzerman
1617年、オランダ東インド会社VOC総督J.P.クーンは、ジャヤカルタの王から商館を建て交易を行う許可を得る。そして、イギリス商館を焼き払い、ジャヤカルタを占領、破壊した後、バタヴィアBataviaの建設に着手する(1619年)。バタヴィアとは、オランダのラテン名に因んだ名前である。
バタヴィアの建設は、チリウォン川の東に沿って行われ、オランダの都市の中庭を住居が取り囲む街区構成が初期の地図から窺えるが(図2)、運河を縦横に走らせるその伝統に従った町づくりが行われる。バタヴィア城には本部が置かれ、事務所、倉庫上級職員の居住区、兵舎、教会などがある。南北約2250m、東西約800mの市域は、東に城壁が建設され、他はチリウォン川によって区切られている。東西に幅30フィートの運河が5本掘られ、ほぼ中央に市庁舎、パサール・バルー(新市場)、南に病院、また教会が建設された。
図2 ジャカトラ Boccaro(1935)
1635年には、チリウォン川が真直ぐに改修され、その両側に市域が拡大されている。S.ステヴィンの都市モデル(Column12)が参照されたとされる。1650年には、ほぼ完成し(図3)、1667年までに順々に再開発され、18世紀を通じて存続する町の形態ができ上がっている(図4)。1648年には、後背森林地区までの運河の建設が開始され、1650年には郊外居住地が建設され始めている。
図3 バタヴィア1850(VELH430)
17世紀後半から18世紀にかけて、バタヴィアは繁栄を誇り、「東洋の女王」と呼ばれるほど、VOCの植民都市のうちで最も美しい町とされた。市外に各民族のカンポンが形成されるとともに、防衛のための要塞が建設された。チャイニーズが1740年に市内から追放され、後背地の開発に従事する。1680年には、第2の防衛線がバイテンゾルフ(現在のボゴール)に置かれており、後背地は、既に、現在ジャカルタ大都市圏にまで広がっているのである。
ヨーロッパ人たちも次第に郊外に居住するようになる。当初は別荘が建てられ、やがてオランダ風の邸宅が建設される。そして、ヨーロッパ人、中国人は主として第一の防衛線と第二防衛線の間で、砂糖きび栽培を本格的に開始する。しかし、17世紀前半になると、バタヴィアは衰退し始める。環境悪化、特にサラク火山の大噴火(1699年)によって砂州が河口に形成され、運河の汚染が高まり様々な疫病が流行したためであり、後背地における砂糖栽培のための性急な乱開発も原因として指摘される。1780年頃になると、バタヴィアの中心は空洞化し廃墟然として「東洋の墓場」と呼ばれるほどとなる。
そこで、もともと森林地帯であったウェルトフレーデンWeltevreden地区(現在のムルデカ広場周辺)への中心の移動が決定される。この大移転は、18世紀末に開始され、1809年にH.W.ダーンデルスDaendelsにより完成される。イギリス統治期(1811~16年)も変更は加られていない。バタヴィアの城塞、城壁は取り壊され、運河は埋め立てられた。再興されるのは19世紀末から20世紀はじめにかけてのことである。市域は19世紀を通じて拡大していく。しかし、カンポン(ムラ)には、基本的に手をつけられず、新たな中心の周辺に再編成される。
バタヴィアがさらに大きく変わるきっかけとなるのは、鉄道の敷設(1873年)と外港の建設(1877~83年)である。すなわち、産業革命の波が、バタヴィアにも及ぶのである。バタヴィアの拡張に伴う計画は1918年に立てられ、中心部については1920年代から30年代にかけて戦後につながる基盤が形づくられる。しかし、その他の地区は、ほとんど何の都市基盤をもたないカンポンの海であった。注目すべきは、1925年に市の補助によってカンポンの改善事業(Kampung Verbetterung)が開始され、第二次大戦まで序々に続けられることである。
戦後のジャカルタの膨張はすさまじい。人口増加に対応するために建設されたニュータウン(コタ・バルー)も、すぐさま、カンポンに取り囲まれた。ジャカルタは、アジア有数の巨大都市、プライメイト・シティとなるのである。そして、さらにジャカルタ大都市圏が形成される。周辺の諸都市ボゴール,タンゲラン,ブカシを含んでジャボタベックJabotabek(Jakarta,Bogor, Tangerang,Bekasi)と呼ばれる。2,000年のセンサスに依れば,ボゴールが460万人,タンゲランが410万人,ブカシが330万人,全体は2110万人にも及び,20世紀末の10年で400万人も増えた。そして、21世紀に入っても、このメガ・アーバニゼーションの流れが続いている。
図4 バタヴィアの変遷
参考文献
布野修司(1991)『カンポンの世界 ジャワの庶民住居誌』パルコ出版
A.Surjomihardjo(1977)"The Growth of Jakarta",Jakarta
J.W.Ijzerman(1917)"Over de
belegering van het Fort Jacarta"
F.de Haan(1922)"Oud Batavia",Batavia,G.kolff
&Co. 他、布野修司編(2005)『近代世界システムと植民都市』の主要参考文献Batavia-Jakarta-Indonesia参照。
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