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2021年7月2日金曜日

架構 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

  京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



 架構

 

 


 家屋文鏡

 日本の古代住居の形態を知る上で大きな手がかりにされるのが家屋文鏡である。あるいは銅鐸に鋳出された家屋文様や家型埴輪である。家屋文鏡と呼ばれる直径23.5センチの鏡は、奈良盆地の西部、馬見と呼ばれる古墳群のなかの佐味田宝塚古墳から発見された完形26面の内のひとつである。四世紀から五世紀の初め、古墳時代初頭のものとされる。

 家屋文鏡には4つの異なった建物(家屋)が描かれている。鏡の上部から右回りにみると、入母屋屋根の伏屋形式の建物(A棟)、切妻屋根の高床建物(B棟)、入母屋屋根の高床建物(C棟)、入母屋屋根の平屋建物(D棟)である。その4つの建物類型が何を意味するのか、日本の住居(建築)の原型が描かれているのではないかという興味から、様々な解釈が試みられてきた。

 木村徳国は、記・紀、万葉集および古風土記の残存する五国の分をテキストとし、上代語における建築形式の呼び名を収集し、その記述から建築の形式を復原しようとするなかで、ムロ、クラ・ホクラ、ミヤ・ミアラカ、トノの四つの系列を、家屋文鏡の四つの家屋形象に当てはめて理解しようとする*2。例えば、ムロ類の建築(A棟)が、上代四文献の中で、それ自体でまとまりのある一小建築世界を構成しており、わが国古代農耕民の建築世界として「原ムロ的建築世界」を投影していること、また文献中へのムロの出現にウタゲが大きな契機として働いていることから、ニヒムロノウタゲの起源形態が古代農耕民の収穫祭であったと推定されること、また、クラ(B棟)については、上代四文献において古代へさかのぼるほどそれが観念の上で重要性を増していくこと、特に記・紀の説話では、クラはホクラとして神聖な刀剣を収蔵する宗教的な建築としてあらわれること、またそれから、神社発生・成立の歴史のうちに一つの系統として、はるかに時代をさかのぼるホクラ系神殿が定立されるのではないかということ、トノ類がヤ類と大きく混淆しながら、神道建築の最も重大な本殿・正殿において排除されていることから、新しく導入された外来の形式ではないかと推測されることなどである。また、池浩三は、沖縄、南西諸島に残る神アシャゲを、その祭祀の構造から稲積み系の祭祀施設としてとらえ返しながら、その原型的要素をわが国古代の新嘗・大嘗祭の中心的施設ムロに対比する。さらに家屋文鏡の4つの建築類型を大嘗祭施設の原型とみなす*3。農耕儀礼と原初的建築の発生をめぐってそれぞれに興味深い。

  家屋文鏡のA~D棟は、架構形式についてのみ問題にすれば、東南アジアでも一般的に見ることができる。A棟は原始入母屋造、一般的に竪穴式住居である。B棟は、それこそ東南アジアの典型的住居、転び破風屋根、船型屋根、鞍型屋根である。D棟を平屋とすれば東南アジアにはないが、A、C棟を含めた入母屋屋根は各地に見られるのである。

 

 原始入母屋造 

 東南アジアと日本の住居を考える上で興味深い学説がG.ドメーニグの構造発達論である*1。その説に従えば、実に多様に見える東南アジアの住居の架構形式のパターンを統一的に理解できるのである。否、のみならず、日本の古代建築の架構形式も含めて、その発生について興味深い議論を展開するのがG.ドメーニグである。

 G.ドメーニクは、まず東南アジアと古代日本の建築に共通な特性のひとつが「切妻屋根が、棟は軒より長く、破風が外側に転んでいること」(転び破風屋根)であるという。そして、この転び破風屋根は、切妻屋根から発達したのではなく、円錐形小屋から派生した地面に直接伏せ架けた原始的な入母屋造の屋根で覆われた住居(原始入母屋住居)とともに発生したとする。

 G.ドメーニグはまず原始入母屋住居そのものの構造形式の発達過程を復元考案するのであるが、原始入母屋住居については既にいくつかの復原案がある。一般的には円錐形の小屋組から変化して発生したと考えられてきた。煙出しの必要から切妻の棟が考えられ、何対かの棟叉首の上に棟木を渡す形が生まれたとされるのである。それに対して、G.ドメーニグは、基本となる棟叉首は二対のみで、当初から用いられていたとする。微妙な違いのようであるが、実際の建設過程を考えると極めて明快である。

 G.ドメーニグのいう発達過程の5段階は図に示される通りであるが、円錐形に梁を集めた形から、二つの交差した叉首を基本とする形への変化を考える。そして続いて四本柱の発生を考える。その段階は、以下のようである。

 1.交叉叉首組と垂木のみで構築された円錐型小屋から直接派生した原型。

 2.2本の桁状の木材を導入することにより、煙出し用の細長い切れ目が出現。

 3.煙出しの構造が変化して、桁梁構造が出現。

 4.桁梁が拡張されることにより、内部空間が広く明るくなる。構築過程中補助柱を必要とし、完成後除去される。

 5.補助柱は大規模な架構においては最終的に保持され、いくらか地中に埋め込まれ、上部は桁梁と結び合わされる。この段階において新しいい支持架構が出現し、構造力学的システムは根本的変化に遭遇することになる。交叉叉首組は特に風等に対する斜材として、さらに構築時の足場としての用をなしている。すなわち今、柱・桁梁架構が新しい支持機能として取ってかわるため、もはや交叉叉首組は完成した建物においては、支持構造としての機能はない。

  さらに興味深いことに、G.ドメーニグは、この第五段階から、高倉が誕生するという。原始入母屋造を北方系の円錐形屋根と別の系列の高倉系の切妻屋根との結合体とみる見方がある中で、切妻屋根の高倉もまた原始入母屋造りの内部から発達してきたとする構造発達論にはラディカルな一貫性がある。

 

 井篭組・・・校倉形式

 東南アジアの住居の構造形式は一般的に柱梁構造である。木材を縦横に直角に組み合わせて枠組みをつくるのが一般的である。しかし、木材を横に積み重ねる井篭組あるいは校倉形式の構造形式が東南アジアになくはない。一般的には、森林資源が豊富な寒冷地の構造形式と考えられるが熱帯地域にも存在するのである。著名な例としては、トロブリアンド島のヤムイモの貯蔵倉が校倉形式である。まさに校倉と呼ばれるように、機能的に穀物などを貯蔵する倉として用いられることが多いのも各地で共通である。ただ、その場合も校倉形式は北方の伝統であると理解されている。正倉院など日本の校倉形式も北方系の伝統であると考えられのである。

 ところが、例えば、バタック・シマルングンの住居の基礎は井篭組である。同じ地域に柱梁組と井篭組の二つの形式が並存するのである。驚くことに柱梁組と井篭組を併用した建物がある。基礎の構造に限定されることが多いのであるが、サダン・トラジャでも井篭組の基礎をもつものがある。同じ地域で二つの架構形式が並存する例もブギスもそうだ。井篭組の伝統が東南アジアに及んだことは疑いないところである。

 井篭組の構造形式、すなわち校倉形式が同一の起源をもつかどうかは明らかではない。しかし、井篭組について各地域で形式としての可能性が技術的にも検討されることによって取捨選択が行われ、結果として、G.ドメーニグのいう原始入母屋系として理解できる柱梁構造が支配的となったと考えていいだろう。

 

 

 註1 G.ドメーニグ「構造発達論よりみた転び破風屋根ーーー入母屋造の伏屋と高倉を中心に--」(杉本尚次編 『日本の住まいの源流』 文化出版局 一九八四年)

  註2 木村徳国、『古代建築のイメージ』、NHKブックス、1979年2月、『上代語にもとづく日本建築史の研究』、中央公論美術出版、1988年2月

  註3 池浩三、『祭儀の空間』、相模書房、1979年、『祭儀の空間』、相模書房、1983年


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