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2021年7月12日月曜日

イスラーマバード/ラワルピンディとチャンディガール 計画都市の競演 国境を挟んで計画都市が向かい合う イスラマバード

 国境を挟んで計画都市が向かい合う イスラマバード「パキスタン」「世界100都市」『週刊朝日百科』200211


イスラーマバード/ラワルピンディとチャンディガール
計画都市の競演

布野修司 


 

ニューデリーが独立の最大の贈り物になったインドと異なり、分離独立後のパキスタンにとってまず必要とされたのは新国家に相応しい首都であった。一九四七年に当時最大であった港湾都市カラチに首都が置かれたが、あまりに南にあり、気候も適さない。軍事、経済、政治、多様な民族構成等様々な条件を勘案した上で、一九五八年、アユブ・カーン大統領の時に新たな計画都市として建設が決定されたのがイスラーマバード(イスラームの都市)である。ラワルピンディの北東一四キロがその場所だ。

ラワルピンディは、ラホールからペシャワールへ抜ける幹線道路上に位置する。古来様々な勢力の攻防が繰り返されたが、土地に因んで命名されたのは一五世紀末のジャンダ・カーンの治世だという。その後シク教徒がこの地を襲い(一七六五年)、英国に明け渡す(一八四九年)まで支配する。ラワルピンディが発展するのは英領化以降である。市の南にはロシアの南下政策に備えるために広大なカントンメント(兵営地)がつくられ、一八七九年にはパンジャブ北部鉄道が敷かれている。町には、ザ・モールと呼ばれるカントンメントをおよそ東西に横切る道路と北からモール、鉄道を横切り旧市街の東に接する道路の二つの幹線道路がある。そして旧市街にラジャ・バザール、旧市街とカントンメントの間にサダル・バザールがあって人々で賑わう。ラワルピンディはイスラーマバード完成まで暫定首都(一九五九~七〇)であった。

イスラーマバードの計画を担当したのはギリシャの建築家ドクシアデスである。彼はエキスティックス(人間居住学)という新たな学問分野を提唱したことで知られるユニークな建築家だ。彼が導入したのは極めて整然としたグリッド(格子状)・パターンの街区であり街路体系であった。ドクシアデスの念頭にあったのは、明らかにル・コルビュジェのチャンディガールである。

分離独立によって旧パンジャブ州の州都ラホールはパキスタン領となった。新たな州都が必要となったのはインドである。フランスから招かれた近代建築の巨匠、ル・コルビュジェによって一九五二年に計画案がつくられ、既に建設中であった。そして、ル・コルビュジェが採用したのも整然としたグリッド・パターンの都市であった。こうして二つに引き裂かれたパンジャブの国境を挟んで二つの近代計画都市がその威厳とシステムを競うことになったのである。

イスラーマバードとチャンディガール。同じようなグリッド・パターンの都市ではあるが当然異なる。まず、街区の規模が異なる。街区の単位は、イスラーマバードはマイル(一.六キロ)四方、チャンディガールは八〇〇メートル×一二〇〇メートルである。イスラーマバードでは、都市全体の機能が大きく八つに分けられ、行政街区、商業街区、教育街区、工業街区など用途別の街区がつくられている。そして、各街区はさらに大きく四分割され、中央にマーケットが置かれる。チャンディガールの場合、街区はひとつの近隣住区単位で五〇〇〇人から二五〇〇〇人が居住する。住居は街路に面して建ち、街路で囲われた街区の中は川が流れゆったりとした緑の公園になっている。いずれも、太陽と緑、ゾーニングなど近代都市計画の理念を実現しようとしたのがこの二つの都市である。

いずれも何もないいわば白紙の上に描かれ、建設が開始された都市であり、計画通りに事が進んだわけではない。思い通りに人口が定着しないなど、その理想と現実のギャップに二つの都市とも苦しんできた。しかし、歴史を経るに従って都市は人間くさくなった。イスラーマバードは現在人口約九〇万人(一九九八年)、チャンディガールは人口約六四万人(一九九一年)の都市である。




 


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