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2026年3月19日木曜日

「職人問題」顛末記                未発表 室内室外

 「職人問題」顛末記                未発表

                            布野修司

 

 ここ三年程参加してきた「イスラムの都市性」に関する研究会で一乗谷(朝倉氏遺跡 福井県)に行ってきた。何故、「イスラムの都市性」というテーマで一乗谷かと言われると困るのであるが、簡単にいうと、イスラム都市と比較するために、日本の原・城下町としての一乗谷と蓮如が建設しようとした原・寺内町としての吉崎御坊を考えてみようということである。世界を隈なく駆け巡り、古今東西の歴史に通じた何ともスケールの大きいフィールド派の碩学、応地(おうじ)利明(京都大学)隊長に率いられたわが班は好奇心旺盛になんでもみてみようというのが方針なのである。

 水野和雄(朝倉氏遺跡資料館)氏他の報告をうけたあと、最盛期、人口一万人は下らなかったとされる城下町の遺跡をつぶさに見て、様々なことを思った。なによりも感心したのは、二七八㌶もの地区を特別史跡に指定し、既に二五年もの間、発掘が続けられていることだ。二五年も経てば壊してしまう今日の都市のありようは、何千年たっても発掘に値しないことは明らかである。戦国時代、一五世紀の末から一六世紀の末まで、朝倉孝景が応仁の乱のころ居城を構え、五代目の朝倉義景が信長によって滅ぼされるまで、ほぼ百年にわたって栄えた町がそのまま埋もれてしまっている。はかないと言えばはかない。しかし、戦乱の中にもしたたかな生活はある。出土した茶器や陶磁器、文具や将棋の駒などの遊具をみると相当の文化の厚みが伝わってくる。優雅といえば、実に優雅である。

 人々の暮しぶりが実にリアルによくわかるのだが、眼をひいたのは、町を支えた職人たちの町屋である。瓶や様々な工具をみると、「かじし」や「ひものし」、「じゅずし」や「そめものし」など、「七十一番歌合」や「職人尽絵屏風」などに描かれたような、数々の職人の工房が軒を接して並んでいたさまが彷彿としてくる。石工や大工ももちろんいた。下水や井戸、地業の跡は、建築職人の存在抜きには考えられない。中世末期に至ると、職人たちの組織化が行われ、都市の形成がなされていく。その原初の形態がそこにはあった。

 職人といえば、山本夏彦大先生の「職人不足はだれのせい」(写真コラム 『週間新潮』 三月一日号)には、ほとほと参った。夏彦大先生の発言の影響力のすごさとファンの多さには今更のように驚かされる。三月号の本欄の拙文に大先生がちょっと言及されただけで、職人問題をめぐって小生の周辺で慌ただしくさまざまな出来事が巻き起こりだしたのだ。

 まず、建築界の大先輩たちが組織されてきた「建設同友会」から声がかかった。面白いことをいうらしいから、ちょっと呼んで話を聞いてみようという感じであった。飯でも食わせるから、気楽に雑談でいいからと言われて引き受けたのであるが、行ってみて青くなった。「建設同友会」というのは、もう三〇年も続いており、これまでの会のリストにある毎回のゲストは、政界、経済界、芸能界など各界の著名人ばかりなのである。長老たちは人が悪い。もうやけくそである。夢中でしゃべって、職人不足は大学の建築学科の教師が悪いと自己批判して、ひたすらすみません、というつもりだったのが、先輩たちも多少の責任があるんじゃないですか、などと口走ってしまった。悪い癖だ。いまでも冷汗がでるけれど後の祭りである。

 茨城県で職人学校をつくろうという話があって、少しづつお手伝いを始めていたのであるが、一気に加速がついた。しかし、進めれば進めるほど難しさがわかってくる。一方で、職業訓練校のような学校が閉鎖されつつあるのに、また新たに同じ様な学校をつくろうとしても駄目なのは最初からわかりきっている。学校という発想がそもそも貧しい。労働省や建設省、文部省の認定や指導で雁字搦めになって、どうも動きがとれない。

 何故、職人になり手がいないのかははっきりしている。どうすれば、職人のなり手が増えるのかも、はっきりしている。乱暴にいえば、将来がはっきり約束される、社会的に地位が高く、人々に尊敬され、高収入が得られる、そんな職業になればいいのである。日本全体でそんなことを考えるのは無理だから、というよりもとよりそんな発想を捨てて、ある地域で考えてみよう、というのだ。意外に可能性があるかもしれない、つい今日まで職人のそうした町場の世界は身近に生きていたのだからと、かなり具体的な計画を煮つめつつあるのだけれど、もとより一朝一夕で答えが出るわけはない。

 職人不足というけれど、一体、どういう職人が足りないのか、よくよくみてみる必要がある。職人不足を千載一遇の好機として、ぼろ儲けの企業も少なくないのだ。やっぱり、職人問題ということでひっぱり出された雑誌『施工』(彰国社)の三〇〇号記念の鼎談「これからの建設労働に何を期待するか」(一九九〇年一〇月号)で、建設労働については実に詳しい、筆宝(ひっぽう)康之(立正大学)、藤沢好一(芝浦工大)の両先生と話してみて、つくづくそう思う。ここ一年で、ある統計によれば建設労働者は二八万人も増えているのである。足りないといいながら、産業間シフトでこれだけ増える潜在力は日本にはまだあるのである。職人不足は、ある意味では、職人の地位や報酬を底上げするいい機会だと筆宝先生はおっしゃる。しかし、建築単価の上昇がリクルーターに食われて、職人の賃金が低く押さえられる、高労務費低賃金の構造がどうしようもなくある。問われているのは、一貫して建設業界の体質なのだ。

 総合建設業、いわゆるゼネコンは、必ずしも技術を保有するわけではない。自社で工場を持つより、いざ不景気となれば下請けを切り放す、そうした体質をもっている。近年は特に商社化しつつある。エンジニアリング・ブローカーともいう。先の鼎談では、ゼネコン=裸の王様論が話題になった。そうしたなかで、技術をもち、実際に建物を建設するのは、第一次下請け業者としての専門工事業、いわゆるサブコンである。そうした専門工事業のいくつかが集まって、職人問題を考えようという動きがある。これまた手伝いなさい、という声がかかった。

 中心となるのは、現場でたたき上げられた有力専門工事業の社長さんたちである。現場の人間がないがしろにされるのは我慢がならない、現場の専門家の社会的地位があがることであればなんでもしたいとおっしゃる。到底手に余る。しかし、後には引けない。何かお手伝いしなければと思い始めたところだ。

 まだ動きはじめたばかりで、海のものとも山のものともわからないのであるが、仮に、サイト・スペシャルズ・フォーラムというのを発足させることが決まった。サイト・スペシャリスト(現場専門技能家)というのは、もちろん、造語だ。横文字にすればイメージがあがるというわけではないのだが、現場監督、親方、職長などを含めた現場に責任をもつ技能家を育成する職人の殿堂(アカデミー)をつくりたいという、願いがとりあえずサイト・スペシャリストという名称に込められている。もちろん、そうした名称が社会化していくかどうかはこれからの問題である。

 秋田の能代には、再び行く羽目に陥った。七月号の本欄で書いた経緯からである。タイトルに続いたリード・コピーに「能代の人々の表情は暗かった」とあり、一瞬やばいと思ったのであるが、九月二三日の「木造建築研究フォーラム」の際にもう一度来い、いいたいことがある、というのだ。行ってみたら、俺のどこが暗いのか、と何人にも絡まれた。僕がタイトルつけたんじゃない、などという姑息な言い訳はきかない。『室内』の記事は、能代中に知れわたっているのである。もうフォーラムそっちのけで謝って飲み歩いた。能代のひとは底抜けに明るい。だけどしつこい。こう書いとけば、また行くことになるに違いない。

 そしてついにタイル職人のまねごとまでやってしまった。山谷労働者福祉会館は(仮称)は、全くもって奇跡的に完全に自力建設でまもなく完成の見込みなのであるが、躯体が打上がって、内装工事にかかって、タイル職人が足りないという。山田脩二さんの瓦を使ったという経緯もあって、研究室総出で瓦とタイルを貼ったのである。最初の日は全員筋肉痛である。しかし、今ではみんなそれぞれ一端のタイル職人気分である。現場の楽しさ、大事さが少しは実感できた。

 来年、高山で山車をつくる合同合宿も本決まりである。何故だろう、職人というとそわそわしてくる。道を間違えたのかもしれない。まあ、これからもなりそこねた職人の夢をたどたどしく追って行くことになるのであろう。

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布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...