建築における一九三〇年代
七〇年代の幕が閉じ、八〇年代が幕を開ける。一〇年を一区切りとして、時の流れをとらえていくことは、もとより便宜的でしかないとは思いつつも、過ぎ去った一〇年を振り返り、来るべき一〇年を展望する問いに,多くはとらわれる。いくつかの雑誌が七〇年代の総括を試みる特集を組み、また、八〇年代を展望する特集を組んでいる。目に触れる多くの文章が一つの区切りを意識している。一〇年は一昔である。
しかし、明確な形に集約される問いが、そこにあるわけではない。便宜的な区切り以上の何ものかがそこにあるわけではない。問えば問うほどむしろ、八〇年という時間的な閾が単に経過点にすぎないという意識のみが浮かび上がってくるようにみえるはずである。「七〇年代から八〇年代へという時間的な推移が七〇年代の対自化ということを要請しているとしても、七〇年代がいかなる時代であったと問うことは、基本的には空しい営みに終わるほかない」、「七〇年代においては実際に何ごとか起こってはいる、と言いうるだろう。それが何であるかということは明確に指摘できはしないし、あるいはこれからやって来るであろう八〇年代という時代においてそれが明瞭な像を結ぶということでもないかもしれない」「だからここではもはや七〇年代から八〇年代へといった方向性を問うことはやめて、そのような問いを曖昧さの中に差し向けてやることしかできないのである」といった言い方こそが、そこでは支配的なのである。
問題は、そうした問い方自体にすでに存在していると言ってもよい。しかし、そうした問い方によって明らかにされる地平は、すぐれて状況的であると言える。おそらく、七〇年代的パラダイムと呼びうるものによって、その時代を振り返へることは可能であろう。解体の時代、空白の時代、不在の時代、引用の時代、周縁の時代。知の戯れの風景において、頻繁に発せられた言葉たちによって、七〇年代という時代を特徴づけることができる。しかし、われわれはその時代の終焉を確認することができない。やがて八〇年代のパラダイムと呼ばれるものが明確な差異をもって現れてくるかどうか、その予感はないのである。六〇年、七〇年という時点と比べてみれば、それは一層明らかなように思える。一九六〇年代という時代区分が単なる便宜的な区切り以上の意味をもっているのは、六〇年安保、七〇年安保といった政治的課題のメルクマールがわれわれの時代意識に大きな影を落としているからであり、しかも、それが戦後復興・・戦後の終焉・離陸・・高度成長・・破錠という戦後過程に対応しているように思えるからである。そして、それぞれの時点ですでに、ある一つの先行する時代の終焉が意識され、少なくとも具体的な課題がそれなりに共有されていたように思われるからである。しかし、われわれは必ずしも、七〇年代を一つの区切られた時代として意識化しえない。八〇年代へ向けて具体的な課題が共有されているわけでもないのである。七〇年代は、その時代を特徴づける求心的な何ものかを生み出しえなかった。拡散的な経験のみがそこには存在している。七〇年代の総括の試みが、個別の作家や作品、出来事についての記述の羅列という形をとるのはそれ故にでもある。ある意味では、六〇年代末から七〇年代初頭にかけて確認された一つの時代の終焉を、確認し続けたのが七〇年代であったと言ってもよいのである。
「私たちは七〇年代の思想状況を二重の解体のコンテクストとして読むことができる。ひとつは幻想的な普遍性のエクリチュールの解体過程であり、もうひとつは、知的な普遍性のエクリチュールの解体過程である。そしてこの解体が多様な現実を私たちに見せると同時に、思想的な求心性の解体であることによって、人々は根拠と希望を求めてさまよったのである」と小阪修平は言う*[ii]。そのさまよいは今なお続いているし、ここしばらく続くであろう。七〇年代の経験に、確実な何かを見いだしえないが故に、そう言わざるをえないのである。
「観念的ラジカリズムの終焉」という、小阪が七〇年代に対して与える総括は、ある意味で七〇年代という時代をくっきり浮かび上がらせると言ってもよい。しかし、「私はこの小論で、観念的ラジカリズムをひとつの自然過程としてあつかってきた。したがって、私が七〇年代に読んだ、観念的ラジカリズムの終焉というコンテクストに、正の価値を与えるか、負の価値を与えるかは読者の自由である。」と、あえて注記するように、その終焉の確認において、八〇年代がくっきりと見えてくるわけではない。むしろ逆である。確かに、観念的ラジカリズムは、七〇年代において、市民社会の外部=周縁ーー第三世界、土着、辺境、日本的なるもの、差別、身体……ーーへ向かい、それを一つの希望としてとらえようとしてきた。ある意味では、その希望が拡散的な状況を生み出してきた。しかし、それぞれの希望が裏切られ続けてきたのが七〇年代なのではないか。自然過程としてとらえる限りにおいて、そうした意味で観念的ラジカリズムは終焉したのだ、と小阪修平は言うのである。こうした認識の地平から何を展望しうるのか。少なくとも、その終焉を負の価値ととらえるものにとってそれは厳しい。安易に希望を語りえない状況の困難性が、根底的なレベルで意識されるはずである。確かに、周縁的なるものへの希望は知の表層で語られ続けたのであるが、周縁的なるものへの具体的な回路を見いだしえなかったと言いうるからである。
建築における七〇年代は、近代建築の解体と建築そのものの解体(商品化)という二重の解体のコンテクストにおいて、多様な表現を生み出してきた過程であった。ポスト・モダニズムとかポスト・メタボリズムとか呼ばれる状況がそれである。しかし、それはまた、その時代を特徴づける求心的な何ものをも生み出しはしなかった。拡散的な七〇年代の経験のみがそこに同じように浮遊したのである。
そうした状況を最も的確にとらえ、体現してきたのが磯崎新である。彼は、中心性の解体を逸早く予感し、主題の不在、空洞の時代がかなりの深さと長さで進行していくことを予想しえていた。それ故、彼は、そうした状況に対して有効な戦略を展開しえたのであり、広範な影響を及ぼしえたと言ってよいの。「建築の解体」、「主題の不在」、「引用」、「手法」、「修辞」、「記号論」………。彼の発した言葉、論の展開などすべてそのまま建築の七〇年代におけるパラダイムを形成したのである。
しかし、彼は七〇年代を通して、「建築の解体」状況を、そしてそれによる拡散状況を突破する確実な方向を提示しえなかった。「空洞の中心への吸引を常に感じながら」「中心の空洞にむかい合うことを避けられなくなりつつある」ことを予感しながら、「建築の地層」をさぐり当てねばという意識に駆り立てられながら、次なるステップは必ずしも彼のうちで収斂していかないのである。ある意味では、きわどいバランスの上に位置してきた彼にとって、そうだとすれば状況は次第に困難となりつつあると言える。例えば、次第に大きくなりつつある概念建築に対する否定的な声は、状況が次第に困難となりつつあることを彼に意識させているはずなのである。
日本における建築のそうした状況は、とりわけ、若い世代の建築家たちの評価をめぐる議論において確認することができる。石山修武の「新傾向の一部について」*[iii]と林昌二*[iv]の「歪められた建築の時代ーー一九七〇年代を顧みて」*[v]をひき比べることによって、あるいは槙文彦の「平和な時代の野武士達」*[vi]と鈴木博之*[vii]の「貧乏くじは君が引く」*[viii]を読み比べることにおいて、建築の小状況における対立の構図の一端を手に入れることができる。
ある規模意識、使命感、秩序意識に照らせば、建築の七〇年代は「平和な時代」であり、「実りの少ない時代」であり「歪められた建築の時代」でしかない。そうした規範意識を強烈に提示するのが林昌二である。それは、観念的ラジカリズムの終焉を建築において、まさに正の価値として確認しようとするものと言ってよいであろう。
市民社会の外へ向かった暴力(反日武装戦線による三菱重工ビル爆破事件、間組、鹿島建設など海外進出企業に対する一連の爆破事件)が建築とその環境を閉鎖的なものに変えたこと(暴力による歪み)、建築ジャーナリズムの演出によって、高度成長、学園紛争の落とし子たちによる、「虚しくも華麗な、実物大小住宅のあだ花が咲いたこと」(情報による歪み)、日照権をめぐる紛争が法律化までゆきついた事件に象徴されるように、ほしいままの権利主張が建築の自由を奪ったこと(権利主張による歪み)、さらに、エネルギー・ショックが、建設から維持、撤去まで含めた全過程をとらえて資源の節減・再利用を図るためには、どのような取組み方が必要かという形では論じられず、省エネルギーのための代替装置の開発にすり換えられていることを指摘しながら、林昌二は過去への復帰(保存、伝統的様式)は何ものも生み出さない。今ようやく、高度に発展した工業を背景として現代にふさわしい建築が生まれる条件が成熟したのだ、と言うのである。
そこには、テクノロジー、テクノクラシーを基盤にする建築家の極めて正統的な価値意識が示されていると言えるであろう。そこで示されている規範意識は、依然として支配的である。それは、ある意味では近代建築を支えた規範意識である。また、「建築が健康さを取り戻すよい機会」とか「変転を越えて生き続ける建築の生命」という言い方に示されるような、「建築」に対する限りない信頼において書かれる価値意識である。
しかし、建築あるいは建築家のアイデンティティそのものが問われていると考え、近代建築の解体を見据えようとするものにとって、そうした支配的な意識こそが問題であった。工業的なるものがもたらしたものが、商品と交換の世界の一般化にほかならないのであり、工業社会そのものに対する根底的な懐疑から出発するものにとって、決して「高度に発展した工業を背景として、現代にふさわしい建築が生まれる条件が成熟した」と見ることによって、新たな展望を語ることはできないのである。若い建築家たちや、保存や日本の伝統的様式への関心に対する林昌二の評価は,極めて厳しくポレミカルである。しかし、問題の構図は停止したままであることに変わりはない。テクノロジーあるとは工業的なものに対する評価の決定的差異がそこにあり、それを前提とするものが支配的な現実に対峙し得、それを否定的媒介とするものが、「社会性を欠いた小世界」に閉じ込もり、あるいは芸術や文化や知の領域へ平面をずらしていくという構図がそれである。七〇年代において、若い建築家たちに大きな影響を及ぼした磯崎新にとって、少なくとも、それは出発点において見えていた構図である。「テクノクラートに味方するか、あるいはデザインを放棄するか、この二者択一しか残されないとしたら、建築の思考は,当然のこととして不毛に陥らざるを得ない」のであり、それに陥らない新たな地平の模索こそが、彼の七〇年代の作業であったと言いうるのである。それが「アートとしての建築」、「小世界への自由」として現れざるを得なかったとすれば、またその限界すらも見えてきたとすれば、その新たな地平の模索がますます困難な状況を迎えつつあることが意識されるだけなのである。
もとより、そうしたアポリアは、若い建築家たちにおいてより意識されている。「まさに千載一遇の大世紀末へと雪崩れ込んでゆく時の巡り合わせに遭遇した」ことをあえて「僥倖」と言いながら、「現在を大世紀末の洞穴への入口であるとするならば、その漆黒の大迷路をくぐり抜けるためには、よほどの身構え、気構えが必要なことは明白で、そのための準備、修練をおさおさおこたってはなるまい」「千載一遇の大世紀末洞穴へくぐってゆくのには余りに軽装備、灯りも小さく、ほとんど丸腰,無防備なものの多さばかりが目につく」と石山修武が言うとき、それは明らかであろう。石山修武自身がいかなる根拠と希望に基づいて「漆黒の大迷路」をくぐり抜けようとし、いかなる準備、修練をつんでいるのかそれ自体は興味深いことである。しかし、そこには、極めて鋭く状況の困難性が予感されており、したたかな覚悟が示されているのを見ることができるはずである。単に、建築ジャーナリズムにおいて、「高度成長の、あるいは学園紛争の落とし子たち」が「虚しくも華麗なあだ花を繰り広げて見せた」「幕間の寸劇にしては長すぎる舞台」の幕が下り、「本舞台」の幕が開くといったレヴェルでのみとらえられてはならないものが、そこにはあるはずである。状況は、若い層においてはるかに厳しいと言えるのである。七〇年代の疾走を雑誌の特集という形で振り返る機会を得た原広司もまた、繰り返し状況の厳しさを語っているはずである。固化しつつある状況を逆手にとり、いかに活性化、流動化しうるか、それこそが問われているのである。
建築界がますます分断化されていく状況の中で、共有化された場はますます待ちえなくなりつつある。そうした状況において八〇年代を展望することは気が重い。われわれの日常のさまざまな局面につきまとうどうしようもなさは、漠然と暗鬱なる世紀末を予感させる。そうした漠然とした危機感がやがてとてつもない方向へ組織されるのではないかという不安が先に立つ。そうした中で、中心の空洞へ向き合うことがいかに可能か。共通の地層,地下水脈を果たして探り当てることができるのか。われわれは、ここしばらくは、さらに、希望と根拠を求めてさまよわねばならないのである。
七〇年代における建築の拡散的状況は、いくつかの関心を浮上させてきた。それらは、「市民社会」、工業、テクノロジー、近代といった中心が排除してきた、周縁的なるものへ眼を向けてきたものであると言ってもよい。第三世界、亜細亜、東洋、ヴァナキュラーなもの、様式・装飾・折衷主義、沖縄、被差別部落、和風・数寄屋・日本的なるもの、地域、共同体………。しかし、それらは、いくつかの例外を除いて、単に眼差しとして対置されたにすぎない。単に眼差しとして対置する限りにおいて、それが現実をつき動かす支配的趨勢に対して力を持ちえないことは明らかであった。
いま、われわれはおそらく磯崎新の『建築の一九三〇年代』がいち早く提起したように、少なくとも建築における一九三〇年代を想記すべきであろう。そうした関心をめぐるプロブレマティークのほとんどを見いだすことができるからである。そうしたさまざまな関心が、やがて、産業合理化、生産力増強、節約、建築の統制、建築新体制といった過程でなしくずしにされていったことを見ることができるからである。それを支えたのが、テクノロジーを基盤とする実務の思想であったからである。
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