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2026年8月10日月曜日

H.T.カールステン H.M. ポント,東南アジアの建築世界3,GLASS LIFE,セントラル硝子,199009

 H.T.カールステン  H.M. ポント,東南アジアの建築世界3GLASS  LIFE,セントラル硝子,199009


●オランダーインドネシアー日本

 

 東南アジアの近代建築といってもピンとこないかもしれない。そもそもそう顕著な動きが見られなかったせいであろうか、西欧の近代建築の歴史からは全く無視されている。しかし、それぞれの国や地域にとって、近代建築の受容が大きなインパクトとなったことは言うまでもないことだ。そして、その受容の過程にも、それぞれに固有の歴史があるのは当然のことである。

 東南アジア各地に近代建築をもたらしたのはそれぞれの宗主国である。それ以前の植民地化の過程で、西欧建築の影響は徐々に東南アジアに及んできた。まず、初期の段階では、ヨーロッパの建築様式がそのまま持ち込まれようとする。材料や職人も本国から運ばれてきた。しかし、気候条件などの違いからヨーロッパそのもののスタイルでは合わないこともでてくる。少しづつ変更が加えられ、土着化の動きがおこる。土地土地の建築が研究され、学ばれる。一方逆に、ヨーロッパのスタイルが土着の建築に取り入れられ始める。西欧化である。西欧建築の受容の過程は、一般化して言えば以上のようであろう。その影響は既に建築文化の深層にまで及んでいる。西欧建築の影響は既に建築の伝統になっているとも言えるであろう。近代建築もその延長として宗主国の建築家を通じてもたらされるのである。

 インドネシアについてみてみよう。インドネシアに近代建築をもたらしたのはオランダである。アムステルダム・スクール、ロッテルダム・スクール、あるいはデュドックの影響などを様々にみることができる。実に興味深い。これはアムステルダム、これはロッテルダム、明らかにドュドックだろう、と、ジャカルタ、バンドン、スマラン、スラバヤなどの大都市を歩いていると、そんな建物をあちこちで見かけるのである。思わず影響と書いた。しかし、そうした建築が建てられたのは本国と全く同じ時期である。当然のことだ。オランダの近代建築の祖といっていい、H.P.ベルラーヘが設計したアルヘメーネ(生命保険会社)の社屋がスラバヤに竣工したのは    年のことである。また、彼自身、    年にインドネシアを訪れている。オランダの動向はストレートにインドネシアに及んでいたのである。

 オランダの近代建築運動が日本の近代建築運動に多大な影響を与えたことはよく知られている。日本分離派建築会の初期のプロジェクトにははっきりうかがえるのである。オランダ建築についての関心は極めて高かった。それを示すのが堀口捨己の『オランダ現代建築』(岩波書店     年)である。オランダと日本の関係も歴史的に深い。オランダーインドネシアー日本との連関で近代建築の歴史を見直してみるのも興味深いだろう。

 ハーマン・トマス・カールステンとヘンリ・マクレーン・ポントといっても、もちろん知る人は少ないだろう。二人はインドネシアの近代建築の歴史に大きな足跡を残したオランダの建築家である。    年、H.P.ベルラーヘがインドネシアを訪れ、「オランダの近代建築の発展に匹敵するほど重要となるであろう、来るべきインドネシア建築に全てを捧げた二人の建築家」として言及したのがこの二人である。二人は、実は、デルフト工科大学の同級生であった。

 

 

●H.M.ポントとH.T.カールステン

 

 H.M.ポントがインドネシアを訪れるのは    年、  才の時のことである。しかし、もともと彼が生まれたのは、ジャカルタである(    年)。本国で教育を受け、デルフト工科大で建築を学んだのち、いわば帰ってくるのである。    年に卒業した後、アムステルダムの建築事務所で二年実務に携わった後、スマランーチレボン鉄道会社の本社屋を設計するためにジャワへ赴くのである。その本社屋には、ベルラーヘの影響が色濃くにじみ出している。

 この仕事を終えた後、H.M.ポントはスマランに個人事務所を開設する。そして次第に仕事が増えていく。そこで、招いたのがH.T.カールステンである。H.T.カールステンがスマランにやってきたのは    年の暮れのことであった。

 H.T.カールステンはアムステルダムの裕福な家庭に生まれた     年 。父親はアムステルダム大学の哲学の教授である。    年、デルフト工科大に進み、H.M.ポントと出会った。学生時代、カールステンは極めて活動的であり、社会民主運動組織に加わるのであるが、    年には住宅問題委員会の主要なメンバーになったという。後に、インドネシアで都市計画にも精力的に取り組むのであるが、その素地は学生時代に形づくられたのであった。卒業後、カールステンはベルリンで実務につく。H.M.ポントからの手紙が届いたのは、第一次世界大戦前夜のベルリンへであった。

 しかし、二人のパートナーシップは、わずか二年しか続かない。性格が合わなかったらしい。H.T.カールステンは、アクティブであり、H.M.ポントはどちらかというと学究肌である。それに、H.M.ポントの健康がすぐれなかったことも大きい。彼は、    年にオランダに戻り、    年まで戻らない。    年には、H.T.カールステンに事務所の権利を売ってしまう。その後、二人は別々の道を歩むことになったのである。

 

 

●H.M.ポントの仕事ーーーバンドン工科大学(ITB)からポサラン(         )の教会まで

 

     年、帰国中のH.M.ポントは工科系の教育機関の設計を以来される。    年に竣工した、現在のバンドン工科大学(ITB)である。僕が最初にITBを訪問したのは、竣工して  年を経た、    年のことであったが、いささか度肝を抜かれた。とにかく迫力がある。ミナンカバウ族、バタック族の民家をイメージさせる屋根が連なっている。一見、インドネシア版「帝冠様式」か、と思ったのであるが、深みがある。不思議な魅力がある。調べてみるとオランダ人の建築家である。それがH.M.ポントであった。

 H.M.ポントは、インドネシアに着いて以来、時間をみつけてはインドネシア中を旅行し、土着の建築について調べている。余程魅せられたのであろう、その探求は徹底していた。やがて、ジャワ建築の研究にウエイトを移したほどである。H.M.ポントは、ジャワ建築の起源を探り、その本質を明かにしようとする。その架構の原理を解明し、それを現代建築に生かそうとする。伝統的建築の空間構成の方法を読み取り、それをうまく用いようとするのである。

 ITB以降の彼の作品は、そうした試みの積み重ねである。    年から    年まで、彼は東ジャワのトゥラウラン(       )に住んだ。マジャパイト時代について、考古学的、歴史的研究を行うためである。このためポントは、結果的に建築の仕事から遠ざかることになるのであるが、それでも珠玉のような作品を残している。トゥラウランの野外博物館の建物がそうである(    年)。そして、何よりも傑作だと思うのが、東ジャワのクディリの近郊にあるポサランの教会である。H.M.ポントの最後の作品である(         年)。

 昨年(    年)、初めてポサランを訪れてじっくりと見た。小さな作品だけれど、実に見応えがある。インドネシアの友人たちは、H.M.ポントをインドネシアのA.ガウディーという。何故だろうと思っていたのであるが、この作品をみて、なるほどと思う。石積みのベルタワーやフェンスをみるとそんな雰囲気もあるのだ。

 教会は、伝統的形態をとるかのようであるが、極めて意欲的に、大胆なテンション構造が採用されている。H.M.ポントは、インドネシアン・ゴシックと呼んだのだという。伝統の形態と近代的架構方法が緊張関係の中に釣り合っている、そんな感じである。

 H.M.ポントは、第二次世界対戦後、帰国し、公共住宅や空港、大規模な建築など多くの建築を手掛けている。しかし、このポソランの教会に込められたものは、極めて大きかったはずだ。

 

 

●H.T.カールステンの仕事ーーーカンポン・フェアベタリングと都市計画

 

 H.T.カールステンは、ポントに比べるとはるかに多くの作品を手掛けている。    年に、H.M.ポントから事務所を譲り受けると、まず、依頼を受けたのが、ソロ(スラカルタ)のマンクヌガラ宮殿(                    )の増築である(         年)。H.T.カールステンもまたジャワの伝統建築と否応なく出会うのである。

 これも昨年、ユネスコのセミナーの会場としてじっくり見る機会があった。なかなかのものである。    年に建てられたプンドポ・アグン(主殿)の改修より、居住棟の小さなプンドポ(ダイニング・ホール)がこじんまりといい。気に入られたのであろう。    年から    年にかけてもマンクヌガラ宮の仕事をしている。

 スマランの保険会社のオフィス(    年)、ソボカルティー劇場          年 を始めとして、ソロの中央駅(    年)、ジョクジャカルタのソノブドヨ博物館(    年)などが、H.T.カールステンの代表作である。

 H.T.カールステンにとっても、伝統建築と近代技術をどう調和するかは大きなテーマであった。力説したのは、ヨーロッパのスタイルをそのままジャワへ持ち込むことが誤りである、ということである。あくまで、生きているジャワのスタイルを出発点にすべきことである。また、彼は、伝統的な建築技術を新しい材料や建築に適用しようとしている。鉄骨を用いたソロの中央駅がいい例である。

 そして、H.T.カールステンの仕事は、さらに広がりをみせる。住宅問題や都市計画の分野の仕事である。H.M.ポントと違って、社会への関心を失わなかったのがH.T.カールステンである。その都市計画思想について詳述する余裕はないのであるが、前提として予め退けられていたのは、ここでも西欧の理論をそのまま適用すればいいという態度である。スタティックなマスタープランではなく、ダイナミックな計画、有機的な全体性の必要も彼の強調するところである。

 具体的に携わったのは、スマランとマランの都市計画である。いくつか興味深いのは、民族毎に居住地を分けるのではなく、収入階層毎に近隣住区を設定していること、自然の地形をできるだけ大事にすること、都市基盤設備については、可能な限り合理的に配置することなどである。

 こうしたH.T.カールステンの仕事は、一方で、都市計画法の制定につながっていくのであるが、戦前期のインドネシアで注目すべきなのがカンポン・フェアベタリング(                   カンポン改善事業)である。このオランダによるカンポン・フェアベタリングは、今日のカンポン・インプルーブメント・プログラム(                             )の先駆とも見なされる。カンポンの居住環境にも意を注いだのがH.T.カールステンである。

 H.T.カールステンは、    年、日本軍の収容所で死んだ。  才であった。

 

参考文献                                                                                   

                                                                                                                                      

佐藤浩司 「スラバヤのベルラーヘ」 『建築雑誌』    年 月












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布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...