特別研究課題・連載シリーズ 9
「デザインに無秩序を・・・建築行為の原初を問う われわれは崩れるものを創っているのだという自覚」
吉武泰水名誉会員に聞く
聞き手
鈴木成文 神戸芸術工科大学学長
建物を壊すということ・・・強制疎開の苦い思い出
鈴木 関東大震災、戦災、今回の阪神・淡路大震災と経験されましたが、その経験を通じてお感じになっていることからうかがいましょうか。それともつい最近大手術をされました。その経験をまずお伺いしましょうか。
吉武 手術のことは最後にしましょう。今日お話ししようとすることの結論にとても関係するんです。
関東大震災は、小学校1年で、新宿の落合にいました。できたばかりの家に入ってまもなくでした。遊んでいたら道が振動して、小石を吹き上げた。物音とほこりがすごかった記憶があります。竹薮が安全だというので、庭の竹薮にしばらくいました。近所に4家族がいて、共同の避難所ということで、その日の夕方から、何日間か過ごしました。もともと大分から東京に移ってきて、4軒一緒に隣り合わせで住んでいました。血縁と地縁、近い関係のものばかりの共同生活でした。隣人たちがいて随分助かったわけです。
戦災はこの家で遭いました。5月23日(1945)の大空襲で、裏側の関東逓信病院、逓信省の木造倉庫に焼夷弾がたくさん落ちました。夜中の9時か10時頃です。延焼を消し止めたんです。火災実験をやったり、風の流れを調べたのが、すごく役に立ちました。
鈴木 火災実験は内田祥三先生ですね。
吉武 木造の家を燃やして観察したら、常に屋根に沿って火は流れる。その観察が役に立ちました。それと思い出すのは強制疎開ですね。家を引っ張って壊すのですが、いやなものです。建物が抵抗するんです。木造家屋はずいぶん丈夫にできているものだと思いました。
鈴木 私もやりました。柱を引っ張っても、なかなか壊れない。
吉武 壁を落としたりしてむりやり壊す。より大事なものを守るためのという大義名分があっても、やるべきことじゃない。
石を立てる・・・建築の原初的なかたち
鈴木 基本的な災害のとらえ方、考え方をまずお聞きしたい。災害にどう対処するかは、上に立つ人の決断が大事だと思います。阪神・淡路大震災では、危機管理、対応のまずさはひどかった。しかし、普段からの災害に対する基本的な考え方の問題がありますね。先生は、ノアの箱舟の話、バベルの塔の話などを通じて、文化史的に、あるいは文明論的に災害を考えておられるわけですが、その辺をご披露願えますか。
吉武 まず、ヤコブの話があります。ヤコブはカナンの地を北上してきて、途中で野宿します。石を枕に夢を見た。階段があって、神の使いたちが上り下りしている。そこで神の声を聞く。ここは天への門だというので、ヤコブは眠りから覚め、いままで寝ていた石を立てて、そこに油を注いで、祭壇をつくる。そのとき階段は天と地、神と人をつなぐわけです。おじいさんのアブラハムは何百歳も年が上ですが、エジプトの行きと帰り、同じ場所に泊まってそこに祭壇をつくっていた。本人は知らずに、あとから気づきます。いまも昔もかわらず、人と神の特別な場所があるということです。
もう一つ大事なことがあります。寝てる石は安定していますが、石を立てるということは、安定ではあるけれども、より不安定になります。旧約聖書では、立てるという行為が、非常に重要に扱われる。その部分が聖堂などの献堂式の時に引用されます。そのエピソードはそれだけ重要視されているわけです。
横たわっているものを立てるということは、建築の原初的なかたちです。安定状態から、もう一つのより不安定な安定状態、セカンダリーな安定状態にしていくこと、それが建築行為の基本です。およそ建築は、もともとの完全な安定状態よりは、より低い安定状態に置かれているものだから、ことがあれば崩壊するのはごくあたりまえのことです。常に崩壊の可能性を持っているのが建築なんです。
ノアの箱舟とバベルの塔
吉武 ノアの箱舟は自然災害の話ですね。雨が猛烈に降って洪水になる。ノアは命じられたとおりの箱舟をつくってその中に食べ物を入れる。そして、自分の家族と動物を一つがいずつ乗せる。食べ物は個体の生存、つがいは世代の生存、この二つの生存に必要なものを乗せることを神が命じた。それしか書いていません。
箱舟の大きさはだいたい建築物と同じ大きさです。約 150メートル、幅が25メートル、高さが15メートルで3階建てです。よく箱舟の絵がありますが、建物みたいに描かれていて大変おもしろい。要するに大きな建造物で、木造です。自然材料でつくって、自然災害を受ける。雨によって水かさを増してくると、地面を離れて水面を漂う。漂うということが、自然災害に対処する仕掛けになっています。
それと対比されるのがバベルの塔の話です。対になっています。バベルの塔は完全に人為的工作物です。つまり工業製品。石の代わりにレンガ、漆喰の代わりにアスファルトを使いました。完全な工業製品で、無限のものをつくる。神はそれを見て、人間はなんでもできる、しかし放ってもおけないというので、それをやめさせる。
やめさせる方法は、地震を起こして壊したのではなく、ただ言葉を乱しただけです。それまで大地は一つの言葉で、人がみんな集まってきて天まで届くような高い塔をつくろうとした。みんなで声をかけ合って集まってきてやり始めた仕事が、言葉を乱されてコミュニケーションができなくなって挫折した。工業生産時代の社会的災害ということが、ノアに完全に対比されます。
もう一つ大事なことは分散と言うことです。人間は集まろうとする。神はそれを全地の表に散らす。全地というのは世界で、世界に散らされる。要するに集中か分散かという問題にも関わる示唆があるわけです。
六大災厄・・・都市には住めない。
鈴木 日本については、『方丈記』に、災害についてのさまざまな対応が読めますね。
吉武 『方丈記』はずいぶん長く調べました。京都にもたびたびうかがって、方丈庵の跡地を見たりしました。テキストの方丈庵と実際の方丈庵の建てられた場所の印象はずいぶん違う。現地を見て初めて、鴨長明が何を考えたかがはっきりしてきました。
鈴木 私も現地に一緒に行きましたけれど、日野の法界寺の奥山ですね。
吉武 親鸞の生誕の地もそこです。『方丈記』の前編は、五大災害について書いている。安元の大火、治承の旋風、福原遷都。神戸のど真ん中に平清盛が遷都をする、遷都が災害だという。それから養和の飢饉、、元暦の大地震。地震と火災、旋風と飢饉は災害でしょうが、遷都が入っているのはおもしろい。彼は遷都を「大変迷惑な話だ」と言います。
おかしいのは戦災が入っていないことです。彼は保元・平治の乱は味わっている。当然戦災を書いていなくてはいけないのに、一言も書いていない。意識的だと思います。つまり平家と源氏はどちらがどちらになるかわからない。うっかり書くと、世の中が変わったときに大変なことになる。誰も指摘していませんが、おもしろいと思います。
もう一つ、前編の最後のところに一つだけあいまいなところがあります。世の中に住む悩みという表題です。都市に住んでいると、隣に偉い人が住んでいれば安らかではないし、泥棒が心配だし、火災の類焼が心配だ。都市にいてもおちおちしていられない。隣にへつらったり、隣を脅したりと近隣関係、相隣関係の問題がある。都市の危険性に対して落ち着かなくて仕方がないと言う。どうしたらいいんだというようなことで文章が終わります。
国文学の人は五大災厄と言って、別扱いにしていますが、僕は六つ目の課題を言っていると思います。彼は災厄という言葉は、一つも使っていない。しかし、僕は六つと読むべきものだと思います。つまり、彼は都市には住めないと言っている。
場所を選ぶ
吉武 彼は生まれた家が下鴨神社で、おばあさんの家がたぶん糺の森の近くにあった。彼が意識して移るのは賀茂の川原で、これは前の家の10分の1です。それから大原にしばらく住みますが、およそ賀茂川のところを、行ったり来たりしている。最後の日野が2番目の家の100分の1、最初の家の1000分の1、それが方丈ですから、もとは2200坪ということになります。考えてみれば、家の子郎党、厩とかみんな入れたら、神官の家柄ですから、それだけあっておかしくはない。
どちらにしても、小ささが強調されている。読むと清貧の思想みたいに思えるところがあります。だけど、現場を見るとなかなかしっかりした、非常に防災的、防衛的にできている。しかも川は流れているし、そばには木の枝があるし、火の気は近くにある。食べ物も近くにある。相当ぜいたくな暮らしです。ぜいたくという言葉はよくないですが、夜一人で寝るのが寂しいとも言う。
鴨長明は安住の地を求めたのではないか。安全というのはとても大事だと彼は何度も言っています。安全の場所を求めた。安全に住むというのが安住ですが、安心できる場所を求めて、山の中に住んだ。京都の町中ではだめです。だから小さい、移動式の組み立て住宅を彼は考えます。おり琴・つぎ琵琶、楽器も組み立て式です。家も組み立て、楽器も組み立てる。要するに、小さくて移動が容易な家をつくるのが目的です。小さい家をつくるのが目的ではなかったと思います。移動がやさしい、荷車2台に乗せられると書いてあります。つまり運搬、移動容易な、最小の組み立て住宅をつくるのが目的だった。
彼のその目的が何に続くかというと、場所を求める。その場所は、日野山の奥。そこで彼は落ち着いて、三つの作品、『発心集』、『無名抄』、『方丈記』をいっぺんに書いてしまうのですから、彼としては心豊かな生活をしていた。それは住の目標である。人も住む場所も無常であるというのが、『方丈記』の全編を貫く基本思想ですが、しかし、住というものをどうつくるか、どう創造的なものとするのか、というとそういう場所を求めて選ぶということなんです。
阪神・淡路大震災の教訓・・・安住の地を求めて
鈴木 バベルの塔や『方丈記』の話から現代に、どういうつながりを考えておられるのですか。
吉武 バベルの場合は、あとからお話ししようと思っている分散ということが大事だと思っています。『方丈記』は、土地を見て歩くということが基本的に大事なことだし、いまの技術からすれば探すだけではなく、いい土地をつくることに発展できるのではないか。ただ、この当時は土地を探す以外になかっただろう。
鈴木 神戸は明治以降に、もともとは川沿いに分かれていたのが、道路によって横につながった。そのために何度も洪水でやられたりしていますね。だから、自然の土地とはずいぶん違ったかたちでできてきてます。
吉武 阪神・淡路大震災については、主として報告書を読んで考えてるだけなんですが、思い出すのは1964年の新潟地震です。報告の中に、ほとんど変わっていないなと思うことも相当あります。そのあと調査した宮城、十勝の報告書も含めて、根本的に違っていないところもありますし、また違っているところもある。違っているところだけを話せばいいのですが、いくつかあげてみます。
避難所としての学校
崩壊家屋からの救出、消火活動は、消防署や自衛隊によるものは1割しかない。9割は住民自身が相互援助でやっている。震災直後は、どうしてもそういうことになります。避難所は、まず近くの小学校です。あとは体育館や市役所で、必ずしも指定されたところには行っていません。やはり家に近いところ、家や家財がすぐ行って見られること、心理的な安心感がすごく強い。高齢者ほど近くを希望する。みんなだいたい小学校区、500メートル以内に避難所を見つけている。
学校は耐火耐震的にできているし、運動場があったり、プールがあったり、体育館があったりする。しっかりした先生もいるので、けっこういい避難所になります。構造的な被害としては、ガラスが破損したり、天井が落ちたケースはあります。二次的な部材の損壊が多い。校庭は仮設テント、炊き出し、駐車場といったいろいろな目的に使えます。学校の設備はハイテクではなくローテクで、災害のときにはけっこう強みになった面もあります。
ただ避難所として考えていないから、ハードの条件は貧しかった。特に老人や障害者に対しては具合の悪い面がある。一時は1人1畳を割ったりするような過密状態になったり、トイレは、新潟のときから問題でしたが、特に神戸は大規模でしたから問題でした。
鈴木 ローテクの問題は、戦災の時と似てるなと思いましたが、しばらく考えてずいぶん違うところがある。戦災のときには水の心配をしませんでした。焼け跡で、誰もいないから、ほかの家の井戸を勝手に使った。電気はわりあい早く来たけれども、水が困った。一番困ったのは、女子の便所です。戦災のときはあまり困らなかったんだけれど。ソフトの対応の仕方をもう少しやる必要がありますね。
吉武 物的にやっただけではだめです。
鈴木 あとでいろいろな先生方から聞いたんですが、荒れた学校ほど災害時の対応がよかったそうです。なぜかというと、校長先生がしっかりしているから。
吉武 それは言えるでしょうね。
災害時の拠点としての病院
病院も地震による構造的な被害は非常に少なかった。一つやられましたが、隙間から逃げて死者はいなかった。だけど、設備はハイテクで設備依存度が高いから、たとえば水が来なくて手術ができない、応急電源が止まったとか、いろいろなことで診療の障害が非常に大きかった。
また、防火水槽が揺れて、天板が飛んで、そこらじゅうが水びたしになった。地震ではなく、水の被害で使えない事態がけっこう多いんです。防火水槽問題は、地下へ持って行けなどと簡単にいいますが、対応はもう少し考えてやらないといけない。工夫しないで、いきなりだめだから地下へ持って行けというのも問題です。
病院の場合は学校と違って、機能を停止するどころか、機能が増加してしまいます。つまり傷病者が殺到してくるのと、すでにいる患者と両方あります。それで病院全体が混乱する。前から言われていましたが、今度も問題になりました。
もうひとつ、近県の病院はたくさんの患者の来院を予想して期待していたのに、実際に来たのは極端に少なかったということがあります。ほとんど近県の病院へ行かなかった。輸送力の問題以前です。遠くの病院に行きたがらない、がまんする。その傾向がすごく大きかったと思います。
鈴木 高齢者ほど、そういうのがすごい。また長田の中小企業地区はもっと強い。
吉武 病院側として一番最初にやるべきは、来院患者が治療できないならば、全体の病院の状態をまず掌握して、どこへ誰を持っていくか、重傷者はこちら、これはうちで引き受ける、やってきた患者の中の治りそうな人、治らなそうな人をどうするかという仕分けです。振り分けをちゃんとやるということは、病院の機能としては非常に大事だと言われています。全体の病院がネットワークをきちんとして、全体の状況を早く把握することが大事です。
鈴木 病院の場合、災害時にはローテクでというわけにもいかないでしょうが、ある程度のローテクで対応できるようなやり方を考えておかないといけないですね。
吉武 病院というのは災害時に機能が倍加するというか、ロードもかかるし、自分のところもやられている。いわばさんざんな状況になっているので、特別な配慮が必要です。病院には技術者、電気が扱える人、水に詳しい人、食べ物をつくれる人とか、いろいろな人たちがいます。病院はいいスタッフを抱えているので、災害時には地域にもう少し貢献してもいいはずです。実際に貢献はしていますが、今回、あまり顕著ではなかったということがあります。
地域施設の重要性
吉武 全部をひっくるめて、今度の震災について感じたことをまとめてみます。耐火耐震的な建物が学校や公共建築で多くなっていて、構造的な倒壊が非常に少なかった。しかし二次部材や家具などの破損、落下の被害はあった。特にハイテクの場合には支障が生じた。
大事なこととして、地域に住む住民の相互援助活動が非常にはっきりとあったこと。それから、地域を離れたがらない傾向が非常に強かった。この二つの理由は職場の問題とか、地域とのつながりとかいろいろあると思いますが、ともかく非常にはっきりと強く現れています。地域社会、地縁は都市生活の中ではあまり重視されていないような感じもしますが、いざとなれば顔を知っているだけでけっこう心強い思いがする。そういうことは確かに言えます。組織として、医療保健施設、あるいは教育施設も、みんな機能割になっています。機能割は常時はまあまあよく働くけれども、非常時には地域施設という面で見ていかなくてはいけない。地域にある公共的な施設は、それなりにお互いに地域に貢献していろいろな役立ち方をしている。施設というのは二つの面あるいは軸、つまり地域施設であり、中央的な施設であるという二つの面を同時に持っていなければいけない。特に地域施設の面が、非常に弱くなっている。たとえば学校は、そういうことはあまり考えていなかったと思います。その点、どの施設も両面、あるいは二つの軸がある。特に地域施設という面は、今後強調されていかなければいけないと思います。その点が今度の地震の一番大きな点です。
病院や学校など、強度は、上げるべきものは上げていいのではないかと思います。もう一つ上のランクにしたい場合には、上のランクがあってもいいのではないか。地域に貢献する施設、学校もそうですが、病院はいろいろないいスタッフを抱えている。備蓄も相当ある。そういうものを持っているし、技術も持っているところは、もっとしっかりつくっておけばいい。
仮設住宅・復興住宅計画の貧困
鈴木 住居については、とにかく人々の助け合いとか、お互いの情報交換が大事だということがあります。それは日常からもっと育てていくべきものだったとみんなが言っています。そう考えると、復興計画はハードベースで立ててもどうしようもない。高層住宅が建っていますが、たとえば32階の部屋にぽつんと一人で老人が住んでいる姿を想像すると、いいかどうか、わからなくなります。
行政当局としては、仮設住宅居住者が現在2万世帯は割ったそうですが、本当は2年間の期限付きです。3年以上たっているのにまだ2万世帯残っている。早く仮設を解消することが大命題です。だからといってニュータウンなどに建てたのは、空き家だらけで人が入らない。どうしても市街地で高層住宅ということになりますが、それは問題が多い。ですから、まず人間的なことを考え、それから町並みの復興ということを考えなければいけないと思います。
実は私は仮設住宅をもっとしっかり計画的に建てておかなければいけないと思います。あんな櫛の歯なみたいなものではいけない。どうせ2年間では解消できないのだから、5年なり8年なり住めるようなかたちで考える。そうすると仮設ではないかもしれませんが、仮設計画はもっときちんと考えることが必要です。
吉武 仮設住宅はもっと広い視野で考えなければおかしいですね。どこで起こってもいいように、考えておくのも必要です。
秩序は崩れる
鈴木 先ほどの集中、分散の問題はどうですか。
吉武 結局最後のところでデザインの問題なんです。デザインとは本来、一定の意図にもとづいて物事をまとめることです。要するに、それは一定の秩序を与えることです。
どんな文明でも高度な秩序状態になっていく。つまりエントロピーの低い状態です。高度な秩序状態になっているということは本来不安定で、それが災害の根本的な要因になる。これは僕が言っているのではなく、元の防災研究所の所長の菅原さんが論文に書いている。原文は英文ですが「いかなる文明の所産も高度の秩序状態、すなわち低エントロピーの状態にある。だから熱力学の法則によって不安定である。文明社会におけるエントロピーの不可避的な増大が災害の深い原因である」。
人間がつくりあげるものは、不安定なものをつくっている。秩序づけようとしているということは、すなわちやがては崩れるものをつくっている。崩れるということは、もともと崩れるものなのだ。物事を秩序づけるのがデザインである限り、つくられた建築と施設、社会制度というようなものは、必然的に大きな災害を受ける。秩序がつけばつくほど、大きな災害を受けることは避けられないということが原点にある。これが災害のもとのところだろうと思います。
逃げをとる・・・分散の思想
吉武 ではどうしたらいいかというと、デザインに無秩序を何とか導入できないかということだと思います。
その一つが分散です。集中に対して分散というのは、昔からいろいろある。もっと一般的に方法を考えてみると、たとえば自然に逆らわずに自然に任せるようなやり方、たとえばノアの箱舟のように漂う。オープンスペースというもの、あるいは耐震に対して免震的なもの、それから河川は線で見ますが、それを水田のような面で見る。ハイテクに対してローテク、全国に対して地方ということ、などがある。
いまや在宅で医療などが行われます。経済的、効率的、高度化ということと反する面もあるけれども、逆に利用者から言うとそばにあったら便利です。高度化はしにくいかもしれないけれども、便利ということは大きいことです。だから、地方都市や地方文化との結びつきをもう少し考えに入れていくことがあっていいと思います。
そして、よく言われるリダンダンシー、構造で言うと静定よりは不静定、あるいは樹木型の道路配置ではなく別のかたち。それから逃げを取っておくということです。人間の体で鎖骨は折れやすくできていて、これが折れるために体が助かる。堤防なども、決壊させることによって大きな弊害を減らす。遊水池、あるいは放水路というのは、壊れやすい場所をつくって壊滅を避ける。
鈴木
災害文化の継承を・・・部分の充実
吉武 それから日常的な習慣で防ぐということがあります。。たとえば日本のように雨が多い地域では水田という面で雨を受けている。これはなかなかいい文化であったはずだけれども、いまやだんだん減っている。そういった一種の災害文化、習慣や伝統、言い伝えが大事です。たとえば竹薮に逃げる、あるいは地震が来たら火を消す。なぜ消すかわからなくても、来たら消せというのは耳に入っていて、習慣になります。それはそれで災害文化ではないか。
最近はやり始めたペットボトルはすごく役に立ちます。病院でも、あれでけっこう用が足りたようです。飲み水はあるし、少ない水で処理ができる。ペットボトルは扱いがやさしい、運搬はやさしい、保存ができる。いろいろな意味でとてもいいものです。うちでも最近使い始めましたが、使ってみると悪くない。井戸がなくなった現在、水源をどう確保するかは大きな問題ですが、手の届くところに水を置いておくのも大事なことではないか。
施設の地域性に注目して、その働きを強化する。大きく見ると集中に対して分散の方向です。建築で言うと、自然に順応して、部分の建築の質をうんと上げ、しかし全体の配置や、外面のきれいなかたちは考えない。つまり全体は自然に則って考え、部分の質を上げていく。計画の中でそういう方向をもっときちんと方向づけていいのではないかと思います。
われわれがつくるのは端からでいいわけです。部分はしっかりつくって、全体のつなぎはもっとルーズに、もしくはもっと巧妙に、分散的につくってはどうか。全体が格好いいというのは、昔の発想にすぎない。
個の命
鈴木 都市の問題で考えますと、分担して、それぞれのところで人が自主的に、あるいは主体的に動かしていくようなやり方でしょうね。
吉武 そうです。個の命が最終的に関わります。僕自身の今回の大手術の経験も含めてお話しします。もともと医療というのはケース、個を扱います。医療のすばらしさは、個を扱っていることだと思います。衛生学とは根本的に違う。医療はケースの蓄積によって学問をつくっています。個は命です。
僕の手術は両足に行く血を止めなければいけない。動脈を止めて、人工的なプラスチックを入れ替えて手術が終わったら流す。ところが僕はあちこち血管が傷んでいて、それがいつ命にかかわるかわからない。特に両足に血を流さないというのは、血圧が下がる状態で非常に危険です。だから、バイパスをつくって、こちらの足だけに血を流して、手術が終わったら取り外す。
鈴木 ある程度の量の血を分散させるために、そうしたんですか。
吉武 そうです。血を動かして血圧を下げない。それは検査の結果、いろいろ考えた結果です。つまり徹底的に調査して、問題が起こらないようにアセスメントをやる。、建築デザインのやり方と同じではないかと思って「デザインのやり方とよく似ていますね」と言ったら、先生が「ちょっと違う」と言う。どこが違うかというと、手術の場合は何が起きるかわからないと考えている。一種の危機管理かもしれない。
手術の前に先生に、手術をするとどういうことが起きるか、腸が詰まって便が出なくなるとか、10項目ほど言われました。そしてまた1週間あとに家族が呼ばれて、3つ言い落としたことがあると言われた。だから13のケースがある。どれにかかっても、相当致命的です。しかし、確率は非常に低いのだろうと僕が言っても「いや、起こり得るんです」と言う。医者は、そういう考えです。確率に対する考えが違う。
そこが工学と少し違うような気がする。工学は何%家が助かればいいという感覚です。医者はともかく治さなければいけない。それが勝負で、それに全力を尽くし、万全を期す。
優先順位・・・確率と計画
吉武 医者の場合には、確率という前に、命という優先が入ってくる。工学はいろいろなものを助ける。建物全体を助ける。建物の中の命はどうなのか、あまりよくわからなくても、全体を助ければいいという感じになっている。医者の場合、命を助けるという、優先順位がはっきりしている。
強制疎開は、確かに優先順位がはっきりしていた。強制疎開は皇居を守るために個を壊してしまうというやり方です。つまり何かのために犠牲にするわけです。それは危ない。強制疎開させる、破壊する。スラムクリアランスは都市美観のためというけれど、いったい誰のための美観か。スラムがあると見苦しいというのは、どう見苦しいのか。住んでいる人たちのことを考えないで見苦しいというのは変だ。
政治的にしっかりしないといけない問題だと思いますが、しかし優先順位をあまりに考えなさすぎるのも変です。よくわからないけれども、いまの民主主義ではなく、もう少し順位というものを考える。昔は優先順位はかなり大事な計画の条件だったと思っていますが、いまや何もかも助けるということになっている。どうなんでしょうか。
鈴木 それこそ安全のとらえ方と、何のためにそこが優先されるかということがいるのでしょうね。
吉武 建築には優先順位はあってもいいのではないかと思います。つまり全体を助けるためには、ここは壊れてもよろしいという場所はつくっておいてもいいのではないか。手術も体に傷をつけるわけです。体の機能は、手が上がらないとか一部の機能は落ちます。つまり体に傷をつけるけれども、命を救うという医学の考え方は、建築ではどう考えたらいいのか。医学と同じにするわけにはいかないけれども、何かヒントがありそうに思います。
鈴木 優先順位ということは、何を大事にするかという一つの判断です。人によって相当ウエートのつけ方が違うのではないか。計画、デザインする人の考え方、思想というものがかなり入ってきますね。
吉武 いずれにせよ、建築と都市の安全と人命、個の尊重というのは最も重要です。学会で考え続けていくべき問題なんです。
(1998.5.23 吉武邸にて)
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