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建築思想と生政治ー近代建築と建築史ー
日時:2015年1月9日(金)18:30~20:00
会場:日本建築学会 建築書店
世界史の方向が大きく展開し、日本の戦後レジームが問われる中で、日本建築はどこへ向かっていくのか。青井哲人氏を招いて、八束はじめの姉妹編『思想としての日本近代建築』(岩波書店)『ル・コルビュジエ
生政治としてのユルバニスム』(青土社)をもとに1930年代の建築、そして戦後建築の行方を問う。そもそも歴史(建築史)は何のために必要なのか。建築史学における日本近代と西欧近代、日本近代と日本前近代の関係も大きなテーマとなるだろう。
ゲスト
■青井哲人(建築史・建築論、都市史、明治大学理工学部准教授)
著書『明治神宮以前・以後』(共編著・鹿島出版会・2015年)、『3.11 After 記憶と再生へのプロセス』(共著・LIXIL出版・2012年)、
『彰化一九〇六年‐市区改正が都市を動かす‐』(アセテート・2006年)、『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館・2005年)、
『日本建築学会120年略史』(共著・日本建築学会・2007年)ほか
■八束はじめ(建築家、建築批評家。芝浦工業大学名誉教授)
■布野修司(建築計画、アジア都市建築史、建築批評。日本大学特任教授)
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布野:始めましょうか。今日は第3回目ということです。第1回目はここにいらっしゃいますけれど宇野先生と建築教育の問題をやりました。2回目は住居と社会と建築学ということで山本理奈さん。今日は第3回目ということで、建築史の青井哲人さんをゲストにして、題して「建築思想と生(せい)政治」。生政治biopoliticsは、ミシェル・フーコーの言葉です。タイトルを勝手に付けたのは私ですけれど、八束さんが出した二冊の姉妹編になる本『思想としての日本近代建築』(岩波書店、2005)と『ル・コルビュジエ―生政治としてのユルバニスム』(青土社、2013)があって、とくに「コルビュジエ」の方は今まで、僕らが読んできたような建築史の本と全く違っている。「生政治」といわれる部分は、建築計画学についてこのシリーズで以前からテーマになっているビルディング・タイプ研究の問題なんかにもつながってくるし、それとル・コルビュジエの時代と同時代の日本、さらに現在の日本が重ねて議論できるのではないか、と思ったんです。そうした議論の中で近代建築と建築史をめぐる問題が浮かび上がればいいと思います。
ゲストの来歴―歴史や理論の研究に向かった経緯
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八束:今日は、ゲストは青井さんなのだから、あんまり自分の本の話をするつもりはなかったのですけれども、布野さんが、青井さんに僕の本についての宿題を出されたみたいなので、それはまた後にお願いするとして、その前に青井さんと布野さんの関係を聞いておきたいんです。つまり、青井さんは元々布野研の出身ですよね、建築史研究室ではなくて? その辺の経緯を知りたいんですけど。
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青井:将来は設計をやりたいと思っていて、建築史を目指していたわけではなかったんです。計画系の研究室に進むことが8月の大学院入試で決まって、秋になったら、その研究室の助教授として誰かが着任したらしいという話が聞こえてきたんですね。それが布野先生だったわけで‥‥。ちなみにその研究室は西山夘三1がつくった「地域生活空間計画講座」っていうところです。
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八束:ああそういうこと。布野さんありきではなかったんですね?
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青井:そうです。建築史でもなかったし、布野研志望ということでもなかったんです。
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八束:布野研の院に進んで計画学的な研究もしたんですか?
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青井:インドネシアとか、海外フィールドワークにはぜんぶ参加しましたけど、それで修論書くつもりはないという、生意気な学生でした。でも布野先生には歴史家や批評家の顔もあるし、何をやっても認められる研究室でした。逆に、本気でやらないと何をやっても怒られる。
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布野:滋賀県立大学の卒業生たちもそうですが、布野との思い出というとまずは怒られたことらしい。酒を飲んで怒鳴ってばかりいた、のは事実です。
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八束:我々は三人とも建築史的な仕事もしているのに、その専門の研究室出身じゃないというのは面白いですね。僕は今の学会における建築史研究のあり方には随分違和感があるので、その辺は後に触れたいんだけど。でも青井さん、そこからどうして建築史に行ったんですか?
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青井:学部時代に仲間たちと勉強会をしていたんですね。この勉強会は大学院に進んだ後もつづけまして、同じ大学の経済学部に浅田彰さんがいたので、頼んで講師をやってもらってドゥルーズ読んだりとか、そんなこともしたんですが、学部時代は学生だけでテーマを決めて議論していて、それが歴史にふれるきっかけではあったと思います。
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布野:同級生に三宅理一、杉本俊多がいて建築史研究室の枠が一杯だったということもありますが、もともと歴史そのものをやる気はなかったですね。ただ、稲垣栄三先生が陣内(秀信)さんが持ち帰ったティポロジアに依拠しながら竹原調査をやられたころ、野口徹さんも一緒だったかなあ? 「建築計画も建築史も一緒だよ」と言われたことを覚えています。歴史学の枠組みの中で建築を扱うのではなく、建築史学を名乗るとすればそうだと、当時は我が意を得たり、という感じでした。まあ、何のための歴史学なのということですけど、史資料が豊富な中国やインドそして日本、あるいは欧米と比べると、例えば、インドネシアなど手掛かりが極めて少ないから、ずっとそう思って都市組織研究をやってきてるんです。青井は、当初はフィッシャー・フォン・エルラッハ2とかに興味があったんじゃないの?
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青井:18世紀、啓蒙主義時代の建築が面白いと思ってたんですね。八束さんが80年代に書かれたものとかがきっかけになっていたと思います。ブレ3とかルドゥ4とか、いわゆる幻視の建築家を中心に、表象の錯乱みたいなことが面白いと思った。
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八束:浅田さんもそんな話を京都の研究者たちの十八世紀のアンソロジーに書いていますね。どんな本を読んだんですか?
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青井:今のは、樋口謹一編『空間の世紀』(1988)ですね。勉強会のテキストとしては、カウフマン5の本を英語で読んだり、あとペブスナー6とか色々読んだ記憶がかすかにあります。そんな勉強会を通してエルラッハとかを知ったんですね。
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八束:最初は日本じゃなかったのね? その辺、とくにエルラッハとかになると、当時日本語文献はバロック建築の概説くらいしかなかったでしょう?
図1:フィッシャー・フォン・エルラッハ『世界建築図集』より(南京のパゴダ)
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青井:エルラッハの『世界建築図集』7は、大型本が建築学科の図書館にありましたけど、ちゃんと研究したわけじゃないです(図1)。眺めて興奮してた程度。もちろん、三宅理一さんの『エピキュリアンたちの首都』(1989)も読みましたね。
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八束:西欧からはじめたのは僕も同じで、『思想としての』を出したのに、未だに西欧の専門家だと思われがちなのはイヤなんだけど、でも西欧やってからあれを書いたのは良かったと思っています。
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青井:僕自身は、西欧を勉強したとは、恥ずかしくてとても言えないです。でもあの頃にああいう勉強したのはよかった。あ、だんだん思い出してきましたが、啓蒙主義時代のフランスをやろうというのは僕が言い出しっぺでしたが、竹内泰さん(現・宮城大学)がアルド・ロッシの『都市の建築』(1966/大島哲蔵・福田晴虔訳,1991)8を読みたいと言って皆で読み、福田晴虔先生をゲストにお呼びした。別の友人はソヴィエトの都市理論をやろうとか。ただやりたいことをやっていたのですが、思い出してみると複眼的な見方をそれなりに意識するようにはなったかもしれません。
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布野:何で伊東忠太をやることになったんだっけ?
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青井:それは布野先生のサジェスチョンですよ(笑)。
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布野:そうだっけ?
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青井:M1の春に布野先生に呼び出されて、それが最初の顔合わせだったのですが、何をやりたいと聞かれたので、エルラッハとかチェンバース9とか、西欧人の眼に映った東洋建築、みたいな研究をやりたいと言ったんですね。サイードの『オリエンタリズム』10みたいな視点で、アジアの建築が西欧によってどんなふうに表象されてきたか、という。そしたら布野先生に、そりゃ三宅がやってるから無理だなあ、と言われて(笑)、それよりも同じ視点で伊東忠太なんてどう?と言って、丸山茂11さんが70年代に書かれた手書きの修論のコピーを手渡された。ああなるほど、と思いました。その視点を日本に折り返して、自分たちの眼のありようを歴史的に批判してみよ、ということかと。
o 1.西山夘三(1911-94) 日本の建築学者。京都帝国大学卒。1940年同潤会研究部(同潤会は翌年住宅営団に改組)。44年より京都大学講師(戦後に助教授、教授)。マルキスト建築イデオローグとしての活躍、住宅問題の科学的研究の開拓、建築計画学・都市計画学にわたる広範な学問体系の展開などで知られる。
o 2. Johann
Bernhard Fischer von Erlach(1656-1723) オーストリアのバロック建築家・彫刻家。ハプスブルク朝の宮廷建築家として影響力をもった。シェーブルン宮殿、カールス教会、オーストリア国立図書館等の代表作がある。
o 3. Etienne
Louis Boullée(1728-1799) フランスの建築家。アカデミー会員にも選出された建築家だが、建築教師として影響力を持った。ニュートン記念堂や国立図書館などの計画案が著名。ルドゥとともに「幻視の建築家」と呼ばれる。
o 4. Claude
Nicolas Ledoux(1736-1806) フランスの建築家。王室建築家だったがフランス革命後は投獄され、実現しなかた計画案を多く残した。実作の製塩工場をもとにした理想都市計画案がとりわけ著名。
o 5. Emil
Kaufmann(1891-1953) オーストリアの美術史・建築史家。革命時代(啓蒙時代)の研究で知られる。ここで言及されているのは、Three Revolutionary Architects: Boullée,
Ledoux, Lequeu, 1952 で、まもなく邦訳(白井秀和訳『三人の革命的建築家−ブレ、ルドゥ、ルクー』中央公論美術出版、1994)が刊行された。
o 6. Nikolaus
Pevsner(1902-83) ドイツ生まれのイギリスの美術史・建築史家。Pioneers of the Modern Design, 1936(白石博三訳『モダン・デザインの展開−モリスからグロピウスまで』みすず書房、1957)など著書多数。ここで言及されているのはStudies in Art, Architecture and Design, Victorian and
After, 1982(鈴木博之・鈴木杜幾子訳『美術・建築・デザインの研究』鹿島出版会、1980)。
o 7. Johann
Bernhard Fischer von Erlach, Entwurff Einer Historischen Architectur, 1721 日本では『世界建築図集』あるいは『歴史的建築図集』等として知られる。中村恵三編著「歴史的建築の構想」注解(中央公論美術出版、1995)を参照。エジプト、インド、中国などを含む世界の多様な建築図を掲載し、世界比較建築史の嚆矢となった。
o 8. Aldo Rossi, L'architettura della città, 1966
o 9. Sir William
Chambers(1723-1796) イギリスの建築家。アカデミーの会員であり、キュー・ガーデン(現・王立植物園)のパゴダ、サマセット・ハウスなどの代表作がある。スウェーデン東インド会社に就職し、広東に滞在した経験からDesigns of Chinese buildings, furniture,
dresses, machines, and utensils : to which is annexed a description of their
temples, houses, gardens, etc, 1757を出版。
o 10. Edward
Saiid, Orientalism, 1978(今沢紀子訳『オリエンタリズム』平凡社、1986/平凡社ライブラリー、1993)
o 11. 丸山茂『日本の建築と思想』(同文書院、1996)を参照。丸山茂『神社建築史論−古代王権と祭祀』(中央公論美術出版、2001)
『思想としての日本近代建築』
と『ル・コルビュジエー生政治としてのユルバニスム』
布野:今日の討論の背景についてはこれぐらいにして、最初に青井さんの方からお話して頂きましょうか。
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青井:布野先生からは30年代と現在を重ねるような話、というふりがあって、それならば、ということで、八束先生のこの二冊の姉妹編、似たところもあり違うところもあるわけですが、基本的なモチーフは共通しているこの二冊を題材にして歴史について少し話をするということがあってもいいのかなというふうに思いました。
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八束:さっきいったように僕の本が主題になるのは必ずしも本意ではないのですが、そういうことならお手やわらかに。あの二冊は、出版年次は随分開きがありますけれども、『生政治』を『10+1』に連載したのは『思想としての』の出版の直後ですから、その積もりでは必ずしもなかったのですけれども、読み返してみると問題意識はかなり続いていて、その意味で「姉妹編」とまとめられるのは間違いないかもしれません。
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青井:博覧強記で宏闊な二冊ですね。
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八束:狡猾って、ずるいという意味(笑)?
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青井:いやいや、「広い」の方です。
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八束:宏闊ね(笑)。
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青井:ほんとに大変なお仕事で、今回二冊まるごと一気に再読してヘトヘトになりました(笑)。いや誤解ないように言っておきますが、ものすごく刺激的だったってことです。
わかりやすいところで、登場する建築家ということでいえば、『思想としての』では伊東忠太、佐野利器、後藤慶二、掘口捨己、西山夘三、丹下健三など、日本近代建築史の各時期を代表する人物の思想が、これまでの日本の建築史研究が手をつけてこなかった文学や美術などの周辺領域との関係も含めた思想史的連関の網目のなかに丹念に位置付け直されている。『生政治』の方はル・コルビュジエに明瞭にスポットライトがあてられているけれど、むしろ建築や美術というより社会学者や地理学者を含む思想的な連関のネットワークが扱われる。あえていえば、どちらも「近代」という時代の、一筋縄ではいかない複雑な思想史的な脈絡が、建築と周辺領域にまたがるように描き出された本、といえると思います。
いきなり「近代とは何か」なんてところから話を始めるのは無謀かもしれませんが、端的に言えば近代は、社会も人間像も分裂を避けられない時代であって、にもかかわらず(だからこそ)「われわれ」という一体性も要請される、そういう時代です。いうまでもなくそのひとつがネーション(国民)という括りですね。そして分裂する社会を前にして様々な思想が生み出された時代でもある。八束さんの二冊は、そうした思想群の連関構造が建築の思考にも絡まっていることを示している。もう少し具体的にみていくと、二冊に共通する基本的なモチーフは大きく二つありそうです。
一つは地政学的な枠組みですね。19世紀・20世紀を通じて、地域(都市、国家、帝国)をめぐる地政学的な枠組みはダイナミックに変わっていき、つまりは「われわれ」の拡がりをめぐる想像力の要請が変わり、人間や社会、政治、あるいは文化や芸術をめぐる思想もそれに適合的に(あるいは対抗的に)編成されてきた。
亡くなられた多木浩二さんが、我々が「都市」という時たいてい暗黙にロンドンやパリのような19世紀のメトロポリスを思い浮かべてしまうがそれは自明ではないと書いていますね(『都市の政治学』1994)。メトロポリスは、マルクス12の言葉でいえば人を労働力商品に変えながら吸収し、膨張し、不断に社会的葛藤を生み出すのですが、そうした分裂的な社会を理解するための科学も、それを踏まえた社会統治の技術も発達するし、現実に対するオルタナティブな社会像を描く多様な思想(社会主義、共産主義、無政府主義など)も育つ。また、メトロポリスと対をなすように「地方」という眼差しができてくる。首都(大都市)/地方という図式も自明ではなく、地方主義や地域主義も近代の産物。一口に「都市」といってもこうした多面的な事象が複合した概念ですし、こういう一連の事象は国民国家というある種の地政学的想像力と結びついています。さらに、世界恐慌後1930〜40年代のブロック経済さらには総力戦といった段階では、たとえば大東亜共栄圏と呼ばれる広大な地域の一体化が強力に推し進められる。各植民地や支配地も、日本帝国という身体の一部とみなされるようになるわけなので、それに沿った文化的想像力も整えられます。
もう一つのモチーフは、建築や美術・文学などの芸術的な表現領域における問題系の組み立てです。あえて端的にいえば、芸術における「内容/形式」関係がどのように変転していくか、ということですね。表象の体系といってもよいのかもしれません。近代建築を支えた機能主義は、様式主義を乗り越えたものだから、表象論は無縁と思いがちですが、「機能/形態」はすなわち「内容/形式」であって、その関係のありようをつくり変えたのが近代建築だという意味で、古い建築の体制と切れているわけではない。それに、30年代後半から戦中期になると、大急ぎで獲得された近代建築にさらに文化類型的な把握にもとづく地域主義的な表象の問題が加わっていく。これが戦後日本の伝統論争なんかにもつながっていきますね。こうしたことが、テクノクラートあるいはアーティストとしての建築家やアーバニストの職能像や党派性などともかかわって、複雑に展開していきます。
地政学的な枠組みと、もう一方の「内容/形式」的問題構成とが、専門家の思想において、どう絡み合い、交錯しながら、ひとつの布置というか網目状の関係みたいなものが編まれるか。それがどう動いていくのか。さらには、そうした歴史過程のなかでいろいろな認識論的な転回というのでしょうか、ある種の折り返しが生じて過去にあった知や感性や想像力が忘却されたり、また回帰したりもする。そういう脈絡を丁寧に吟味していくスタイルが二書に共通しています。
もちろん、時代的にいえばこれらの後につながる、『メタボリズム・ネクサス』(オーム社、2011)などの著作があるわけで、それも本当は一緒に話さなければならないのかもしれませんけど、いずれにせよ、そういった思想史的な連関と脈絡を描いたうえで、では現在の自分たちのいる場所がどう見えてくるか、ということが重要ですね。現在、歴史的想像力とか歴史観みたいなものが本当に弱くなってしまっているなかで、歴史家の責任は大きいのに、やるべき仕事をやっていないではないか、というメッセージも感じました。
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八束:大変ご苦労様でした(笑)。枠組みの件で少し補足させてもらうと、『生政治』の方は地域をもっと大きな共同体に拡げていくし、『思想としての』の方は国民国家の話が主眼になっていますね。それは日本とフランスの事情の違いもあるし。
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青井:そうですね。『生政治』の方のキーワードのひとつは地域主義(レジオナリスム)で、ル・コルビュジエの地域主義が拡張していくプロセスが、本の主要なプロットのひとつを構成している。ラ・ショー・ド・フォンにいたときの、いわゆるジュラ地方の振興を思う地域主義から、フランス・ナショナリズムをへて、地中海地域主義へ、というように。
しかし、ともかく今日僕がここに呼ばれたのはたぶん歴史家として、ということですよね。八束さんの本は、われわれやもっと若い世代の研究成果もよく集めて引用しておられ、若い世代へのリスペクトというか、激励というか、そういうものを感じるのですね。でもそれは、一方ではお前らもっと歴史を描いてみせろ、というメッセージでもある。重箱の隅をつついているだけでなく、現代につながる通史を描け、という。そういうことも強く感じた、ということを言っておきます。
o 12. Karl
Marx(1818-83) ドイツ人の哲学者・思想家・経済学者・革命家。「労働力商品」は『資本論』(1867)の用語。
近代建築史における「折り返しの問題」:連続と非連続
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布野:二つの基本的な枠組みに関わるモチーフ、地理的・政治的な枠組みに関わるモチーフと、表現領域の言説・思想の組み立てに関わるモチーフがどう絡み合い、交錯しながら様々な立場の言説が党派性をつくりながら編成されてきたのか、これが今後どう動いていくのかというのがテーマとなるということですね。どちらかというと前者のモチーフ群から後者が問題になるという方向でしょうか。
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青井:そうかもしれませんが、僕が言ったのは地政学的想像力の問題と、芸術的表現の問題構成とが切れない、ということです。
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八束:一の方は主として『生政治』に関してで、二は『思想としての』の方だということですね?
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布野:八束さんが、『生政治』の方は地域をもっと大きな共同体に拡げていくし、『思想としての』の方は国民国家の話になるとおっしゃったのは、一の地理的・政治的枠組みが上位にあるということになりますか?青井さんがマルクスの名前を出したからちょっと腑に落ちたけれど、社会経済史学的なフレームがあったわけですよね、これまでの建築史叙述のフレームとして。八束さんにはロシア・アヴァンギャルドについての著書もあるわけですが、ロシア革命と建築の表現といった切り口があるわけですが、青井さんのいうグランドストーリーというのは、当然、これまでのものとは異なっていくわけですよね? もうひとつ、国民国家という枠組みと地域主義、さらに地域をもっと大きな共同体につなげていくという枠組みは、どう接続するんですか。これまで極めて単純にナショナリズムとインターナショナリズム、ファンクショナリズムとリージョナリズムといったディコトノミーによって議論されてきた平面とはどう違うんですか?まずは、青井さんの整理の枠組でよかったのかどうか、八束さんに応答してもらいましょう。
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八束:いや、筆者としては大変良く理解して頂いた要約だと思います。最後の布野さんの質問に関しても青井さんが触れてくれたように、ル・コルビュジエという人は山の街(ラ・ショー・ド・フォン)の出身であるくせに地中海リージョナリズムみたいなところに広がっていく。それは国民国家より大きいともいえますが、フランスの場合はサン・シモン主義からしてそういうところがあるし、outre-merつまり海外の植民地の問題まで考えるともの凄く複雑です。青井さんは地政学という『思想としての』に良く出てくる表現を使われたけれども、本来国民国家というのは地域より新しい人為的な単位なんで、つくられたという側面はある。明治の天皇制もそうだけれども、それを中心としたナショナリズムと言うのは決して古いものそのままではなくて、近代の発明だということです。そこは良くわかって頂いた発言だと思いました。
だから、反論とかではなくて、『思想としての日本近代建築』が書かれるに到ったバックグラウンドの説明をしてみましょうか? 僕と青井さんのそもそもの話が関わってきて面白いかもしれないから。
あれはすごい時間がかかって書いた本で、実は第一部だけ書くつもりだったんです。さっき青井さんが自分たちの代に対するリスペクトとおっしゃったけれど、僕がこれをやっていたときに、青井さんの世代に若手で書ける人が随分出てきたという印象があって、青井さんはそのとき関西にいたから声をかけなかったのだけれど、関東にいる何人かの人たちに声をかけてアンソロジーをやろうと思ったのです。それで、僕は明治をやるからと言っていたら、その企画がここではあまり言えない理由で壊れちゃったんだよね。ちょっと青天の霹靂だった。で、声かけていた人に申し訳ないからということで『10+1』で歴史物の特集をやったのだけれど。それで青井さんに最初に会ったのかな?
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青井:僕は確か大阪にいたんですが。大阪の日航ホテルに。
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八束:そうそう。僕が呼び出した。
青井:今日大阪に行く用事があるから出て来いと。『10+1』の特集「言説としての日本近代建築」(2006)ですね(図4)。ベネディクト・アンダーソンのナショナリズム論13、サイードのオリエンタリズム論、あるいは柄谷行人の「風景の発見」の議論14なんかが当時よく参照されていたのですが、我々は近代という「折り返し」の後にいるわけだから、その転換の構造を言説レヴェルで確かめる作業が必要で、そういう作業を日本近代建築史の文脈でやるから一緒にやろうというような話だったと思います。
たとえば「建築」という把握は、普通に建物をみるのとは違って、ある意味で独特なものですよね。けれども獲得してしまえば自明化する。自転車に乗るのにはけっこう練習が必要なのに、乗れてしまうとなぜ乗れなかったのかがわからなくなるというのと似ています。たとえば伊東忠太が法隆寺を研究したのは、それによって西欧由来の「建築」を日本の文脈に移して検証しながら獲得し、同時に建築における「日本」もつくった。この話にもさっき言ったふたつが表れているわけですね。「日本」という地政学的な想像力が獲得されることと、「建築」の問題構成を立てることとは同時的なんですね。
そんなわけで、近代日本の建築的言説がどう編成されたのかという、「折り返し」の問題を主題にしたアンソロジーみたいな特集を組みたいという話が八束さんからあった。
実は僕自身も、布野研にいて書いた修論のテーマが伊東忠太の東洋建築史観・アジア観を批判的に分析するということで、まさに「風景の発見」的な問題、あるいはオリエンタリズムの議論を伊東忠太でまとめたんです。
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八束:布野研で書いたわけですね、それ?博論はまだ書いてないんだよね。
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青井:そのときはまだです。話を戻すと、八束さんのその『10+1』の趣旨を聞いて、「わかりました」なんて受けておいて、実際の原稿では僕はそれを思いっきりズラしたというか、ひっくり返したようなことを書いたわけですね。
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八束:思い出した。日航ホテルで初めて会ったときに、あなたが何を言ったかというと、これは王道を行く本ですねって、すごいナマイキなことを言ったんだよ。
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青井:本じゃなくて、その『10+1』の企画に関して、まあ「最近の王道」ですねと言ったんです。
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八束:そうか、僕の本は未だ出ていなかったんですね。でも王道ですねって、明らかに皮肉なわけよね。初対面でまだドクターの学生?
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青井:神戸芸工大の助手やっていたんじゃないですかね。27,8だと思います。
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八束:普通言わないよね、それ、これだけ年の離れた先輩には(笑)。
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布野:言うよ。布野研ではあたりまえだもん。何言ってもいいよって。それは今でも同じ。
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八束:それで僕はこいつ見どころあると思ったわけよ、当然ちょっぴりむかついたけど(笑)。布野修司の弟子だとは多分知らなかったはずですが。
という事情があって、僕が青井哲人という歴史家に注目することになったわけですが、『10+1』のときには既に自分がやっていた文章が百何十枚かあって、振り上げた拳ということで続けていたら明治では止まらなくなってどんどん長くなって、1500枚くらい書いたんじゃないかな、全部で。これを削りに削って最終的に900何枚に縮めたのだけれど、止むなく注をかなり省いて、布野さんには不親切とか批判されたんですけど、注だけで短い本くらいにはなったんで仕方がなかったのです。
一応明治、大正、昭和とクロノロジカルな順になっていますが、それぞれ全然違う切り口から書いているので、方法的にも違うし対象的にも違うし、三冊の本が集まっているだけで通史の積もりはなかった。最後の第三部は昭和で政治的なことを扱っていて、それはこの間出た『メタボリズム・ネクサス』にそのまま続いている。ただ、青井さんの批判は、結局本の方にも該当するわけだけど、そこを続けて下さい。
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青井:柄谷の「風景の発見」的な「折り返し」は、非常に重要な議論だし、正しいんだけれども、それが流布していくと、いろいろ困ったことが起きるというか、現に自分も含めて起きつつあると思ったわけです。簡単にいえば、国民国家の諸問題のうち、知識人としての建築家や建築史家の言説に現れたナショナリズムがどう構成されているかを描くだけで、どんどん論文が書けちゃう。建築観が違えば、ネーションの構成の仕方も違うから、明治から50〜60年代の伝統論まで、大方の建築の言説はこの問題設定にのっかっちゃいます。で、認識の枠組みが獲得されたということは「折り返し」であり、あるいはパラダイムとして別のものに移っちゃうんだから、それより以前の状態は見なくてよろしい、というか、近代的な目で過去を見てはダメなのだから見ない、というような安易な思考停止につながる感じがあったのです。わたしたちが前提にしている認識の枠組みが、所詮は過去のある時点での政治的な状況のなかで作為的につくられた認識枠にすぎませんよ、っていう言挙げを言説レヴェルであれこれ続けていっても歴史が寸断されていくだけじゃないかという感じもありました。
このままじゃだめだなと思いはじめていた頃だったので、特集の枠組自体を相対化するような記事が一個くらいあってもいいだろうと偉そうなこと考えたんですね。19世紀から色々な言説の束が太い線や細い線となって流れて、明治以降にもたくさん顔を出していたはずで、「建築学」以降の言説だってそれらと拮抗的だったわけでしょう、っていう文章を書きました。たとえば伊東忠太が「日本建築」を書こうとしたときには、それとコンフリクトを起こすようなものも含めて、色々な言説の場があって、そのなかで考えたにちがいない、というようなこと。
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八束:19世紀というのは明治以前?
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青井:あ、そうです。具体的には神社建築の研究をその頃やっていたので、18, 19世紀から明治以降に向かって神社建築にまつわるどんな言説が流れていくかを書きました。
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八束:なるほど。『思想としての』で柄谷行人の影響があるのが第一部、つまり明治の部分で、その折り返しの話です。明治に関して言うと、中谷礼仁さん15なんかもそうだけれども、もっと前から残っているものがかなりあって、折り返しを強調することによってそれが消えちゃうのはまずいと、そういう話だったかな?
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青井:そうです。簡単に言えば。
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布野:折り返しってどういう意味? みんな、ついていけていないかも。僕もだけど。柄谷行人はそれなりには読んではきてるんだけど。
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八束:たとえば極端な話で言うと、「建築」というものはなかったわけです、幕末まで。だいたい言葉もなかった。言葉がなかったものに言葉を与えると新しいものが発明されちゃうわけ。明治以前の建物は単一の建築と言うカテゴリーに属していると認識されていなかったのに、この発明のおかげで、それがもとからあるような感じになる。そこを認識論的な展開と言う意味で言っている。建築以前と以後みたいなことですね。それが、青井さんが先ほど言ってくれたみたいに、ひとつの概念だけではなくて、たとえば「日本」とかも概ねそうですが、集中的に発明されるから、時代としては折り返しということになる、それが日本の近代だと。そもそも「日本近代建築」というのは、「日本」も「近代」も「建築」も皆あの時期に出来た概念です。まぁ、歴史だってそう。「日本」はことばとしてはあったけれども、自分たちの「くに」ではなかった。何か天の上の領域のことで庶民には関わりないものだった。
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青井:認識枠組みが出来上がると、過去にはまったく違う認識の下にあったものも、その新しい枠組みでとらえられてしまうという話ですね。
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布野:柄谷行人がそう言っているわけ?
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八束:柄谷さんが「折り返し」と言ったかどうかは覚えていないし、造形芸術分からない人だからというのもあって、彼の議論はそこまで体系的ではないと思うけれど、美術でも北澤憲昭さんとか佐藤道信さんとかが言っていることですから16、それをともあれ建築でもやっておかなくちゃ、というのは最初に思った。
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布野:認識論的枠組みの問題ということでいいんですか? フレームアップとか、神話化というのは関係ある?
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八束:枠組についてはそれでいいと思う。「折り返し」を僕が強調したのは、実は柄谷さんよりも、フーコー17経由でした。元はバシュラール18ですけど。神話化というのはどうなんでしょうね。便利すぎる言葉だから。ある意味それは常に必要とされるともいえるし。建築だの美術だの文学だのだって、典型的に神話的な制度だともいえるわけでね。ただその辺の作業をやり出したら、僕の悪い癖で、狭い建築の枠組みからはみ出していった。だからこの人たちの論考より僕の本の方がずっと長いし、折り返し論は一部でしかない。でも「折り返し」の話に戻りましょう。
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青井:「折り返し」の意味をはっきりさせるためにも、前から流れているいくつかの線を復元しなければならない。それは同時にやらなければいけないことだろうなというだけの話です。
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八束:それは同意します。あなたの世代の優秀な書き手もその辺りをやっている。けれど、この辺が難しいところであって、近代でない、いわば「伏流」みたいなことを強調しすぎると、別の意味で政治的な言説になるから、そっちに流れるのは危険でしょうということは言った。
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青井:八束さんは『思想としての』で、僕が『10+1』でぶつけたような考え方を「ポストモダン」と言ってらっしゃいますね。切断するのが「モダン」で、伏流を評価するのが「ポストモダン」というように。
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八束:そうですね、政治的な意味と言うのはそれですけど、「伏流」を近代以降と結びつけて、別のものを肯定してしまうことになりかねない。
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青井:この本にもちゃんと青井批判が書いてありますよ。
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八束:そういえば、あれだけ若い奴にいわれたんだから、何か一矢報いておかなきゃと思った記憶はあるなぁ(苦笑)。
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青井:「折り返し」の切断性や捩れをきちんと踏まえよということはその通りだと思います。僕は院生の時代に当時出ていた柄谷の本はだいたい読んだのですが、そのなかで『日本近代文学の起源』の「風景の発見」は自分でもすぐに使えるという感じを持った。中谷さんは僕よりも五つ上で、もう少し違う意識の厚みがあるなあとつねづね感じるのですが、僕の場合は「風景の発見」式に、「○○はこのとき発明されたにすぎない」みたいな言挙げが知的だという感じで始まっちゃった。修論の後で、だんだんこれはまずいなと気づき始めていた頃に、八束さんからのお話があった、というようなわけです。
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八束:ああ、それだと折り返しと言っても、そのはじまりを指摘したにすぎなくて、それだけ終わったら意味がないでしょうね。
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青井:それで、その後は言説レヴェルの検討だけでは片付かないことをやらないと薄っぺらになると思い、神社造営を、植民都市の環境形成史的なフレームで調べ、社会・政治・技術の問題として捉える研究をはじめて、それを博士論文にしました。修論が伊東忠太だったので、その伊東忠太が関わった植民地神社に関心を持った、という意味ではいちおう連続性もありました。
ここでまた丸山茂さんとつながるんですね。丸山さんは「国家神道」の問題、つまり明治以降の日本国家の構造と、建築とがどう関わるのかという問題を神社を通して扱おうとされて、それで近代天皇制・国家神道体制下の神社建築の研究をはじめられたのではないかと推察します。そこには70年代にものを考えた丸山さんの政治意識みたいなものがあったはずです。それで、近代をやってはみたものの、とても近代だけでは問題は解けないということをたぶん強く意識されて、古代の研究に進んでいかれた。神社建築、あるいはそもそも「神社」そのものが天武朝の律令体制構築の一環として制度的に創出されたはずで、そうした根本的な「折り返し」の上に明治の小さな「折り返し」が重なったにすぎないのではないか、というような意識だったのではないでしょうか。丸山さんは、自分はもう近代はやめたから、といって集めた資料を送ってくださいました。
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布野:丸山さんは僕の一年先輩ですが、鹿島建設にいっぺん勤めて、吉武研究室に帰ってきた。彼の最初のターゲットは西山夘三だった。吉武研究室だから当然の関心で、僕も一緒に西山夘三と建築計画の起源について歴史を遡行していったんです。そうすると、帝冠(併合)様式論の下田菊太郎19が「建築計画論」というのを書いている。『建築雑誌』の何号20かが「建築計画」という語の初出なんです。それを突き止めて、一緒にやるのかと思っていたら、丸山さんは神社建築をやるというんです。そこで伊東忠太をターゲットとすることに切替えるんです。西山夘三はわかった、と思ったんじゃないかという気がします。西山夘三は布野やれ、ということだったかもしれません。僕は、上山春平21をイメージしていました。丸山さんにも誰にも言ったことはないんですが、明治維新をテーマにしていた上山春平は、古代へ向かうんですね、国家神道、日本、天皇制の起源をめぐって、近代史から古代史へ向かうパターンかなと。
先ほどからの「折り返し」論も関係しますよね。日本の伝統なるものが、近代になってでっち上げられているというか、仮構されるのは、だいたいそうだと思います。用いられる言葉が、全部翻訳語だしね。都市という言葉だって明治以前にはないわけですからね。都という言葉はあっても都城もない。もちろん民主主義だとかなんとかも。たとえば「建築」という言は明らかに日本が作って、中国がこの翻訳語を使っているわけですよね。「日本」のオリジンを探っていくと何もない、「日本文化玉葱論」というのもある。
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八束:そもそも社会主義とか共産主義ということばだって、中国は日本語からもっていったのよ。でっちあげというのは、ニュアンスとしてちょっと否定的すぎると思うけど、モノゴトそういう風にして出来ていく。ただ最初からそうあったわけではないことは心得ておくべきだというだけのことで。
ところで、下田菊太郎ってアメリカ行ってたわけでしょ? だから、かれが「建築計画論」なんて言ってたのは、それとは関係ないの?
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布野:アメリカに行く直前ですね、書いたのは。卒業論文のエッセンスかもしれない。
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八束:どういう内容なの? ヴィトルヴィウスみたいになっちゃうわけ?
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布野:いや、ヴィトルヴィウスの影響はない。素朴な機能主義と言うか、計画論ですね。そんな長い文章じゃない。「人類為居之起源」から始まって、「人類整居ノ起源」が続く。「建築トハ、第一実用的、第二形容的、第三美術的の三資格ヲ備ヘタル者ニシテ」「此ノ三資格ハ建築上尤も須要ノモノ」といった調子で、実用的とは、室房の配置法と材料の採用法、美術的とは、彫刻法と彩色法、形容的とは、建築に品位光彩を増すもので、装置法ともいってややわかりにくいけど、構造やプロポーション、ディテールも含むのかな。ただ、実用的が5、形容的が3、美術的が2といっているのは、後の建築計画学の萌芽という位置づけができるということ。それが、バーナム22のところで最先端の鉄骨構造を学んで帰ってきて、それがどうして帝冠様式に行くのか、ということには興味があった。丸山さんは、ナショナリスト建築家として、下田と伊東忠太を比較したいと言っていたような気がします。下田菊太郎は、『思想と建築』(1930年)を書くんだけど、八束さんは触れてなかった?
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八束:伊東が下田を批判したことには触れました。ただ、下田のその本自体知りません、そもそも。丸山さんがそれに触れたことも知らない。
o 13. Benedict
Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and
Spread of Nationalism, 1983(白石隆・白石さや訳『想像の共同体: ナショナリズムの起源と流行』、リブロポート、1987/増補・リブロポート、1997/定本・書籍工房早山、2007)
o 14. 柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社、1980/講談社文芸文庫、1988/岩波現代文庫、2008)
o 15. 中谷礼仁『国学・明治・建築家』(波乗社、1993)、『近世建築論集』(アセテート、2006)他。
o 16. 北澤憲昭『眼の神殿―「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989)、佐藤道信『〈日本美術〉誕生−近代日本の「ことば」と戦略』 (講談社選書メチエ、1996)
o 17. Michel
Foucault(1926-84) フランスの哲学者。この文脈ではL'Archéologie
du Savoir, 1969(中村雄二郎訳『知の考古学』河出書房新社、1970/ 慎改康之訳、河出文庫、2012)を参照。
o 18. Gaston
Bachelard(1884-1962) フランスの哲学者。科学的事実とは理論的問題設定があってはじめて構成されるとする科学認識論を展開。Le Nouvel Esprit Scientifique,1934(関根克彦訳 『新しい科学的精神』 中央公論社, 1976/ちくま学芸文庫、2002)参照。
o 19. 下田菊太郎(1866-1931) 建築家。秋田県出身。工部大学校で学び、文部省営繕課に奉職の後1889年に渡米。ニューヨークやシカゴの建築設計事務所に勤務後、95年に独立。98年東京に事務所開設。1919年、前年の帝国議会の設計競技への不満から、洋風建築の上に日本式の瓦屋根を載せる「帝冠併合式」を提案したことで知られる。
o 20. 『建築雑誌』No.28, 明治22(1889)年4月号
o 21. 上山春平(1921-2012) 日本の哲学者。アメリカのプラグマティズム哲学の研究からはじめたが、のちに国家論・戦争論・仏教論・日本文化論などに移行。日本を「照葉樹林文化」と捉える学際的研究でも知られる。梅原猛ら新京都学派の一人。
o 22. Daniel Burnham(1846-1912) アメリカ合衆国の建築家・都市計画家。下田菊太郎がシカゴ万博(1893)のカリフォルニア館の現場監督を所属事務所の仕事として担当したとき、万博総指揮者であったバーナムと知り合い、鉄骨構造について学んだ。下田はその勉強を続けるためにそれまで勤務していたニューヨークのページ・ブラン事務所からバーナム事務所へ移籍した。。
神社建築における「折り返し」とモダニズム
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青井:丸山さんはより古い「原型」を目指して古代へ遡ったということではなくて、古代権力が決定的な「折り返し」をつくってしまった、っていう判断だったんじゃないですか。民族信仰的なものが、自然に神社に進化していったみたいな、よく言われるような素朴な連続ではないのは当然とし、もっときちんと権力論としてやらなければならないという。
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布野:神社の成立について稲垣(栄三)先生がこう書いてるけど、何も根拠がないじゃないか、という。遺構は残ってないからね。最古の神社っていっても1600何年なんだ。これは建築史の黒田龍二とかもそう言ってたるんだけどね。神社の起源とは、一体なんなんだと。
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八束:それは『思想としての』にも書きました。
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布野:最近、寝る前に『古事記』を読んでるんです。僕は出雲出身だから、いずれ出雲論をやろうと思ってるんですけどね。『日本書紀』と『古事記』の関係は相当面白い。『古事記』は、本居宣長が『古事記伝』を書いて、いわば発掘するわけですが、『日本書紀』の「漢意(からごころ)」を批判して、「古より云い伝たるまゝに記された」『古事記』を上位に置いた。『書記』は「後代の意をもて、上代の事を記し、漢国の言を以、皇国の意を記されたる」ものだという。明治政府は「記紀」神話を近代天皇制の柱として、国家統合の幻想、想像の共同体(B.アンダーソン)の源泉とするわけですよね。そのあたり、『古事記』も『古事記伝』も、最近丁寧に精力的に読み直されつつある。注目してるんです。建築じゃないんだけど、『古事記』については千葉大にいた三浦佑之、『古事記伝』については、東大を定年で明治へ移った神野志隆光かな。
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青井:丸山さんの話を続けるつもりじゃなかったけど、天武朝のときに・・・。
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布野:そっちにいくの? ついて行こうかな。日本、律令体制、日本書紀、古事記、すべて天武が閾になる。伊勢神宮、藤原京の造営は持統の時でしょう。
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青井:朝廷権力が、国家体制を整えるために「官社制」という制度をつくり、古墳時代以来のそれぞれの在地的な勢力の祭祀施設みたいなものを、規格化・形式化された建物に置き換えてしまった、それは朝廷と豪族の関係が集権的な中央-地方関係として整序されたことに対応するんだ、というような議論を丸山さんは展開されています。これも、地政学と建築(内容/形式論)とが交錯する問題の一例ですね。非常に面白い仕事だと思います。
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布野:皆さんいま筋が見えないかな。
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八束:いや、聴衆置き去りだと申し訳ないけど、面白いところだから、少し続けましょう。僕が最初に言ったように、若い世代へのリスペクトというのは、明治の頃をやっている人の中に面白い人が出てきたと思ったことでした。ただ、青井さんはその後のことをやりだして、最初はどっちに行くのかわかってなかったんだけど、やっぱり、30年代をやってもいわゆるモダニストの話じゃないんじゃないよね、必ずしも? これは批判じゃないんだけど。むしろモダニズム概念の拡張なのかな?
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青井:僕は・・・、博士論文では神社をやって、建築的な部分では伊東忠太から角南隆23へ、というラインを押さえて・・・。伊東忠太が19世紀的折衷主義の建築史家=建築家だとすると、角南隆は20世紀的モダニストですよ。けっこう丹下健三に近い部分もある。神社はずっといわゆる「和風」だから分かりにくいですけど、それでも19世紀的なものから20世紀的なものへの転換があり、しかもそれは地政学的な想像力の変遷と切れない関係にある。だから八束さんの『生政治』『思想としての』ともパラレル。
図5:藤田・青井・畔上・今泉編『明治神宮以前・以後』(2015)
こんど、二月に本が出ます。『明治神宮以前・以後』というタイトルで、五年間くらいかけて仲間たちとやってきた共同研究の成果をまとめたんです24(図5)。神道史、都市史、地域社会史、造園・造林、都市計画など、いろんな分野の人たちとやってきた研究・・・この話してもいいですか?
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八束:メイン・ゲストなんだから、話す権利はあるんじゃない? それに『思想としての』の方では僕も「国語と神社」という議論をしましたから、フォローすることは出来そうだし。聴衆の皆さんで、神社とか馴染みのない方にはコアすぎる議論かもしれないので申し訳ないけれど、ちょっと我慢して頂いて続けましょうか?
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布野:なんで「明治神宮」で、その「以前・以後」なの?
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青井:明治神宮をひとつの転換点として、神社だけではなくて、都市や社会の捉え方、国家と国民の関係の捉え方、環境や自然の捉え方、そういったものが、ぐいっと組み変わるということを考えてきたんです。
たとえば、建築に即して言うと・・・ぼくは共同研究のなかで建築担当なので・・・伊東忠太は明確に折衷主義段階の表象論なんですね。つまり、神社の「内容」、これは祀られている祭神と捉えられるのですが、その性格(キャラクター)を本殿の「形式」においてどう表象できるのか?という問題が基本になるのです。たとえば、宮崎神宮(1907年竣工)では神武天皇を祀っていることから、まず皇祖神を祀る伊勢神宮の神明造を範型として採用する。ここは連想というか観念連合的な発想ですね。そのうえでその形を少しいじって・・・たとえば向きを変えて妻入りにしたり、屋根を銅板葺きにして少し反らせたりという操作を加える。いくぶんマニエリスム的です。こんな作法によって創出されたのは過去に係留されながらも未知の本殿形式なのですが、こんな形ならば「内容」=祭神の性格というものを表現したことになるのじゃないか、というわけです。これはもう完全に19世紀ヨーロッパの折衷主義であり、表象論、キャラクター論、あるいはピクチャレスク的な観念連合の話もかかわる。
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八束:なるほど。それでチェンバースがさっき出てきたのか。チェンバースはインドとか中国のデザインを移入するわけで、あの時代の表象論ですもんね。
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青井:あ、チェンバースは学部時代なんで、はるか昔ですけど、まあ言われてみるとつながってますね。
話を戻すと、こうした19世紀的な建築観が、明治神宮で変更を迫られるんですね。それはいろんな理由があるんですけど、まず、明治神宮というのは、国民全員が明治天皇を祀る施設だと捉えられた。こんな規定のされ方をした最初の神社です。では「国民」とは何か、「天皇」とは「国民」にとって何なのか、そんなことを考えていくと単純に過去の本殿形式のカタログブックからひとつをチョイスして手を加える、という発想ではこの施設の性質はカヴァーできないのではないかと考えられてくる。というのは、神明造やら大社造やらを選ぶと明治神宮が特殊な党派性に絡め取られてしまい、近代天皇のもつ「公共性」にそぐわない。それから、明治以降の日本国家は欧米諸国と付き合うために当然ながら憲法で信教の自由をうたいますが、これといわゆる「国家神道」とのコンフリクトを避けるために、神社は宗教ではなく、国民ならば誰でもが実践すべき「祭祀」と位置づけました。この観点からしても、神社は決して特定の宗教であってはならない。そして、明治以降の神社造営のなかでも明治神宮は文字どおり「国民」的な関心のもとで設計が進められ、そのデザインは「国民」の誰もが自然に受け入れられるものではなくてはならない(図6.7)。
そういうわけで、固有性は要らない、むしろニュートラルで標準的なものがよい、饒舌な形は避けて寡黙な形を選びたい、だが伝統的な神社と連続的に見えなければならない。こういう問題構成のなかで、「流造」という最も普通の本殿形式が選び出されるのです。
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八束:なるほど、さっき、日本は個々の民草からすると「くに」じゃなかったといったんだけど、伊勢でも出雲でもある種の「くに」的なものだから、それが国家としての「日本」にフレームアップされると、遍在的なユニヴァーサルな様式としての流造が採用されたと言うことですね。とても地政学的な話ですね。
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青井:そのとおりです。ジャンル論的にいえば、明治神宮も「神社らしさ」という要請は避けられないので伝統様式からは出られないんだけれど、そのなかで最もニュートラルで没意味的なものを使う・・・そういうかたちで神社だとはわかるがそれ以上の特定の意味は発生しない、いわば表象論的な「ゼロ」ということを、明治神宮造営に関わった人々は実質的に考えたことになります。
ちなみに、伊東忠太は進化論者ですから、明治神宮が国民的関心を集めるプロジェクトだとすればなおさら、煉瓦造かRC造で新様式をつくりたいと、明治天皇崩御の段階では思った。これは19世紀的表象論を延長すれば当然そうなるのです。明治天皇は近代天皇という性格(キャラクター)を持つわけですからね。つまり伝統様式では表象できない神なのです。でも、この線は内務官僚の井上友一25あたりが水面下で抑え込んだだろうとぼくは見ています。それを封じたうえで、表象論の枠内で「天皇と国民」という近代的論理を探求した結果、論理的帰結として、表象論的な「ゼロ」に到達してしまった・・・これがぼくの見立てです。これ以降、神社建築の議論の中心は機能論に移っていく。膨大な参拝客をどうさばくかとか、ある種の計画論になっていくわけですね。
いま紹介した転換が、どこまで意識的なものだったかはわからないけど、たんなる成り行きというよりは、伊東と井上とがかなり自覚的に共同で戦略を組んだのだろうと思います。こうして明治神宮で「近代建築」がはからずも獲得されていたと僕はみています。わかります?
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布野:流造りが選択されたのは、ただ数が最も多いというだけなのか、ニュートラルというけど、どういう意味でそういえるのか? 内務省神社局なり、日本の神道界におけるそれなりのポリティックスがあるのか? 建築的形式として何らかの優位性があったのか? あるいは、個人として角南隆のイニシアティブがあったのか?
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青井:明治神宮の時点では角南はまだ若造です。建築でいえば伊東忠太が主導しているけど、意思決定は会議体だし、官僚も政財界の人々も相当慎重に考えただろうと思います。布野先生がいわれるような、神道界におけるリアル・ポリティクスは残念ながらつかめない。
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布野:近代建築の理念が受容される過程で、神社建築のデザインに何が起こったかという理解でいいの?
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青井:ヨーロッパの近代建築のインパクトではなくて、むしろ同じヨーロッパ由来の19世紀的折衷主義段階の表象論が、日本のナショナル・プロジェクトの文脈と擦り合わせたら破裂しちゃったってことなんです、言ってみれば。それはネーションの共同性・公共性というものに対応できる形式・形態とは何かということが議論されたためです。正確にいえば、流造という選択はもちろん表象論の枠内にあるのですが、それは積極的に特定の意味を表象するということではなく、むしろできるだけ何も意味しない形態を選んだという思考回路が重要なんです。
忠太の後、1930年頃から活躍をはじめる角南隆なんかはもう明確に機能主義者なのですが、それは明治神宮で実質的に表象論が終わったことによって開かれた新しい視野だったのだと思います。
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八束:角南って明確にモダニストですよね。忠太とははっきり世代が違う。そこの辺を押さえておくのが肝要だというのが、『思想としての』の眼目の一つですが。
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青井:モダニストですね。明治神宮では、表象論が役に立たなくなったので、実は忠太だって機能論的な語り方に微妙に変わっている。国民が天皇の霊に近づき、手を合わせる、その行為にふさわしい空間を考えはじめている。だから回廊で囲われた中庭をつくっていかにも宮中にいるような雰囲気を出し、たくさんの参拝客を収容するために拝殿を大型にし、床をやめて土間にしたので中庭から奥への連続性が生まれたし、また洋服を着ている人が増えているから座礼から立礼に変える・・・というようなことが主題になっている。でもこれくらいのことにとどまった。
角南隆はもう完全な機能主義者であり、一年間に行われる神社の多様な儀礼のプログラムを想定し、それを空間配列によって合理的に解く、というようなことができるようになっています。それで昭和期につくられた新たな社殿構成のモデルがいくつかあり、戦中期から戦後にかけてそうしたモデルを踏まえて新造あるいは改造されていった神社が無数にあります。一般に日本の建設量は1937年をピークにして急減するのに、神社だけは帝国全土に大量につくられていくわけですね。民間から寄付を集め、造営工事は勤労奉仕で・・・これもファシズム的な側面をもっていると思いますね。
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布野:植民地もそうじゃないの? 台湾も、朝鮮半島も。
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青井:植民地も全部そうです。それも神社の場合、角南隆を頂点とした官僚技術者組織もつくり上げたんですね。帝国全土の神社造営をコントロールするなら、それに相応しい設計方法論が必要で、それは機能主義的なプランニングと、もうひとつは
- これも八束さんの二冊に密接に関係するんですけど - 地域主義だったのです。帝国あるいは大東亜共栄圏といってもよいですが、その各地の地域性というか文化類型みたいなものを抽出し、機能主義的に類型化されたプランニングのうえに付加していくということが1930年代の後半から始まるんです。たとえば朝鮮半島では、木部に朱を塗って朝鮮瓦を葺いた社殿をつくるとか、社務所にはオンドルを入れるとか、相当意識的に地域主義の実践が試みられる。
ル・コルビュジエの地域主義の展開と比べることもできると思うんですね。その弟子の坂倉準三がパリ万博の日本館(1937)で、建築における日本的文化類型みたいなものを的確に表現してみせたこととかも含めて。角南隆は中央でつくった範型を帝国中の神社に行き渡らせようとしていたわけで、坂倉とは規模的には比べものになりませんが。
一方で、明治神宮で出てきたもう一つのテーマは、鎮守の森をどうつくるか、という話でして、これは生態学なんですね。
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八束:生態学ってエコロジーの生態学?
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青井:そうです。ドイツから輸入された森林生態学の知識。林相の遷移(transition)、極相林(climax forest)というような用語がありますね。その体系に従えば、本州ならシイ、カシ、クスなどの常緑広葉樹が極相林であって、こういった樹種ならば人が手を加えなくても林相は必ずそこに至り、人が介入しなくとも平衡状態が保たれる。更地にゼロからつくられた明治神宮の森は、この常緑広葉樹林(照葉樹林ともいう)を採用しています。
近年の研究でわかってきたのですが、近世の一般的な神社境内林は、松・杉・桧などの常緑針葉樹を植えていたようです。こういった樹種は、人が手を入れないともちません。用材を採ったりすることも含めて、生産林として経済的意義があって、だから人工的に維持していたのですね。それから、伊勢も日光東照宮も杉の森ですから、やっぱり、高くそびえ立つ垂直の樹幹というのが美学的にいっても鎮守の森のイメージでした。だから明治神宮もそれでいきたかった。ところが、都市的立地のため煙害という問題があって、常緑針葉樹は煙害に堪えられないから無理だと早々に判明してしまう。
そこでやむをえない代替案として煙害に強い常緑広葉樹が選ばれ、これならば人の手を入れる必要もない、ということで、林学者が関係者を説得した。そして事後的に、こうした極相林こそが風土に根ざした、最もその土地にふさわしい自然林なのであって、それゆえ鎮守の森として理想的だ、と論理が転倒されます。つまり、生態学という近代の学知を根拠に、かつては人工林であった鎮守の森が、「自然林」として、つまり作為性を排した「自然(じねん)」の論理を介してナショナリズムに結び付けられたわけです。この論理をつくったのは上原敬二26という林学者。
明治神宮は、いわばナショナルで、パブリックで、アーバンな神社として構想されたわけですね。20世紀的な「鎮守の森」の理論がここに完成したわけで、さきほどの角南隆の機能主義+地域主義による社殿建築と、その近代性においてよく対応するといえると思います。この種の森が、やはり帝国中につくられていき、また戦後も多くの神社の森がつくり変えられました。
鎮守の森こそ「太古の森」だなんてよくいわれますけど、あれは完全に間違い。太古の森という超時間的な不変性がある意味で偽装されたわけですからね。丹下健三が戦中期に提出する議論って、いまの神社の論理とかなり近いような気がしませんか。ぼくは博士論文を書いている頃このことにふと気づいて、これはかなり面白いぞと思っていました。
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布野:神社を一元的に管理する一環として、〇〇造という神社建築の諸類型を貫く空間システムが導入される。大きな役割を果たしたのが角南隆。そうした空間システムを確立した上で、日本各地で、とりわけ海外植民地で地域性や民族文化性を付加する段階が次にくる。丹下健三の問題構制と近づくということは、神社建築の形式をめぐる議論の展開と近代建築をめぐる動向が重なるということなのか。丹下健三の「大東亜記念営造物」コンペ案27はまさに神社建築の形式をめぐるパラダイムで理解できそうだけどどうなのか? 戦後の伊勢論も完全につながることになるのか? 地域性・風土性みたいなものを乗っけていく、森というものをどういうふうにつくるか、という話はどう繋がるのか?
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青井:森は建築よりすごいですね(笑)。だってその土地の極相林を最も「自然」という理由で理想化するんだから、論理としては単一で、同時に、地域性も担保されちゃいます。ちなみに角南は「国魂神」という神をすごく重視していて、これが彼の神社論の根幹なのですが、「国魂」つまり土地の意志みたいなものに従え、という発想。満州で手水鉢なんか置いても凍っちゃうからやめておけ、お香でも炊いておけ、というようなことを角南は言っていて、さっきの朝鮮瓦とオンドルの例なんかはそういう発想が戦中期にいくつか実施段階に移されていたっていうことです。これで帝国を差異の布置として見据えながら、でも「神」を基底にして統一的に捉えていたわけです。ある意味では日本の神社を拡張していたんですね。丹下はそのへんを直観していたというか、敏感に察知していたのじゃないかと思いますが、帝国の中央官庁にいた角南の発想とはやっぱり同じじゃないでです。ただ、共通点のある思想が平行して現れる状況にあったということは言えるんじゃないか。
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布野:「極相林」「国魂」というのはわかりやすいけど、丹下さんにはそれを核にする発想はなかったということ? 共通点とは? 八束先生、どうなんですか!
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八束:え。いきなり僕ですか? 凄い無茶ぶりだな。司会者としての特権を濫用されてる(苦笑)。官僚ならぬ丹下さんは、角南のように全体のシステムを相手にする必要はなかったと言うことでしょう。でも日本の純正な建築の原型としての神社という命題は、さっき布野さんがいったように、本当に古い社殿が残っていないから根拠ないんだけれども、それこそ「神話」として利用したという所は共通している。
ともあれ、今の青井さんの話はすごく面白かった。神社と言う特殊なビルディング・タイプに限られたことじゃなくて、要は、近代建築というものがコルビュジエの初期とかバウハウスみたいな様式だけでは捉えられない、という話ですね。僕は、この本を書いていた頃かな、日本がおかしいのは、明治建築みたいに、西洋でいうとハイモダニズムが排撃したもの(ヴィクトリアン・スタイルとか)を「近代建築」として有り難がっていることだという話を、岡崎乾二郎としました。そうなると、日本の近代建築は西欧のような断絶を経験しないことになってしまう、というわけ。
でも、今からすると、それはちょっと単純すぎる言い方であって、さきほどの折り返し議論とも関わると思うけれども、やっぱり完全な断絶にはならないのですね。たとえばグロピウスがそういうことに気がついたとは思えませんが、コルビュジエは多分気がついていたはずです。グロピウスは国際建築ということを言ったけれど、コルビュジエはそんなこと言わないわけで、モダニストの中で賢い人はやっぱり皆そっちに行くんだな。それが地域ということ、つまり各文化圏が背負っている血脈みたいなものです。単に伝統や地域は尊いという一般論ではなくてね。それはテラーニであろうがアールトであろうが、今言われたように、丹下であろうが同じ。
だけどそれよりもはっきり様式の上、見てくれの上でプレモダンなものをやっている人たちも一杯いて、それを全部今まで排除してきたわけですよね、従来の近代建築史の本は。それはそんな単純に言えないってことで。それが先ほどの折り返しの議論の肝ですよね。
図8:丹下健三「大東亜建設記念造営計画」設計競技1等当選案(1942)
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青井:そうですね。おっしゃるとおりで、いわゆる伝統的な形態を見かけ上やっていても、その内部に透明なシステムを獲得していくことはできる。透明な形式性というのでしょうか。それがあれば見かけの形は、リテラルに四角くなくてもいいし、リテラルに透明である必要もない。この形式論理の獲得ということが、フォルマリズムの本来の意味であって、その意味で神社はとても面白い。ある意味では、神社というジャンル論的な枠の都合上、伝統的な形を捨てられなかったがゆえに、むしろその限界の内側で、透明な空間把握、環境把握というものが突き詰められていったんじゃないかとも思いますね。丹下健三はそのあたりを割と気づいていたんじゃないかな、という気がしています(図8)。
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八束:それは断然同意します。例の大東亜のコンペ案は神社だし、彼の戦中の議論では「環境」というのは反西欧のキーワードだしね。
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青井:「物体構築的」な西欧の造形文化に対して、日本のそれは「環境秩序的」なのだという定式化ですね。乱暴だけど冴えていますよね。おっしゃるとおり、丹下の「大東亜建設記念造営計画」のコンペ一等案は神社です。富士の裾野の森のなかに営まれた、RC造の護国神社とその広大な祭庭(慰霊の庭)といったイメージです。
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布野:その、透明なシステム性とか透明な空間把握というのは、いわゆる近代的なシステムをいうんですか?
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青井:近代のものだと思います。
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布野:神社にしても、民家にしても、基本的には単純な空間システムで成り立っているわけですよね。架構システムも、構造合理的であることにおいてはわかりやすい。伝統的形態でも透明なシステム性を獲得していけるという場合、形態のシステムと空間システムは分離されているというのが前提なんですか。グリッドの柱梁システムや畳モデュールに近代的システムを見出すというのとは位相が異なるわけですね? 次の段階で、近代的なシステムに地域性や伝統性を付加していくことが起こるというのは、どうつながるのか? 神社や数寄屋に近代的システムをみるという場合は、一貫性があると思うけど。
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八束:位相が違うと言う話が出たけれども、それはそうなんですが、通底しちゃう部分もあるわけです。読み替えというか。そうじゃないと伝統とかが「表層」として付加出来ない。逆に言うと、その関係がもう抜き差しならなくなっているから、近代的な「伝統」の創造というかでっち上げ―英語でいうfabrication―が起きるわけです。
『思想としての』で書いたし、『生政治』でも少しだけ触れていますが、レイナー・バンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』28で(ただし邦訳はかなり問題があるので原文で読むことをお勧めします)、こういうことをいっています。ボーザール末期の先生で、教科書というか百科全書的な、それこそ「建築計画学」みたいな本を書いたジュリアン・ガデ29という人がいますが、彼はプランのタイポロジーを一生懸命教えるわけです。それに関しては、ボーザールにはデュラン30以来の伝統があるからね。で、一方立面に関しては、学生諸君の好きなようにすればいいという。つまりどうでもいいといっているわけで、もはや様式とか表象とのつながりとかは殆ど意味を失っているということです。ボーザールというと様式的な外観ばっかりの建築とか思われがちだけど、そうではない。バンハムはこれと同時期のボーザールの絵画理論をやっていたシャルル・ブランの、問題は何を描くか、ではなくて如何に描くかだ、という議論と結びつけている。つまり様式の根幹にあって、絵画の貴賎にすら結びついていたジャンル論とか画題がこれまた意味を失墜している。ならば仮に題材とか対象とかがあったとしても、かりそめのものでしかなくて―だからセザンヌとかは、日常的で卑賤な静物画をわざと描くわけですが―、そうなると、抽象画とか機能主義建築は、もうそこにあるというわけです。概念的な折り返しといっても良い。装飾の忌避なんかより前に。ま、こうした教えが当時のボーザールの学生たちにどのくらい伝わっていたかはまた別の話ですけど。さっきいった伏流の一つではある。
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青井:そうです。『第一機械時代の理論とデザイン』の第一章ですね。未来派やデ・スティルよりも先に、アカデミーの伝統的な表象論の下部で、構成論がつくりあげられていたという。あの章が一番面白い。
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布野:デュランの建築類型は基本的に平面類型で、立面はどうでもいい、様々な様式を選択するというのがボーザールでしょう。神社の場合、〇〇造と呼ばれる形式は、それ自体、建築類型として成立してきたわけですよね。
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八束:先ほど布野さんが言った形態のシステムと空間システムの分離と言うことですよ。◯◯造と言う様式は、本来それが一体だったのが、近代では、ガデの議論みたいにはがれ落ちていく。
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青井:さっきの、明治神宮以後はぜんぶ流造になっちゃいましたという話は、あくまで新しくつくる神社の話ですよ。既存の本殿はたいてい尊重します。古社の場合はもちろん保存ですね。でも、そういった場合でも幣殿・拝殿以下の人間の礼拝空間や、その他の施設は、たいてい角南隆体制以降につくりなおされています。意外に気づきにくいのですが。自然だから。これも「折り返し」の問題ですけどね。各神社の固有性みたいなものは、逆にいえば一般的な共通基盤の上にある特殊性という枠に閉じ込められちゃうんだと言ってもいいです。共通基盤というのは、帝国全土にわたる同一の形式論理といってもいいし、もう少し具体的にいえば、環境を組織する構成論ということになる。
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八束:固有性と見えるもの、つまり「様式」は、いうならば社会に流通させるための仮面でしかないということでしょ、もはや。社会あるいは大衆は仮面を要求するから。ボーザールの様式的ファサードも、角南が確信犯的に残した流造もそれです。でも普及性を考えたら、それだけでは不足であって、透明な、つまり応用可能性に対して開かれているシステムが不可欠で、角南にとっては、仮面はアリバイでしかなかったということでしょう? ただ、神社という特殊なプログラムでそうだとして、そうじゃないプログラムに関してはどうなんですか?
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青井:どういうことですか?
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八束:いや、例えば「生政治」というのは、明らかにそういう話に対応していることなので。あちらの本で言うと、フランスなんかの植民地都市の話で同じことが起こっている。様式は表層であって、その背後にあるシステムは交通とかゾーニングとか殆どCIAM的なもの、つまり「透明なシステム」が出ているんです。更にフーコー的な「生政治」だと、病院とか監獄とかの施設の計画論になっていくので、その辺は実に重要なはずです。というわけで、今の話はとっても面白かったけど、あえて注文を言うとすると、そこだけに留まってほしくないなと、青井哲人には。
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青井:そこは今後の課題ということでご勘弁を(笑)。
o 23. 角南隆(1887-1980) 日本の建築家。1915年東京帝国大学卒。1919内務省神社局技師。その後1940年には内務省の外局として独立した神祇院の造営課長となった。
o 24. 藤田大誠・青井哲人・畔上直樹・今泉宜子編著『明治神宮以前・以後−神社境内をめぐる環境形成の構造転換』(鹿島出版会、2015)
o 25. 井上友一(1872-1919) 内務官僚。1908年より内務省神社局長。1915年明治神宮造営局長兼任。同年7月に東京府知事となるが19年病死。
o 26. 上原敬二(1889-1981) 日本の林学者・造園学者。東京帝国大学にて森林美学等を学び、神社境内林の研究で博士学位取得。明治神宮造営にも関わり、『神社境内の設計』(嵩山房、1919)を著して神社境内の設計に大きな影響を与えた。
o 27. 1942年に建築学会が主催した設計競技「大東亜建設記念造営計画」での一等当選案のこと。富士山麓に「大東亜道路」によって東京と結ばれた「大東亜建設忠霊神域計画」を計画。この「忠霊神域」は機能的にも空間的にも護国神社を通ずるところがある。
o 28. Reyner Banham(1922-88) イギリスの建築評論家、美術史・建築史家。Theory and Design in the First Machine Age, 1960(石原達二・増成隆士訳『第一機械時代の理論とデザイン』1976)およびLos Angeles: The Architecture of Four
Ecologies, 1971などの著作で知られる。
o 29. Julien
Guadet(1834-1908) フランスの建築家。ボザールボーザールにおいて建築構成論を講じる。L’Elements et Theories del l’Architecture, 1901(建築の諸要素と諸理論、全五巻)を残した。
o 30.
Jean-Nicolas-Louis Durand(1760-1834) フランスの建築家。エコール・ポリテクニーク(フランス国立理工科学校)で講じられた「建築概論」が近代的な建築構成論の先駆と評価される。丹羽和彦・飯田喜四郎訳『建築講義要録』(中央公論美術出版、2014)を参照。
建築史の東と西
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八束:その辺は西欧をパラレルにすると見えてくるところがあると思うよ。『生政治』はそういう目論見の一つなんだけど。それを前提にして、ちょっとだけ憎まれ口を言いたいんですが、聞きづらいかもしれないけどいいかな?
今の日本の建築史学の一番の問題は、理論が抜けていることだと思うんですね。西欧が日本より何でも良いというつもりはさらさらないんだけど、アメリカとかだと、部門としてあるのは「Theory&History」なんですよ。でも日本だと「Theory」が落っこちて、歴史だけになる。西欧の建築史家たちはだいたい美術史からくるわけ。だから、図面読めてないなこの人たち、と思うことが結構多い。僕はミースの本書いたけど31、ミースについての向こうの本を読むとそう思うのが多い、観念的だけの理解で。ミースみたいな対象だとそれは致命的だと思うのね。そのかわり、彼らは美術史のセオリーというのはちゃんと読んでる。多分新しい批評理論なんかも読んでいる人が多い。アメリカの東海岸の理論家なんて、鼻持ちならないのもいるけど。でも日本の建築史家にはその要素希薄でしょ? 『思想としての』では、日本に歴史学そのものがどう入っていったか、までやっているんだけど、そんなの知らなくたって、歴史出来ると思っているんじゃないかな? 日本の建築史家というのは工学部出身だから、ある程度学部で意匠をやっているし、図面を読めるのは良いと思うんだけど、セオリーがない人が多い、とくに、近代以前をやると。そうすると政治もへったくれもない。
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青井:明治大学のぼくの研究室は、「建築史・建築論研究室」という名前ですよ(笑)。Architectural History and Theory です。まあ前任の先生がそういう名前をつけてくれたので踏襲しているのですが。それはともかく、それこそ戦中から戦後すぐにものを考えた人たちの中には、相当理論的な人たちもいましたよね。井上充夫32さんとか。さっきもフォルマリズムっていう話をしましたけど、日本ではフォルマリズム批評も弱いなあと最近よく思います。
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八束:足立康33という夭折した切れ者がいたけど、その弟分の太田博太郎34さんまではそうですよ。彼らは通史を書いたのよ。稲垣栄三35さんもかなぁ。その後は教科書的なのは別にすると「プロジェクト」と呼べるような通史はない。学会にそういうのは書かせないという風潮があるんじゃないかと思う位、下種の勘繰りですけど。それと、歴史家は批評家でもなくてはならないと思うけど、この点で抜群だったのは伊藤ていじ36さんですけどね。ところが今の学会には、批評やっている歴史家は駄目だという風潮があるとすらいう。結構若い世代の研究者で。別に現代建築の批評をやれと言うんじゃないですよ、でも歴史そのものに批評的な取り組みがなかったらどうするの、という問題です。そういうのは、今の学会の大きな問題だね。悪い意味で問題機制抜きの実証主義に行ってしまった。
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青井:そのとおりですね。ただ、いちおう、学会でも僕くらいの世代は通史を書かないとまずいとか、日本建築史を英語にしていく必要があるんじゃないかという議論はしています。しかし、いつから建築史は小さくなっちゃったんだろう。
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布野:建築史学でいう実証主義というのは関野さんからですね。
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八束:貞さんの方? 息子さんの克さんのほう?37
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布野:貞さん。伊東忠太とは一歳違い(年下)で、ともに日本建築史学、東洋建築史学の父、母といわれるけれど、評価は分かれる。太田博太郎先生の講義で聞いたけど、実証性という意味でいうと問題にならないという感じだったですね。関野貞さんの年代判定の的確さは伝説だったようです。多くの場合、直感だったと聞いたような気がしますけど。伊東忠太は、建築家であり、建築評論家であり、日本建築の行方を大きく指し示す役割を担ってきた。ある種役割分担があったように思います。東洋史学についても朝鮮半島は関野さんに任せたという感じでしょう。伊東忠太は、朝鮮神宮の設計の時ぐらいしか、朝鮮に行っていない。戦後、生産史とか技術史とか意匠史とか、視点と分野が拡げられていった。井上充夫さんは意匠史、技術史、生産史は村松貞次郎38さん。
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青井:井上さんは空間論ですよね。
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布野:そうそう空間論というのを立てるし。
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八束:井上さんは、だから傍系でしょう、徹底的に。彼のは日本に元々なかった空間概念で日本建築史を記述するというものですけど、その特異さすら理解されていないんじゃないかな? 何しろ空間と言う概念は、西欧ですら、十九世紀からやっていたのはドイツ美学くらいで、基本的に二十世紀のものですから。
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布野:さっき直観と言ったけど、関野先生は単なる実証主義者じゃないとは思う。法隆寺建築論争もあるし、朝鮮半島で最も古い木造建築は何かとか、狙いは絞られていてそれなりに作業の意味は理解できる。韓国の建築史家に言わせると日本中心史観ということになるけど。
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八束:僕も関野貞さんの文章好きよ。面白いと思うよ。太田先生がそういっていたと言うのは知らなかったけれども、伊東はそれに比べたら議論はかなり粗い。粗いから色々つっつけて面白いんだけど。
それと憎まれ口ついでにもうひとつ、また一般論になって恐縮なんですが・・・日本の建築史家、近代をやっているひとですらも、そうじゃない人はもっとそうなんだけど、西洋のことを分かっていない、勉強してないと言うことが多すぎる。青井さんなんかも西洋やったほどではないと謙遜していたけれど、今日のような議論が出来るのは、十八世紀のヨーロッパの建築論を勉強していたからでしょう。
ここで名前出して悪いけど、藤森照信さんですら、西洋近代を参照する時に引っ張りだすのはミース、コルビュジエなんだよ、代名詞として。でも、あの二人は、僕はどっちも本を書いたからそれなりに知っていますが、モダニストの中でものすごく特異な人で、典型なんかじゃない。例外を典型のように引き合いに出してどうのこうのという、ここからして違うと思う。藤森さんの歴史家としての力量と人格を十分リスペクトしながら言うんだけど(いや藤森さんごめんなさい)、ああこの人は西洋モダニズムのことは、と思うの・・・。例えば、彼は様式建築のことは実によく分っている、そこは偉いと思う、僕はよく分んないから。正直、僕にはオーダーなんて、イオニアならどのイオニアも同じに見えちゃうんだけど、あの人にはちゃんと違いが分かっているらしくて、それは偉いなと思う。岩波の『日本の近代建築』で歴史主義のことを扱った節は、その意味でとても感心した。でも、藤森さん、偉いと思うけど、ミース、コルビュジエは、分かってないのに引き合いに出すなよ、ということをいいたい。あまりにもレヴェルが違うわけ、西洋モダニズムに対する理解と前近代ないし日本に対する理解の度合いが。
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布野:僕は、藤森さんに直接言ったことがあるけど、明治建築というのは西欧からみれば「二流」でしょう? 本場のものと比べるとどう評価できるのか、日本人がやるしかないんじゃないのって。近代建築については当然ですね。直接学びに行っている建築家もいるわけですから。そういう意味で僕は『生政治』にもの凄く興味持った。
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八束:ありがとう(笑)。どのへんに?
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布野:いや、それこそビオポリティクスというか、コルビュジエの生臭さに。コルビュジェのところへは前川國男が行くし、坂倉準三も行くし、戦前期から雑誌を通じて情報も入ってきていたはずだけど、八束さんが描き出すようなレヴェルの情報はなかった、知らなかったということだけどね。ムンダニウムなんてすごく面白いプロジェクトだと思う。コルビュジェ全集くらいはみんな見る。模型を作ったり、図面を分析したり、作品については詳しいんだけど、彼がどう生きてどういう政治状況でどういう動きをしたか、ということは伝えられていない。
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八束:僕は歴史家じゃないけど、野心的な歴史家ならそうすべきだと思うけどね。
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布野:こういう作業を踏まえて、初めて、1920年代、1930年代の問題を突合せられると思うわけ。本田晃子さんのレオニドフについての仕事(『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』(東京大学出版会、2014年)もそうだけど、生政治レヴェルで建築表現の問題を議論すべきなんです。
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八束:ソ連関連は、今度昔の『ロシア・アヴァンギャルド建築』(INAX,1993)の増補版が出るので、そこで生政治というよりも、スターリン期のリアル・ポリティクスとアヴァンギャルドとの関連の話を少しだけ書いた。その本田さんともそういう話をしています。これはそのまた先で、今やっている「汎計画学」につながる。生政治ということでは、さっきの青井さんの神社の話もそうだけど、「汎計画学」では基本的に経済の計画とか都市や国土の計画を議論している。『生政治としてのユルバニスム』は、そういう議論の走りでもあります。でもあの本、コルビュジエとほとんど関係ない話いっぱいあるんですけどね。コルビュジエは狂言回しでしかないので。
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布野:いやいや、それが面白い。
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八束:それはとても有り難い反応ですね、著者としては。
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布野:僕はフランス語ができないもんだから、とくにそうなんですけど。イギリスはだいたい分かる。僕はオランダのことはやったから、日本との関係もだいたいイメージはある。
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八束:じゃおことばに甘えて、そっちの方も話させてもらいます。コルビュジエの生政治と書いてあるけれど、実は連載中には生政治の生の字も出てきていなくて。
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布野:付論で書いた。
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八束:ええ、本にするにあたって付論で書いた。次の本に繋げるためですけれども。それで「コルビュジエ」もタイトルから抜こうと思ったのですよ。そうしたら本屋さんが、それじゃ売れないからダメということで残ったのですけれど、コルビュジエ論を書くつもりではなかった。だからコルビュジエが出てこない章が一杯あって、どこかで書いてありますけれど、コルビュジエ論を読みたい人には迷惑だったろうなという本です。むしろ、『思想として』で日本にやった分析を、西洋ではどうだったかということを少し広げて考えてみたのが、この本であるということはいえます。
それから政治のことが問題になっているので、『生政治』から離れて、そっちの方—むしろ生(なま)の政治—で、話を面白くするために言うと、両方の本に共通しているものがあって、それはファシズムなんだね。コルビュジエは基本的にファシストにかなり近いところにいった人で、その思想的な部分をダイレクトに継いだのが、前川よりも坂倉であると『思想としての』では書いたのだけれども。それは近代の日本的な文脈で言うと「近代の超克」というテーマで、それが戦争で負けたら、突然「民主主義の建築」みたいになっちゃうのは合点がいかないということが僕にはあったんです。
布野さんとか僕らのジェネレーションは、学園紛争の時代だから皆左翼だったわけ。布野修司ははっきり僕より左だった。布野さんとか三宅さんとかみんなそうだった。鈴木博之さんですらそうだった。僕はちょっと微妙だったんだけれど。だから世代的にもロシア革命みたいなものに対するシンパシーがあるのだけれども、その後の話で言うと左翼はあまり面白くない。日本の左翼は本当に面白くない、画一的で教条的で、というのがあって、やってみると実は右翼の方が面白い、みたいなことをこの辺をやっていて感じてはいました。右翼といっても、行動右翼とかじゃもちろんありませんが、彼らが残した問題機制は、負けちゃったからあいつらファシストという括りで放り出されて、それでおしまい。そこのところにはどうも不満があって、そいつをやり直さないとポストモダンなんてことは軽く言えないという感じはもっていました。
だけど、こういう本を建築史の人が書かない、と布野さんがおっしゃったけれど、議論したいのはそれで。
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青井:そうですよね。
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八束:僕らは、三人ともズブッと歴史に入った人ではないので、本当はそれを一番議論したいの。またまた言っていいのかわからないことですけれど(お二人こんな話に付き合わされちゃって。大迷惑だね)、僕も学会で論文の査読委員になっている、希望したわけじゃないんだけど。
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布野:青井先生が今論文集委員会の歴史意匠部門の幹事だよ。
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青井:振り分けやっているだけですけれど。
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八束:大体来るのは近代建築史ものなんですけど、僕が審査やると他の査読員と全然違うらしいんだね、結果というか基準が。全部ちゃんと見ているわけではないから妥当な議論じゃないかもしれないけれど、僕は若い人が好きだからその可能性を評価したいし、そこで展開されている仮説とかが有効なのかどうか、我々の認識を豊かにしてくれるような論考なのかという加点法で選ぶんですね。ところがそれが細かいこと言われて不採用になったりするの。減点法なんですね。再提出ならともかく。粗さがしに近い。それだと貴重な仮説が皆のものにならないじゃない? それはかなり不満がある。
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布野:こういうのはガンガンやったほうがいい。
· 八束:僕の本をあなた方読んでないでしょうとか、そんなことを言うつもりはないのだけれど、歴史家はそんなのでいいんですかという認識はもっています。僕は、学会にはコミットの度合いが極く少ない人間だから、前副会長や論文集幹事には頑張ってほしいわけ。でもいいたいこといったので、元に戻りましょうか? 閑話休題っていうわけで。ご迷惑さまでした(笑)。
o 31. 八束はじめ『ミースという神話—ユニヴァーサル・スペースの起源』(彰国社、2001)
o 32. 井上充夫(1918-2002) 日本の建築史家。1942年東京工業大学建築学科卒。戦後、横浜国立大学講師・助教授・教授。1943〜44年に、ドイツ・オーストリアの美術史学の方法に基づく日本建築空間論を発表、のちに『日本建築の空間』(1969)を刊行。
o 33. 足立康(1898-1941) 日本の建築史家。1937年建築史研究会を創立、39年より機関誌『建築史』を刊行。法隆寺新非再建論等で論客として知られたが夭逝。
o 34. 太田博太郎(1912-2007) 日本の建築史家。第二次世界大戦後の東京大学を拠点とする日本建築史研究の展開をリード。『日本建築史序説』(彰国社、1947)他。
o 35. 稲垣栄三(1926-2001) 日本の建築史家。『稲垣栄三著作集』全7巻ほか。
o 36. 伊藤ていじ(1922-2010)
日本の建築史家・建築評論家・作家。
o 37. 関野貞(1868-1935)
日本の建築史家。子息の関野克(1909-2001)も建築史家。
o 38. 村松貞次郎(1924-1997) 日本の建築史家。
建築の生政治?
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青井:いえ(笑)。じゃあ戻りますね。神社の話をしたのは、八束さんのお仕事をパラフレーズするようなつもりでした。だからその線で続けます。明治神宮はひとつの総合的な「科学」を打ち立てる実験だったっていう回想があります。当時の官僚のひとりが語っている39。じゃあなぜそんなものが必要だったのかといえば、近代国民国家という枠で資本主義社会を動かしていくうえで、例えば東京が帝国の首都になり、また大都市として多様な葛藤をはらみ、地方との間で格差が生まれるとか、植民地の社会をどう統治すればよいかとか、こうした多面的で複雑な問題を整序しなければならないという問題系のなかで神社も組み立てられたと考えた方がよい。そういう意味で言うと、『生政治』とかなり接近してきます。
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布野:廃仏毀釈をやって、近代天皇制をエスタブリッシュしていく過程で、内務官僚主導で、神社局とかが連動しながら統合化がすすめられていったという理解で良いですか?
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青井:ひとつひとつの神社が社会統合の装置であることを期待されたということです。内務省の論理です。さっきも引き合いに出しました内務官僚の井上友一は、たしか『思想としての』にも出てきますが、彼ら専門的な技術官僚が、社会統治の技術としての神社を構想していきます。明治期の神社って、けっこう境内に露店があったり、派手な庭園があったりしたんですけど、そういうものを排除して常緑広葉樹林にして、神聖性をつくり出していく。あるいは、清浄な環境を保ちながら同時に地域住民が使える運動場や公園を境内の一部に取り込むようなゾーニング手法が開発される。郊外開発が進むなかで、地元住民と新規住民の融和を図る必要に迫られた地方有力層が神社境内の整備に取り組むなんて例もあるし、もちろん植民地社会の統合だって神社を通して試みられる。神社が万能ということじゃなく、あくまで政策の一部分ですけど、それでもこういう見方をしておかないと間違います。戦中期になれば、戦争動員にもつながる集団参拝なんていう全体主義的なイベントが神社境内で行われていくわけで、その環境の機能性もイメージも重要だったはずです。
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布野:神社の架構形式や空間構成、その表象に留まらず、神社が立地する場所、取り囲む環境、そしてそこで行われる祭礼、縁日といった全てが社会統合の装置として機能したということですよね。明治政府が、廃仏毀釈をやって、近代天皇制をエスタブリッシュしていく過程で、具体的に設計を担ったのは内務省神社局だったという理解で良いですか?
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青井:そうですね。トップダウンのわかりやすい政治だけではなくて、生政治として、わたしたちの生を構造づける仕組みをどうつくっていくかという。気づかないうちにいつの間にやら働いている、わたしたちの一見自由な行動やら感覚やらを規定している、そういうシステムをどう組み立てるか、ということがさっきの内務省の問題。
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八束:いまの青井発言は、とてもフーコー的な総括だったね。生権力論としてフーコーが書いているのは、国家というものの権力が近代では匿名化していく、つまり昔は国王の身体みたいにきわめて有名性があったものが、だんだん匿名的な機構になっていく。そこで最終的には人間の死のみならず生までコントロールする、ということなんですね。健康、福祉から刑罰に到るまで。日本ではフーコーの受容というのは、生政治の中でも、監獄とか刑罰の問題とか如何にも権力行使的な局面だけに引きずられがちなんだけど、実はもうちょっと日常的な施設の問題、今、きわめて特殊な神社の話を取り上げられたけど、そういう匿名、透明かつ匿名的な秩序というものが、形作られていくのが近代なのよ、というはなしだよね。最近流行っているレッシグの「アーキテクチャー」というのもこれと似ていますが40。
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青井:そうです。布野先生とやや話が噛み合っていないように思われるのは・・・、たとえば「帝冠様式」の評価を例にしてもよいと思います。つまり布野先生は、帝冠様式はファシズム様式である、ファシズム建築はあった、という話で括ろうとされる。それに対して井上章一さんは、なかった、という41。まったく対立しているけれど、二人に共通しているのは権力観が古典的だという点なんです。「生権力」という概念は、近代の権力ってのはそういう話じゃ済まない、という話ですよね。
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八束:まさにね。重要なのは、権力を自分の向こう側にいる抑圧的な力とだけ取らない方がいいということですね。取ってしまうと抵抗するか、帰順するかの話になってしまう。左翼の問題設定はそれなんだよ、基本的に。だけど、それではリアル・ポリティクス、つまり表層のポリティクスに過ぎなくて、もっと深層の、ある意味無意識に近くすらある、生政治的な次元を見落としてしまう。
井上は、権力とか軍は様式コントロールとかはやっていないという。それはそうだと思うけど、その指摘で収めては何もならない。今度出た本42で、彼は、藤森や八束は前川をファシストだったというが、そんな位置づけは自分の方がとっくにやっていた、と書いているけど、そういう話じゃないんだよね。そもそも僕は前川を時流にすり寄った建築家として貶めようとしたわけじゃない。むしろそういう発言にも彼の誠実さを見ようとすらしたわけ。ファシスト呼ばわりをしたというだけで問題が片付いたと思うのは間違いよ、井上はそういう軸でしかモノを見ないけれども。
僕は布野修司の前川擁護論は、心情としては良くわかるし、シンパシーもあるんだけど、それだと前川の当時のアンビバレントな問題提起の核心をかえって消してしまうと思う。坂倉や丹下はもっとはっきり、そういいたければ「ファシズム寄り」で、その分僕の本で書いたようなル・コルビュジエ像に近い。さっき左翼はつまらない、右翼の方がといったのはそういう意味です。もちろん右翼一般とかじゃなくて、近代を乗り越えようとした人たちのことですけどね。前川の戦中の多分にファシズムに接近した資本主義批判と後年のリージョナリズムは、実は同じ根をもっていると思う。「近代批判」としてね。『生政治』ではコルビュジエのそこの部分は書いた積もりです。
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布野:日本ファシズムは、帝冠様式を、ナチス・ドイツは新古典主義を、イタリア・ファシズムはフラットルーフ、国際様式を、それぞれファシズム様式として強制したというレヴェルであれば、様式選択主義の問題であり、一般的にキッチュの問題といっていい。帝冠様式については、「新興建築家」たちが、伊東忠太でも、問題にしていなかったわけでしょう。しかし、帝冠様式に関連しては、屋根形式、屋根形態のシンボリズムのもつ力をまず認めないといけない。屋根のシンボリズムのポリティカルな利用は、地域を超えて遍在している。もう少し一般的には、建築の表現力、メッセージ力を担う大きな要素となるのが屋根の形態ということがある。屋根形態は、しばしば、あるいは常に、地域や民族、様々な集団のアイデンティティに結びつけられる。それが、自主規制であれ、なんであれ、強制力をもって作動する状況が問題となるわけです。ファシズム体制に協力することと勾配屋根を載せるということが密接不可分であると強制力をもって内面化される状況ですね。
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青井:それを、僕はさっき相対化したつもりなんです。神社の話で。
図9
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布野:相対化とは? 帝冠様式については、続いて、その「併合」的手法が問題になる。折衷というか、構造と屋根を切り離す、というか、鉄筋コンクリートの躯体に神社仏閣の屋根形態を関する手法の問題ですね(図9)。キッチュの手法といっていいと思いますが、これをどう評価するか。神社の諸形式に1つの透明な空間システムを導入する方法とは違うわけですよね。
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八束:どうなんでしょう? それは結局そんなに違わないような気がする。二重構造になっていると言う意味では。帝冠様式でも相対的に近代的なオフィス建築というRCのビルディング・タイプは成立していたわけで、それあっての屋根でしょう?
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青井:流造の選択にはシンボリズムは期待されていない。期待しなかったところが新しい。まあシンボリズムを完全に消せるわけではないけれど。
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八束:そうですね。帝冠様式では、逆にそのシンボリズムがあからさまに期待されたし、そこが如何にも古かったことは確かに間違いない―誰がそれを期待したかはまた別の政治問題ですが。このあからさまぶりが、布野さんの言うキッチュたる所以で、二重の構造の癒着の仕方があまりにも「木に竹を接ぐ」式だった、つまり、先ほどのボーザールと同じで、もはや剥げ落ちかかっている様式を逆に強引にかぶせたと言うだけのことでしょう。
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青井:でも、重要なのはそれよりもう一枚下のところではたらくシステムを見ることです。流造は「天皇—国民」関係をニュートラルで公共的なものとする近代の社会システムに適合的な形態を選ぼうとする判断によって選ばれている。そういうレヴェルの話をしなければファシズムの話も出来ないでしょ、ということです。たしかに、屋根のシンボリズムとかそういうもので動く政治はあります。それは認めますが、その下ではたらく政治のレヴェルもあって、両方見ないといけないっていう話です。
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八束:生政治はそこに行く、と僕は思うんだけど。権力がワンウェーではないというところがフーコー権力論の面白いところであって、権力がシンボリズムを通して民衆をコントロールしているというだけの話ではない。権力と言っても実際には個々の官僚とかが条文作るわけで、彼らだってそれを通してコントロールされている自縄自縛みたいなところがあって、権力の主体は、少し前の左翼が肩いからして「国家権力」と叫んでいたみたいに我々の外側にあるんじゃない。むしろ遍在している。僕らの中にもある。しかし個々の生権力の発動が近代のシステムに寄り添っていくには、ある種のメカニズムが必要だということでしょ?
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青井:そうですね。そのつもりなんですけどね。
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八束:それはリアル・ポリティクスとはまた異なる高度な意味での政治論であって、それを生政治というわけですよ、フーコー的には。ただそういうことを意識している建築史家が今の日本にどのくらいいるのかっていうと、多分、今の青井さんの議論が受け入れられるとしたら、逆にそれが神社だから、つまり神社は間違いなく建築史の領域だから、それについて言っているのはいいじゃない、良くわかんないんだけど、という評価になるんじゃない?
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青井:それはどういう意味ですか?
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八束:もし一般化すると、フーコーの権力論みたいにもっと抽象的なセオリーになっていくから、そんな話はもうどうでもいいということになるんじゃないかということ。そこが今の日本建築史の貧しさなのではないかと。分からないのは放置してしまう。
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青井:そうですかね? それこそ建築計画学の施設論なんかの議論も基本的に一緒ですよね。そういう話は割と90年から2000年の間にやられた気がする。ビルディング・タイプと権力の問題とか、空間がどのようにコントロールされているのかという話は一応やられたんじゃないですか。
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八束:僕はやりつくされていないと思うよ。だから計画学を重視するんだけど、今の青井さんのいい方ですら、ワンウェー権力論のきらいがある。十分に生政治的じゃないと言うことですが。
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布野:ビルディング・タイプという場合、土地のかたちに規定される建築類型を一般的に考えるんだけど、施設=制度=インスティチューションinstitutionを考えればわかりやすいのかな。施設のあり方は全て法律によって裏打ちされている。施設の形態、空間のあり方によって、われわれは権力によってコントロールされている。老人ホームとかデイケアセンターは財政的に持たないから厚生労働省は「在宅介護にしましょう」といって法律を変えて、新たなコントロール・システムを構築する。ることになる。
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八束:制度というのはせめぎ合いで出来るわけですね、本当は。条文として書かれたものだけが制度ではない。法律によって裏打ちされているといわれたけれども、単純な上意下達で出来るだけではない。それもあるけど一部でしかない。今の話で言えば、厚労省は作っているつもりかもしれないけれど、作らされている面もあると言うことですね、生政治的に言うと。施設論で重要なのは、福祉施設にせよ、たとえば病院でも教育でもいいんだけれど、そこでサーヴィスを受ける人たちというのは自明な存在ではなくて、社会のまなざしによって作られている。決して一様でも不変でもない。
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青井:そうですね。往々にして二階建て構造で補完し合っているような気はします。つまり屋根みたいな話は、インスティチューションのレヴェルの話を隠すように働くのではないですか?
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布野:そう。青井さんの言ってることは大体理解できたけど、帝冠様式に戻るけれど、景観のコントールの問題がわかりやすいと思う。「勾配屋根にすること」なんて規定がそこら中で定められるけれど、高層マンションでもなんでも屋根さえかければOKということになる。どういう空間がどれだけどうつくられるかは問わない。思考停止ですね。権力の空間コントロールの意志は、制度として貫徹されていくことになる。屋根は問題ではない、近代的な空間システムを実現しないといけないと思った近代建築家は、帝冠様式に対してどういう対処をしたのかということですよね。1930年代に。それはプレッシャーだったのか、それとも大した問題じゃなかったのか。例えば、磯崎さんは屋根架けるのは嫌なわけですよ。あるいは、谷口吉生さんが絶対に屋根を架けたくないというのは一体何なのか。様式が内にあるのか、外にあるのか、という話なのか、建築家に一貫するものは何かというレヴェルの話もあるでしょ。
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八束:僕は自分でも設計をやってきたから、デザイナー生理として斜めの屋根はかけたくないというのはわかる。けれどそのレヴェルでやっていると、議論としては様式論の表層の下には分け入っていけない。メタ議論かもしれないけど。だから、今の布野さんの問いに答えるなら、屋根のあるなしは大した問題ではないということになる。表層的なデザインとかシンボリズムより底流に本当の問題、つまり生政治がある。というか、そこまで見ないと、たとえば角南が社会にビルディング・タイプを流通させるためにつくったアリバイ以上ではない様式のところで認識が止まってしまう。
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布野:木造で勾配屋根を架けるのは、極めてラショナルなアプローチであって、とにかく勾配屋根は駄目だという、いくらなんでもそんなレヴェルの議論ではなかったことははっきりしている。前川國男も「私の・・・主張せんとする所は決して所謂「屋根の有無」と云った枝葉な問題ではない」43日本のモダニズム建築は果たしてそんな薄っぺらなものであったのか、ということなんです。
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八束:それはそうよ。丹下さんの戦中の議論はそうですもん。日泰文化会館の案とか、戦後の自邸だってそうだし、木造建築だったら「屋根」をかぶせるのに躊躇いはない。
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布野:屋根のシンボリズムということと様式選択主義の問題は分けたいんだけど、ポストモダン建築を単なるスタイルの問題のレヴェルで論うとすれば、同じレヴェルで接続してしまう。近代とは何? 近代が実現しないのにポストモダンなんてことになる?
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八束:形態的にも、丹下さんは「大東亜」の屋根を東京計画の海上棟やWHOのコンペ案で復活させ、代々木やカテドラルに結実させる。帝冠様式も衛生陶器のような近代建築も同じようなものだと言う有名な断言があるでしょ。表現=様式論としたらあれは凄いよ。そういえば、明治神宮の再建44の時に、耐火を考えてコンクリート説が出た時に丹下さんの師匠の岸田日出刃は木造説を唱えましたね。あれは岸田もモダニストだったと言うことだと思う。ただ坂倉や丹下のような造形力はないから、1939年のニューヨーク万博の日本館でそのまんまの神社をやってしまった。
コンクリートだから合理的とかモダニストとかというのじゃないし、木造だからモダニストではないとか合理的ではないとかいう論理は全くのナンセンスです。今ポストモダンを持ち出したのは分かりやすいと思うけど、さっきの青井さんの議論で言うと18世紀的なカラクテールの議論に先祖帰りしているというところはあるでしょ? それはそれでもちろん社会的流通性はあるんですよ、布野さんが言うように。だけどそいつを透明化して脱色化したところに広い意味でのモダニズムというか近代があるとすると、あっさりとプレモダンな屋根のシンボリズムに返されるのは具合が悪い。下部構造の話を見なくちゃ、ということですね。
o 39. 宮地直一(1886-1949)の回想(「明治神宮御造営の由来を語る」『明治神宮叢書』第17巻所収)。宮地は神道学者で内務省神社局(神祇院)考証課長として、造営課長の角南隆と双璧をなした。
o 40. ローレンス・レッシグ『CODE VERIOSN 2.0』(山形浩生訳、翔泳社、2007)。レッシグは憲法学者。人の振る舞いを規制する仕方に、法、社会規範、市場、アーキテクチャーという四つの態様があるという。
o 41. 井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク−大東亜のポストモダン』(青土社、1987/『戦時下日本の建築家−アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日選書、1995)。
o 42. 『現代の建築家』GA2014
o 43. 前川國男、「1937年巴里萬國博日本館計画所感」(『国際建築』、 1936年9月号)
o 44. 明治神宮の創建社殿(伊東忠太ら、1920竣工)は、楼門など一部をのぞいて空襲で焼失。戦後復興事業は角南隆が指揮をとって1958年竣工。外からは分かりにくいが、本殿から拝殿までの中枢部分は大幅に改造されている。
社会と政治
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青井:神社の話をしたので、今日はもうその線でいきますが、形態の問題だけじゃなくて神社を主導していた内務省の論理としては、やっぱり地域共同体をどのように組み立て直すかという課題があった。これは神社だけじゃなくてもっと広く考えてもよいのですが。とにかくヨーロッパでは19世紀末までに組み立てられてきたコミュニズム、コミューナリズム、ミューチャリズム、アナーキズム・・・
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布野:全然違うじゃない、コミューナリズムとアナーキズムと・・・熾烈な理論闘争があって、分裂分派、離合集散というのは政治状況のなかでありうるけれど、原理、原則、理論の根拠というのはそれぞれの党派にあるんじゃないの。
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青井:あ、いや同じだということじゃなくて・・・まあ意外と互いに短絡する面もあると思いますが、それはともかく、ほかにもサンジカリズムとか、19世紀的自由放任がもたらした矛盾に対抗的に組み立てられた多様な社会思想が、日本にも都市化の趨勢のなかで大正期くらいになるとかなり流れ込んでいただろうと思います。神社の話もそういうところに関係づけていく必要があると思ってます。
ちょっと話は変わるのですが、2011年3月11日の地震・津波をきっかけに、昭和の三陸津波のことを調べ始めたら、その復興がサンジカリズム(組合主義)的なアイディアで組み立てられているんですね。前史として、農山漁村の経済更生運動というのがあります。1929年に世界恐慌がありますよね、そのあと飢饉が続いて農村漁村がみんな疲弊しているなかで、なんとかそういった社会を一つ一つ自立した経営体として立て直そうという議論が農林省などであるわけです。その延長上で、産業組合法という法律を使いやすいものに改訂し、各村落で組合を設立させ、そこに国から融資を落として自力更生させる。このスキームを、1933年の昭和三陸津波の復興に活用しているんです45。
どうやら三陸津波の復興が、産業組合による農山漁村の自力更生運動の実験場として使われたという感じが濃厚にある。そんなこともやっぱり、従来の歴史では見えていなかったと思うのですが、都市計画や農村計画など、空間をどのように編成していくのかという問題系のなかに、結構そういうものは流れ込んできているんだろうし、日本も無縁ではないなと思いました。
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八束:面白いね。それこそまさに生政治よ。サンジカリズムは、僕の本でも書いていますが、かなりファシズム寄りになり得るからね。でも、3.11以降ではそういうことはなかったんじゃない?
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青井:そうですね。サンジカリズムも含めて、19世紀後半の多様な社会思想は、長谷川堯さんが1970年代に評価していますが、それも八束さんが書いているとおり、その思想だけをユートピックに取り出すのはなかなか難しい。官僚だってそういうものを勉強しているし、1930年代にはテクノクラートが自覚的に社会政策ツールとして利用できる段階に入っているからです。
で、3.11以後はむしろ、戦後の開発主義国家の顔が露骨に出てきたというような感じがしています。組合の論理みたいなものは戦後は段階的に骨抜きにされてきましたね。企業主義的な開発主義とか、自民党的な利益誘導型政治とか、そういうものをベースに、高度成長以降の産業の体制みたいなものを噛み合わせたのが、戦後の災害復興スキームをつくっている、とぼくは考えています。たとえば被災者は避難所から仮設住宅に移住させて、そのあいだに被災地の基盤整備をやり、復興住宅をつくって・・・というようにマッシブな公共投資が前提になっている。そのあげくに今日の過剰な復興体制ができあがってしまったというようなことも、歴史的に整理しなければならない課題です。
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布野:社会主義思想の日本への移植の過程については、歴史的な議論が必要ですが、ロシア革命以降、コミンテルンの結成、日本共産党の結成といった共産主義運動の流れと産業組合法という形で取り込まれるサンジカリズムの位相は区別すべきですね。
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八束:日本への移植に限らず、ソ連でもレーニンの生前にもそういう議論は盛んにあります。党か労働者かみたいな46。翻ってル・コルビュジエはかなりサンジカリズム寄りです。あれは右にも左にも受け入れられやすい思想だから。
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布野:三陸津波の後の動きについては興味深い。近代日本における東北というのは、日本の近代史の大きな焦点ですね。戦後もそう。
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青井:もちろんそうです。第一次大戦とロシア革命のあとに、八束さんの『生政治』でいえばテクノクラート主導が急速に強くなり、国家コーポラティズム的なものが構築されていくのだと思います。
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布野:昭和戦前期に、建築界は東北に行きますね。同潤会の調査が行われる。生活改善をスローガンに、今和次郎とか高山英華とか出かけるわけです47。そうした動きもちゃんと位置づける必要がある。
図10:高山英華による漁村計画ダイアグラム(東北地方農山漁村住宅改善調査報告書 第3巻、1941)
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青井:そうですね。高山英華は漁村をやっていますね(図10)。
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八束:東北の農村は、2.26なんかの兵士の出身地ですからね。
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布野:建築界、建築学会全体が15年戦争期にどう国家総動員体制に巻き込まれ、その中でそれぞれがどういう動きをしたか、しようとしたかですね。敢えて言えば、それに学ぶ必要がある。書かれた記録をもとに、建築運動とかスタイルに焦点を当てて歴史は書かれるけれども。
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八束:だから、さっきから言っているけれども、モダニズムをスタイルだけ議論するのはやめましょうという話で、だからこの本でもコルビュジエが出てきたり出てこなかったりするわけ。
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布野:それはそうなんだけど、建築の問題としては、表現の問題を問うべきなんだと思う。様式とか屋根のシンボリズムとか、設計者は口実にして線を引いたりするから、説明しなければならないと思う。空間の編成の問題としては、それこそ世界を問えばいい。
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青井:布野先生は同時代建築研究会とか昭和建築研究会のころに、30年代後半に左翼的なものと右翼的なものが合流するというようなことも議論されていましたよね。全体主義はいわゆる「建築」とか「様式」の話よりも、むしろ帝国中の漁村とか農村みたいなところの社会経済的な構造やら、生活の隅々までそれなりに浸透しつつあった。そういうことがようやく歴史として見えるようになりつつあります。
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布野:右翼、左翼が合流するということはそう珍しい話ではないと思う。体制の変革という点では多くの場合一致する。その議論は丁寧にやったらいい。今日は、ちょっと時間が足りない。「建築」や「様式」の話ではなく、社会経済的な構造、生活の隅々までそれなりに浸透しつつあったということは、昭和戦前期を生きた建築家は自ら身に染みていたわけで、僕らの世代は直接話を聞く機会があった。要するに親父あるいはその一回り上の世代のことですね。ようやく歴史として見えるようになったという視点は、現代の問題に接続させる必要があるんではないか。現在社会経済的な構造、生活の隅々まで浸透しつつある問題と建築の問題の関係をしっかり議論すべきではないかということです。
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青井:さっき長谷川堯さんの名前をちょっと出したのですが、そのへんに関連して僕から聞きたいことがあります。70年前後に「近代」というものがどのようにとらえ直されようとしていたのか。新建築別冊の『日本近代建築史再考:虚構の崩壊』(1974)なんかの問題設定は、大学院時代に最初に読んだとき、いかにも単純すぎではないかと思えたんです。だけど、長谷川さんの70年代の三部作はとても迫力があるのも事実で、とくに『都市廻廊—あるいは建築の中世主義』(1975)がぼくは好きです。19世紀後半の多様な社会思想を執拗に取り上げながら、自分の立場を確認する作業を書き綴るような文体です。でもやっぱり長谷川さん的な「中世主義」、あるいは内面主義というのでしょうか、そういうものに適合するものだけを集めようとする姿勢は明瞭で、そこで扱われた思想は国家が利用することだってできてしまう、そのあたりの難しさというものはかなり落とされてしまっているように思えます。布野先生はこういう長谷川さんの仕事をどのように読んでいましたか?
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布野:長谷川さんとの出会いについては何度か書いてるし、書評も書いてる48。そもそも、1981年に、初めての論考『戦後建築論ノート』(相模書房、改訂版『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(れんが書房新社、1995))を出すんですが、その中で長谷川堯の歴史評価についてかなりのスペースを割いている。長谷川堯の近代建築批判の内容には大いに共感しながらも、歴史を遡るだけのように思えたその方向性には不満だったんです。長谷川堯さんは同郷(出雲)で、同じ丑年でちょうど一回り上なんです。知り合ってしばらくした後、僕が大学院の時に月尾嘉男さんのところで丹下さんの松江のプロジェクトの手伝いをしていたと言ったら、けしからん、と言われたことを覚えてる。
最初に会ったのは『神殿か獄舎か』(相模書房、1972年)が出た直後だったと思う。当時、僕らは東大建築学科の製図室に屯していて、「雛芥子(ひなげし)」(杉本俊多、三宅理一、千葉政継、戸部栄一、枝松克己、久米大二郎など)を名乗って、黒テント(佐藤誠、津野海太郎、佐伯隆幸、・・・)や大駱駝館(麿赤児・・・)のプロデュースをしたり(緑マコ主演『二月とキネマ』、安田講堂前)、ドイツ表現主義の映画会や演奏会、講演会などを連続で開催してたんです。誰かが「長谷川堯は面白い!」といい、講演を頼みに連絡をとり、新宿歌舞伎町の喫茶店で会ったのが堯さんとの初めての出会いです。結局、『神殿か獄舎か』に全精力を使って疲れ切っているという理由で講演は断られたんですが、渡辺武信さんを代わりに紹介してもらったのかな、初対面の記憶は今でも鮮明です。
『神殿か獄舎か』のわかりやすさは、そのタイトルの二分法にある。近代建築を主導してきた流れを「神殿志向」と規定して全面批判し、建築家は本来「獄舎づくり」だ!と説くわけです。要するに制度の中で仕事をするのが宿命だという。続いて出版された『都市廻廊』『雌の視角』も同様で、中世か近代か、「雄」49か「雌」か、という明快な二分法が論法の基本ですね。単純といえば極めて単純。
「昭和建築」を近代合理主義の建築と規定し、「大正建築」を救う、という長谷川堯の歴史再評価の試みには大きな刺激を受けたんです。1976年の暮れ、堀川勉先生、宮内康さんとともに「昭和建築研究会」という研究会を設立したわけですが、「昭和建築」という名に影響が示されています。要するに、「昭和建築」を全面否定するのではなく、その中に可能性を見いだそうという対抗意識があったわけです。「昭和建築研究会」は、まもなく「同時代建築研究会」と改称するわけですが、「昭和」vs「昭和」の二分法に包摂されるのはまずいと思ったからです。大きなテーマは、戦前戦後の連続・非連続の問題ですね。
『虚構の崩壊』というのは、長谷川さんも加わって、村松貞次郎先生、藤森さんが仕掛けるわけですが、単純というか、「虚構」とまでいうの?とか、「崩壊」何が?という感じでした。僕らはもう少し深いレヴェルで『神殿か獄舎か』を読んでいたと思う。「獄舎づくり」の伝統は遙かに長く深い流れをもっている。『虚構の崩壊』は、様式や装飾の復活を素朴に標榜するポストモダン歴史主義の流れに直結していく。長谷川堯さんの仕事は、そうした表層デザインの流れとは無縁であったと思うけれど、結局重なって受容れられていった。その後の長谷川堯さんの仕事は歴史をさらに大きく見つめ直す方向へ向かい、ポストモダニズム建築をめぐる喧騒から遠のいていくことになったと思う。堯さんは、基本的に、建築の作り手としてではなく、観賞する立場で建築をみるスタンスですね。
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八束:でも、それを外したら長谷川堯は「長谷川堯」じゃなくなっちゃうからね。
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布野:それはそうかもしれない。僕は違う、と思ったということかな。現代に、いま、ここに可能性を見つけないとしょうがない、そうでないと、と思ったということ。
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青井:だから「昭和」だと布野先生たちは考えたのですよね。例えば30年代や60年代に象徴的に現れる「昭和」に対して、「大正」をオルタナティブとして対抗的に出すのはわかるけれども、自分たちの足元は「昭和」でしょうと。その「昭和」のなかに何を見つけようとされたのですか?
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布野:一言でいうと、「戦後」の初心ですね。「戦前的なるもの」-国家総動員体制、戦時体制、日本ファシズム、日本帝国、近代天皇制・・・どう規定するかが問題となるわけですが-に対して、敗戦を閾にして、前望されたもの、夢想されたもの-平和、民主主義・・・これをどう規定するかが議論になるわけですが-すなわち「戦後」の初心ですね。「1968年」が告発したのは、「戦後」は虚構ではないか、ということですね。「戦後」の初心が虚構であったということもあるかもしれないけれど、「戦後」の初心に照らして実現された「戦後」はまったく「戦後」ではない、むしろ、戦前戦後は否定すべきものとして連続しているのではないか、という総括だった。一方、戦後レジームからの脱却という主張は、「戦後」は古き良き「戦前」を切断し、汚したという。捻じれているようですが、結局、日本社会の鵺的な権力構造は一貫するということですね。日本の戦後が、対米従属の戦前的なるものを温存するかたちで維持されてきていることを明快に論じたのが白井聡の「永続敗戦論」ですね。
「戦後建築」の初心については、もう少し、素朴なイメージがある。『戦後建築論ノート』に書いてるんだけど、焼け野原に立って、資材も金もない中で、やむを得ず、廃材を集めて、自らの身体を使って創意工夫で家を建てた、そんな世界の実現ですね。
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八束:さっきの青井さんの発言は、長谷川堯さんをどう僕らの世代が理解していたかという質問だったので、そっちに戻ってもいいかしら? 布野さんよりも僕の方がもっと距離があるのだけど、なんせ彼は長谷川さんにインタビューに行った人だから。
僕が長谷川さんに違和感を持つのは、彼が徹底的に個人ベースで話をするということで、それはいきなり飛ぶけども、僕が最近磯崎さんに対して持っている違和感にもちょっと近いんですね。長谷川さんにとって磯崎さんは典型的な神殿づくりなわけだし、長谷川さんは獄舎のイデオローグなのだけど、二人とも結局建築家というのは個人の創造力なんだっていう話に行っちゃう、というところに違和感がある。ビオポリティック的に言うと。つまり神殿だって獄舎だって大文字の建築でしょ、と言うことですが。
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布野:両方とも大文字の建築だったら、「神殿」か「獄舎」かというディコトノミーは成り立たないんじゃないの。むしろ、建築家は全て「獄舎づくり」だと規定するところから出発する。それをどう突破するかを考えると、確かに個人の創造力には限界がある。だから、集団的想像力なのだ、といった議論をしたんだと思う。「同時代建築研究会」は、長谷川堯と磯崎新をゲストとするシンポジウムもやったよ。今は亡き赤坂公会堂で。記録も残ってる(磯崎新+長谷川堯+植田実+堀川勉+宮内康+布野修司+北川フラム「三〇年代をどう見るか」『悲喜劇・1930年代の建築と文化』、同時代研究会編、現代企画室、 1981年)。でも口も利かないという感じではなかったけど。
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八束:そらそうだろうね。大人ですもん。だけど話が通じるかどうかということは?
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布野:いや、今しゃべっている話と同じ水準で議論できたと思うけど。討論の中心は、磯崎、長谷川だったと思う。磯崎さんは、『建築の1930年代』で展開しているように、吉田五十八の新興数寄屋、堀口捨己の岡田邸における判断停止、あるいは「様式なき様式」論などに触れながら、丹下健三の戦前戦後の連続性について話したし、長谷川さんは20世紀を四半世紀ごとに区切る時代区分論を展開した上で、村野さんの「様式の上にあれ」に触れたと思う。それと建築史の空白として植民地が鍵だと指摘した。もっとも、「帝冠様式」評価を意識して、こっちが「植民地の建築」というタイトルを押し付けたかもしれない。
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八束:僕は、例えば『メタボリズム・ネクサス』はメタボリスト建築家の名前をそれぞれやって作品の名前も書いてるけれども、本当は出来るだけ、個人の名前を消したかったの。スーパ―エゴだとかアルターエゴだとか言ったのはそのためでね。コルビュジェの名前を消そうと思ったというのも同じ理由だけど、個人の創造力の問題として建築を語ることは明らかに限界があるので、もっと大きなシステムの話をやっていかないと、この問題は、結局はデッドロックに乗り上げるんじゃないかという気がしている。だから、さっきの青井さんの神社の話も面白いなと思ったんです。そうするとね、長谷川さんは権力に対抗するから「下からの」となるのだけど、上からとか下からという二項対立はあんまり意味がないという気がするんですね、個人の問題でしかないという意味で。それは生政治のレヴェルに達することはない。要は様式レヴェルの話に終始してしまうということですよ、長谷川さんみたいに中世—表現主義系であろうが、磯崎さんみたいに古典—近代主義系であろうが。だからさっき、両方とも大文字の建築でしょと言ったの。「神殿」か「獄舎」かというディコトミーはその上での区別でしかなくて、その下にあるもの(つまり生政治ですが)の方が問われるべきなのではないか? たとえば、先ほどの青井さんの議論に関して、神社作りは文字通り神殿で国家に奉仕しているだろ、とかいっても見当外れな批判でしかないわけでね、長谷川さん的なアプローチではこの問題には触れることは出来ない。そういう話が、僕は思想的な問題にはなると思うのだけど、日本の建築界として建築史的な問題になっているのかというと、青井さんの議論は面白くてさすがと思ったけど、全体的に言うとそんなの関係なくやられているんじゃないか。
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青井:最近の若い建築家たちの実践なんかを見ていると、やはり素朴にコミューナリズム的なことは色々謳われているわけだし、いろんな行動にも表れているんですよね。
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八束:僕はあれ、すごくいやなんだけどね。
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青井:だけど、「いや」というだけでもダメだと思いますよ。建築家が社会との接続を考え直していることは否定すべきことじゃないし、なぜ八束さんがいやだと思うような状況になっているのかも歴史的問題ですし。
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八束:僕くらいの歳になれば「いや」で許されてもいいんじゃない(笑)? それ以下はあなた方の世代にお任せしたいわけ。
でも、ちょっとさっきの三陸地震とかの話に戻ると、その時に、いろいろ仰ったような問題意識があって、地域共同体を経済含めて再建しようという流れが国家主導であったというわけでしょ。だけど最近の若い世代の建築家たちはほんとに社会性がないなあと思っていたら、3.11以降、皆が現地に行ってボランティアをやるって言い出した。へえ、と思って最初は見直そうかと思った。でもしばらく見てると、これはやっぱりこの人たちは社会性があるから行ったんじゃなくて、社会性がないから、生(なま)の社会を見ちゃったんでそれにベタって行ったんだ、それを相対化して、例えば地域のシステムがどうとかってことを捉える視点は全くないんだっていうふうに思った。
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青井:全くないということはないでしょう。ぼくは建築家が地域の現場から、その社会的・政治的な状況に対する緊張のなかでどんな建築論を組み立て直すことができるか、ということに興味があります。
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八束:結局心情的なレヴェルでのすくい取りしかしなかった、のではないかと。生政治の末端になっちゃうけど。生(なま)政治になっちゃうと、また斜め屋根がどうとかの話しにいってしまう。
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青井:これもまた、戦後史の問題でもあるかなと。「人民」「民衆」、それにさきほどの「人間」、あるいは70年代以降の「住民」とかいったものにどうやって建築を近づけられるかという問題の系譜がある。
· 布野:問題はまだまだひろがりそうですが、そろそろ場を開きましょうか。
o 45. 青井哲人「再帰する津波、移動する集落:三陸漁村の破壊と再生」(『年報都市史研究』20、2013)
o 46. R・ダニエルズ 『ロシア共産党内闘争史』(国際社会主義運動研究会訳、現代思潮新社、1982)
o 47. 1936年、同潤会・東北更新会・日本学術振興会の共同による「東北地方農山漁村住宅改善調査委員会」による東北漁村調査が行われ、内田祥三・今和次郎・竹内芳太郎・高山英華らが参加している。高山は卒業設計で千葉県の漁村計画に取り組んだ経験もあり、この調査の報告書(1941)では、昭和三陸津波(1933)の経験も踏まえた漁村集落計画の標準的ダイアグラムを提示している。石田頼房他『新建築学大系 18 集落計画』(彰国社・1986)所収の地井昭夫「4.6 漁村計画と政策の沿革」を参照
o 48.「著書の解題―2 『神殿か獄舎か』」(Inax Report No.168)の[コラム]布野修司「雛芥子の頃」、「建築のあり方考える原点:「神殿か獄舎か」復刻」(共同通信)など。
o 49. 「雄」とは、日本の近代建築を大きく規定してきた「構造派」(建築構造学派)をいう。
質疑
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松田:まず、途中で話が出た下田菊太郎の年代なんですけども、一応本を書いたのは建築計画論は1889年、アメリカに行ったのも1889年。同年だったということです。
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布野:ありがとう。向こうに行って書いたわけではない。やっぱり、卒論かな。
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松田:はい、書いた直後に向こうに行ったということですね。それと先ほどの八束さんの書籍『ル・コルビュジエ
生政治としてのユルバニスム』について、これは僕も『10+1』での連載の時からずっと読んでいてすごく面白かったのですけども、要するに建築家が主語じゃない建築史を書かれようとしていた、という話がすごくしっくり来ました。
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八束:それは先ほどから言っているように「様式」レヴェルより下を探ろうとすると、段々そうなってくるということですね。といっても、異ジャンルでも出てくるのは大部分個人であって、近代以前を扱うアナル派50とかギンズブルグ51みたいな匿名化にはいきませんけど。あと、建築史じゃないよ、これ。僕の中では。
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松田:建築史という言い方はいけないんですか?
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八束:だって、連載時のタイトルは『思想史的連関におけるル・コルビュジェ』ですから。思想史なんですよ。
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松田:ああ、思想史ということですか。歴史というところは間違っていないわけですね。タイトルが大分変わったということもすごく印象的でした。それと、今日の話全体をお聞きして、やはり30年代が大きなテーマだったと思うのですが、青井さんがその中で地域性と普遍性についての話をされていることが、すごく大事だなと思いました。
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布野:それになるのかな、と思ったけど、あんまりちゃんとならなかったね。
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八束:そう? なったんじゃないかと思うけどな、僕は。
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松田:青井さんは、近代以降の神社建築のシステムが、普遍性をまずつくって、それを角南隆さんですか、そこに地域性を被せていくということをおっしゃっていた。つまりベースの普遍性+その上に被せられる地域性のようなかたちで近代以降における神社建築の状況を捉えられていることを紹介されていました。それに対して、八束さんがご著書のなかで書かれていたのは、もう少しその普遍と地域の関係が違っていました。それはル・コルビュジエにとって違っていたのかも知れないですけども、コルビュジエはいろんな地域に行って、そこからむしろ普遍性につながるものを見つけていったということが多分あります。アルジェリアでも、ガルダイアに行ってそこで見つけたモスクや風土の建築がロンシャンにつながるとか、ロシアで見たモイセイ・ギンズブルグのナルコムフィン・アパートメントが、今度はマルセイユにつながっていくとか、さらに遡ればイタリアのエマの修道院やパリのビストロに、最小居住単位についての原型を見ていたりとかしています。つまり、そういう普遍性につながるものを地域のなかから見つけてゆくっていうところがあって、いわば普遍性と地域性の反転みたいなものがある。ル・コルビュジエによって、ヒエラルキカルなシステムではないかたちで物事の関係が組み替えられていったともいえます。隈研吾さんも、八束さんのご著書についての書評で普遍性と地域性の反転ということを書かれているのですが、そう考えると同じ30年代でも、日本とヨーロッパで普遍性と地域性の関係のあり方が、大きく異なっていたように思います。多国家の集合体であるヨーロッパは世界が分裂していることを前提に、一方、日本は世界が統合されることを前提に、物事が動いているかのようにも捉えられ、その対照性が浮き彫りになったかたちが、すごく興味深かったです。質問というか、今日の感想です。
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布野:なるほど、今日はそういうことを話していたのか。
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八束:著者より頭のいい総括をしたね。
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布野:ほかに何か言っておきたいというひとは、宇野先生は?
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宇野:今と比べて、今日のお話はどういう位置付けるになるのか?という話しそれぞれから一言ずつ伺いたいと思います。関連して議論が重なっていたとしても、組み立てる技術や人の生活は実際は地域によって全く違います。そうだとすると、どういう表れ方をするだろうか? あてずっぽうでもいいからお話を伺えればと思います。
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八束:宇野さんが前回、あるいはその前からグローバリズムと言っているけども、それはいわゆるグロピウス的インターナショナリズムとは全く違うわけで、インターナショナリズムにはある種の推進する主体があるのだけど、グローバリズムには主体がないわけですよね。運動論じゃ解けない。今日、青井さんが地域とネーション・ステートという二つで話をしたわけで、先ほど松田さんの話があったけど、コルビュジェの場合でいうと、大体彼はスイス人だし、ネーション・ステートに留まらなくて、地中海イズムみたいのがあったりして、その地中海の中にインドまで繋がっていくみたいなところまであるから、なかなか一筋縄ではいかない人なのだけども、グローバリズムという文脈とまた違うわけで、そうなると、この本なんかで組み立てていた議論はそのままでは成り立たない。っていう話は『メタボリズム・ネクサス』の最後の方でも書いて、困ったなあと言ってお終いんなんですけど。あんまり役に立たない?
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宇野:バルチック艦隊というのが昔ありましたよね。
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八束:ロシアのね。
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宇野:例えば、あのバルト海あたりは、地中海と同じ時期に、ハンザ同盟が都市間の通商交易をとても盛んにやっていましたね。ロシアはシベリアに向けてどんどん東進して毛皮を追いかけました。毛皮をヨーロッパに持ってくると、とても高値で売れたから、それでロシアはモスクワに財を貯めていきました。この話でグローバリズムと関係するのは、例えば北欧に世界的なグローバルな企業が生まれる背景です。かつての交易のルートやチャンネルを使って、再び人が動いているように見えます。中国でドイツが強いのも、グローバリズムの中で、1930年代頃に動いたルートをもう1回辿っているように思えます。シルクロードもそう。海のシルクロードも陸のシルクロードも復活してる。そうしたこともグローバリズムを先導しているような気がしていたから、どこかでそこを重ねてお話ししていただけたらと思います。次回でもいいけど。
日本では今、殆どファンタジーの中で建築を議論している気がしています。内向きのファンタジーの回路をぐるぐる回っている。是非このお三方みたいな賢人に、穴をあけて繋いでいただきたいなという期待があります。
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八束:一生懸命、穴をあけているつもりなんですけどね、僕ら。そのうち学会という船が沈みかけるとかいう夢見ながらね(笑)。
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宇野:だから面白かったです。
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布野:青井先生、最後に今日の話を総括してください。
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青井:建築家はいま社会との関係を模索している。一方では、この間多少関わってきましたけど新国立競技場の問題なんかもあって、それはグローバリズムやネオリベラリズムの問題系にかかわっていて、建築の表現の問題、設計・生産体制の問題、コンペの問題などがなぜこんなふうになっているかといえば、それはやはり歴史的に脈略がある。被災地も新国立も、グローバル経済の展開のなかでの大きな構造の異なる現れなのだけれど、建築家の役割は全然違って、互いに分断されている。こういう事態がなぜ起こっているのかも歴史的に解かなければいけないと思います。
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八束:フーコーの生政治論は結局現代のネオリベラリズムの議論まで行っています52。十全に展開されたのかどうか僕は未だ完全に見極めてはいないけれども、「汎計画学」ではそこまで行きたいと思っている。
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青井:フーコーのその議論は政治学者がネオリベラリズムを議論するときのひとつの起点とされているようですね。建築は政治的なものだけれど、建築の言説は政治とか経済を語ることをそれほどトレーニングしてこなかったと思います。巨大建築論争のとき林昌二さんが言った「その社会が建築をつくる」53というリアリズムは、現実肯定では困るけれど、だからといって建築は万能じゃないということも重要です。建築家にできることは限定的だけど、その限定性から出発して「建築」をつくらないとだめですね。プロジェクトの背後の力学がどういう構造でどう動いているのかを把握しながら、それに対して批評的な建築的問題を設定することができないのなら、「建築」は要らないってことになっちゃいます。
それで建築史はといえば、建築家がある状況に直面したとき、過去にあった言説がそれとは意識されないまま回帰するということがよくあるので、そうなったときに、それはあの問題が回帰しているのだということをちゃんとわかるようにしておくというのが、歴史をやる人の責任かなという気がしています。同型の問題なのに、それに向き合う人の思考の深度や射程が以前より小さくなり、緊張を失い、ナイーブになっていっていくのではなく、深められ、よりよく考えることができなければいけないはずです。歴史はそういう緊張感を生み出す参照源にはなる。今言えるのはそれぐらいです。わけても戦後の、八束さんはつまんないとおっしゃいましたけども、広い意味での左派の系譜・軌跡については何とかしなければ歴史が見えにくいなあと思っています。
o 50. L'école des
Annales(Annales School、アナール学派) 1929年にリュシアン・フェーブル(Lucien Febvre,1878-1956)・マルク・ブロック(Marc
Bloch, 1886-1944)らストラスブール大学の研究者らが創刊したAnnales d'histoire économique et sociale誌(社会経済史年報)を拠点とする歴史学の新潮流。社会史的な視点、社会集団や地域世界の全体的な構造と運動の重視、学際的研究方法などが特徴とされる。
o 51. Carlo
Ginzburg(1939-) イタリアの歴史家。ミクロ・ヒストリーを提唱。
o 52. ミシェル・フーコー『講義集成』8『生政治の誕生』(慎改康之訳、筑摩書房、2008)
o 53. 林昌二「その社会が建築をつくる」(『新建築』1975年4月号)。神代雄一郎「巨大建築に抗議する」(新建築1974年9月号)への反論。これらを核とする一連の論議を「巨大建築論争」と呼ぶ(1974〜76)。
(文責 八束はじめ)
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