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2024年10月26日土曜日

書評 磯崎新『見立ての手法』,共同通信,1990

 磯崎新『見立ての手法ーー日本的空間の読解』

 熊本アートポリス展のコミッショナー、水戸芸術館の総合ディレクター、花と緑の博覧会の会場設計と、このところ、個々の建築の設計のみならず、建築のプロデュースで八面六ぴの大活躍なのが建築家、磯崎新である。その磯崎新も来年には還暦を迎える。今や建築界の重鎮だ。本書は、その最新建築論集である。

 見立てとは、仮にみなす、あるいは、なぞらえる、という意味である。古来、日本庭園の作庭の手法として用いられてきた。竜安寺の石庭で、砂が海を、石が島や山を表す、という。そんなメタフォリカル(隠喩的)な表現がそうだ。本書は、そうした、日本的な表現手法をめぐる論考を集めて編んだものである。ほとんどが八〇年代に書かれたものであり、磯崎自身の建築的関心の推移をうかがう上でも興味深い。

 建築における日本的なるものというテーマは、一九三〇年代、五〇年代と、これまで繰り返し問われてきた。みるところ、国際関係において、日本のアイデンティティーが問われる時代に、日本回帰の現象が起こっている。専ら、西欧の古典的建築に依拠してきた磯崎が、八〇年代に、日本的空間をどう捉えようとしたかは、八〇年代という時代をうかがう手掛かりにもなろう。

 ま、かつら、にわ、ゆか、や、かげろひ、と全体は六部に整理されているのであるが、まず、取り上げられているのが、間(ま)という概念である。ジャパネスク・ブームのきっかけとなった、パリにおける間をテーマにする展覧会を契機とした文章が収められている。作家論や新都庁舎論なども含まれ、雑然とした感じもあるが、桂離宮論など読みごたえがある。

 磯崎が拘るのは、徹底して、西欧人の眼で、あるいは、近代主義者の眼でみると、日本的なるものはどう読めるのか、ということだ。ひと味違う日本建築論になっているとすれば、その拘りの故にであろう。(悠)

 

 

 

 

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