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2025年2月2日日曜日

 祇園祭・山鉾町と作事方・・・京町家と建築生産組織、

  祇園祭・山鉾町と作事方・・・京町家と建築生産組織

                              布野修司

       

 はじめに

 景観コントロールあるいは景観形成の手法をめぐっては「タウンアーキテクト」制なるものを考えたいと思う。しかし、ここでは極めて具体的に京都の都心部、山鉾町の景観について考える素材を提供したい。祇園祭の山鉾の巡航する山鉾町は、山鉾と町並みとの関係において何らかのコントロールが可能である(形態規制等の制限が多くの市民によって共有される)と考える。しかし、具体的な景観を支える、あるいは再生させるメカニズムには多くの問題がある。防火規制、税制等の問題も大きいが、ここでは京町家を維持する職人の問題を提起したい。

 かって、住宅生産を担う職人たちは、地域と密着する形で存在してきた。建築職人は単に住宅生産のみならず、地域社会に対しても様々な役割を果たしてきた。例えば江戸の鳶は、町火消しとして町内の便利屋的存在であり、後世まで地つきの頭として地域に大きな影響を及ぼしたとされる。また、祭礼への参加は地域の鳶、大工などの大きな仕事であった。今日でも、飛騨の高山祭りや秩父の夜祭りといった祭礼において、山や屋台を組み立て祭りを取り仕切るのは、ほとんどが同じ町内か特定の出入り筋の建築職人たちである。しかし、地域の住宅生産システムの解体、変容が一般的趨勢となる中で、建築職人の地域との関わりは希薄になりつつある。そこで、建築生産、特に住宅生産における新たな仕組みをどう再構築するか、街並み保存やまちづくりといった課題に対して、住宅生産システム(住まい手・地域住民・つくり手・材料・部品等の諸関係)をどう考えるか、が大きなテーマとなる。

 山鉾町には数多くの京町家が残っており、その保存、維持管理、修復、再生が大きな課題とされている。しかし、現実には、木造町家に関する防火規定など数多くの問題がある。そして、具体的な再生事例で意識されるのが建築職人不足の問題である。京町家の今後のあり方を考えるために、それを支える建築生産組織のあり方についての考察は不可欠である。祇園祭においてハイライトとなる山鉾の巡航のために、山車、笠鉾を組み立てる作業は大工、鳶など建築職人によって行われてきた。その持続的関係に、地域と建築生産組織の新たな方向が見出せるのではないかというのがひとつの視点である。しかし、その実態はいささか寂しい。

 

□山鉾町と建築生産組織

 a 山鉾町の建設動向

 山鉾町の構成を、建築構造別、階数別、人口別に見ると、全体的な傾向を明快に指摘できる。中心業務地区の中でもその中心といっていい四条烏丸付近は、そのほとんどが業務用建物であり、容積率一杯に建てられる中高層建築となっている。現行の建築基準法や消防法のもとでは、木造建築の増改築、新築は困難であり、木造建築物は一貫して減少している。

 木造建築物数の多い風早町、百足屋町、三条町では、低層建物が多く、相対的に人口も多い。一方、木造建築物の少ない長刀鉾町、凾谷鉾町、鶏鉾町では、5階以上の建築物の割合が全体の70%近く占めており、そのほとんどが業務用建物である。

 10年間(198595)の動向をみると、建替率が高いのは四条烏丸の交差点を中心とした地区である。建替率の低いのは新町通り沿いと綾小路通り以南の地区である。木造建築物率の低い地区ほど建替率が高く、逆に木造建築物率の高い地区ほど建替率が低い。10年間に山鉾町内で確認申請された建築物は125件、そのうち木造建築物は20件である。全体の52%を占める64件もの建物が5階建て以上の非木造建築である。また、木造建築のうち、4件が専用住宅であり、そのうち2件が木造3階建て住宅である。用途別では、専用住宅が15件、53件が事業所もしくは店舗など非住宅系の建築物である。住機能を有するものの内でも、専用住宅よりも店舗もしくは事業所併用住宅が多いこと、共同住宅よりも店舗もしくは事業所併用住宅が多いことが山鉾町の特色である。

 b 建築生産組織と山鉾町

 10年間(188695)の125件の申請建築物の設計者を見ると、山鉾町内に事業所を構える設計士事務所数は7あり、都心4区(上京、中京、左京、東山)に43、その他京都市内に43、京都府内に8、残りの24が京都府外の設計士事務所による。山鉾町内に事業所を構える施工者は1社だけであり、都心4区に22、その他京都市内に31、京都府内に4、残りの23が京都府外となっている。

 年度ごとに動向は異なり必ずしも一般化できないが、山鉾町と設計者、施工者が地縁的な関係をもたなくなりつつあることははっきりしている。京都府内(京都市以外)に分類される設計者、施工者がともに少なく、特に施工者は他府県からの参入が多いことがそれを示している。他府県からの施工者のうち最も多いのは大阪からで全体の82.6%を占めている。残りは東京が13.0%、愛知が4.3%である。注目すべきは、相対的に見て、施工者より設計者の方が山鉾町に地域的に関係が深いことである。

 京都市内に在住する設計者、施工者の分布状況を事業者統計をもとに行政区ごとに見た場合、設計者は多い順に中京区38.7%、左京区14.0%、下京区9.7%、北区8.6%、右京区・山科区7.5%、南区4.3%、上京区・伏見区3.2%、東山区2.2%、西区1.1%となっている。施工者の場合も一番多いのは中京区で24.1%、以下、右京区18.5%、下京区16.7%、左京区11.1%、西京区9.3%、伏見区7.4%、南区5.6%、山科区3.7%、上京区・北区1.9%となっている。

 設計者と施工者も多くが中京区を拠点としている。また、下京区もかなりの高い割合を示している。これは、京都市全体の行政区別全事業所の分布とはかなり異なっており、建築産業の特性を示していると考えられる。ただ、中京区の施工者のほとんどが西ノ京や壬生といった西部地区に立地しており、山鉾町に近接しているわけではない。

 

 □祇園祭と建築生産組織・・・祇園祭と作事方

 a. 作事方の仕事

 祇園祭の山車、笠鉾の組立に関わる人々は、祭礼時において「作事方(組立方・建て方)」と呼ばれ、役職に応じて「大工方」、「手伝方(てったいかた)」、「車方」、「屋根方」、「曳方・舁方」などに分けられる。祇園祭の諸行事で建築職人を中心とする人々(以降、作事方と総称)が関わるのは、鉾建・鉾曳初、山建・山舁初、山鉾飾、山鉾巡行、山鉾解体などである。

 現在の祇園祭が一般的に山鉾巡行、宵山、宵々山の賑わいを中心とすることから、作事方が祇園祭の重要な担い手であることは明らかであるが、彼らは以下のようなさらに多くの細かい仕事を担っている。

 ・人夫集め:祇園祭に関わる細事について、人口減少と財政的な面から、1975年頃から学生をアルバイトとして使ってきたが、学生も思うように集まらないのが現状である。山鉾町ごとに保存会などを通じて、京都府以外に住んでいる人を含めて地区外から集めるかたちが多い。人々を集め、それぞれを適当な位置に配置させ、取り仕切るのは作事方の役割である。

 ・吉符入り、その他の神事:吉符入りとは神事始めのことであり、各山鉾町は収蔵庫を開いて神餞を供え、約1ヶ月に及ぶ祭の無事を祈願するほか、各種の打ち合わせを行う。その打合せに作事方の代表は出席する。また、それ以降も山鉾町の諸行事のほとんど全てに出席するのが慣例である。それぞれの行事において作事方がなにがしかの重要な地位を占めることは滅多にないが、実際には作事方が全ての面で中心となっている山鉾町が増えつつある。

 ・山鉾建て:山鉾は、その都度組み立てられ、解体される。山鉾は710日頃から建て始められ、山鉾巡行の修了した17日の夕方に解体され始める。

 ・山鉾巡行:巡行時には交代人員も含めて約3040人もの人が山鉾に乗り、さらに多くの人々がそれに従う。それぞれの役割に応じて、曳方、車方、音頭取、屋根方、囃方などと呼ばれ、そのうち作事方が担うのは曳方、車方、屋根方の三役である。

 ・山鉾解体:巡行が終わるとすぐさま解体が始められる。解体終了によって、作事方の仕事は終わる。

 この他、駒形提灯等の飾り付けや交通整理、町席内の飾り付けや巡行中の留守番といった役割を作事方が行う山鉾町もある。また祭礼時以外にも、山鉾の修理や材料、人員確保など、日常から祇園祭と作事方は関わりをもっている。

 

 b. 作事方の継承

 作事方がどのような経緯で祇園祭と関わりをもつようになったのかは様々である。最も古くから山鉾建てに関わるようになったのはE山作事方のy大工店で1928年からである。最も新しいJi山作事方のw組で1986年からである。平均で19578年、約40年前からということになる。

 d工務店は、Ki鉾・U山・Ta山・To山の4つの山鉾の作事方を務めている。過去にはJi山、Ay鉾、Iw山、Si鉾、Mo山の山鉾にも関わったことがある。祇園祭に関わるようになったのは、1952年のKi鉾再建工事からである。昭和に入って再建されたTo山・Si鉾・Ay鉾はすべてd工務店が関わっている。他にも、先祭と後祭が統合される以前は2つ以上の山鉾の作事方をやっていたというところがかなりある。

 Tu鉾作事方のe工務店と、Ya山作事方のk工務店は兄弟弟子で、ともにTu鉾の作事方をしていたという関係がある。1957年にそれまでYa山の作事方をしていた棟梁がやめ、k工務店が引き受けることになった。k工務店は、現在でもYa山の作事方もしながらTu鉾の組立にも参加している。当時は現在のように山と鉾とで組立の日が違うことはなかったが、複数の山鉾を受け持つ作事方の都合で、四条通りより南は山鉾建ての日程がずらされたという経緯がある。Ab山とTo山の作事方も関係がある。先代の頃に呉服屋に出入りしており、その縁で頼まれて引き受けることになった。また、その呉服屋が所有していた長屋がTo山町内にあったため、To山の作事方も頼まれることになった。Ko山とE山の作事方も関係がある。vさんとyさんが兄弟弟子関係でE山の山建てを行っていた。1947年にKo山の作事方がやめて以来、vさんが引き受けるようになった。修理等は現在でも両者で行っている。

 Ho山作事方のi建設は、現在山鉾の組立を行っている作事方の中で唯一同一町内に在住している。しかし代々作事方を担ってきたわけではなく、1955年頃それまでの作事方が来られなくなり、たまたま町内在住ということで引き受けることになった。Ji山作事方のw組は、当初は取り引き先であったS建設の手伝いとして参加していたが、1994年から全権を委任されるようになった。

 Mo山の山建てをしているjさんは建築とは関係ない。もともと作事方を務めていた山科の棟梁がやめてしまい、作事方を引き受けることになったという経緯である。Ka山作事方のmさんは、もともと大工をしていたが現在は建築関係の仕事はしていない。実際の組立は息子さんがやっており、大工をしているわけではない。

 Ay鉾は、1884年以来途絶えていたが、町内の人々の努力などで1979年に復興した。当初d工務店が関わったが、現在は町の人だけで組み立てており、大工その他は一切参加していない。Si鉾も1871年以降途絶えていたが、1985年に再興された。当時の会長との縁でr工務店が作事方を務めることになった。

 以上、祇園祭に携わるようになった経緯は、昭和に入って復活した四基を除くとそのほとんどが、町の人との関係ではなく、日常の仕事で付き合いのある同業者からの紹介などで引き受けるようになったところが多い。また、祇園祭の作事方はその家が絶えない限りやめることはできないとされるが、実際にはかなり入れ替わっている。

 こうした作事方の継承関係は、公的な文書の形式で残されていない。秩父の夜祭や飛騨の高山祭の場合、、屋台の建て方を請け負った工匠や彫刻をほどこした名匠の名前や系譜が残されている。京都の祇園祭でも、山鉾の主役である飾りもの系譜等はどの山鉾も残っていることを考えると、祭礼における作事方の位置づけは秩父や高山より低いといっていい。

 

 □建築生産組織としての作事方

 a. 作事方の所在地と活動地域

 祇園祭の各山鉾町で実質的に中心となって作事方(大工方、手伝方の両者がいる場合は大工方)を担っている建築生産組織の事業所もしくは代表者とその所在地をまとめてみると、都心4区に所在しているのは10事業所、京都市内が12事業所、残りは宇治市、長岡京市、船井郡日吉町、船井郡丹波町に各1事業所ずつ分布している。山鉾町内に在住しているのはHo山の作事方だけであり、その所在地は広く京都市外にまで及んでいる。作事方と山鉾町は近隣地域としてのつながりはほとんどない。

 作事方のうち198695年に山鉾町で仕事をした例は4物件、2工務店のみである。

 ・展示場 木造二階建 1993年 中京区橋弁慶町

 ・鉾収蔵庫 3階建鉄骨造 1994年 中京区菊水鉾町

 ・事務所店舗 9階建鉄骨造 1994年 下京区月鉾町

 ・物販店舗併用共同住宅 7階建鉄骨造 1995年 中京区占出山町

 以上のうち展示場と鉾収蔵庫はいずれも山鉾保存会の施設であり、各山鉾保存会の会長が施主である。しかし、他は作事方ととなっている山鉾町とは必ずしも関係ない。

 

 b. 作事方の事業内容

 祇園祭の作事方として参加している建築生産組織は、祭礼時以外の日常においては、山鉾町とはあまり密接な関係はない。作事方を務める組織の業務内容はおよそ以下のようである。

 32基の山鉾のうち、建築生産組織と関わりをもたないものが3基あり、また、複数の山鉾に関わるものがあるため、作事方に関わる建築生産組織は25である。

 事業所の創業年をみてみると、最も古いのはe工務店が1890年創業であり、a工務店の1966年創業が最も新しい。半数近くが、戦後になってから創業している。創業以前から作事方として参加しているものが8ある。

 仕事の内容としては、増改築を主体とするものが多いのが特徴である。新築が100%とするものは1だけでで、90%以上が増改築のものが6ある。また、木造しか扱わないものが全体の50%以上にものぼり、木造以外の構造が多いというものはない。建物の用途については、住宅が100%というものが半数以上ある。そのうち70%を超える事業所が、100%在来工法による。

 京都市内で活動する事業所がほとんどであるが、山鉾町内において比較的多く仕事をしているとするものが2ある。また、かっては山鉾町内で数多くの仕事をしていたという事業所が1ある。他は、当初から山鉾町内での仕事はないのがほとんどである。

 

 □祇園祭という祭礼行事に関わる作事方の建築生産組織としての実態は以上のようである。その要点は以下のようになる。

 ・山鉾町では、この間一貫して、木造住宅の建て替えが進行しつつある。確認申請計画概要書調査から、木造から非木造への転換、専用住宅から非住居系建築への転換は、はっきり跡づけることができる。

 ・山鉾町と山鉾町で建設活動を行う建築生産組織(施工者、設計者)は、ほとんど地縁的なつながりをもっていない。

 ・祇園祭の山鉾の組立に関わる作事方は、祇園祭において極めて重要な役割を果たしている。しかし、作事方と山鉾町の地縁的関係はほとんどない。作事方が祇園祭と関わり始めた歴史的な経緯は様々であるが、必ずしも地縁的つながりがもとになっているわけではない。

 ・山鉾町と作事方との日常業務的関係は少ない。祇園祭に関わる24事業所のうち、山鉾町で仕事をしたのは、10年間で4件、2事業所のみである。10事業所は都心4区内にあり、12事業所はその他京都市内、他は京都市外を拠点としている。

 ・作事方の事業形態を見ると実質1人親方の形態が5あり、全体として小規模である。また、業務内容として、基本的に木造を主とし、増改築を行うものが目立つ。

 祇園祭を担う作事方と山鉾町のつながりは以上のように極めて希薄になっている。京町家の再生、維持管理を担う建築生産組織の将来を展望する上でこの実態は極めて憂慮すべきことである。京町家街区の景観維持が焦眉の課題であるとすれば、山鉾町と関わる建築生産組織の再構築が大きな課題となる。祇園祭をひとつの梃子にするのが最も具体的と考えられるが、京町家作事組の結成など、町家再生の事例に取り組むヴォランタリーな組織の動きとともに公的な支援の仕組みも期待される。

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