『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日 布野修司
普段日記などつけない。試みないのだから三日坊主に終わるということもない。日常を省みようともせず、それを恥じない。生来の怠惰はどうしようもない。
そんな僕が、こともあろうに意を決して、『建築雑誌』の編集を続ける間、日誌のようなものを綴ることにした。
というのは嘘。日誌を書いて公開するように、というのは編集部の強~い要望である。編集委員会が何を考え、どのような議論を踏まえて編集作業を行っているのか、できるだけ生の声で伝えて欲しい、ということだ。
全くもって自信がないが、断る権利はなさそうだ。おそらく編集委員の助けを借りることになるに違いないけれど、気楽に編集「裏(嘘)話」など気の赴くままに記してみたい。
日記はつけない僕でも、海外を旅する時だけは、何故かいつも一冊のノートを持参して、見たこと、聞いたことをメモする習慣がある。殴り書きの間に領収書や名刺や電車の切符などべたべた張り付けるから、ノートは三倍ぐらいに膨れあがってしまうのだが、本棚を数えたらそんなノートが31冊になっている。ろくでもない記録なのに、何か貴重な財産のような気がしている。
『建築雑誌』の編集も、二年間のジャーニーjourneyと思えばいいのである。ジャーナルjournalとはそもそも日録, 日誌, 日記という意味である(2001年11月1日)。
回想・・・編集委員会発足まで
2001年4月25日
仙田満・新建築学会長、何の予告もなく、いきなり研究室(京都大学)を来訪。昨年、学会賞作品賞の審査委員会でご一緒し、京都に現場(西京極競技場屋外プール棟)があって度々京都へいらっしゃるとは聞いてはいたものの来室は初めて。入ってくるなり、「今度、学会長をやることになったので、『雑誌』をやってくれませんか」、である。唖然としながらも、口をついて出たのは「いいですよ。いつかはやってみたかった仕事ですから」であった。「いつかやってみたかった」というのは本音である。しかし、「学会長就任おめでとうございます」「ご苦労様です」ぐらい言うべきだった。仙田会長も「もし決まったら自由にやって下さい」という、それだけである。軽い打診に軽い応答。後は、連休中の現場見学の話と2日後に迫った京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の話が主であった。時間にしてわずか数分。次のアポイントメントがあって、風のように部屋を去られた。たまたま研究室に居なかったら・・・こんな話はなかったのじゃないか???
2001年5月7日
4月27日の京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)設立大会は大盛会。今後の成長が楽しみである。その後、連休は我が家の引っ越しの荷造りでてんやわんや。そんな中、わがチームの担当地区山科を一日調査した(5月1日)。上京する新幹線の中でようやく『建築雑誌』のことを考える。編集委員会の組閣、特集のテーマ、アートディレクションなどが頭をめぐる。ノートを一冊用意して、色々書きつけるもののまとまらない。ホントの話カイナな?と思う。かろうじて以下のメモを作成する。
編集にあたって
1 第一に編集委員会を刺激的で楽しい議論の場にしたい。出席して議論することに大きな意義を見出したい。
2 編集を通じて新たなネットワークを構築したい。
3 毎号、作業の上で議論したい。作業をストックしたい。24冊(+2冊)の編集をそれぞれの業績(仕事)としてほしい。また、常設欄など一冊の本にまとめたい。
4 学会、建築界の本質に関わる問題を常に深く考えたい。繰り返しを恐れず、テーマを深めたい。
5 分担、専門毎の編集は行わない。常に学際的、国際的、横断的な主題設定を考えたい。
6 一般にアピールできる、インパクトある内容を心がけたい。建築界をオープンに。
7 学会の方針をわかりやすく会員に伝えたい。
2001年5月8日
朝、仙田会長より電話、「正式にお願いしたい」。冗談ではなかったのである。早速、組閣を開始する。多様な眼が欲しい。外人、女性の検討をつけたい。各ジャンル、業界、官界、居住地、スクール、まるでジクソー・パズルだ。関係ないけど、小泉首相の組閣が気になる。女性閣僚は5人にもなる。外国人の眼が欲しいと考えて、オランダ建築家協会の雑誌ARCHISの海外編集委員をしているトム(Thomas
Daniel)のことを思い出した。三室戸(みむろと 京都府宇治市)の梅林克(F.O.B)のところで設計をしている。彼なら世界中の建築雑誌の編集者と連絡がある。ネイティブ・スピーカーに入ってもらえば何かと便利でもある。
まずは、京都大学の身近な同僚、大崎、石田の両先生に声をかけた。それぞれ構造分野と環境分野の人選を依頼する。彼らは共に『Traverse・・・新建築学研究』の編集委員でもあり気心も知れている。万が一の時や長期出張などを考えると左右両腕というか二人に任せればなんとかなるという信頼感がある。
ここ二年でどんなテーマが考えられるかも組閣の大きな要素となる。キーワードを挙げてみると、アジア、タウンアーキテクト、エコ・アーキテクチャー、構造改革、建築教育、設計者選定・・・いくらでも挙がる。心配はない。問題はエンジニアリング系である。それ以前に歴史家の眼が欲しい。奈文研(奈良国立文化財研究所)から鳥取環境大学に移った浅川君の顔が浮かんでメールを打った。
2001年5月17日
組閣は遅々として進まず。5月13~14日、我が家の引っ越しでそれどころではない。アートディレクションを誰に頼むかは大きい。何となく切り絵の「百鬼丸」の名前が浮かぶ。彼は建築学科の出身だ。美術評論家の高島に聞いてみようと思い立つ。彼とは『群居』で長年一緒だった。元々『日本読書新聞』の編集長である。いっそ編集委員会に入ってもらってもいい。
あれこれ考えているうちに松山巌さんの貌が思い浮かんだ。京都に来てからめっきり合う機会が少なくなったけれど、この機会に月一回会えると楽しい、などと思ったら、段々その思いが強くなって抑えがきかない。津村喬、大竹誠、柏木博、真壁智治、井出建などが蝟集した『TAU』という雑誌も思い出した。松山さんに表紙をやってもらうのはどうか、と思いついてなんとなくにんまりである。彼は自らの著書の装丁を手掛けるではないか。
2001年5月22日
京都CDL事務局会議。立ち上げたばかりであり、6月2日の京都一日断面調査(八坂神社~松尾大社)の準備で忙しい。編集委員長(図書理事)任命は6月1日ということで、組閣に身が入らない。いささか焦る。若手の作業部隊として、脇田、山根、青井、田中麻里の布野チルドレン(布野研究室OB)に声をかける。これまでの特集テーマ、常設欄の分析を依頼する。また、太田邦夫委員会で一緒であった先生などこれぞ、と思う先生方に編集委員の推薦を依頼する。
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