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2021年4月2日金曜日

現代建築家批評19  建築ポストモダニズムの旗手  渡辺豊和の軌跡

 現代建築家批評19 『建築ジャーナル』20097月号

現代建築家批評19 メディアの中の建築家たち


建築ポストモダニズムの旗手

渡辺豊和の軌跡

 

 実は、今最も気になる建築家は渡辺豊和である。実作は「黒滝外ステージ」(県黒滝村、1996年)以来、ほとんどないから、若い世代には、もうその名も知られないのかもしれない。しかし、渡辺豊和は、今猶、旺盛に書き続けている。

渡辺豊和についても、石山修武と同じように、まず、つくることと書くことの意味を考えさせられる。何故書くのか、そして、著作活動に膨大な時間を割くことにエネルギーを注ぎ続けているのか。

 もともと、建築家よりも小説家になりたかった、そう公言(高言!)するのを何度も聞いた[i]。しかし、死ぬまでにもう一作、最大傑作をつくる、と満を持しているのが渡辺豊和である。

 日本に心底ポストモダンの建築家たらんとしたのは渡辺豊和である。あるいは、渡辺豊和の畏友・故毛綱毅曠である。それにしても、ポストモダニズムの建築、あるいは建築のポストモダンとは、結局何であったのであろうか。何を成し遂げたのであろうか[ii]

渡辺豊和の作品は、結構見てきた。いつもびっくりするのは、その収まり(ディテール)に対する無頓着である。ミリ単位で面や線や隅を収めようとするセンスが渡辺には全くない。渡辺建築の迫力は、圧倒的な「空間」であり、「かたち」である。驚くのは、渡辺豊和が日本の近代建築をリードした山口文象のRIA出身であることである。

 渡辺豊和さんとの付き合いは長い。一回り年下なのであるが、不思議な縁である。初めて会ったのは、相田武文ゼミナールに講師として招かれた時のことである。5回シリーズの初回(1978年)に、同じく講師であった渡辺さんからいきなり質問を受けたことを今も鮮明に覚えている[iii]。『建築評論』、「吉岡112]」(1974年)そして「テラスロマネスク桃山台」(1977年)は知っていたから、感激でもあった。そして、『群居』同人として一緒になった。以来、もう30年の付き合いである。そして不思議な縁で、京都大学に赴任した19919月、設計演習で最初に出会った学年(2回生)が、息子である渡辺菊真である。同じ学年に平田晃久がいて、森田、山本麻子、・・・・・・・・・がいて、今彼らが活躍し始めようとしている。

 

 角館

1938年に秋田県仙北郡角館町に生まれる。空家になった実家に行って昼寝をさせてもらったことがあるが、大江宏(19131989[iv]の「角館文化伝承館」(1978)からそう離れていなかったと思う。角館の武家屋敷の裏手当たりであろうか、決して大きくはないけれど、品のある木造住宅であった。道路拡幅に伴って曳屋をするにともなって離れを設計したのが菊真(D環境造形システム研究所)[v]で、それが彼のデビュー作(「角館の町家」、2005)である。

父親は、女子高校の先生[vi]をしていた。「白人とみまごう顔立ち」だったという[vii]。法学部出身で近代政治史専攻、渡辺豊和にとって偉大な尊敬する絶対的存在である。度々聞かされて、うらやましい父子と何度も思った。故郷角館は、渡辺豊和の頭脳の中心に常にある。彼の著作のテーマは、生まれ育った角館(東北)と生活の拠点とすることになった奈良(大和、関西)に全て関わっていると思う。すなわち、その関心は、自らの拠って立つ根拠、自らのルーツに拘り続けているのである。とりわけ故郷角館を愛し続けていることは間違いない。角館町立西長校の他、住宅作品も角館にある。

角館出身の建築家というと帝冠(併合)様式論で知られる下田菊太郎(1866-1931[viii]がいる。本人に言ったことはないけれど、僕の中では、下田菊太郎と渡辺豊和はダブってみえることがある。二人は秋田県が産んだ異色の建築家である。林青梧著文明開化の光と闇 建築家下田菊太郎伝』(相模書房、1981年)で知られるようになったが、下田菊太郎は、建築界の本流からは無視され続けた。建築界の大ボスとなった辰野金吾[ix]とそりが会わなかったというのは伝説である。渡辺豊和もそうだ、という気はない。その毒舌にも関わらず、多くに愛されていると思う。ただ、豊和が建築界の本流ではないことは認めざるを得ないであろう。

下田菊太郎は、最初に「建築計画論」を書いた((「建築計画」という言葉を最初に用いた))建築家であり、この点もRIAで建築修行した豊和と比較したくなるが、ここでは置こう。

 

 山口文象とRIA

小説家になりたかったのだが、父親は大の文学嫌いで、絵と数学が得意なのだから建築学科に進学しなさいという。渡辺豊和の兄も建築の道に進み大手の建設会社に勤めることになるから、父のオリエンテーションは強力だった。『宝島』の作者ステヴィンソンのような建築家の修業をしながら小説家に転じた例もあるのだから、建築学科に行きなさいと母親に諭されたという。

大学在学中は『新約聖書』とサルトルを愛読し建築における文学的表現の可能性について思索したのだという[x]。大学にはほとんど出てなくて、小説を書いたり、絵を描いてみたりなんてことばっかりしていた、シリから二番目ぐらいで出た、ともいう[xi]1961年に福井大学工学部建築学科を卒業し、RIA建築総合研究所に入所する(6470年)。年表を見ると、卒業と入所の間に3年の空白がある。実は、この間中西六郎建築事務所(大阪)に勉めている。中西六郎(1900-64)は早稲田出身でパリのアンリ・ソバージュ(1873-1932)のもとで学んだ建築家で、上野伊三郎(1892-1972)とともに「インターナショナル建築会」を結成したエリート建築家であったが、渡辺が入所したときは6人の小事務所であったという。3年にして、RIAに移ったのは、中西六郎の急死のせいである。RIAでは、植田一豊、富永六郎に設計教育を受けた。

RIA時代については、渡辺豊和の半生紀でもある『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ 山口文象 毛綱モン太覚え書』(アセテート、2006年)に詳しい。山口文象との交流、また直接の師という植田一豊(1924―)との関係が活き活きと記されている。

渡辺豊和にとって、山口文象は、次第に乗り越えるべき対象となっていく。そして、衝突が起こった。

「先生のおっしゃることはイエスタデイ主義です」

機能主義は古い、昨日主義だとつい口答えしたのだという。

「そんなことをいうならお前やめてしまえ!」

私物を整理し始めることになった。

「やめろといわれてやめるバカがあるか!」

山口文象の晩年に僕は何度か会う機会があった。「同時代建築研究会」[xii]の仲間たちと自邸を訪れたことがあるし、われわれの研究会にわざわざ足を運ばれたこともあった。「渡辺豊和さんって、どんな感じだったんですか」と聞いたことがある。

「あれは一種の気狂いだね」

このことを渡辺豊和さんに何度か話したが、ずいぶん気にして書いている[xiii]。文象さんは愛情に満ちた笑顔であった。「あれは気狂いだ」と言下に言ったのではなく、「一種の」という枕詞がついていた。

 

 1・1/2 

RIAでの修行を終え、1970年に32歳で「渡辺豊和アトリエ」を開所し、主宰する。しかし、仕事があったわけではなく、しばらく、藤田邦昭が主宰する「都市問題経営研究所」で市街地再開発の仕事をしている。そして、「渡辺豊和アトリエ」を「渡辺豊和建築工房」に改称したのが1972年である。ほとんど知られていないが、この間、「学生下宿」(芦屋市打出浜、1972年)を設計している。木造三階建ての延床面積30坪、腰折屋根トップサイドライト方式の「銭湯スタイル」である。一般には「吉岡邸[1・1/2]」がデビュー作とされるが、実質上のデビュー作は「学生下宿」である。阪神淡路大震災にもびくともしなかったという。自邸である「餓鬼舎」(1977年)にもはるかに見上げるトップライトから光りが落ちてくる洞窟のような空間がつくられているが、渡辺の初期作品のキーワードは「洞窟」であり「隠れ家」である。

RIA時代の末年、渡辺豊和は3歳年下の毛綱モン太(本名:一裕、後に毅曠と改名[xiv])と出会う。そして、その交流は毛綱の死(2000年)まで続く。毛綱の衝撃については、これまで何度も触れてきたが、この出会いの年に、毛綱は「北国の憂鬱」を『都市住宅』に発表する(6910月)。そして、「給水の塔」「日吉台教会」「反住器」と立て続けに傑作が発表される。一方、毛綱に刺激されながら、渡辺も「吉岡邸」でデビューする。この間の濃密な交流関係も『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』に活き活きと書き留められている。二人を媒介したのは、毛綱の師である向井正也(神戸大学教授、1918―)である。

「反住器」そして「1・1/2」の後、二人とも、仕事が途切れていた。仕事の依頼は少なくなかったというけれど、提案があまりにも奇想天外で、その異形に施主が二の足を踏んだり、工事費が合わなかったり、だったのである。毛綱は「「天紋」谷口邸」まで沈黙を余儀なくされている。また、渡辺も次作「テラスロマネスク桃山台」は3年後である。この間、渡辺豊和の頭の中を閉めていたのは「1・1/2」をどう理論化するかであった。「変容」、「歪曲」、「芸能」、「不具」といった概念をめぐって「空間変妖術」[xv]「観念的歪曲法序説」[xvi]「芸能としての建築」[xvii]といった論文を書いている。

 

 毛綱モン太

僕が毛綱モン太と出会ったのは1978年だと思う。1976年に神戸大学を辞職し、上京し、「釧路市立埋蔵文化センター」がようやく完成したばかりの頃である。石山修武の紹介で平山明義が一緒であった。まあ二人の口の悪いこと、平山も僕もけちょんけちょんに言われたのを覚えている。神戸大学に居づらくなって東京に移住する直前であった。上述のように、ほぼ同時期に渡辺豊和と出会ったのだが、二人の濃密な関係は知る由もなかった。

不思議だけれど、渡辺さん、毛綱さんと、僕は親しくつき合わせてもらうことになった。渡辺さんとは、日本の古代史をめぐって、会うたびに議論したけれど、古代史をめぐっては、僕は徹底して「出雲」主義者となった。「東北」「北方日本」主義者である渡辺さんとは、多くの主張の違いがあったが、アンチ「大和史観」であることは共通していた。モンちゃんは、二人の話をさらに壮大な世界の古代史に引き込むのである。建築には、それを支える壮大なコスモロジーの世界があるということを、僕は二人から学んだように思う。

毛綱さんにも東洋大学に非常勤[xviii]で来てもらって、一緒に即日設計の課題を何年か担当した。山本理顕さんとやったのも同じ「設計演習ⅡA」という演習である。毛綱さんの繰り出す課題の象徴が「地球の臍をデザインせよ」である。「これは、実は「中心」という概念をどう表現するか、というテーマなんだよ」などと、次々と毛綱さんが思いつく課題を学生たちに翻訳するのが大変だった。この時抜群の設計センスを示した学生のひとりが、毛綱さんの再婚相手、中島(毛綱)智恵子さんである。毛綱さんは、その後、「釧路市立博物館」(1984)「釧路市湿原展望資料館」(1984)「弟子屈アイヌ民俗資料館」()という釧路三部作によって、押しも押されもせぬ大建築家になった。この間、身近にいて、建築というのはすごい、と思った。

 

 建売住宅・標準住宅001

一方、大阪に残された渡辺豊和は、「テラスロマネスク桃山台」「テラスロマネスク穂積台」(1978年)によってちょっとしたハイライトを浴びながら、「餓鬼舎」「伊東邸」(1978)「中野邸(標準住宅001)」(1979)「杉山邸」(1980)と住宅作品をつくっている。曰く「モンちゃんが東京へ去って私はRIA時代に身につけたリアリズムに回帰しはじめていた」のであり、住宅設計の試行錯誤を続けながら「私の役割は当時彼とやろうとしていたことの理論化であり、作品は彼に任せておけばいいと思っていた」のである[xix]。、幸いまもなく教職につくことができ、プロフェッサー・アーキテクトとして出発する基盤を獲得することになった[xx]

「テラスロマネスク」は、いわゆる建売住宅である。当時、建売住宅に手を染める(?)ことが一種のタブーであった建築界において、それは衝撃であった。その後、「住宅作家」と目されていた宮脇檀なども住宅メーカーの団地設計を展開し出すのであるが、大野勝彦の「セキスイハイム」や石山修武の店舗設計の試みなど全く異端視されていたことは間違いない。HPU(ハウジング計画ユニオン)結成、『群居』創刊のモメントは、まさにこの点にあった。

渡辺豊和に言わせると、「テラスロマネスク」シリーズは、「一戸建てを隙間なく建ててきた法規違反が常識のこの世界に建築的工夫を導入したにすぎない」。すなわち、「三階建て連棟方式のアパート二棟を並べ、間に幅4mの通路をとっただけである」。当時、木造三階建ては建築基準法違反であった。接道義務(422項道路)違反の住宅は関西では珍しくなかった。真ん中の通路は、敷地内の空地で建坪率の計算に加えることが出来る。とりたてていうことのない「工夫」というけれど、ひとつの「建築類型」の提案がそこにあった。

また、「標準住宅001」というネーミングが示すように、少なくともこの当時、渡辺豊和には住宅を完結した一個の作品とする構えはない。『群居』同人が一定のテーマを共有していたのは間違いないのである。

 

 書くためのメディア:『建築評論』『建築美』『群居』『極』『建築思潮』

 渡辺豊和の最初の出版は、『地底建築』(明現社、1981 8)である。ただ、これは相田ゼミナールの講義録であり、唯一、話し言葉でまとめられた本である。実の処女著作は『現代建築様式』(1971 2月 、私家版)であり、その10年前、独立に当たって自費出版されている。渡辺建築論のエッセンスは既にこの中にある。

『地底建築論』と同じ年、僕は『戦後建築論ノート』(相模書房)を上梓した。以降、会うたびに「何冊になった」と僕に聞く。年下の布野に負けるわけにはいかないと、次々に著作を出版していくのである。

渡辺豊和は一方で評論家・編集者としてのセンスをもっている。建築学科に進学を決めた頃、渋谷の本屋、大盛堂で『建築評論』[xxi]のバックナンバーを手にして、何冊か購入して、ページの隅々まで読んだ。建築家のランキング表(番付け)などが載っていて、建築の世界への興味を掻き立てられたことを覚えている。この『建築評論』の編集に関わって執筆していたのが渡辺豊和だと知ったのははるか後のことである。

『建築美』[xxii]を出したのは『群居』の前である。普通の雑誌では書かしてくれない文章、書けない文章というのがある、書きたいことを書くために雑誌をつくるというのが渡辺豊和スタイルである。『群居』[xxiii]を手掛けて、おそらく、その路線に飽き足らなかったのであろう、より「建築」に即した論考を主体とする『極』[xxiv]を創刊する。そして、「建築フォーラム(AF)」を結成して、『建築思潮』[xxv]を創刊する。これは、僕が関西に移住した時期に重なり、手伝った。編集の神様、平良敬一先生の「建築思潮研究所」に出かけて、「建築思潮」という名称の使用を許可してもらったのを思い出す。『極』『建築思潮』とも、その発行を引き受けたのは、学芸出版社の京極迪宏さんである。渡辺豊和が、メディアについて極めて意識的であることは、以上の経緯からも明らかであろう。

 

 ポストモダニズムに出口はある

「1・1/2」以降「RIA流リアリズムに回帰」していた渡辺豊和が毛綱の疾走を見ながら、その建築コスモロジーを見定めるのは「藤田<神殿住居地球庵>」(1987)においてである。同じ年の「神村民体育館」(1987)によって日本建築学会賞(1987)を受賞する。西脇市立古窯陶芸館(1982)という小さな公共建築は手掛けているが、初の本格的公共建築である。建築学会賞の受賞に当たって、手続きに不案内な渡辺さんを色々手伝った記憶がある。推薦文を書いたのは大田邦夫先生である。実は、毛綱毅曠の「釧路市博物館・釧路市湿原展望資料館」(1984)も、高松伸の「KIRIN PLAZA OSAKA(キリン・プラザ・大阪)」(1989)も大田先生が推薦文を書いた。笑い話のようだけれど、東洋大学に行ってスライドレクチャーして、大田先生に推薦してもらうと学会賞がもらえるなどという噂があった[xxvi]

渡辺豊和は、「龍神村民体育館」以降の10年に、独自の渡辺建築ワールドを、「ウッディパル余呉森文化交流センター」 (滋県余呉町、1990)「対馬玉町文化の郷」(長崎県玉町、1992)「秋田体育館」(1994)「加茂町文化ホール」(島根県加茂町、1994)などによって一挙に開花させることになる。

しかし一方、「ポストモダニズムに出口はあるか」(丹下健三・篠原一男対談「状況への直言」『新建築』19839月)のようにエスタブリッシュメントからの巻き返しも開始されていた。



[i] 「中学の時に突然、詩や小説を書きはじめ、国語の先生にほめられることも多く、何時か将来は小説家になろうと思うまでになっていた。」(『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』pp33-34)。「18才まで生家にて過ごし、ジイド、カミユ、リルケ、芥川龍之介、萩原朔太郎に傾倒し詩と制作をはじめる」(『現代建築様式論』、渡辺豊和略歴)。

[ii] 安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武ととりあげてきたけれど、彼らは果たしてポストモダニストと呼べるであろうか、と改めて考える。藤森を除けば、全て近代の建築技術を前提とし、工業社会を前提としながら、建築表現の可能性を追求し続けてきた建築家である。戦うべき問題は、ひとつのシステムが世界を覆うことであり、その具体的な表現としてのステレオタイプである。

[iii] この相田ゼミナールの講義録が『地底建築論』(明現社、1981年)である。

[iv] 秋田県秋田市出身。父の大江新太郎明治神宮造営技師を務め、日光東照宮の修理、および明治神宮宝物殿、神田明神を設計を手がけた。代表作に、東洋英和女学院小学部(東京都港区/1954年)、法政大学5558年館(東京都千代田区/1958年/芸術選奨、日本建築学会賞) 国立能楽堂(東京都渋谷区/1983)など。1985日本芸術会員。1988日本建築学会賞大賞を受賞。

[v] 1998年個展「渡辺菊眞建築展 「風景」・建築-風景」開催/2002年天理エコモデルセンタ-(奈良県天理市)/2002年神戸アフガン交流公園施設 (兵庫県神戸市)2004年双極螺旋計画 (アフガニスタン)2005年角館の町家 (秋田県仙北市)2006年琵琶湖モデルファーム-転生の泥舟(滋賀県大津市)2007年~ 南シューナ研修施設(ヨルダン・ハシュミット王国)2007年~ 東アフリカエコビレッジ(ウガンダ共和国)2008年  竹の子学園「ハッピーハウス」(広島県広島市)

[vi] 『安倍晴明<占いの秘密>』(文英堂、2001年)p8

[vii] 『バロックの王 織田信長』あとがき。

[viii] 旧佐竹藩士下田順忠の次男として、秋田県角館町(現仙北市)に生まれ、秋田中学3年の時に上京し、三田英語学校で語学を学んだ後、1883年に工部大学校入学、1885年(明治19年)工部大学校造家学科進学。同期に横河民輔がいる。1889年にアメリカに渡り、ニューヨークのページ・ブラウン建築設計事務所に就職。1892シカゴ万国博覧会 (1893年)の設計競技にブラウンが当選し、現場管理副主任としてシカゴへ赴任。万博工事総監督のダニエル・バーナムに師事し、鋼骨建築法を学ぶ。1895年シカゴに建築設計事務所を設立して独立。1919年帰国。1918年に帝国議会の設計競技に、洋風建築の上に日本式の瓦屋根を載せる帝冠併合式(後に帝冠様式と呼ばれる)を提案した。

1920年、帝冠併合式意匠の主張を活版小冊子を作って友人や主宰当局や議員らに配布。1920年・1922年の議会で設計変更の請願が採択されたが、建築界からはほとんど無視された。

[ix] 辰野

[x] 『現代建築様式』(私家版、1971)あとがき。

[xi] 『地底建築論』p12

[xii] 同時代建築研究会(当初、昭和建築研究会と称した)を設立することになった(197612月)。設立メンバーは、宮内康、堀川勉、布野修司である。浜田洋介ら宮内康が主宰するAURA設計工房のメンバー、弘実和昭など東京理科大学の教え子たち、「雛芥子」から千葉正継、そして「コンペイトウ」の井出建、松山巌が加わった。 この同時代建築研究会は、『同時代建築通信』というガリ版刷りの通信を出し続けるが(19831990年)、1992103日の宮内康の死(享年55歳)によって活動を停止する。

[xiii] 『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』(「事務所をこわすなヨ」)pp.133-134

[xiv] 本人曰く以下である。25歳の時恐山でマリリン・モンローの霊に出会い、そのイニシャルをとってMMを名乗れ、とお告げを受け、イブモンタンの例も思い浮かべながら、ラテン的発音で「いい気なもんだ」に通じると毛綱モン太と名乗る。37歳の頃、夢枕に白髪の老人が立ち、改名の時機到来を告げる。・・・「人の話をよく聞こう」「宇宙建築の毅曠を極めよう」「気功」にも通ずる云々で毅曠とした。

[xv] SD19723

[xvi] 『都市住宅』19733

[xvii] 『都市住宅』1974年秋

[xviii] 『毛綱毅曠 建築の遺伝子』(日本の建築家5、丸善、1986年)の自作年譜によれば、1982年に「大田邦夫先生布野修司の引立てで東洋大学の講師となる」とある。

[xix] 208

[xx] 80年、京都芸短期大客員教授、8190年 京都芸短期大教授、9107年  京都造形芸教授

[xxi] 「『建築評論』という小さな本があって、その本は約三千部ほど出ていた。東京にも少しは流れていたと思うんですが・・・『建築評論』では関西の建築家を取り上げて1回に20枚くらい書いていたわけです。・・・あれは季刊だったんですが、11号まで行きましたから、4年間ほど続いたわけですかね。わりと面白い雑誌だったんです」『地底建築p161

[xxii] 建築美

[xxiii] 198212月~200012月 「群居」150

[xxiv] 『極』

[xxv] 『建築思潮』(学芸出版社)。「未踏の世紀末」01199212月創刊)、「死滅する都市」02199312月)、「アジア夢幻」0319953月)、「破壊の現象学」0419962月)、「漂流する風景[現代建築批判]」05(19973)

[xxvi] 安藤忠雄の「住吉の長屋」(1979)、㈱象設計集団+㈱アトリエ・モビル「名護市庁舎」(1981)、長谷川逸子「眉山ホール」(1985)、伊東豊雄「シルバーハット」(1985)・・高松伸まで、若い世代が次々に日本建築学会賞を受賞し、認知されていく時代となった。

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