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2021年4月18日日曜日

現代建築家批評35  建築の継承  世代交代 建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道05

 現代建築家批評35 『建築ジャーナル』201011月号

現代建築家批評35 メディアの中の建築家たち


建築の継承  世代交代

建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道05

 

昨年、還暦を迎え、今年、この原稿を書いている中国行脚の間に61歳になった。昨年秋、東洋大学、京都大学、滋賀県立大学の教え子たちが、京都と東京で、2度にわたって還暦を祝う会を開いてくれた(本誌200911月号に紹介記事)。これまでの業績リストもつくられ、否応なく、自らの軌跡を振り返る年となった。もっとも、ひとつの区切りは、2005年に京都から彦根へ拠点を移してきたときから意識していて、これまでの仕事をまとめる作業はこの間既に続けてきた。『近代世界システムと植民都市』(編著、京都大学学術出版会,2005年)『世界住居誌』(編著、昭和堂,2005年)『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』(京都大学学術出版会,2006年)“Stupa & Swastika”( Shuji Funo & M.M.Pant,  Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007)『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』(布野修司+山根周,京都大学学術出版会,2008年)に続いて、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』(布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、京都大学学術出版会、2010年)を上梓できた。今年『アジア都市建築史』(昭和堂,2003年)の中国語訳『亜州城市建築史』(胡恵琴・沈瑶訳、中国建築工業出版社、20103月)が出版されたが、今回、上海、天津、南京、杭州、主だった書店には全て並んでいて、なんとなくうれしくなった。『世界住居誌』の中国語訳も既に出ていると書店で聞いた。われながら、集中して仕事してきたと思う。

実は、この連載もその一環として考えてきたところがある。「現代建築家批評」そして「メディアの中の建築家たち」をうたいながら、いささか回顧的なトーンが漂ってきたのはそのせいである。しかし一方、若い建築家の動向にも注目してきた。滋賀県立大学には「談話室」という学生の自主組織があり、年に何回か、建築家を招いて講演会をしている。その内容は『雑口罵乱』(2007年創刊、年刊、現在3号まで刊行)にまとめられている。山田脩二、山本理顕、松山巌といった大御所も含まれるが、学生たちが関心をもつ若い建築家たちを招いて直接話を聞いてきた[i]。例えば、藤本壮介、ヨコミゾマコト、馬場正尊、佐藤淳、西沢立衛、芦澤竜一、森田一弥、坂口恭平、岡部友彦、藤村龍至、山崎亮といった、いずれも30歳台半ばから40歳代にかけての面々である。多くは、最早僕の教え子たちの世代と言っていい。還暦を祝ってくれた研究室出身の建築家としては、森田一弥の他、渡辺菊真、山本麻子、丹羽哲也、丹羽大介、吉村理、黒川賢一、松岡聡、柳沢究、魚谷繁礼、正岡みわ子、水谷俊博、北岡伸一などがいる。

メディア革命・・・1995以後 

藤村龍至(1976-)の「グーグル的建築家像を目指して-批判的工学主義の可能性」という講演は、若い世代の時代認識を伺う上で実に面白かった。『1995年以後次世代建築家の語る現代の都市と建築』(エクスナレッジ2009年)を編んで、同世代の建築家、研究者をオルガナイズする仕掛け人であり、批評家の資質をもった建築家だと思う。この4月から東洋大学講師ということで、32年前、同じように東洋大学に職を得て、育ててもらった僕としては、全く私的なシンパシーを抱いた。

藤村に拠れば、決定的なのは1995年である。携帯電話が一般化し出した年である。携帯電話の前身は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用したモトローラ製のウォーキー・ターキーWalkie Talkie、すなわちランシーバーである。大阪万博(1970年)にワイアレスホンが出展されていた記憶があるが、実用化されるのは1980年代である。そして、本体に液晶ディスプレイが搭載され、通信方式がアナログからデジタルに移行するのが1990年代半ばである。1995年以後の世代とは携帯で育った世代ということになる。

「グーグル的建築家像」というけれど、グーグルの原型となるバックリンクを分析する検索エンジンが開発されたのが19961月であり、普及は21世紀に入ってからのことである。まさに問題はこれからということだろう。紙を媒体とする建築メディアが力を失ってしまってきたことはこれまで繰り返し触れてきた通りである。今では即時に情報が飛び交う。ツィッターで、この講演、授業、講評会はつまらない、などとやられるのである。140字程度のつぶやきには思考の密度はない。大きな問題を孕んでいると思うけれど、マーケティングの分野、ネットワーキングの分野では武器になる。

ネットワーキング                  

何故、携帯の普及、グーグル検索の普及と建築が絡むのか。コミュニケーション手段の拡大によってコミュニティのあり方は決定的に変わる、ということである。山本理顕の提出した課題に藤村龍至が答えた「地域社会圏モデル-国家と個人のあいだを構想せよ」(INAX出版 2010年)は、その現時点の答えである。

山崎亮(1973-[ii]は、その武器を充分活用しつつあるように見えた。ランドスケープ・アーキテクトとして、「デザインからマネジメントへ」をうたうが、その仕事は様々な分野に広がる可能性がある。地方都市のデパートを再生したり、離島の村おこしを仕掛けたり、まったく正統なまちづくりのアプローチである。加えて、世界中に情報発信し、プロジェクトを起こすスケールをもっている。地域が、小さな企業や自治体が、機動力のあるコーディネーターを欲している。大手のコンサルタント会社や広告代理店、中央の天下り財団が幅を利かせる中で、穴がいくつも開いているのである。

藤村龍至もまた勇ましい。近い将来1000人の事務所にするという。思わず、その昔、石山修武が「ゼネコンをひとつぶっつぶす」といっていたことを思い出したが、その意気やよしである。若い世代も捨てたもんじゃない、のである。藤村の場合、もうひとつ「批判的工学主義」なる、いささか難解そうなキーワードを提示するのであるが、その設計プロセス論の展開に、C.アレグザンダーを思い出して、さらにシンパシーを覚えた。方法に立ち入る余裕はここではないが、着実に設計をまとめる手法の提示がある。CAD時代に、徹底して模型をつくるのもいい。ボトムアップには確実に繋がる手法である。

都市へ

石山修武と言えば、馬場正尊(1968-)[iii]、坂口恭平(1978-)は石山研究室の出身だという。馬場正尊は「都市を使う世代の建築家」、坂口恭平は「都市狩猟採集民の暮らし」をうたう。都市へアプローチするというのは、いずれも共通している。問題はどうアプローチするかである。

馬場正尊の場合、大手の広告代理店(博報堂)に就職した後、研究室に戻った経緯があり、編集者としての顔も持っていて、さらに、建築界のサッカー大会であるA-Cupの仕掛け人、マネージャーでもある。馬場正尊に会って、その昔サッカー少年であったころが刺激され、毎年、ACupに参加するのが楽しみとなった。宮本佳明、中村雄大、小泉雅生、五十嵐太郎、塚本由春、貝島桃代らに会えるのも楽しみであるが、何よりも身体を動かすのがいい。滋賀県立大学(フノーゲルズ)は2008年準優勝である。僕は2008年に続いて2009年もBOPBest Old Player)賞をもらった。参加するだけでいいらしい。

馬場正尊の多彩な活動のなかで、時代を確実に射抜いているのが「東京R不動産」である。不動産業といえばそれまでであるが、コンヴァージョン、リニューアルの時代に中古市場を新たな視点で掘り起こした意味は大きい。ここでもインターネット世界がその発想と事業を支えている。「都市を使う」という発想と個別の設計作業をどう統合していくかが課題となるであろう。ACupや「東京コレクション」がきっかけとなって研究室の石野啓太がオープン・エーに飛び込んだ(入れてもらった)。トップランナーということで朝日新聞の土曜日版に馬場正尊が取り上げられた写真の片隅に入社したばかりの石野君の姿を見出して研究室は大盛り上がりであった。時代は確実に動いていくのである。

坂口恭平は、まるで今和次郎のように、東京を歩く。そして、ホームレスやセルフ・ビルダーの不可思議な物件を発見して回って採集してきた。『バラック浄土』で著作デビューした師匠(石山)譲りである。自らの身体で自らの棲家を建てること、この「建てること、住まうこと、生きること」が同一である位相は、「世界内存在」としての原点であり、建築家の遺伝子として引き継がれていくのだと思う。坂口恭平の場合、採集狩猟したものを「アート」として表現するほうへ向かいつつあるように見える。その行き着く先をみたい。

 

「寄せ場」から

岡部友彦(1977-)の場合、都市の「寄せ場」、具体的には横浜・寿町に直接関わってきた。「コトづくりから始めるまちづくり」をうたうが、馬場はそうではないかもしれないけれど、坂口にしても、都市に建築家として関わるという構えは薄い。それはそれで真っ当である。この間、日本建築学会でも「コミュニティ・アーキテクト」の職能としての可能性を議論してきているが、岡部友彦の場合、既にそれを突破してしまっている。

大阪西成の「あいりん地区」でもそうだが、かつての「ドヤ街」は大きく様変わりしている。ビジネスホテル化してきたのはかなり以前からであるが、「サポーティブ・ハウス」など行政の施策展開とも関連しながら、新たな居住形態とサービスのかたちが、貧困ビジネスも含めて出現しつつあるのである。岡部友彦は、「ドヤ」を改装して、外人バックパッカーや一般の観光客にも部屋をホテルとして提供する事業が地区にのめり込むきっかけとなった。ここでもインターネットによる予約システムが大きな武器になっている。

岡部のプロジェクトは、コンビニで余る弁当などを入手する仕組みを構築、低価格で定食を提供する食堂を経営したり、選挙への投票呼びかけをイヴェント絡みで展開するなど、多彩である。

東洋大学時代の教え子たちが組織する「鯨の会」では、八巻秀房が中心になって、林泰代さんを顧問に「CA(コミュニティ・アーキテクト)研究会」を展開してきているが、多くの若い芽が育っていると思う。京都府宇治市の「ウトロ」地区の居住環境改善に取り組む寺川政司などもそうである。

「ウトロ」には、今年の5月これからのまちづくりを考えるシンポジウム[iv]に呼ばれて話す機会があった。そこで『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』を紹介しながら、「韓国の中の日本」について話した。するとまもなく、韓国から、この本で取り上げた日式住宅が建ち並ぶかつての日本人移住漁村・九龍浦の保存修景、街並み整備計画をめぐるシンポジウム[v]に招かれた。「日本の街並み整備とその諸問題」と題した基調講演の中で「ウトロ」(日本の中の韓国)に触れた。相互に共同作業が出来ないか、と両方で訴えた。アジアを股にかけた仕事がこれからは増えていくに違いない。

迫慶一郎(1970-)、松原弘典(1970-)は既に中国で大活躍である。この9月に滋賀県立大学の布野研究室で学位を取得した川井操(1980-)は迫さんを頼って中国デビューを目指しているところである。

 

マイノリティ・インターナショナル

 森田一弥(1971-)は、修士課程を終えて左官修行に入った。「大文」さんのところに弟子入りした竹村雅行(富嶽学園日本建築専門学校)など変り種が多い布野研究室でも筋金入りである。京都の「しっくい浅原」で、金閣寺, 妙心寺などの文化財建築物の修復工事にたずさわった後、設計を開始した。もちろん当初から建築家を志していたのであり、左官の年季明けには個展を開いている。この学年には、竹山聖研究室出身の平田晃久(1971-)や先に名を挙げた渡辺菊真、山本麻子など逸材が多い。伊東豊雄事務所を経て独立したことで、平田の方が名前が売れているのかもしれないけれど、森田も既に数々の賞[vi]を受賞して、海外からオープンデスクに来る学生がいるほどである。特に、大阪建築コンクールの渡辺節賞 (Shelf-Pod )を若くしての受賞したのは、その才能を多くが認めている証左である。

左官職人としての経験が大きく作用しているといえるだろう。「バードハウス」や「コンクリート・ポッド」などにそれがうかがえる。スペイン留学もあって、カタラン・ヴォールトに今興味があるという。

その森田は、「マイノリティ・インターナショナル」をうたう。いささか分かりにくいが、地域に蓄積された建築の知恵や技能の体系は、インターナショナルに確認し、共有できるのではないか、ということであろうか。工業化構法などによる、あるいは新技術による新奇な形態のみ追いかけるインターナショナリズムではなく、すなわち、グローバルな資本主義の展開に寄り沿うのではない、地域に根ざした、地(じ)の手法をマイノリティといいながら、積極的に押し出そうとするのである。

おそらく、そうした問題意識を共有するのが同級生である渡辺菊真である。その土嚢建築は世界を股にかけ始め、アフガニスタンからウガンダに及び始めている[vii]。ヨルダンでは石造建築を手掛けた。国内では「角館の町屋」があるが、どんな僻地であろうと飛んでいきそうな菊真であるが、高知を拠点に活動を開始し始めてもいる。これからの展開が楽しみである。

建築の自由

「談話室」が招いたアンダー50の中で、ヨコミゾマコト、西沢立衛は別格である。西沢立衛の場合、SANAAで妹島和世とともに建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞[viii]を受けたばかりである。プリツカー賞といえば、日本人としては、丹下健三、槇文彦、安藤忠雄につぐ4(5)人目である。第1回のフィリップ・ジョンソン(1979年)を筆頭にそうそうたるメンバーが並ぶ。大家の道を歩み始めたといえるだろう。「談話室」でのやりとりで、実に感性豊かで理論家肌じゃあないですね、と評したら、「建築設計資料集成」について修士論文を書いたんです、とむきになって反論したのが面白かった。吉武研究室の流れを汲む建築計画研究室の出身だという。まことに勝手にシンパシーを抱いた。確かに、「森山邸」はある型破りの「型」の提案である。この路線には期待したい。

ヨコミゾマコト(横溝真)には初めてだと思ったけれど、「いやあ、むかし一緒に飲みましたよ」といわれて驚いた。伊東豊雄事務所時代、伊東豊雄につれられて新宿の飲み屋でカラオケやっているときにたびたび居合わせたという。1988年から2000年まで伊東事務所にいて、2001年に独立、新富広美術館の国際コンペで勝って本格デビューということになるが、独立以降すぐに手掛けて、HEMFUN2002)、HAB2003年) 、TEMMEMMSH2004年)といった住宅、集合住宅の一連の作品を見せてもらった。ローコストの悪戦苦闘にスマートに答えを出すのがいい。1970年代初頭、安藤忠雄、伊東豊雄、山本理顕・・この連載でとりあげてきた建築家が全て、住宅から出発した頃を改めて思い出した。予算的にも敷地環境にも決して恵まれた条件にはないコンテクストにおいて創意工夫の回答を試みる、その姿勢に共感を覚えた。特に、鉄板を主架構に用いる一連の作品は一つの今日的チャレンジである。「単純な複雑さ」をねらうのだというが、単純でいいと思う。2009年、母校である東京藝術大学の准教授となった。大いなる飛躍を期待したいと思う。

「新しい座標系」を提示する藤本壮介は、最もオーソドックスな建築少年に思えた。とにかく建築が楽しくて仕方がない、といった雰囲気を全身かもし出すのがいい。アイディアを力づくでものにするんだという気迫がある。この連載でとりあげてきた建築家たちはみんな建築少年であった。どこまで建築少年でありうるかが勝負である。

安藤忠雄事務所の出身である芦澤竜一(1971-)は、さらに大胆に「建築の可能性」を追求しようとしている。東京の早稲田大学出身にも関わらず、関西の水があうのだろう。かつての「関西三奇人」を髣髴させるところがある。構造デザイナーとして期待される佐藤淳(1970-)は、任期付きというが東京大学に特任準教授となった。「構造は自由を失わない」と建築士法の改悪に敢然と異を唱える。実に頼もしい社会派でもある。

こうして見ると若い学生たちが話を聞きたいと思う建築家が、それぞれに魅力ある仕事をしていることは言わずもがなのことである。

ゲラをチェックする校正の段階で、編集担当の山崎泰寛さんが「石上純也氏に触れていらっしゃらなかったのですが、何か理由がおありでしたでしょうか。ご存知のとおり、妹島事務所出身の石上さんは、神奈川工科大学の工房をはじめ、展覧会で次々と問題作を発表しています。繊細で感覚的な作風だと言われがちですが、なかなか揺るぎない信念のもとに建築をつくっている方のようにも思います。また、9月にベネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞したのも、記憶に新しいところです。」とメールをくれた。以上にあげた建築家たちは、「談話室」という学生たちの集団が招いた僕が直接あった建築家たちだけである。それでも多士済々なのである。石上純也はもとより、世界の各地ですぐれた若い建築家たちが数多く魅力ある仕事を試みつつあるに違いないのである。

問題は、その仕事を厳しく育てていく批評であり、そのネットワークであり、そのメディアである。グローバルな視野と鋭い批評眼をもった若い世代の批評家、編集者も出現してもらわねば困る。


[i] 2005年以降のラインナップは以下のようである。

19回   鈴木 喜一 氏 (建築家):第20回   宮城 俊作 氏 (ランドスケープアーキテクト)『庭と風景のあいだ』:第21回   藤本 壮介 氏 (建築家)『新しい座標系』:第22回   山田 脩二 氏 (写真家)『この国の津々浦々、その景観の品格』風化する素材()の品格:第23回   ヨコミゾ マコト 氏 (建築家)『単純な複雑さ』:第24回   山本 理顕 氏 (建築家)『建築をつくることは未来をつくること』:第25回   馬場 正尊 氏 (編集者・建築家)『都市を使う世代の建築家』:第26回   佐藤 淳 氏 (構造家)『構造は自由を失わない』:第27回   中村 好文 氏 (建築家)『Architect at home』:第28回   西沢 立衛 氏 (建築家)『近作について』:第29回   芦澤 竜一 氏 (建築家)『建築の可能性』:第30回   飯田 善彦 氏 (建築家)『assemblage』:第31回   松山 巌 氏 (作家・評論家)『歩き、触れ、考えること』:第32回   森田 一弥 氏 (建築家・左官職人)『マイノリティー・インターナショナルな建築』:第33回   坂口 恭平 氏 (建築探検家・アーティスト)『都市狩猟採集民の暮らし』:第34    岡部 友彦 氏 (建築家)『コトづくりから始めるまちづくり』:第35    藤村 龍至 氏 (建築家)『グーグル的建築家像を目指して-批判的工学主義の可能性』:36    山崎 亮 氏 (ランドスケープアーキテクト)『デザインからマネジメントへ』

[ii] 1992 4 月 大阪府立大学農学部入学/1995 7 月 メルボルン工科大学環境デザイン学部留学(ランドスケープアーキテクチュア学科)/1997 3 月 大阪府立大学農学部卒業(緑地計画工学専攻)/1999 3 月 大阪府立大学大学院農学生命科学研究科修士課程修了(地域生態工学専攻):2006 4 月 東京大学大学院工学系研究科博士課程入学(都市工学専攻):1999 4 ()エス・イー・エヌ環境計画室入社:2005 4 studio-L 設立: 2006 8 ()studio-L 設立:株式会社studio-L 代表取締役、(財)ひょうご震災記念21 世紀研究機構主任研究員、京都造形芸術大学(2005 年-)・大阪工業技術専門学校:(2006 年-)・近畿大学(2007 年-)・京都市立芸術大学(2008 年-)・大阪工業大学(2009 年-)・武庫川女子大学(2009 年-)非常勤講師。技術士(建設部門:都市および地方計画)。一級造園施工管理技士。

[iii] 1968年佐賀県伊万里市に生まれる1994年早稲田大学大学院卒業()博報堂に入社(2001)1998年 「A」を光琳社出版より創刊2001年 早稲田大学大学院建築学部建築学科博士過程に復学同学科満期退学「R-project」を()スタート2002 BABA ATELIER Ltd.を設立(2003Open Aに改称)2002年 家具のデザイン工房(有)ワークショップウェアを沖縄市に設立著書1998年「A」(雑誌[A]編集部)2000R THE TRANSFORMERS R-book制作委員会

[iv]  2010523日、「新しい住環境整備へ!ウトロ調査事業の報告集会」早川和男、布野修司、中村尚司、寺川政司、厳明夫の5人のパネル、司会、斎藤正樹。

[v] 201079日、浦項市。「九龍浦学術セミナー」。

[vi] 2001タキロン国際デザインコンペ 2等(「SHELL-TER」)、JCDデザイン賞2001 新人賞(繭):2002日本建築士会連合会賞 奨励賞(繭):2003 JCDデザイン賞2003 入選(ラトナカフェ):2004日本建築士会連合会賞 奨励賞(ラトナカフェ):20052回コンクリートアートミュージアム 佳作(Concrete-Pod ):2006 JCDデザイン賞2006 銀賞(Concrete-Pod ):2006 AR AWARD 2006 (イギリス) 優秀賞(Concrete-Pod ):2008 INAXデザインコンテスト 入賞 (Shelf-Pod )2009大阪建築コンクール 渡辺節賞 (Shelf-Pod )

[vii] 2002年天理エコモデルセンタ-(奈良県天理市):2002年神戸アフガン交流公園施設 (兵庫県神戸市)2004年双極螺旋計画 (アフガニスタン)2005年角館の町家 (秋田県仙北市)2006年琵琶湖モデルファーム-転生の泥舟(滋賀県大津市)2007年~東アフリカエコビレッジ(ウガンダ共和国)2008年竹の子学園「ハッピーハウス」(広島県広島市)2009年イセゲロ村土嚢モデルドーム(ウガンダ共和国):2009年南シューナ研修施設(ヨルダン・ハシュミット王)2009年~ AFRIKANエコビレッジ(ウガンダ共和国)

[viii] プリツカー賞(The Pritzker Architecture Prize)とは、アメリカホテルチェーンハイアットホテルアンドリゾーツのオーナーであるプリツカー一族が運営するハイアット財団The Hyatt Foundation)から建築家に対して授与される賞である。

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