小さな家ー「12坪の家」と「バラック」と「51C」,『吉田謙吉と12坪の家 劇的空間の秘密』
小さな家-「12坪の家」と「51C」
布野修司
内蒙古張家口で敗戦を迎えた平野謙吉が引き揚げて住んだのは江ノ電の廃車(鎌倉七里ヶ浜)である(1946年3月末)。3年ほど過ごした後、港区飯倉町に建てた新居が「12坪の家」である。『婦人公論』(1948年6月号)に「小ステージのある12坪のぼくの家」として発表し、『生活ノート』(生活科学化協会、1951年2月)には「新しい住まいの夢」として紹介される。今和次郎が「愉快な家」と評した家は、実に楽しそうだ。そもそも住宅にステージがあるのがユニークである。山羊のアリスとも暮らすことになる家でもある。
幾間かと聞かれても答えられない、壁が二重線で描かれた間取りは何処に窓や扉があるかさっぱりわからないのである。しかし、ホールや台所、仕事場兼ステージ、寝室兼家事室の透視図は実に活き活きと空間をイメージさせる。築地小劇場の第1回講演「海戦」の舞台装置以降、舞台美術家として活躍してきたプロだ。模型で考え、ひとつの空間を表現するのは舞台美術家本来の仕事である。「12坪の家」は生活の舞台装置である。台所と書斎の上に2部屋つくるのは今和次郎のアドヴァイスというが、随所に創意工夫がある。台所とホールの間に高いスツールと半円形のスタンド、風呂場に谷崎潤一郎作歌劇「白狐の湯」の舞台模型を設置する、大道具式にやればわけはない。
平野謙吉は、引揚げてすぐ鎌倉アカデミア[1]の講師をつとめた。そして「吉田謙吉演劇美術研究会」を立ち上げた。「12坪の家」を毎週稽古場に使ったのは、鎌倉アカデミアの演劇科の卒業生が組織した「水曜会」である。
平野謙吉邸が「新しい住まいの夢」として紹介された同じ1951年、もうひとつの「12坪の家」が設計される。「「D51(デゴイチ)」ならぬ「51C(ゴジュウイチシー)」。戦後日本の住宅モデルとして大量に建設されることになる公営住宅標準設計案「1951年C型」である。
バラックの海
東京は焼け野原であった。戦後まもなく撮られた写真を見ると[2]、銀座、京橋、日本橋にコンクリートの建物が残っているけれど、「焼けビル」である。露店が新宿に出現し、すぐさま銀座、浅草、上野、渋谷、池袋へ拡がった。そして無数のバラックが焼け野原を埋め尽くした。
東京都が1945年11月から建設をはじめた応急簡易住宅の窓ガラスはセロファン、屋根は防水加工の紙葺き、なお材料難のため工期に3ヶ月を要した。吉田謙吉が江ノ電の廃車に住んだように、豪舎をはじめ人々はあらゆるところに住みついた。建築許可の抽選を待つ余裕はなく、皆が自力で、無断でバラックを建て始めた。廃車に切妻屋根のバス住宅、三角住宅、鉄管や釜をあり合わせの新聞紙や木切れで塞いだ鉄管住宅、襤褸切れの天幕住宅、空き缶を潰して屋根を葺いた住宅、賃貸移動家屋トロッコ住宅も現れた。実に多様な住居が出現したのであった。
バラックの海と化した都市の光景、それは吉田謙吉にとっての原風景である。
関東大震災後まもなく、今和次郎とともにバラックの建ち並ぶ東京の街をスケッチして回った。そして、バラック群の殺風景に華やかさと潤いを与えようと「バラック装飾社」を設立した。そしてそうした活動が「考現学」の提唱に結びついた。
何故、バラックなのか?建築家石山修武[3]は、ドラム缶のような「幻庵」を建てて『バラック浄土』(相模書房、1982年)を書いた。かくいう筆者も、東南アジアのバラックの世界を歩き続けて厭きない(『カンポンの世界』パルコ出版、1991年)。あり合わせの材料に依る創意工夫(ブリコラージュ)、自らの身体による建設(セルフビルド)の醍醐味・・・、詰まるところ、住まいとは生きられるものであること、生きること、住むこと、そして建てることが同一の位相にあることをバラックの世界は教えてくれるのである。
白い家
大正デモクラシー期から15年戦争期に至る1920年代は激動の時代である。「新興美術」「新興演劇」「新興建築」など「新興芸術」を標榜する様々な運動体が現れたのはこの大転換期である。吉田謙吉は、「尖塔社」(1920年)「舞台美術会」(1921年)の結成に関わり、「アクション」(1922年)に参加、そして築地小劇場(1924年)に宣伝・美術部員として加わる。まさに「新興芸術」運動の渦中にいた。「新興建築」運動との関わりも当然あった。そもそも「尖塔社」の結成は「分離派建築会」[4](1920年結成)を意識したものであったし、「分離派」に続いた「創宇社建築会」[5](1923年11月設立)には、東京美術学校から海老原一郎、山口栄一が加わっている[6]。
しかし、「新興建築」と「バラック装飾社」との間には基本的な対立があった。今和次郎は、「バラック装飾社」について「一部の建築家からは極端に罵倒された。建築美とは装飾を取り去ってしまった、造形そのものを基本としてのみ成立するものである、という近代的アカデミックといえる立場でやりこまれたのである。」と書いている(「ユニホーム考現学」)。一部の建築家とは「分離派建築会」(滝沢真弓)である。近代建築の理念は、様式や装飾は否定すべきものであり(A.ロース『装飾と罪悪』)、ファサード・デザインと建築構造の乖離は「虚偽構造」として退ける。「しかし、そのときの私たちの行動は、そういう建築論に奉仕するためにやったのではない。震災をうけた人びと、つまり社会にたいしての行動」だったのである」と、今は続ける。
「新興建築」運動は、逓信省営繕部の下級職人を主体とする「創宇社」が「階級(社会)意識」に目覚め、「分離派」の「芸術至上主義」を批判、労働者のための施設や建築生産方式の提案など社会主義的なテーマへ傾斜していく(「創宇社」の「左旋回」)[7]。一方、日本に近代建築の理念とともにその基盤が用意されるのが1920年代である。鉄筋コンクリート造、鉄骨造の基準がつくられるのはいずれも1930年である。その象徴が「マッチ箱を並べたような」とか「豆腐を切ったような」と形容された陸屋根(フラットルーフ)の一群の「白い家」[8]である。
51C
関東大震災の後、各国からの義援金で設立された「同潤会」(1924年5月)は、最初の公的住宅供給機関である。その大きな柱となり鉄筋コンクリートRC造の共同住宅が根づいていく基礎となったのが同潤会アパートである。この「同潤会」の引き継いだ「住宅営団」(1941年)で、大量の住宅調査を行ったのが西山夘三[9]である(『超絶記録 西山夘三のすまい採集帖』LIXIL,2017年)。興味深いのは、「51C」の基本原理となったのが西山の「食寝分離論」(1942年)であることである。
敗戦直後、住宅不足数は日本全体で420万戸と推計される。応急復興住宅の建設したのは、戦争協力機関としてGHQが閉鎖する「住宅営団」であるが、10万戸供給できたかどうか、それも翌年8坪に拡大するが、当初は6畳と3畳、6.25坪の住宅である。
吉田謙吉が「12坪の家」を建てた頃、指針とされたのは不燃の積層公営住宅である[10]。東京都営高輪アパート(前川國男設計1947年)を嚆矢として、RC国庫補助住宅1949年度標準設計A(14.2坪)B(12.5坪)C(10.3坪)がつくられる。続いて設計されたのが「51C(12坪)」である[11]。東京大学の吉武泰水研究室による設計過程[12]については鈴木成文が詳細に明らかにしている(『五一C白書』住まいの図書館2006年)。食べる所と寝る所は分離する、主寝室と一定年齢に達した子どもの寝室を分離することを原則[13]とすれば、ヴァリエーションはそうない。6畳と4.5畳の2寝室、トイレ、洗面、物置のスペースをとると、残りのスペースを広めの台所すなわち食堂兼台所(DK)とするしかない。夕食は、DKに隣接する部屋を利用することがあってもいいけれど、朝食はDKで採れるようにする、というわけである。
1955年に設立された日本住宅公団は、この「51C」を2DK型として採用することになる。そして、この2DK型住宅は、日本全体で、日本住宅公団の団地のみならず、農村の戸建住宅の基本型ともなる。「51C」は、戦後日本を象徴する住宅形式となるのである。
全く同時期に建設された同じ「12坪の家」、51Cと吉田謙吉邸を比較すれば、どちらが愉快か、どちらに夢があるかははっきりしている。
ちいさいおうちー最小限住宅
戦後まもなく新興建築家連盟をひきつぐかたちで新日本建築家連盟NAUが結成される(1947年)。創宇社メンバーを中心に西山夘三など戦後建築を担う主立った建築はほとんど全てが参加するなか、今和次郎は第二代委員長を務める。建築家にとっての最大の課題は住宅建設であり、多くの建築家が小住宅の設計に取り組んだ。その代表が増沢旬の「最小限住宅」(1951年)である。吉田謙吉の「12坪の家」はそれらにひけをとらない、というより、優るとも劣らない。「最小限住居」は建坪3間×3間=9坪というが、2階建てで3坪の吹き抜けがあり、延坪は15坪である。吉田謙吉邸は12坪だけれど、2階に1坪の2部屋と渡り廊下を設けてほぼ15坪である。立体的構成も似ているといえば似ている。建築家の場合、建築を建てるためのシステムを優先するけれど、吉田謙吉の場合、「ステージ」に拘った。誰もが建築家なのである。かつての吉田謙吉邸のすぐ裏手には東京タワーが建ち、かつての宅地割りを偲ばせる2階建ての仕舞屋がいくつか残っているが、全体はすっかりビル街に変わっている。飯倉交差点には異端の建築家白井晟一の「ノアビル」(1974年)が建つ。白井晟一もまた「試作小住宅」(1953年)という15坪のローコスト住宅に取り組んでいる。
問題は「51C」の方である。ダイニング・キッチン(DK)という苦肉の策として生み出された空間は、団地という住戸を積み重ね、並列させるかたちで一般化し、日本列島の北から南まで蔓延することになった。それだけ、日本人の生活様式が画一化されてきたということである。
実は、筆者は、「51C」を設計した吉武泰水研究室出身である。鈴木成文研究室で助手を務めた後、西山夘三が開設した京都大学建築学教室の「地域生活空間計画」講座に助教授として招かれ(1991年)、アジアの大都市を歩いて12坪どころか3m×6m=18㎡、6坪に満たない住宅の世界を見続けてきた。「51C」をいかに超えるかを考え続けて『住まいの夢と夢の住まい-アジア住居論』(朝日選書、1997年)を書いた。小さな家にも宇宙は宿る(「Ⅲ ちいさいおうちー限られた空間」)。「12坪の家」の竹の表札には「み空の星の小さな瞬きに 寄り添ふごとく我らここに」と彫られていたという。
「ぼくの家が、些かでも世間なみより変わっているとすれば、世間なみの暮らし方にこだわらないという考え方そのものより他にぼく自身思い当たる事とてない。むしろ、とくに変わった家を建ててやろうなどという、それこそ世間なみの考え方と変わっているだけだと詭弁を弄したいくらいだ。」と謙吉はいう。決して詭弁ではない。
[1] 1946年4月に、哲学者三枝博音を学長として開校し、卒業生には山口瞳、いずみたく、鈴木清順などがいる。1950年に閉校した。
[2] 木村伊兵衛らによる『東京・一九四五年秋』(文化社、1946年4月)など。
[3] 今の孫弟子の世代であり、早稲田大学の教授をつとめた。
[4] 設立メンバーは、東京帝国大学工学部建築学科の卒業生、石本喜久治、滝沢真弓、堀口捨己、森田慶一、山田守、矢田茂の6人である。後に蔵田周忠、山口文象、が加わる。
[5] 設立メンバーは、二十歳前後の逓信省営繕課の技手、製図工、山口文象、専徒栄記、小川光三、梅田穣、広木亀吉の5人、その宣言文も「頽廃と陳腐とにたゞれたる/現建築界の覚醒を期す。我等は古代人の純情なる/創造の心を熱愛し、模倣てふ/不純なる風潮になき/永遠の母への憧れをもて/頽廃と陳腐とにたゞれたる/現建築界の覚醒を期す/我等は生の交響楽―全宇宙に/我等の生命、美しき「マッス」を/現出すべく専心努力する。」と勇ましい。
[6] 今和次郎が委員長を務めた「帝都復興創案展」(国民美術協会主催(会長中條精一郎)[6]1924年4月)には、「創宇社」の他、村山知義を中心とする「マヴォMAVO」、今井兼次、佐藤武夫、猪野勇一ら早稲田の「メテオール」、岸田日出刀、長谷川輝男、蒲原重雄ら東大の「ラトー(裸闘)」、水谷武彦、前田健二郎らの東京美術学校の「揚風会」などが参加しているのである。
[7] そして、「創宇社」メンバーを中心として「分離派」以降の様々な小会派が大同団結するかたちで結成された「新興建築家連盟」の結成即解体(1930年12月)、そして日本工作文化連盟の結成(1937年)、建築新体制の確立(1942年)という建築運動の展開には、日本ファシズムの形成、翼賛体制の確立の過程が色濃く投影されていく。
[8] 、土浦亀城の自邸(1935年)など。
[9] 西山夘三については布野修司(1998)「西山夘三論序説」(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー
-建築の昭和―』彰国社所収)参照。
[10] 一般の住宅復興については、自力更生に委ねられた。住宅資金を融資する住宅金融公庫が設立されるのは1950年であった。政府は1946年5月に「臨時建築制限令」を公布し15坪以上の住宅店舗の新増築を禁止し、翌年2月の「臨時建築等制限規則」によって12坪以下に制限を強化した。吉田謙吉邸が「12坪の家」となったのはそれ故にである。制限が解除されるのは、すなわち、1950年である。
[11] 51A,51B,51C,51MBの4つのプランで、Aは16坪、Bは14坪、Cは12坪、そしてMBは異なる規模の住戸をミックスしたタイプである。
[12] 建設省から委託を受けたのは建築設計管理協会(後の日本建築家協会)で、具体的に担当したのは、Aは松田・平田設計事務所、Bは山下壽郎設計事務所、Cは久米建築事務所、MBは石本建築事務所である。各事務所からの提案を「国庫補助住宅設計構造審議会」(1950年秋)が審議の上決定するというかたちであったが、その基本設計部会(委員は、平山嵩、木村幸一郎、佐藤鑑、高山英華、武基雄、丹下健三、吉武泰水。)の委員であった吉武泰水が各案について提案、各事務所が実施設計を行うというのが実際のプロセスであった。
[13] 「1,普通の家族構成では(居住期間を考え合わせると)少なくとも2寝室必要で、C型でも2寝室とるべきであろう。2つの寝室のうち1つは「基本寝室」(夫婦寝室)として初めから設計することが望ましく、両者の隔離に注意したい。
2.これまでの住宅は結局1室的で、間仕切りも不完全である。家族人数や家族構成によって居住部分をどう区切るかの要求は異なるが、子どものある家庭では、少なくとも家族全員がくつろげるほどの広さをもつ部分と、勉強、読書、仕事(家事を含む)などが出来る部分をもつことが必要であろう。後者はさほど広くなくてもよいが基本寝室としての条件を備え、前者とは壁で仕切ってもよいのではあるまいか。前者には家族構成や生活の仕方に応じた住み方のできるゆとりが欲しい。この部分は南面させ、台所と直結するかあるいは調理部分を含み、住戸の出入り口や便所につながるように配置したい。
3.「食寝分離」は小住宅では「就寝分離」を犠牲にすることになりやすい。少なくとも朝食の分離が出来るよう台所を広めにとることがよいと思われる。」(日本建築学会研究報告13号、1951年8月)
0 件のコメント:
コメントを投稿