現代建築家批評28 『建築ジャーナル』2010年4月号
現代建築家批評28 メディアの中の建築家たち
磯崎新自身による磯崎新
「世界建築」の羅針盤
「磯崎は、極めて個人的な思考と個人的な空間の展開として、建築を創造してきたのであり、ひとつの思想学派に位置づけられるわけではない[i]。しかし同時に、自らの仕事に個人的様式を刻印しようとすることよりも、特定の施主と敷地をめぐる政治的、社会的、文化的文脈の孕む問題に建築的解答を生み出すことの方を好んできた[ii]。建築がその始源からもつ潜在力をとり出してみせることによって、建築を超えた他領域の知に対しても大きな影響を与え続けている[iii]。また、評論家として、設計競技の審査員として、世界中のラディカルな建築家たちの構想を実現させるために多大な貢献をしてきた[iv]。磯崎によって、個人レヴェルの発言が可能となるグローバルな言説の場が可能になったといってもいい[v]。半世紀を越えるその活動は、思想、美術、デザイン、音楽、映画、演劇、そして、もちろん、建築の枠組みを超えて、あらゆる時代や領域にまたがる問題提起を生み出してきた[vi]。」[vii]
「磯崎新アトリエ」のウェブサイトに、磯崎新のプロファイルが以上のように短くまとめられている。ウェブ上の日本語訳は磯崎自身のものとはとても思えないが、ここには、磯崎新自身による自己評価、自らが規定する自らの立ち位置が的確に表現されていると思う。
磯崎新は徹底して「個」に拘る。「どの思想領域にも与しない」。しかし一方、「自らを刻印(署名)するスタイル」には拘らない。磯崎新は、あらゆる領域、あらゆる既成の枠組を否定し、批判し、それから逃亡し続ける。「建築」あるいは「建築家」という枠組みに対しても、である。「建築の解体」といいながら「大文字の建築」という。「建築の始源のもつ潜在力」を取り出すという。「世界建築家」としての揺るぎなき地位を築きながら『建築家捜し』(岩波書店、1996年)などという。
制度からの逃走、あるいは制度との闘争、それはもちろん、言説の空間に限定されるものではない。磯崎新の生き方そのものにかかわっている。還暦を迎え(1991年)、「名誉」「地位」「財産」を求めまいと誓った[viii]、という。ラディカルな「生」である。
羅針盤としての磯崎新
磯崎新は、常に自ら設定する座標軸あるいは羅針盤によって、その位置と動いていく方向を自ら計測しながら仕事をしてきたように見える。すなわち、時代を読みながら、仕事の場所に応じて、自らのなすべきことを見定めて仕事をしてきた、そういう建築家である。
もちろん、そう見えるだけだ。冒頭に引いたように、特定の施主と特定の場所に対してその都度「建築的解答」を与えてきたのであって、常に予め確固たる理念や概念、イメージがあって作品がつくられてきたのではない。磯崎自身が「あらゆる論理的説明は事後的になる。後からやってくる」[ix]というように、また、設計した建物を当初の意図に還元してグラフィックに定着する[x]ドローイング(版画)のシリーズを続けるように、言葉とイメージの生成、その定着過程は単純ではない。
しかし、それぞれの仕事の位置づけについて常に戦略的であったことは間違いない。作品とそれをめぐる思索、出来事についてはその都度文章を書き、その戦略を公にしてきた。あらゆる作品について、あらゆる仕事について自ら記し、その位置づけ、評価を自ら行い続ける、その一貫性は驚異的ですらある。そして、磯崎自身が、その自らによる評価、位置づけによって、その仕事へのあらゆる言説を誘導し、あらゆる批判的言説をも含みこむ言説空間を組織する、そんなふうに演出を仕掛けてきた。
全てが磯崎自身による磯崎新である。そして、その磯崎新による磯崎新であり、その磯崎新自身による磯崎新である。
その知性が世界中の建築家の中でも群を抜いており、常に最も広い座標軸による時空間を設定し得たが故にそれは可能であった。実際、磯崎新は、この半世紀、建築をめぐる言説を最も広く組織し続けてきた「建築家」であり、その自負が冒頭の自己評価でもある。
磯崎新が、世界を股にかけて活躍する建築家たちのなかでも、国際コンペなどで審査員を務める「インターナショナル・デザイン・マフィア」の一員として、また1990年代に毎年1回10回にわたって行われた建築と哲学を問うAny会議など、とりわけ「建築」をめぐる言説の場、パラダイムを組織する理論家として、実にユニークな役割を果たしてきたのも、その類い希なる資質と能力によっている。この点においては、磯崎新は、間違いなく近代日本が産んだ最高級の「世界建築家」である。
磯崎新がプロデュースに加わった1996年のヴェネジア・ビエンナーレは「未来を感知する-地震計としての建築家-」をテーマとしたが、地震計あるいは羅針盤としての建築家こそ磯崎に相応しいように思う。僕らは、随分長い間、磯崎の設定する羅針盤に頼ってきたのである。いま僕らはGPS[xi]とGoogle Earthに頼りながら世界中を歩くのであるが、磯崎新という羅針盤はあたかもGPSのようであった。
磯崎新についての最大の関心は、そして僕らにとっての最大の問題は、磯崎の設定してきた座標軸、羅針盤が「未来を感知」してきたかどうか、なお感知し続けつつあるかどうかである。
メディウムとしての磯崎新
もう30年も前に、「磯崎新論:引用と暗喩-ラディカル・エクレクティシズムの位相」と題した僕の最初の建築家論[xii]において、「磯崎新の知の特性は、その知的触手の向けられる領域あるいは対象そのものの特性よりもむしろそれらとの距離や関係、知的情報の内容ないしその生産(創造)よりもその処理、変換のプロセス、メカニズムの特性においてよりよく捉えることができる」[xiii]と書いた。そこで「かれの思考は、対立するものを弁証法的に統合するのではなく、対立したまま共存させるというアンビヴァレンス(両極性)と、空間や存在を一義的に決定されたものとしてではなく捉えるアンビギュイティ(両義性)を特徴としている」という市川浩の磯崎評[xiv]を引いた。アンヴィヴァレントあるいはアンビギュアスな建築家というのは、『建築の解体』で「主題の不在」を大きく主題にして以降、磯崎新につきまとってきたように思われる。そしてさらに、磯崎新の位置を測定しようとして「同時にいくつものゲームが進行していく複雑に重なったチェスの盤」をイメージし、「磯崎は確かに盤上にいるのであるが、今現在どこにいるかは不明である」[xv]、というH.ホラインの磯崎評を引いた。H.ホラインは、そこで、磯崎新の人体解剖図を掲げ、頭-マルセル・デュシャン、首-フィリップ・ジョンソン、耳-ロバート・ヴェンチューリ、心臓-ミケランジェロ、あるいはジュリオ・ロマーノ、・・・・・ちんぽこ-丹下健三、尻-マリリン・モンローなどとしている。
このH.ホラインの「チェス盤」の比喩、「磯崎解剖図」には、磯崎新もいささか参った?ようだ。その後繰り返し引用することになる。実際、「お前には独自の個性がない、と言われたも同然だ」「自我のないイソ。そういえばお前のつくるものはまったくオリジナリティがない。誰かの物真似であって、それ以上でない」と多くの建築家に言われたという。
しかし、それに対する解答は次のようだ。
「個性なんて、単に自我の表出チャンネルを一本にしぼった結果に過ぎない。あわれな程に可能性をせばめている。この一覧表の建築家名は、実は無限に代入可能なたんなる例であって、ほとんど任意に選ばれていると思えばどうか。・・・とすると、私はひとつのメディウムであって、そこには多数のチャンネルが錯綜していて、それは、古今東西に分布し、ストックされている貯蔵庫に必要に応じて連結する器官に過ぎない」[xvi]。
クロニクラーとしての磯崎新:日付入りのエッセイ
処女論集『空間へ』をまとめるに当たって、それまでに書いたいくつかの文章を柱にして、特定のテーマで書き下ろそうとして諦めた。作家論を別にすると、全て「日付のついたエッセイだった」[xvii]と気づいた。「建築空間を論理化し、方法論的にこれを組み立てたい、と思ったのは建築をはじめてすぐのことだ。55年度の修士論文でそれをテーマに提出しようとして結局まとまらなかった[xviii]」(『空間へ』p497)。「大学院に在籍可能な最後まで居残っていたにもかかわらず、遂に学会に研究論文ひとつ発表することがなかった。・・・一編の論文も書けなかったのは、ぼく自身の思考の構造に起因したといっていい」(『空間へ』p513)。
『空間へ』は、実質的には、磯崎新の学位請求論文といっていい。磯崎が形式をととのえることを断念しなければ、日本の建築アカデミズムは多少変わったかもしれない。
この磯崎が抱え込んだ困難さは、磯崎自身の「思考の構造」に起因するというより、「建築」のプロセスを論理化することの困難さに起因するというべきだろう。ここで差し挟むのも烏滸がましいが、博士課程に在籍中に一本の論文も書けなかったのは僕も同様である。『建築の解体』に導かれて、僕が卒論のテーマに選んだのはC.アレグザンダーの設計方法論である。設計過程を論理化するツールに関心をもって、“Notes
of Synthesis of form”(『形の合成に関するノート』[xix])を読んで、実際プログラムHIDECS[xx]を書いた。前にも書いたけれど、これでも磯崎新がデジタル・アーキテクト第一号という称号を謹呈したという月尾嘉男のところでアルバイトしていたことがあるのだ。戸部栄一(椙山女学園大学)との共同設計である卒業設計(Partout et Nulle Part(何処でもあり、何処でもない)「キャンパス計画」)でもこのHIDECSを用いた。マトリックスと数字だらけでよく卒業できたと思う。設計プロセスを可能な限りオープンにし、決定の瞬間(ロンリー・ジャンプ)を明らかにすること、そのことにおいて決定の構造をオープンにしていくことが可能かもしれないというのがかろうじての結論であった。原広司がその限界を直感しながらさっさと博士論文を仕上げたのに比べると磯崎新の場合まじめ?すぎるのである。「アカデミズムにもジャーナリズムにも、それぞれ固有の方言ともいえる論理と文脈がある。学会の論文は多かれ少なかれ、その共有言語を用いて語らねば意味をなさないのだが、突きはなし、実証を加え、あおの客観性という、粉飾を加えねば体をなさないということが分かれば分かるほど、僕には縁遠い領域に感じられてきた。」(『空間へ』p513)
「ジョン・レノンの「イマジン」からプロジェクトをつくれという建築の課題をだしたりするのでは私は教師失格である。モノを創造する秘訣は独断的であることだ。建築家は教職につくべきではない、と考えるようになった」(「私の履歴書」⑳)というけれど、プロフェッサー・アーキテクトになるチャンスはあったと思う。実際、武蔵野美術大学に助教授として席を置いた(数日通っただけで挫折)ことがあるのである。
編集者としての磯崎新
実際、磯崎新の全著作は「日付入りのエッセイ」を縦横前後に編んだものである。僕らはそれをテキストとして読んできた。実際、教科書だった。事実を並べるだけの建築史の講義や教科書に比べると遙かに深いレヴェルで建築を学んだのである。『建築の解体』は現代建築の、『造物主義』は西洋建築史の、『始原のもどき』は日本建築史の、それぞれテキストであった。『磯崎新+篠山紀信建築行脚』(『磯崎新の建築談議』)[xxi]は再編集されて『神の似姿』『人体の影』といった教科書に仕立て上げられている。磯崎新は、実に多くの作家論、作品論を書いてくれている。まるで『全建築史』は、ほとんど磯崎の眼を通して取捨選択され、磯崎によって書かれるかのようである。これでは建築史家はたまらないだろう。もちろん、磯崎自身が触れる建築家は磯崎新の興味と好みによるものである。近代建築の「教科書」によく取り上げられても、触れない建築家も少なくない。それに、磯崎新の眼中にほとんど「アジア」はない[xxii]。「建築」あるいは「構築」というのは徹頭徹尾西欧のものだというのがその前提である。すぐれた建築史家だと思うS.コストフなども、『建築(全)史』[xxiii]というけれどアジア=非西欧世界の記述はゼロだ。
前述のH.ホラインの磯崎評には、磯崎は建築のゲームにおいて勝手にルールを変更するからアンフェアだ、という指摘がある。盤そのものをひっくり返してしまうというのではない。盤は共有されているけれど、ルールを勝手に変えるから、どこにいるのか分からなくなるというのがH.ホラインである[xxiv]。建築に関わる言説空間をゲーム盤に例えるその土俵の問題を、時間軸(歴史)を挿入するとどうなるか。ゲーム(建築とそれを成立させた言説空間)の結果(評価)を事後に建築家自身が行い、その言説空間を誘導し、変形させるというのは「自家中毒」ではないか、とバトルを挑んだ?のが土居義岳である[xxv]。
磯崎新は反論する。自分で自分の位置を測定することは不可能であり(「不確定性原理」)、位置測定される素材をドグマとして生みつづければいい。歴史家が評価するというのであれば、やってみせてくれ、ということだ。結局は、問題がゲームの土俵をどう設定するかであることははっきりしている。磯崎新が特権的にそれをなし得るわけではないのと同様に、建築史家がその土俵を設定する特権をもつわけではない。
僕などは、70年代末以降、アジアを歩き回り出すことにおいて、この磯崎新の設定するゲーム盤とゲーム・メイクから早々と脱落した気分がある。「主題の不在」「何でもあり」「好きにやろう」。「アジア」と「昭和(あるいは戦後)」という2軸で張られる単純な平面が、僕の「羅針盤(平面)」となった。しかし、それでも、とんでもない時空につれていかれつつあるという感じがある。F.D.K.チャンらが編んだ『地球建築史』[xxvi]は、全地球の各地域に建てられた建築を100年単位で横並びにして選定し、B.フラーのダイマキソン・マップにプロットしてくれているが、自分でやってみたい気になりつつある。磯崎新の土俵は、遙かに広大で複雑かつ柔軟である。自ら設定してきた土俵が実は「日本」と「建築」という2つの主軸でなりたっていることを、「きみの母を犯し、父を刺せ」という磯崎の母は日本であり、父は建築であるという土居の指摘で気づいたという。磯崎は、もちろん、その先の羅針盤を用意しつつあるらしい。
オルガナイザーとしての磯崎新
もちろん、全てが表現活動といっていいのであるが、磯崎新の場合、プロデューサー、コミッショナー、審査員といった役割を得て、様々な場の組織者、運動の仕掛け人としての活動にかなりの時間とウエイトを割いてきた。磯崎は、ここでもメディウムであり、エディター、コーディネーターとしての資質をいかんなく発揮してきたのである。
設計競技の審査員として、無名ではあるけれどすぐれた新人に設計の機会を与える役割を果たしてきたことはよく知られている。例えば、坂本龍馬記念館の公開審査で、ほとんどの審査員がノーマークであった高橋晶子案がするすると最優秀案に選定される過程は唖然とするものであった[xxvii]。設計競技において究極的に問われるのは審査員の能力であり力量である。批評言語をもたない凡庸な審査員が、批評空間を圧倒する磯崎に説得されるのは無理もないのである。
展覧会もまた磯崎にとって重要な表現のメディアであり、メッセージ発信の場である[xxviii]。そして、1990年代にわたって組織したAny会議のような場の設定は磯崎新の真骨頂である。知の最先端の、またアートの最前線の議論を常に自らのものとして思考する強烈な欲求がある。生来のアヴァンギャルドである。
そうした中で、注目されるのは「NEXUS」「岐阜県北方県営住宅」「熊本アートポリス」のような仕掛け(設計者選定の仕組み)である。「タウン・アーキテクト」(アーバン・アーキテクト)制を模索していた頃、ビューロクラシーの隙間になんとか楔を打ち込もうという磯崎さんと建設省の委員会で一緒になったことがある[xxix]。阪神淡路大震災が起こらなかったとしたら、R.ロジャースをコミッショナーとする英国のCABE[xxx]のような仕組みが出来たかもしれない。
反芻される自分史:私の履歴書
『空間へ』が既に「年代記的ノート」を含んでいたように、自分史は繰り返し語られてきた。全ての論考が「日付入りのエッセイ」であるとすれば、全著作は自分史といえるのである。還暦を迎えて、1991年以降、ロサンゼルス現代美術館(MOMA)を皮切りに回顧展「磯崎新1960-90」が開かれた。その展示作品は、再生なった「大分市民プラザ(旧大分県立図書館)」に磯崎新建築展示室に収められている。「磯崎新とは誰か(磯崎新の世界)[xxxi]」といったインタビュー記事も以降少なくない。『建築家捜し』(1996年)『反回想Ⅰ』(2001年)など半生記も既に書かれている。その後次々に上梓される著書においても、自分史が反芻されている。2010年1月末には、1990年代を通じて組織してきたAny会議を総括する2冊も上梓された[xxxii]。
ただ、その自分史は仕事の歴史であって、しかも1960年以降が中心である。その生い立ちについては、必ずしも語られることはなかった。しかし、昨年(2009年)、78歳を迎えて、「私の履歴書」[xxxiii]が書かれた。『日本経済新聞』のこの権威ある「各界を代表する著名人が、出生から今日に至るまでの半生を描く自伝」の連載シリーズに登場した建築家は、谷口吉郎(1974年)、丹下健三(1983年)に続く3人目である。
磯崎の軌跡を辿ることはとてつもない作業である。磯崎新の世界を全て理解してー少なくとも膨大な著作の全ての文章に眼を通してー、その言説空間を相対化する作業は、凡庸なる建築家や批評家がとてもなしうるところではない。出来るのは、磯崎自身による磯崎新を適当に引用して繋ぎ合わせることである。その我流の読み(換骨奪胎)に、多少の自分を忍び込ませることぐらいである。
[i] Isozaki
has created an architecture so personal in its ideas and spaces that it defies
characterization in any single school of thought.
[ii] At the
same time he resists the temptation to apply a signature style to his jobs,
preferring instead to create architectural solutions specific to the political,
social and cultural contexts of the client and site in question.
[iii] By
harnessing the latent strength that has existed in architecture since its
inception, Isozaki has been able to wield influence on knowledge systems far
beyond his own field.
[iv] In
addition, through his activity as a critic and a jury-member for major public
and private architecture commissions and competitions, he has contributed
significantly to making the visions of the world's most radical architects a
reality.
[v] Through
Isozaki it became possible that a global discourse be held at a level where
individual voices can be heard.
[vi] His
activities, spanning over a half century, have gone beyond thought, art,
design, music, film, theatre and of course architecture, and they have raised
questions spanning multiple ages and multiple disciplines.
[vii] 日本語訳は筆者による。
[viii] 私の履歴書30『日本経済新聞』20090502-0531
[ix] 「群馬県立近代美術館現代美術棟が完成したので、あの頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001)p.243「やはり言葉はあとからやってくる」『建築の修辞』(美術出版社、1979)。
[x] 「原則的にはひとつだけのイメージをつくる・・・建築の建築的意図を最小限の手段と形態で定着させようとする。附加された要素が印象を濁らせるならば消してしまう。ばらばらにする。見えにくかったらズラす。そして、もうこれ以上減らすわけにいかないところまでもどす。これが実は設計を構想した意図だったといおうというわけだ。」「00後名」『建築家捜し』p.244という。
[xi] Global
Positioning System(全地球測位システム)
[xii] 磯崎新については、本連載においてこれまで少なからず触れてきた。今猶、現代日本の建築家を位置づける大きな柱であり続けていると思う。僕の『戦後建築論ノート』(相模書房、1981年)にしてもその増補改訂版である『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(レンガ書房新社、1995年)にしろ、「建築の解体」に始まって「大文字の建築」に行き着く磯崎新が主軸となっている。処女論集『空間へ』(美術出版社、1971年)、そして『建築の解体』(美術出版社、1975年)以降、その一連の著作は僕らの大切な教科書であり続けてきた。
[xiii] 拙稿、「磯崎新論―引用と暗喩―ラディカル・エクレクティシズムの位相」『現代思想』、青土社、1978年12月
[xiv] 「磯崎新とデカルト主義」『近代建築』1975年1月
[xv] ハンス・ホライン、「位置と動きー芸術<作品>として見た建築家またはイソザキの<なりたての未亡人>との結婚ー」石井和紘訳、『SD』1976年4月
[xvi] 「12異名」『建築家捜し』(岩波書店、1996年)。
[xvii] 日付をかえて書きなおせば、なかみも全部かわってしまうのはわかりきっている」のに手を加えるのをやめる決心をするまでに3年かかってしまった(『空間へ』p554)
[xviii] 「もっとまえに、ル・コルビュジェの著作を読みちらしたけど、五カ条のテーゼとか、都市デザインに関する解説はわかっても、たとえばNEW WORLD OF SPACEという、彼の空間イメージを絵画から都市にいたる全領域にわたって展開した、もっともやさしい本がついに理解できなかった。」
[xix] 稲葉武司訳、鹿島出版会、1978年
[xx] HIerarchical
DEConstruction System
[xxi] 『磯崎新の建築談議』六耀社2001/11―2004/10〈#01〉 カルナック神殿〈#02〉 アクロポリス〈#03〉 ヴィッラ・アドリアーナ〈#04〉 サン・ヴィターレ聖堂〈#05〉 ル・トロネ修道院〈#06〉 シャルトル大聖堂〈#07〉 サン・ロレンツォ聖堂〈#08〉 パラッツォ・デル・テ〈#09〉 サン・カルロ・アッレ・クァトロ・フォンターネ聖堂〈#10〉 ショーの製塩工場〈#11〉 サー・ジョン・ソーン美術館〈#12〉 クライスラー・ビル』
『磯崎新+篠山紀信建築行脚』六耀社1980/10―1992/02〈1〉 ナイルの祝祭〈2〉 透明な秩序〈3〉 逸楽と憂愁のローマ〈4〉 きらめく東方〈5〉 中世の光と石〈6〉 凍れる音楽〈7〉 メディチ家の華〈8〉 マニエリスムの館〈9〉 バロックの真珠〈10〉 幻視の理想都市〈11〉 貴紳の邸宅〈12〉 ゆらめくアール・デコ
[xxii] 『空間へ』には「インドのモスレム建築」としてファテプール・シークリ、またモスクに触れる文章がある。そして、21世紀に入ってイスラーム圏で仕事をすることになる。
[xxiii] Spiro
Kostof, “A History of Architecture: Settings and Rituals”, Oxford University
Press, 1985:鈴木博之訳『建築全史』住まいの図書館出版局、1990年
[xxiv] 正確に言えば、磯崎が前提とするのは、同時にいくつものゲームが進行していく複雑に重なったチェスの盤であり、しかも水平な盤が重層するのではなく垂直軸ももつ立体格子(三次元空間)だとH.ホラインは言っている。
[xxv] 磯崎新・土居義岳『対論 建築と時間』(岩波書店、2001年)
[xxvi] Francis D.K. Ching, Mark M. Jarzombek,
Vikramaditya Prakash, “A Global History of Architecture”, John Wiley &
Sons, Inc。、 2007
[xxvii] 「かなり荒っぽい形態だったので審査委員の意見も割れたが、「龍馬なんだから、これくらいでちょうどいい」と委員長の私が一等に決めた」(私の履歴書24)。
[xxviii] 学生たちに占拠された第14回ミラノ・トリエンナーレ「電気的迷宮」(1968年)、「日本の時空間―間―」展(パリ、1978年-1979年)、「磯崎新1960/1990建築展」(1991年-1998年)、阪神淡路大震災をテーマにした第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展日本館展示「亀裂」(1996年)、1996年度アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー「カメラ・オブスキュラあるいは革命の建築博物館」(1996年)、「海市」-もうひとつのユートピア(1997年)、「アンビルト/反建築史」展(2002年)、「磯崎新版画展―百二十の見えない都市」(2002年)、「磯崎新:7つの自選展」(2008年)など。
[xxix] 「都市はどこへ行くか」(磯崎新・平良敬一対談『造景』1996年4月号)に建設省の「美しい街づくり懇談会」が触れられているが、僕が出会ったのはその後の「アーバン・アーキテクト」制に関わるヒヤリングの場であった。
[xxx] Committee of
Architecture and Built Environment
[xxxi] 『朝日新聞』1994.4.25~28。『磯崎新の仕事術』(王国社、1996年)所収。
[xxxii] 磯崎新+浅田彰『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』、磯崎新+浅田彰編『Any:建築と哲学をめぐるセッション1991-2008』鹿島出版会2010
[xxxiii] 『日本経済新聞』2009年5月2日~31日(全30回)。
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