現代建築家批評33 『建築ジャーナル』2010年9月号
現代建築家批評33 メディアの中の建築家たち
建築不全症候群
永遠の磯崎新[i]
磯崎新の建築作品(「建築(物)」)をGoogle Earth上にプロットしてみると何かみえて来るであろうか。磯崎新アトリエのウェブサイトには世界地図が掲げられ、主要作品がプロットされている。また、Built/Unbuiltの公式作品リストが掲げられている。
そのデビューを大分という故郷のネットワークが支えたことには触れた。生まれ故郷の久留米・九州から山陰を、日本神話を辿るように駆け上っていく菊竹清訓については前に書いたが、少なくとも日本的な建築風土においては、地縁、血縁、学閥といったネットワークが仕事の機会に結びつき、建築家がそれを飛躍の梃子にしてきたことは、これまで取り上げてきた建築家たちの場合でも同じである。磯崎の日本での作品は、何故か南北の広がりはなく、西が福岡、東は水戸、北緯34度から36度の間にほぼ直線上に並んでいる。
「サウジアラビア外務省庁舎国際設計競技」(1979)以降、国際コンペには応募し続けている。海外作品の実施設計は、1980年代初めから開始され、「ザ・パラディアム」(1985)、「MOMA」(1987)、「パラウ・サン・ジョルディ」(1990)と実現することになる。海外での仕事という意味では丹下健三チームの一員としてスコピエ市センター地区再建計画に参加しており、丹下健三の国際ネットワークも寄与しているかもしれない。しかし、1970年代の作品群が国際的に評価される中で、国際的な展覧会やシンポジウムに招待されるようになったことが大きいと思う。1970年代に入って、オイルショックが世界(とりわけ日本)を襲い、「宇宙船地球号」が意識される中で、建築、デザインの分野でも、展覧会、シンポジウム、コンペに招待される常連を中心に、CIAM以降といってもいい、国際的な建築家グループが形成される。UIA(国際建築家連盟)などとは違う次元の、特に事務局や規約を持つわけではないグループであり、「インターナショナル・デザイン・マフィア」と呼ばれるようになる。その中心には、アメリカの近代建築を支えてきたP.ジョンソンがいて、彼は「AT&Tビル」(1984、現ソニービル)によってセンセーショナルにポストモダンに舵をきってみせた。翌年「つくばセンタービル」を完成させた磯崎は、このマフィアの一員となる。その延長がAny会議であり、2000年の最後の会議のエクスカーションでは、主要メンバーはP.ジョンソン邸(「ガラスの家」)を訪問している。
細かな分析は後の建築史家に任せるとして、2000年以降、岐阜県北方町生涯学習センター(2001-2005)、福岡オリンピック計画(2006)を除く全てのプロジェクトは海外である。1995年以降を見ても、日本での作品は「秋吉台国際芸術村」(1995-1998)「セラミックパークMINO」(1996-2002)「山口情報芸術センター」(1997-2003)だけである。
磯崎新に期待されるのは、もしかすると、P.ジョンソンの後継者としての役割なのであろうか。
アルゴリズミック・アーキテクチュア
Any会議を総括する「<建築>/建築(物)/アーキテクチュア、または、あらためて「造物主義」(デモウルゴモルフィスム)」という奇妙なタイトルの文章[ii]の中で、磯崎新は、次のようにいう。いささか絶望的に響く。
「この10年程、芸術や建築についてもはや誰も語らなくなった。それでも語る必要ができてくると、芸術をアート、建築をアーキテクチュアとカタカナに読み替えて語るようになった。・・・建築不全症候群、とでも名づけておこう。建築を信じようが信じまいが、それは各人勝手である。だが、建築をその時代に通用する職業的しがらみのなかで、言い換えると社会性をもった実用物として設計し施工してみると、そこでは建築を論ずる手掛かりが消えているという恐るべき状況が到来していたのだ。建築家というタイトルを持ちながら、建築を生産しているという実感が希薄になった。そこで、デザイナー、とアーティストと自称する。この国だけでなく、全世界的に起こっていた。」
「<建築の解体>症候群」から「建築不全症候群」へ、状況はより深刻化したというか、ますますはっきりしたということである。「1968年」の時には「否定神学に到るような否あるいは反を打ちだすことで延命がはかられた」。「芸術を批判(拒否)する芸術、建築を批評(解体)する建築」という「自己言及的な批評そのものを制作の方法」にすることによってである。しかし、その方法は、最早通用しない。「建築の解体」は最終局面に入ったのではないか。 IT革命によって実現したインターネット・インフラによれば、「自己言及的な批評」などという知的操作など必要なく、マウスをクリックするだけであらゆる「デザイン」を手にすることができる。「建築ジャーナル」は次々に廃刊、建築批評の場も失われていった。建築出版物は「コーヒーテーブル・ブック」あるいは「ヴィジュアルなカタログ」に姿を変えた。
磯崎新は、コンピューター・アルゴリズムによる建築デザイン(「アルゴリズミック・アーキテクチュア」)が流行することになるという。既にそうなっているといってもいい。しかし、いくら流行ろうとも「その方法の背後に身体的な圧倒的体験の保証がない限り、建築は出現しない」ということを確認しておきたい、と磯崎は力みかえる。
そして、<建築>、建築(物)、アーキテクチュア、いずれの領域をも継ぐ鍵を握るのは、やはり、「造物主義(デミウルゴモルフィスム)」なのだ。
「建造物宣言」
Any会議の総括として「ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり」というけれど、ピンとこない。<建築>の再生については希望をつなぐにしても「ビルディングの終わり」というのは根拠がないのではないか。「ビルディング」は蔓延し、世界を覆い尽くしているのである。
「建築/建築(物)/アーキテクチュア」というタイトルを見て、否応なく想起するのは、この連載の最初(03タウンアーキテクトの可能性 ポストモダン以後 ・・・建築家の生き延びる道03)で触れた宮内康の『怨恨のユートピア』の「序にかえて」である。「「建築」から「建造物」へ」と題した短い文章だ。
「「建築」は、少なくとも近代以降の建築は、人間生活の、終わりのない技術的対象化の上に成り立っており、人がひとたびその固有の論理に身をゆだねるや、彼は、論理の自己運動の中で、「現実」あるいは「生活」から、果てしなく遠ざかり続けるという構造をもっている。」と書き出される。以下全文書き写したいが、論旨はこうだ。
近代の問題は、あらゆる分業化された領域すべてに共通するが、建築という領域は、総体としての人間生活を対象としているが故に、ある奇妙な虚構の世界をつくりあげている。それは、「技術の論理に基づいているが故に、芸術と呼ばれる諸領域のつくり出す、想像力を発条とした日常生活の否定としての、それ故にまた時にはそれが現実の総体としての反映にもなりうる、ひとつの自立した虚構の世界ではなく」、固有の内的論理を備え、一定の有効性をもった諸工学の世界とも異なる「基盤の薄弱で不確かな、形式論理の弁証法のごたまぜの領域としてあり、日常性とべったり癒着しながら、しかし日常性の真実とは奇妙に位相のずれた、独自の世界をつくりあげている」。
ここでいう「建築」とは、いわゆる「近代建築―作家としての建築家が己の幻想にまかせて作りあげる建築」であるが、明白な二元的構造をもっている。「圧倒的多数の建築は、日常性それ自体を示すかに見えるアノニマスな、むしろ「建物」と呼ぶのがふさわしい建築で占められ、「建築家」のつくるいわゆる「建築」は、その数たるやほんの一握りのものでしかない」。「建物」は、「日常性というよりむしろ経済の論理が貫徹したところで出来上がっており、それ以上でもそれ以下でもない」。「建築」は、「「経済性+α」(!)ともいえなくもなく、俗な表現を使えば、このαをいくらかでも増すべく「建築家」は、渾身の力をふりしぼるのである」。「建築」は「殆どの場合、使いにくく生活を攪乱する!」。「建築」が「建物」を啓蒙し、その全体としてのレベルを向上させるというのが、近代建築の主要な理念であった。
しかし、「建物」は一向に「建築」にならず独自の論理のもとに成長しつづけ、両者の二極分解は進行する一方である。「建築」の領域は、二重の意味で日常性の真実とずれた構造をもっている。
「「建物」としてそれは、日常性とずれ(「建物」は日常性の真実に一見みえるが、しかしそれは経済性の真実なのだから)、「建物」から「建築」へと変わろうとすることによって、それは都市の現実から微妙にしかしはっきりとずれ始めることになるのだ」。
「「建築」の領域は、従っていとも不思議な領域である。それは素人目にもその全貌が明らかに見えながら、しかし一向に素人にはわからない」。
そして、宮内康は、近代建築において、「建築」が「建物」でなくなることに成功したものとしてはファシズムのモニュメンタルな建築を超えるものはないという。そして、次のように断言する。
「権力の意志の表現としての「建築」ではなく、民衆の意志の表現としての建築があるとしたら、まずこの括弧つきの「建築」を粉砕しなければならぬ。「建築」のもつ、二重の意味での日常性との離反のメカニズムを、そのあいまいさと生活への裏切りを解体し、日常性と建築との新たな、より直接的な関係を見出す作業を執拗に続けねばならぬ。手がかりは、おそらく、あのT・モア以来のユートピアにあるかも知れない。ユートピアのもつ、あのあらたなるものと蒼古の世界との短絡と交接の構造は、われわれに、ある直接的ではあるが幻想的な、暴力的ではあるが至福に満ちた、そのような都市と建築を暗示する。その時、「建築」は、初めて括弧がとり払われ、「建物」でも「建築」でもない、あるアノニマスな建造物として出現する」。
最後のマニフェスト
1992年に癌で逝った宮内康の全著作をまとめる『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年)を刊行するにあたって磯崎新に巻頭の一文を求めた。裁判闘争にエネルギーを割かざるを得ず、建築についての発言の機会を失いつつあった宮内康を『へるめす』に招いて対談(「建築と国家」1985年、No.3)したことがあり、磯崎新の一貫する宮内康へのシンパシーを知っていたからである。そして、「『建造物宣言』の宮内康」という宮内康への決定的なオマージュを得たのであるが、それは『建築家のおくりもの』(王国社、2000年)に「宮内康 ラディカリズムの志をもった者」とタイトルを変えて収められている。
磯崎新は、そこで、上の「「建築」から「建造物」へ」の末尾を決定的なマニフェストとして引いている。そして、さらに、もっと決定的なマニフェストというのが以下である。
「つくられるべきアジテーションとしての建築、抑圧された大衆による建造物は、極くありふれたかたちをとり、しかしそのスケールは可能なかぎり大きくなければならぬ。それは、かたちの特権的なあり様をもって空間の私有化を容認するのではなく、姿かたちの馬鹿馬鹿しさをもって空間の共有化を宣言せねばならぬ。それは、全体の了解可能性と部分の不可解さにかえて、部分の限りなき透明さと全体の還元不可能性をもって答えねばならぬ。」(「アジテーションとしての建築」)
磯崎新は、宮内康のこのマニフェストを熟知しながら、大文字の建築、すなわち「建築」をあらためて語るべきであろうと考えはじめていた。そのロジック、その思考の過程は磯崎が繰り返すとおりである。「建築」を解体せよ!と言ったときには、解体の対象は「芸術としての建築」であり、19世紀的概念に縛られていたのであるが、その「」をはずすと、その超越的な概念が建造物の細部に浸透し、ロジックを不明瞭にする。建築における芸術性をはびこらせた元凶はアントロポモルフィスムと呼びうる人間主義と主体性論に収斂する近代の思考である。建築を構築と読みかえて「」をつける方策を模索し、さらには、デミウルゴスを召還するのだと、その文章でも書いている。
問題の構図は以上のようにはっきりしている。
だから、磯崎新は、宮内康の『建造物宣言』をユートピアが死んだ68年の日付をもって書かれた最後のマニフェストであったが、20年の宙吊り期間を経過して、新たな状況が組み立てられようとする新しい時代に対しての最初のマニフェストになっている、と書いたのである。
Unbuilt
しかし、最早帰趨ははっきりしている。宮内康のマニフェストはやはり最後のマニフェストのままであった。磯崎新が選びとった「大文字の建築」という仮構の平面における孤軍奮闘も先が見えてきた。世界資本主義の自己運動は<建築>も<建築家>も飲み込み、その思想的営為など全て無化しつつあるように見える。
日本建築学会の『建築雑誌』の編集長を2002年1月から2003年12月まで務めた。紙面でできることは限られている。委員会の組閣から企画に関わる全ての過程を「編集長日誌」としてウェブ上に公開した。委員会を2001年7月に組織して、いきなり9.11に遭遇することになった。
磯崎新、原広司は是非企画に巻き込みたいと思っていて、2002年11月号の特集「都市の行方―都市空間のスケッチ」[iii]でようやく磯崎新vs伊藤滋という巻頭対談を仕掛けた。二人とも超多忙で個別インタビューとならざるを得ず、振り返ってみても、当時の磯崎新の思考の核を記録できていない。
聞くべきだったのはもっとストレートに「都市構想」というのは「大文字の建築」とどう関わるか、依然として有効なのか、ということであった。伊藤滋の方法について磯崎新は「都市計画ポピュリズム」だといいながら、そのポジションにいるのであれば「都市計画法を全面的に組み替えるとか、日本の都市政策そのものを上から揺するような仕掛けをつくってほしい」としたのが印象的であった。
磯崎新は、もともとアーバン・デザイナーとして出発したといっていい。高山・丹下研は、そのまま都市工学科(1962年創設)の主幹になっていくのである[iv]。「都市デザインの方法」「日本の都市空間」など『空間へ』には数多くのアーバン・デザインに関わる論考が収められている。「現代都市における建築の概念」(『建築文化』1960年9月)という最初のエッセイにおいて、アーバン・デザインの手法を今日われわれのいう「都市組織Urban
Tissue(Fabric)」の問題として、すなわち一定の建築形式とその連結システムの問題として的確に見通している。もっとも「都市破壊業KK」(『新建築』1962年9月号)のように、Urbanics試論(大谷幸夫)のような正統的アプローチの限界も見通していた。だから、空中都市に廃墟を重ねる「孵化過程」をである。
都市の未来像を構想し、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問う構えは磯崎には当初からない[v]。そして、『建築の解体』以降、「都市からの撤退」を宣言してしまうのである。だとすれば、Unbuiltの都市構想[vi]はどのような意味をもつのか。「空想でも、夢でも、実現不可能でもいいけれど、“構想”を絵に描くことが重要だ」、しかし、「大きな計画・構想を一人の建築がつくっても、その作品は建築に過ぎない。都市にはならない」というのが先のインタビューの答えである。では、都市にはどうアプローチすればいいのか。
きみの母を犯し父を刺せ
磯崎新は、住宅は「建築」ではない、という。「小住宅設計ばんざい」(『建築文化』1958年4月)以来、磯崎新は「住宅設計」あるいは「住宅作家」を揶揄してきた。というか、本気で住宅は建築ではないと思っている。「住宅は建築か」[vii]と最近も挑発的である。「建築家とは何をすることによって建築家と呼ばれるのか。住宅設計だけで歴史的に建築家として名前の残った建築家はいない」と、「住宅設計は婦女子のやること」とまでは言わないにしても、そんなニュアンスがある。ミースにしても、ライトにしても、コルにしても住宅を多く設計したけれど、住宅から離れて大きい仕事をすることができたから建築家になれたのだ、ともいう。
その中心にあるのはnLDK批判であり、西山・吉武計画学批判である。より丁寧には「「造反有理」の頃を想い出してみた」[viii]というエッセイがある。吉武研究室の最後の大学院生である僕には他人事ではないが、nLDK批判に依存はない。施設=制度(Institution)批判と共に、むしろ僕の出発点である。「きみの母を犯し父を刺せ」というアジテーションをストレートに受け入れて出発したのである。
ただ、磯崎が<建築>を特権的に振りかざすことによって何者かを排除するのであれば、その排除される何者かの方へ赴かざるを得ない。「建物」でも「建築」でもなく、「建造物」の方へ、である。
ここで何故か前川國男の言葉を想い出す。
「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」
磯崎にしてみれば、それら全てをつなぐものこそ「造物主義(デミウルゴモルフィスム)」である。
[i] 磯崎新プロジェクト
2001 北京金融街設計競技 北京、中国 Unbuilt
2001 北京首都博物館コンペティション 北京、中国 Unbuilt
2001-2006 北方町生涯学習センター 岐阜県 Built
2002- カタール国立図書館 ドーハ、カタール Built
2002 リンカーン・センター・アヴェリーフィッシャーホール設計競技 ニューヨーク、アメリカ Unbuilt
2002 マリインスキー劇場Ⅱ国際設計競技 サンプトペテルブルグ、ロシア Unbuilt
2003 フィレンツェ新駅設計競技 フィレンツェ、イタリア Unbuilt
2003-2008 中央美術学院、現代美術館 北京、中国 Built
2003 国際汽車博覧中心及び汽車博物館設計競技 北京、中国 Unbuilt
2003- 中国国際建築芸術実践展、会議場 南京、中国 Built
2003- ヒマラヤセンター 上海、中国 Built
2003 北京図書大厦設計競技 北京、中国 Unbuilt
2003-2004 上海文化公園「海上芸園」 上海、中国 Unbuilt
2003- ミラノ・フィエラ地区再開発計画 ミラノ、イタリア Built
2003- メガロン・コンサート・ホール テサロニキ、ギリシャ Built
2004- 成都美術館コンプレックス、日本軍美術館 成都、中国 Built
2004 天津都市彫刻 天津、中国 Built
2004 清華大学講堂設計競技 北京、中国 Unbuilt
2004- ベイルート・ガーデンズ ベイルート、レバノン Built
2004- カタール国立コンベンションセンター ドーハ、カタール Built
2004-2005 ホテル・プエルタ・アメリカ マドリッド、スペイン Built
2004- 中央アジア大学コログキャンパス基本計画 コログ、タジキスタン Built
2004- 中央アジア大学ナリンキャンパス基本計画 ナリン、キルギス Built
2004- 中央アジア大学テケリキャンパス基本計画 テケリ、カザフスタン Built
2005-2006 北京油絵美術館 北京、中国 Unbuilt
2006 福岡オリンピック 福岡県 Unbuilt
2006- ホーチミン・ダイアモンドアイランド ホーチミン、ベトナム Built
2006 深圳南山区文体中心核心区建築設計競技 深圳、中国 Unbuilt
2006- 中国湿地博物館 杭州、中国 Built
2006- 林家舗エコロジーセンター 林家舗、中国 Built
2007 ハノイ市行政センター建築設計競技 ハノイ、ベトナム Unbuilt
2007 フィレンツェオペラハウス設計競技 フィレンツェ、イタリア Unbuilt
2007- ベイルート・ミカティ・コンプレックス ベイルート、レバノン Built
2007- クラコフコングレスセンター クラコフ、ポーランド Built
2007- 杭州西渓別荘 杭州、中国 Built
2008- ボローニャ新駅 ボローニャ、イタリア Built
2008 ケルンオペラハウス設計競技 ケルン、ドイツ Unbuilt
2008- キエフ文化複合施設計画設計競技 キエフ、ウクライナ Built
2008- 上海シンフォニーホール 上海、中国 Built
2008- ベルガモ・オフィスビルディング ベルガモ、イタリア Built
2008 グラナダ劇場設計競技 グラナダ、スペイン Unbuilt
2008- 和政自然歴史博物館 和政、中国 Built
[ii] 磯崎新+浅田彰『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』所収
[iii] 「「ひ(霊)」としての都市を考える」『建築雑誌』2002年11月
[iv] 実際は、林泰義、土田旭らの世代が都市プランナーの先駆となり、都市工学科の第一期生以降がその職域をひろげていくことになる。
[v] 尤も「海市」のようにあやうく実現しそうな?プロジェクトもなくはない。カタールで空中都市のような図書館が実現している。
[vi] 『UNBUILT/反建築史』TOTO出版2001年
[vii] 『住宅の射程』TOTO出版2006年
[viii] 『反回想Ⅰ』GA2001年所収
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