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2021年4月19日月曜日

現代建築家批評36 建築の根源 建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道06

現代建築家批評36 『建築ジャーナル』201012月号

現代建築家批評36 メディアの中の建築家たち


建築の根源

建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道06

 

白井晟一という希有な建築家が亡くなって(1983年)、30年近い月日が流れた。日本の近代建築を代表する建築家であった前川國男が亡くなったのはその少し後である(1986年)。二人は同い年の1905年生まれで、晩年仲がよかった。前川國男は、一足先に逝った白井晟一の葬儀で「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだ。

前川國男が亡くなって20年、2005年の暮れから2006年にかけて、前川國男の生誕百年を記念して「前川國男展」が全国各地で開かれた。同じ年の3月、前川國男の弟子であり、ともに戦後日本の建築をリードしてきた丹下健三が亡くなった。丹下健三と言えば近代日本が生んだ最大の「国際建築家」である。

その死によって否応なく時代の終焉を感じていた頃、白井晟一の次男である昱麿さんから電話があって30年振りに会った。何故か偶然、丹下健三の設計したビルの中のしゃれた居酒屋であった。積もる話に時を忘れるようであった。

取り立てて用事はないということであったけれど、白井晟一展の話があまりうまくいっていないこと、「虚白庵」を手放さざるを得ないこと、などが後になって気になった。気にしてもどうなることでもない。ただ、「虚白庵」はどうにかすべきではないかと、前川展を中心的に切り盛りした松隈洋や日本建築学会で頻繁に顔を合わせていた宇野求、早稲田で白井展を手伝ってもいいといっていた中谷礼仁には、相談を持ちかけてはみた。しかし、そのまま時が流れて年が明け、再び昱麿さんから電話があった。最後の梅見になるから虚白庵に来ないか、という誘いであった。松山巖さんに声をかけて、二人でお邪魔して楽しい時を過ごした。暗闇の中で楽しい時間を過ごした。そして、建築を志した頃のことを震えるように思い起こした。

その後の経緯は省こう。小さな声が少しずつ集まって、実行委員会とはとても呼べない集まりが出来て、ひとつの流れになった。そして、白井晟一展が実際に開催されたのである(「白井晟一 精神と空間」群馬近代県立美術館 2010年 9月11日~11月3日)。また、来年には東京のパナソニック汐留美術館でも開かれる(2011年 1月8日~3月27日)。

原点としての白井晟一

白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた(マッ)()―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,19751月号)と題した文章がそれである。『建築文化』誌(彰国社)の田尻裕彦編集長が、一体何故、大学院生で「建築」のケの字も知らない、海のものとも山のものともわからない僕を白井晟一という大建築家の作品の批評家として指名したのか、未だに謎である。

 「サンタ・キアラ館」を一日見て、「<求めよ>とささやかに彫り込まれた石の脇を抜けてキャンパスに導き入れられた私は確かに、何か別のある事件の出現を息をつめながら求めて(・・・)いた。・・・(マッ)()の周囲を徘徊する。二つの(マッ)()の交接と見えたものは、そのものズバリの官能的エロスを擽る。楕円の量塊の何ともいえない曲線と(くび)れ込んだ凹部はやけに艶かしい。そういえば私の立っているここは、うら若き乙女たちの園であった。二つの量塊のディアレクテーク。ここでは、アーティキュレートされずに、閉ざされた楕円の赤い塊りに、白い壁面と、大きく開かれた窓をもつ不定形の、鋭角の楔がしっかりと噛み合っている。二つの鮮やかな対照が淡い光の中で、対話(ディアローグ)し、交歓(コレスポンド)しているように見える」などと書いている。読み返して、「建築」に触れたという思いがありありと蘇ってくる。

 以上のみであれば、悠木一也の個人的な体験で終わったであろう。しかし、いま読み返しても恥ずかしさに顔が火照ってしまうような拙い文章が掲載されてまもなく思いもかけないことが起こった。「虚白庵」に来なさい、と声をかけて頂いたのである。出迎えてくれたのは次男の白井昱麿さんであった。本人は不在でいささか肩すかしであったが、かえって「虚白庵」を隈なく見ることができた。なんといっても「もの好きで見たがる人があっても、住居の中の公開は遠慮する」(「無窓無塵」)という「虚白庵」なのである。机の上に、道元の『正法源蔵』が毅然と置かれており、凛とした「暗闇」の身に引き締まる感覚を今でも覚えている。何よりも仰天し感激したのは、どこの馬の骨とも分からない怪しげなペンネームの筆者に、5万数千円もする、上梓されたばかりの限定番号入りの『白井晟一の建築』(中央公論社、1974年)を贈呈して頂いたことである。

 幸か不幸か、その後も白井晟一の肉声に直接接することはなかったが、白井昱麿さんが父・白井晟一を徹底的に客観視するために創刊した『白井晟一研究』(Ⅱ、1979年)に「虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」と題した文章を書く機会を与えてもった。白井晟一とその建築そのものを問うというよりも、白井を通じて、日本の「戦後建築」を問う構えをとった論考である。この白井晟一論を核にして、僕は、処女論集『戦後建築論ノート』(相模書房、1981年)を書いたのである。

 

白井神話の誕生

僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今、稀有な「建築家」であったという思いはますますつのる。

白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっての評言は「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。

 同じ1905年生まれの前川國男が、「日本相互銀行本社」(1952年)「神奈川県立図書館並びに音楽堂」(1954年)「国際文化会館」(坂倉準三,前川国男,吉村順三連名、1955年)「京都会館」(1960年)「東京文化会館」(1961年)「蛇の目ビル」(1965年)と立て続けに建築学会賞を受賞してきたのに比較して、白井晟一の評価は、それまで薄く、冷たかったといっていい。前川國男は、同じ年、「近代建築の発展への貢献」というタイトルで、1ランク上の日本建築学会大賞を受賞しているのである。

 「日本の近代建築を主導してきた前川國男」VS「近代建築の主流から外れた「異端の建築家」白井晟一」という評価がここにある。こうした構図からはいささか意外に思われるが、ふたりは交流があり晩年も『風声』同人として親しかった。同い年で、同じように戦前に渡欧した経験のある二人の建築家の対比、そして二人が共有していたものは興味深い。

受賞以降、白井晟一は一躍脚光を浴びることになる。「親和銀行」(Ⅰ期Ⅱ期)に続いて「虚白庵」「NOΛビル」「サンタ・キアラ」「懐霄館」と立て続けに傑作が発表されるのである。結果として、白井晟一を「大いに問題のある作家」といった「問題」の内容が問題であり、「疑問なしとしない」といった内容が「疑問」であったことになる。

振り返って1960年代の日本建築をリードしたのは丹下健三であった。建築ジャーナリズムを賑わした1950年代半ばの「伝統論争」において丹下健三と白井晟一は対局的と見なされた。そして、時代を制したのは丹下健三である。「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(1964)「国立屋内総合競技場」(1964)「山梨文化会館」(1966)と傑作が次々に話題を呼び、1970年の日本万国博覧会(大阪万国Expo70)のマスターデザインが時代を華々しく表現することになった。1960年代を通じて丹下健三は世界を代表する国際建築家となったのである。

しかし、1960年代末に日本の建築シーンはがらりと変わる。丹下健三の仕事は海外が主となり、日本から消えてしまう。この鮮やかな反転を象徴するのが白井晟一である。この過程を僕らははっきり証言できる。

1968

僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった[i]

磯崎について書いたけれど、「私は年齢的には1960年世代だけど、建築家としての思考のしかたは1968年に属している」[ii]と、1968年に拘り続ける建築家が磯崎新である[iii]。磯崎新は、「1968年世代」の「異議申し立て」、「反」「叛」、「造反有理」、「自己否定」に共感し、共鳴し続けるのである。その磯崎新が1968年の初頭に「凍結した時間のさなかに裸形の観念とむかい合いながら一瞬の選択に全存在を賭けることによって組み立てられた≪晟一好み≫の成立と現代建築のなかでのマニエリスト的発想の意味」[iv]という長たらしいタイトルの白井晟一論を「親和銀行本店」をめぐって書いた。この白井論の影響は圧倒的であった。

既に触れたように、丹下健三の事務所URTECを退職して磯崎新アトリエを設立する契機になった「大分県立中央図書館」によって日本建築学会賞を37歳で受賞する。白井の受賞の前年である。翌年には、これまた白井晟一に1年先んじて「建築年鑑賞」を受賞、続いて「福岡銀行大分支店」で文部大臣選奨新人賞を受賞する(1969年)。僕らは、颯爽とデビューした磯崎の白井論を読んで白井晟一を知ったのである。原広司もまた逸早く白井晟一にインタビュー[v]を試みていた。磯崎新の白井論に、宮内康[vi]、長谷川堯[vii]が続いた。原広司の『建築に何が可能か』(1967年)、宮内康の『怨恨のユートピア』(1969年)、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(1972年)、そして磯崎新の『空間へ』(1970年)『建築の解体』(1975年)は、僕らの必読書であった。新進気鋭の建築家・批評家がこぞって白井晟一へのオマージュを捧げるのである。これは、明らかに建築ジャーナリズムにおける歴史的事件であった。

聖地巡礼

僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。

「白井晟一について語ることは必ずしも容易ではない。白井晟一とその作品をめぐる言説を支える一つの出来上がった構造(いわゆる白井神話)があり、あらゆる言説がそうした前提を免れ得ないでいるからである。白井晟一の特異性を支える構造がすでに語ろうとするものの内部に存在しているのである。極端に言えば、白井晟一については、ひたすらオマージュを捧げ完全なる帰依を表白するか、ひたすら無関心を装いつつ完全なる無視を決め込むか、そのどちらかが許されているだけのように思えるほどである。しかし、当然のごとく、後者の吐露が言説として定着されないとすれば、あらゆる言説が白井神話を増幅し、彼を神格化するヴェクトルのみをもってしまうのである。その結果、白井晟一とその作品を相対化し、それなりのコンテクストへ位置づけようとする試みの方がその説得力を欠いているようにみられてしまう。神話に拮抗するだけの言説を産み出し得ないのである。」[viii]

何故、白井神話なのか。不可解だからである。白井晟一とその作品群がわからないのである。第一に、白井晟一の作品が多義的でわかりやすい位置づけを許さない。すなわち、日本の建築が語られてきたこれまでの文脈では理解できないのである。第二に、白井晟一の履歴が不明で、謎に満ちている、ということがある。謎は謎を呼ぶ。結果として、白井晟一とその作品群は多義的なテクストとして読まれ、場合によっては、矛盾を含んだ両義的な位置づけを許してしまう。

あるものはそのコスモポリタニズムを指摘し、またあるものはその日本的なるものの一貫性を指摘する。あるものはその「精神主義」を賞揚し、またあるものは「物質の肉化」をうたう。あるものは、ラディカルな「変革者」を見、またあるものは「反動的な保守主義者」をみる。あるものはその「フォルマリズム」を指摘し、またあるものはその「ラショナリズム」評価する。あるものがその「マニエリズム」を指摘すれば、あるものは「マニエリスト」とは程遠いという。

とにかく「白井晟一神話」によって、1970年代を通じて、白井晟一の作品を巡る「建築行脚」は「聖地巡礼」とも呼ばれ、建築学生あるいは若い建築家たちの必修科目となった。白井晟一の「呉羽の舎」の図面集『木造の詳細3住宅設計編(呉羽の舎)』(彰国社、1969年)は、実際設計製図の教科書だった。高崎在住で、「煥乎堂」「松井田町役場」の仕事に絡んで濃密な付き合いがあった建築家水原徳言のもとには、白井晟一を卒業論文のテーマとする建築学科の学生が度々訪れることになった[ix]

 

建築の根源

以上を枕に、展覧会の図録に、求められるままに白井晟一論を書いた。白井晟一の戦前期についても僕なりに納得できた。白井論を書き上げて、たまたま平戸に行く用事があり、佐世保で親和銀行本店・懐霄館を35年振りに見た。アーケードにファサードを塞がれ、猥雑な景観に取り囲まれながら、少なくとも外見上はびくともしないで建っていた。虚白庵も含めて、戦後建築の名作と言われた作品が次々に建て替えられていく中で、その姿は頼もしかった。建築は、やはり、容易に壊されないという表現の力が必要なのだと思う。

白井晟一について、改めて考えたのは、建築するという精神である。そうした意味で、1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らした後、建築家として生きることを決断、懸命に建築修行に没頭した時期と、書を始め、虚白庵に篭もった時期にとりわけ興味を引かれる。白井晟一がジャーナリズムを意識してきたことは間違いない。しかし、最終的には建築の根源のほうへ向かっていったように思える。

建築の根源のほうというのは、建築の生み出される現場である。建築の要素となる素材である。さらに、建築を組立てる素材である。

白井晟一の石や煉瓦への拘りは際立っている。「松井田町役場」では、上州で敷石に使われていた多胡石を使っている。「親和銀行東京支店」では四国高松郊外庵治村の花崗岩を使った。流正之の紹介だという。「大波止支店」では、九州産の粘板岩、懐霄館では諫早石が用いられた。地域産材に限らない、韓国や北欧の石も求める。直接仕事のない時には、各地の石材倉庫や石工作業を見て回った。現場の諸職には、常に「きみたちがやっている仕事、つまり建築そのものが施主なんだ。・・いつでも建築はきみたちをまん前からみている。石が、硝子が、壁が・・・みられていない瞬時もないんだよ」(「聴書 歴史へのオマージュ」)といい、竣工式の祝宴などには出なかった、という。

結局、僕が白井晟一に学んだ最大のことは、経験すること、考えること、そうした上で建てることではないか、と思い至った。

「思索と経験なんていうけれど、それは別々のものではないと思うんだ。・・・不断のエキスペリメントの中で自分をたたいていく以外ないよ。手っ取り早くはいかない。」

 



[i] 今年(2010年)417日、東京に雪が舞ったが、41年前の全く同じ日にも、東京に雪が積もったことを思い出す。「東大闘争」は、1969119日の「安田講堂」陥落の後、急速に収縮し始め、4月には授業が再開されていて、大講義室の外に季節外れの雪が積もっていくのを呆然と眺めた記憶が鮮やかである。

[ii] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので、その頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001p.20

[iii] 拙稿「磯崎新1968 ラディカリズムの原点」『建築ジャーナル』20106月号、pp.48-51

[iv] 『新建築』19682

[v] 「人間・物質・建築」『デザイン批評』676

[vi] 「近代の告発」『建築文化』19697月号

[vii] 「呼び立てる<父>の城砦」『近代建築』19721月号。

[viii] 虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」『白井晟一研究Ⅱ』1978

[ix] 水原徳言「」

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