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2021年4月10日土曜日

現代建築家批評27  言葉の力  原広司の建築手法

 現代建築家批評27 『建築ジャーナル』20103月号

現代建築家批評27 メディアの中の建築家たち


言葉の力 

原広司の建築手法

 

「均質空間」批判という世界大の問いの設定と論理的にそれを解きたい、説明したいという人並外れた意欲と執念が原広司を一貫して駆り立ててきたように見える。しかし、その一貫する追求は完結することはない。事実、各論の冒頭あるいは末尾には「論」が未完であることが必ず表明されるし、その課題設定の大きさを思えばそれも当然であろう。

原広司にとって最大の問題は、その理論的営為をどう設計につなげるか、自らの建築表現を社会の中でどう成立させるかである。そして、その意識も当初から一貫してきたように思える。「実験住宅モンテビデオ」の展覧会に即して書かれた「離散性について-連結可能性と分離可能性をめぐる小論-」(2004年)は、その建築的思索のエッセンスを繰り返しているが、「位相空間」(の概念)を説明(借用)しながら語っているのは、個人と集団の関係、コミュニティや社会のあり方である。末尾に、「都市や建築は、<共有される近傍>において、純粋に建築的に社会からは縁を切ることはできない」という。そして、直前には、自動的に高度に、惰性的につくられる都市に反撃しなければならない、と、まるで「平均化の状況における建築家の立場」を書いた頃の主張を繰り返しているかのようである。

所詮、設計は、言葉と空間の鬼ごっこなのだ、と原広司はいう[i]

一般の建築家にとって、思索の源泉は現場である。流行の哲学用語を塗(まぶ)したような建築論は敬遠される。建築界以外の一般人にも「わけがわからない」と嫌われる。建築の現場には、それなりに豊かな世界があり、下手な「理論」は不要であり、言葉さえ必要とされない。理論家肌の建築家でも、「理論」は「理論」として現実の建築へ向かう。しかし、原広司が徹底して拘るのは言葉である。

しかし、言葉のみでは完結しない世界がある。また、理論的に説明しきれない世界が建築の世界である。原広司は、この間一貫してその最前線を自らのものとして引き受けてきたように思われる。

 

 集落の教え

原広司の場合、住居集合の配列を数学的モデルによって説明することに専ら関心があり、一方で、最低限、集落調査における発見を様々なレヴェルで表現あるいは設計手法に直結(直接還元)する構えがある、と既に書いた。住居集合論を空間の集合形式に直結させる山本理顕に対して、原広司の場合、理論的営為と設計の間にはギャップあるいは飛躍があるように見える。それを埋めようとするのが「空間図式論」であり、「様相論」なのである。そして、最後まで鍵になるのが言葉である。

設計手法あるいは設計方針は、しばしば、断片的なアフォリズムのかたちで示される。

『集落の教え 100』は、見事なアフォリズム集成である。

「あらゆる部分を計画せよ、あらゆる部分をデザインせよ」(1)「同じものをつくるな。同じものなろうとするものは全て変形せよ」(2)「場所に力がある」(3)から、「地下室は、記憶の箱である」(98)「平面上のゆがみを中庭で吸収せよ」(99)「部屋の数だけ世界がある」(100)まで、それぞれに薀蓄がある。また、それぞれから原広司の設計に対する考え方、設計手法の一端を窺うことが出来る。

『集落の教え 100』は、東京大学定年退任(1997年)を画してまとめられるのであるが、『空間<機能から様相へ>』が古今東西の言説、思索をテキストとして組み立てられた建築論集であるとすれば、これは集落をテキストとしてまとめられた、そしてアフォリズム集成のかたちをとった建築論集である。補注では、1自然、2空間、3時間、4部分と全体、5様相、6情景図式、7世界風景、8場所、9記号、10空間概念、11均質空間、・・・18仕掛け/考案、19解釈、20際立った集落というフレームで、「原」理論を読み解くキーワードがまとめられてもいる。

 

 言葉と現実

 作品集は、『現代日本建築家全集〈21〉』 (三一書房、1975)で磯崎新,黒川紀章,原広司の三人の一人として扱われて以降、『GAアーキテクト世界の建築家 (13) 原広司』(A.D.A. EDITA Tokyo,1993)、『(現代の建築家) 原広司』(鹿島出版会、1995)、『Hiroshi Hara』(Wiley-Academy2001年)などがある。「伊藤邸」(1967)「慶松幼稚園」(1968)から「梅田スカイビル」(1993)「新京都駅ビル」(1997)まで、その軌跡を追う中で、作品の流れ、その画期については既に見た。

1970年代の仕事はほとんどが住居の設計であった。原広司にとって、住居の設計は、「最後の砦」としての出発点であり、また「実験住宅ラテンアメリカ」が示すように還っていく場所である、ように思える。本人は、最初からミースやコルビュジェを超えることを目指していたのだ!というかもしれないけれども、超高層や大駅ビル、大ドームを設計する大建築家になるよりも、住居集落に拘り続けた建築家であるというのが相応しいように思う。

 しかし、建築家が住居の設計のみで生きていくのは難しいし、住居を規定する現実の諸条件は極めて厳しい。これは今も1970年代も変わらない。しかし、あくまで問うのは「建築に何が可能か」である。

 「住居は規模の大きな建物に比して、きわめて現実的な設計課題として現れてきた。現実の条件の厳しさは、設計者の努力ではもはや乗り越え不可能とさえいえる場合も少なくない。しかし、問われているのは、設計者の構想力だけである。」いかなる条件の下でも、砂漠の中のテントのような住居をつくる可能性はあるのだ、実は、有り余る可能性は、このうえなく厳しい現実なのだ、というのである。

  そして、正直に次のようにも書いている。

 「告白すれば、私は「ことば」に、構法上の自由度である逃げをとった。ことばの逃げによって、「もの」としての住居を納めてきた。ことばは、事実というより希望と幻想であり、いまもなお、次にはすばらしい住居ができるかもしれないと思い続けてきた持続力である」[ii]

 

 反射性住居

 言葉にはものを展開していく力がある。原広司が選択したのは、沈黙ではなく言葉による「呼びかける力」である。「有孔体の理論」で提示されたような、建築を組み立てる方法、手法は、その後単純には展開されない。「機能から様相へ」が大きな方向である。それより、言葉の探索と言葉が喚起するイメージに大きなウエイトが置かれていく。

 「インダクション(誘導)」という概念に拘るのは、電磁気学的イメージだからだとか、「浮力」といったイメージがはっきりしてきたが、この建築的表現は未だ試みてはいないといった言い方が随所でなされるが、一般には理解されないにしても、コンセプトやアイディア、ストーリーやプログラムの説明を求めながら学生たちに設計演習を課すプロセスを考えるとよく分かる。

「粟津邸」(1972)「伊豆の釣り小屋」(1973)「原自邸」(1974)以降「住居に都市を埋蔵する」というスローガンとともに設計された、一連の「反射性住居」と命名される住居がある。この一連の住宅は、「対称性」「谷」「埋蔵」「セカンドルーフ」「混成系」といった言葉で説明されるが、一方で、住居形式のひとつの型としても提出されている[iii]。また、線対称形プランニングの手法としても検討されている[iv]

線対象形、すなわちシンメトリーの形式について、「幾何学的なものへの憧れ」「表現者の内なるファシズムへの憧れ」があるといい、「住居に適応するがゆえに意味があるのであって、公共的建築あるいは組織に対応する建築にこれを適応することは全く無意味である」と言ったりするのは実に興味深いが、その形式、手法を問い詰める思考の筋道はわかりやすい。

「対称性の強い住居は、最も安定している」、と原広司はいうけれど、「反射性住居」と命名する住居形式の基本は、「対称性」よりも、<内核>あるいは<中心>、屋根が架けられた<中庭>をもつ形式であり、古今東西、都市的集住状況における普遍的な解であることは無数の事例が示している。だから、一般的にもわかりやすい。山本理顕は、この方向を一貫して追及してきたように思えるし、都市組織研究、都市型住宅研究は、この「反射性住居」を出発点にしてきたところである。「住吉の長屋」「中野本町の家」「反住器」「幻庵」、すべて、住居形式のあり方に関わっていたのである。

 

 多層構造論

 「反射性住居」で、現代日本の住居形式について解答を得た後、原広司が展開し始めたのが「多層構造論」である。「多層構造」を意識し始めたのは「秋田邸」(1979)の頃からだと言うが、「多層構造」の基本原理は、「住居で言えば住居内の各地点を<街角>に変質させるところにある」。

 「はじめに閉じた空間があった」という公理(「有孔体の理論」)から出発し、「住居に都市を埋蔵する」(「反射性住居」)、そして、住居を都市に開いていく、そういう展開が予想され期待されるが、鏡面に虚像を<うつりこむ>とか、<光のミキサー><空気の設計><ハレーション>といった視覚に関わる手法が強調されることにおいて、また、<様相論>への移行が並行することにおいて、わかりにくくなる。

 「多層構造論のためのノート」[v]の冒頭では、「はっきりした定義はできない」などとはぐらかされるが、大雑把に理解するところ、現象を断面々々で切断して理解したり、場面々々を情景図式として把握したりする、すなわち、平面形式や空間の機能的連結ではない現象を把握する概念として採用されるのが「多層図式」であり、その「多層構造」である。

 多層図式は、時間の空間化において採用される一般的図式である、すなわち、それはわれわれの意識や記憶に関わる。一方、多層構造は、「重ね合わせる(オーバーレイ)」といった空間の操作手法として発想され、提示されたものである。すなわち、「多層構造論」は、「ラ・ヴィレット公園」の設計競技応募案(1982)に続くグラーツ・プロジェクト(1984)から構想されたものである。

 

 空中庭園―「連結超高層」

 1980年代までの以上のような原広司の思索の軌跡と「新梅田シティ・梅田スカイビル」との間には、ギャップあるいは飛躍がある。「連結超高層建築」あるいは「空中庭園」、さらに「地球外建築」へというその構想力の展開は鮮やかであったが、「反射性住居」から「多層構造論」へ突き詰めてきた理論的思索が「超高層ビル」へどう繋がっていったのかは必ずしも明かではないのである。ただ、<浮遊>の思想とともに<浮力>のイメージについて語っていたし、「閉じた空間」「反射性住居」を開いていくことが都市モデル(「未来都市500m×500m×500m1992、「地球外都市」1995)へつながっていくのは不思議ではない。理論的思索においてスケールは捨象できる。少なくとも、原広司自身には齟齬はないのであろう。

 しかし、「連結超高層」というモデルがいかなるモデルか、ということである。

 「柱は、世界軸(axis mundi)であり、言語とものが和解する装置である。直立するものは美しい。」

 集落の教え90である。

 大江健三郎と原広司の交友はよく知られるが、言葉を媒介として小説を書く行為と建築をつくる行為にお互い共鳴し、共振するものがあるからなのだと思う。大江健三郎は、「梅田スカイビル」のためにつくられたパンフレット[vi]の中で、「人間は、モデルを作る動物だ、あるいは、モデルを発見する動物だ」という。そして「小説を書くことは、言葉によって、世界―そこに宇宙へのひろがりもふくめて―、社会、そして人間のモデルを作ること」であり、「梅田スカイビル」は、「世界の塔」とともに、世界のあるいは宇宙のモデルである建築を、ものの、あるいはもののイメージのモデルによって示しているという。すなわち、モデルをつくるということにおいて、建築家の営為と小説家としての自らの営為を重ねているのである。

 確かに、「梅田スカイビル」のような連結超高層ビルはこれまでにない超高層ビルである。「新京都駅ビル」にしても、これまでにない駅ビルである。また、サッカー場と野球場を兼ねた「札幌ドーム」にしても、これまでにないドーム建築である。いずれも、モデルとなりうる建築である。

 しかし、原広司にとって問題はそれらのモデルが「均質空間」を超えているかどうか、その方向を指し示しているかどうかである。

 

 <非ず非ず>の論理

 モデルは一般化することにおいてその役割を終える。そして、集団によって、歴史によって生きられていく。原広司の作品を並べてみると、ある一定の拘りのようなものに気がつく。例えば、ガラスの使用であり、多面体の屋根である。すなわち、原作品には原らしい様相がある。原広司にとって原広司という個の表現はどのように考えられているのであろうか。

「世界の集落を調べていて知ったのであるが、伝統なる概念は、ナショナリズムに帰属するのではなく、インターナショナリズムに帰属する概念である」と、原広司はさりげなく断定的に書いている。

ヴァナキュラーな住居や集落の地域性や伝統についての関心は広く共有されているのであるが、原広司の視点はこの点でユニークである。イラク北部の住居における茶の儀式と日本のそれを比べるなどといった例が挙げられるのであるが、文化の差異を土地や地域に固有なものとするのではなく、むしろ同一性や類似性に着目することによって、世界各地の伝統はあるネットワークのもとに見えてくるというのである。

茶の文化と言えば、茶の世界史を抑えた議論を展開すべきであろうが、伝統を偏狭なナショナリズムに結び付けない眼がそこにある。また、インターナショナリズムといっても、全ての個を無差異化し、平均化するグローバリゼーションとは違う。

そうした原が日本の空間的伝統について論及するのが「<非ず非ず>と日本の空間的伝統」である。論は、インド哲学、仏教哲学、「般若心経」「中論」に入り込んで難解である。大半は、<非ず非ず>の論を全体化の論理として理解するところに費やされるのであるが、それこそが日本中世の美学が目指したものであり、日本の空間的伝統なのだという。

作品は、Aであるという回答である。しかし、論理的にそれは完結しない。ふたつの道があって、様々なヴァリエーションを生み出してその累積によって全体化を表出するか、同時にいくつもの像を重ね、事象の境界を曖昧にすることによって全体へ向かうか、原の場合、後者を選択するのであるが、それこそ日本の空間的伝統なのだ、というのである。そして、論理的には、「あると同時にないところの境界によって生成される空間」、<非ず非ず>の空間(的解釈)はヨーロッパにも当然あってしかるべきなのだ、という。

こうして、原広司は日本の空間的伝統に論理的思考の果てに行き着いてしまったようにみえる。あるいはさらなる展開はありうるのであろうか。

建築に何が可能か。

 原広司が自ら身を置いてきたのは、建築の永久革命のような場所である。

 




[i] 『空間<機能から様相へ>』(1987年)序

[ii] 「呼びかける力」『住居に都市を埋蔵する』(住まいの図書館出版局、1990年)pp.11-12

[iii] 「形式へのチチェレーネ―新しい住居形式を求めて」『別冊都市住宅 一九七五秋 住宅特集11修』鹿島出版会、1975年(『住居に都市を埋蔵する』所収)

[iv] 「線対称プランニングの成立条件と手法」『別冊都市住宅 一九七五秋 住宅特集11修』鹿島出版会、1975年(『住居に都市を埋蔵する』所収)

[v] 『建築文化』198412月号(『住居に都市を埋蔵する』所収)

[vi] 『空中庭園幻想の行方 世界の塔と地球外建築』積水ハウス梅田オペレーション株式会社1993

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