現代建築家批評32 『建築ジャーナル』2010年8月号
現代建築家批評32 メディアの中の建築家たち
デミウルゴスの召還
磯崎新の<建築>宣言[i]
磯崎新は、1991年に還暦を迎え、ロサンゼルスルス現代美術館MOCAを皮切りに回顧展「磯崎新1960/1990建築展」を開始する。と同時に、ロサンゼルスでAny会議をスタートさせる。一方でひとつの時代(「歴史の落丁」)の終わりを確認し、それと共に新たな始まりを仕掛けようとするのである。
1990年代を通じて、60年代-70年代の出来事を振り返る「・・・の頃を想いだしてみた」という文章が書かれ、2001年に『反回想Ⅰ』としてまとめられる。1996年に上梓された『建築家捜し』も60年代、70年代回顧である。そして、1990年代末には『空間へ』『建築の解体』『手法が』が復刻される。鈴木一誌の装丁による箱入りのこの復刻版は、1990年に出された『見立ての手法』『イメージゲーム』以降の『造物主議論』『始源のもどき』(1996)を含み、また『人体の影』(2000)『神の似姿』(2001)を加えて、磯崎全集9冊が刊行される。一応の集大成である。磯崎は「建造物と本という形式が好きだ」という。「<建築>を、建造物と本の両側から浮かび上がらせたい」という磯崎がそれだけの重みをこめたのがこの9冊である。
「この箱のシリーズはモニュメントにみえてしかたない」と磯崎はいうのであるが、その念頭には「モニュメンタルな「本」を拒絶して、書くこと、すなわちみずからが介入することの痕跡だけを残すことを選んで」[ii]死んだ(2004年)ジャック・デリダ[iii]がある。磯崎にとって、<建築>とはデリダのいう「本」と同義であり、解体とは書くこと(エクリチュール)である。
1990年の一年、磯崎新は『建築という形式Ⅰ』(1991)にまとめられる論考を書き続ける。ポストモダニズム建築の首謀者であるという汚名と誤解をはらすことに懸命であった。そして依拠することになるのが「大文字の建築」である。<建築>することの根拠を哲学的に追い求めることになる。その場がAny会議である。
大文字の建築
バブル経済の波に乗ってポストモダニズム建築が跋扈し始めると、とりわけ「ポストモダン・ヒストリシズム」と呼ばれる歴史主義的建築が次から次へと実現していく(消費される)状況が現出すると、磯崎新は当惑する。「そこで私は歴史的様式に設計者として手出しすることはやめた。・・・ポストモダニズムとして歴史的文書庫を荒らすヒストリシズムには加担しないことにする」[iv]けれども、そんなの関係ない。「差異の無差異化」、あらゆる差異が消費される過程で磯崎新が特権的である根拠は失われてしまう。最早、磯崎新も「ワン・オブ・ゼム」でしかない。
そこで、磯崎新が行き着くのが「大文字の建築architecture with capital
A」である。「建築の解体」を目指して出発しながら、「大文字の概念」(メタ概念)としての<建築>に行き着いてしまう。
『戦後建築の終焉』(1995年)では次のように書いた。
「何故、「大文字の建築」という概念に行き着かざるを得なかったか。皮相に解説すればこうである。「建築の解体」というマニフェスト以降、近代建築のくびきから解放されることによって、デザインのアナーキー状況が現れた。極めて素朴なリアクションは、装飾や様式のイージーな復活であり、歴史主義建築の跋扈であった。いわゆるポストモダン・デザインの百花繚乱である。記号の差異の戯れの中で、差異のみが競われる。若い世代の建築家が陸続と現れ、過激なデザインを弄ぶ。その結果、デザインの過飽和状況が訪れる。差異化の果てのホワイト・ノイズ状況である。/日本のポストモダン・デザインの先導者と目された磯崎新も、やがて、その渦に巻き込まれるようになる。磯崎もワン・オブ・ゼムの状況がくる。差異の差異化がテーマとなり、そのスピードがひたすら加速される状況下においては、だれしも中心ではありえないのである。/そこで、そうした状況を全体的に特権的に差異化するにはどうすればいいか。そこで選びとられたのが「大文字の建築」なのである。」
正直、磯崎新が「大文字の建築」に行き着いた瞬間、磯崎時代は終わったのだ、と思った。もちろん、僕にとっての磯崎時代と言うべきである。僕らが「建築の解体」という時、近代建築の規範、その理念や手法の解体のみならず、あらゆる特権的な建築のあり方そのものの解体という二重の解体を目指していたのであり、あくまでも出発点は解体の果ての「廃墟」か「全ては建築である」という地平の筈であった。
メタファーとしての建築
磯崎自身も、<建築>という大時代的なメタ概念を持ち出すことは「大きな物語」の回復であり、反動的な逆行と疑われかねないことは充分意識していた。また、「「大きい物語」の消失を語ること、そのことがグランド・セオリーを組み立てていることであり、西欧の形而上学の解体=構築(ディコンストラクション)を実践することがすなわち新しいタイプの解釈学であって、形而上学を再建していることになる、という悪循環に陥ってしまう逆説」も意識されていた。しかし、磯崎にしてみれば、「引用の領域をモダニズムが閉鎖していた歴史的文書庫にまでひろげたことによって」、「引用が意識化された方法ではなく、アナーキーな混乱を正当化するいいわけのようにみなされた」が故に、「歴史、歴史的なるもの、歴史的様式、歴史性、歴史的断片、事実など、あらためて整序しなければならない領域へとたちむかわされてしまった」のである[v]。
そして、明らかに形而上学であり、かつ「大きい物語」であった<建築>をあらためて救出し、それを議論の核心に据えることを決断する。ジャック・デリダのディコンストラクションの誤解(デコンストラクティヴィズム)は解かねばならない。「デコンの行き着く果てを挙げよ、といえば前世紀末に世界の注目を浴びた「ビルバオのグッゲンハイム美術館」(フランク・O/ゲーリー)をみるといい。私は、デリダはこれをみて嘆いたことだろうと推測する。」[vi]。
「作業が完了すれば、<建築>の死滅か回復か存続かを断言できるだろう」、「本体は解体されたのか、消失したのか、単に解体=構築(ディコンストラクト)されるだけなのか、それを見定めることが要請されている」というのが出発点である。「とはいっても見込みは薄いが」という留保も付けていた。
磯崎新は、まず、<建築>というメタ概念の成立を問うことになる。そして、その成立を近代という時代に見ることにおいて、近代を成立させた知の全領域を問うことになる。<建築>は、可視化された形式にかかわる言説としてあらわれるからである。<建築>を問うことは、それ故、それを成立させた西欧的知そのものを問うことになる。すなわち、西欧形而上学、その形式主義そのものがターゲットとなる。
とてつもない主題が設定されたことになる。これこそ「すべてが建築である」という地平というべきか。磯崎は、そこで建築論的「転倒」[vii]を目論むのである。「ひとつの思想を組み立てるに際して、枠組みをつくり、細部を序列と秩序に基づいて適切に付置させる、と仮に記述するとすれば・・・をふった用語はすべて<建築>にかかわるものになってしまう。・・・いまや哲学・思想はほとんど<建築>というメタフォアによって初めて語りえているといえるのではないか。」
建築と哲学をめぐる問いは、1990年代を通じてAny会議の場で討議され続けることになる。
造物主義論
<建築>は問うつもりがなければあらわれない、忘れていればそれですむ もしプロジェクトを構成し、これに建築的言説を組み込んだなら、それは自動的に<建築>にかかわってしまう。<建築>はたちあらわれてくるのだ。
<建築>というメタ概念が成立するのは、18世紀半ばのことだ、と磯崎はいう。そして、その成立を記述する中で、デミウルゴスを召還することになる。デミウルゴスとは、プラトンが宇宙の創生を語るに当たって『ティマイオス』に登場させる造形する神である。
「<建築>―あるいはデミウルゴスの“構築”―」[viii]は、磯崎の書く「エッセイ」のなかでも最もすぐれた論考を含むもののひとつである。
僕は、1987年に学位論文なるものを書いて、1991年に京都大学に移った。『群居』をベースに活動を続けていたけれど、バブル経済の「恩恵」というべきか、松下電器産業(原パナソニック)の建築戦略の一環に巻き込まれる形で、関西をベースとして「建築フォーラムAF」を立ち上げることになった。C.アレグザンダー、M.ハッチンソン、R.クロールを招いての「地球環境時代の建築の行方/ポストモダン以後」と題した国際フォーラムを皮切りに、磯崎新vs原広司を軸とするシンポジウムを5年にわたって仕掛けた。その全記録は『建築思潮』01~05にまとめられている[ix]。そうした縁もあって磯崎さんから次々に署名入りの本を頂いていた。正直言って、じっくり読む余裕がなかったけれど、これだけは興奮しながら読んだ。<建築>の始源の力をいきいきと描き出している。磯崎流の「近代建築史」否「全建築史」になっている。しかも、自らの作品群をビルディング・タイプ別に挟み込んである。
磯崎は、デミウルゴスを召還することで、体制を立て直すのである。その冒頭には次のようにある。
『ティマイオス』では、「宇宙は三つの究極原理によって生成することになっている。造形する神としてのデミウルゴス、眼に見えぬ永遠のモデルとしてのイデア、そして、存在者を眼にみえさせる鋳型のような役割をする受容器(リセプタクル)としての場(コーラ)。デミウルゴスは、可視的な存在としての世界を、イデアとしての世界を、イデアをモデルとして場(コーラ)のふるいにかけたうえで生成する役割を担わされている。」
「だが、デミウルゴスは、元来、靴屋や大工のような手仕事をする職人を指しているので、必ずしも万能の神のように完璧な創造をするわけではない」。そこで、職人としての建築家、工作者、テクノクラートもその範疇に含まれ、ブリコラージュのような応用的仕事や盲目的な機械仕事も行うのもデミウルゴスとも考えられるが、プラトンがデミウルゴスを登場させたのは目的論的自然論を根拠づけるためであり、「デミウルゴスは、無闇に物を生成するのではなく、職人仕事のように、目的に向かって生成する作業をする」のである。
日本的なもの
もうひとつ、磯崎が一貫して考えてきたのが、建築における「日本的なもの」である。「「日本的なもの」という主題は、私が建築家として思考を開始した1950年代の後期においては、建築界におけるメイントピックであった」[x]のである。『空間へ』に「闇の空間」という「エッセイ」がある。1964年5月の日付である。「「プロセス・プランニング論」と「闇の空間」の二つは、建築家として、私なりの方法をはじめて記述した文章だ」とそこで振り返っている。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」を手本にしながら、ヨーロッパの建築空間においては光と闇が対立的であるのに対して、日本の建築空間は闇を光がよぎるだけだ(「闇一元論」)という。また「日本の都市空間」がその少し前に書かれている。
建築における「日本的なもの」という主題についての僕の総括は『戦後建築論ノート』に譲りたい。1960年代の磯崎にとっては、1950年代の伝統論争は既に決着のついたものであったし、「1968年の思想」は、「国家」「建築」「芸術」「歴史」などのあらゆる大文字のメタ概念とともに「日本」という概念にも死を宣告していた。しかし、1970年代に再々度「日本的なもの」が問われる。磯崎新が『建築における1930年代』によってそれを確認したことは上述の通りである。
そして、1978年のパリ秋芸術祭で日本を紹介する展覧会を組織する機会を得て、「間―日本の時空間」展を企画する。いかにステレオタイプ化された日本理解(ジャポニスム、ジャポネズリ、ジャポニカ、ジャパネスク、・・・)を脱するかがテーマとなる[xi]。
その後、主として1990年代に書かれた「日本的なもの」に関わる論考は、『建築における「日本的なもの」』[xii]にまとめられる。また、福田和也との対談集『空間の行間』[xiii]がある。後者では日本建築の対象は拡げられるが、磯崎の関心が集中するのは、伊勢、桂離宮、そして重源である。英訳された[xiv]「建築における「日本的なもの」」(『批評空間』第Ⅱ期21~25号、1999-2000)は、「日本的なもの」という問題構成を軸にした日本近代建築史であり、それを桂離宮(17世紀末)、重源(12世紀末)、伊勢神宮(7世紀末)へ遡行させた磯崎流日本建築史が前者である。
Any会議
Any会議は、P.アイゼンマンと磯崎新によって発想され、スペインのイグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーを加えた3人によって開始される。事務局経費は清水建設が負担した。
Anyとは「決定不能性」を象徴するという。①Anyone(建築をめぐる思考と討議の場、1991、ロサンゼルス)②Anywhere(空間の諸問題、1992、湯布院)③Anyway(方法の諸問題、1993、バルセロナ)④Anyplace(場所の諸問題、1994、モントリオール)⑤Anywise(知の諸問題、1995、ソウル)⑥Anybody(建築的身体の諸問題、1996、ブエノス・アイレス)⑦Anyhow(実践の諸問題、1997、ロッテルダム)⑧Anytime(時間の諸問題、1998、アンカラ)⑨Anymore(グローバル化の諸問題、1999、パリ)⑩Anything(物質/ものをめぐる諸問題、2000、ニューヨーク)と続けられた。
このAny会議の討議の内容は、磯崎新+浅田彰の監修によって翻訳され、鈴木一誌の装丁になる本のシリーズによって日本には紹介されてきた。いささかタイムラグはあり、最終回(2000年)のAnythingが日本語で刊行されたのは2007年である。
浅田彰の総括によれば、「Any会議を通して新しい理論的な展望を示すことができたかというと、懐疑的にならざるをえない」けれど、旧来の理論的な枠組みが瓦解していくプロセスを体現しており、20世紀の総括という意味で意義深かったという[xv]。
具体的には、P.アイゼンマン+J.デリダ(そして、磯崎新)の脱構築の理論が支配的であったが、次第にドゥルーズ流の生気論が隆盛になっていく、という。また、「理論よりも先に、コンピューターを駆使して奔放な形態の戯れを展開するようになる」。そして、「批判理論なんかもう古い、もはやグローバル化していく資本主義の波に乗ってサーフィンしていくのみだ、というレム・コールハウス的シニシズムが支配的になる」。コールハウスは、「建築ではなく都市、さらにその背後にあるグローバル資本主義が重要なので、建築固有の理論などもはやどうでもいい」と開き直ったのだという。
1989年の後、磯崎が歴史の閾として挙げるのは1995年(阪神淡路大震災1.17)と2001年(同時多発テロ9.11)である。「私の履歴書」が1990年以降とりあげるのも、「阪神大震災」(25)と「水俣メモリアル:グラウンド・ゼロ」(26)のみである。
動き出したはずの歴史は、アメリカの一人勝ちの世界、パックス・アメリカーナへ向かった。世界システムは、アメリカ帝国が握った。日本はバブル経済が弾けて「空白の10年」に陥ることになる。そして阪神淡路大震災は、日本の都市建築に関わるパラダイムを根底的に変えることになった。
というより世界資本主義の全面展開の時代へ突入したようにみえた。アラビア半島へ、そして中国へ、システムの境界へ世界建築家たちは引き寄せられていくことになる。Any会議における議論もそうした時代の雰囲気が反映してきたのであろう。
そして、9.11が世界を震撼させた。
世界資本主義の象徴「ワールド・トレード・センター」を標的にしたこの同時多発テロは、イスラーム原理主義の側からすれば「見事な一撃」であった。「文明の衝突」を喧伝し、イスラーム世界を腕ずく押さえにかかったアメリカ帝国はイラク、アフガニスタンで泥沼に引き込まれていく。そして「グラウンド・ゼロ」コンペは、建築家たちに大きな問いを突きつけることになった。一方で、ドバイが「世界建築家」を次々に招聘し出した。
そして、2008年リーマン・ショックが全世界を襲った。そして、日米で政権交代が起こった。1990年代を通じて続けられたAny会議を総括する2冊『Any:建築と哲学をめぐるセッション1991-2008』『ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり』が出たのは、世界同時不況最中の2010年である。
磯崎新はどこへいくのか。
[i] 磯崎新プロジェクト
1990 フレジェス市現代美術館設計競技 フレジェス、フランス Unbuilt
1990-1992 有時庵 東京都 Built
1990 シュツトガルト現代美術館 シュツトガルト、ドイツ Unbuilt
1990-1994 クラコフ日本美術技術センター クラコフ、ポーランド Built
1991 ディズニー・エンプロイー・センター計画案 カリフォルニア、アメリカ Unbuilt
1991-1995 ビーコンプラザ 大分県 Built
1991-1995 豊の国情報ライブラリー 大分県 Built
1991-1995 京都コンサートホール 京都府 Built
1991-1994 奈義町現代美術館 岡山県 Built
1992 ミュンヘン近代美術館設計競技 ミュンヘン、ドイツ Unbuilt
1992-1998 なら100年会館 奈良県 Built
1992-1993 ダイムラー・ベンツ・ポツダム広場開発計画国際設計競技 ベルリン、ドイツ Unbuilt
1992-1998 ダイムラー・ベンツ・ポツダム広場計画ブロックC2+C3 ベルリン、ドイツ Built
1992-1994 中谷宇吉郎雪の科学館 石川県 Built
1993 ドナウ・シティ・ツインタワー設計競技 ウィーン、オーストリア Unbuilt
1993-1998 静岡県コンベンション・アーツセンター“グランシップ” 静岡県 Built
1993-1995 ラ・コルーニャ人間科学館 ラ・コルーニャ、スペイン Built
1993-2000 バス・ミュージアム拡張計画 フロリダ、アメリカ Built
1993-1996 岡山西警察署 岡山県 Built
1993-1994 ルイジ・ノーノの墓 ベネチア、イタリア Built
1993-1997 静岡県舞台芸術センター 静岡県 Built
1994 ボルチモア・パフォーミング・アーツ・センター設計競技 メリーランド、アメリカ Unbuilt
1994-1999 オハイオ21世紀科学産業センター オハイオ、アメリカ Built
1994-1995 海市計画 珠海、中国 Unbuilt
1995 さいたまアリーナ設計・施工提案競技 埼玉県 Unbuilt
1995-1999 県立ぐんま天文台 群馬県 Built
1995-1998 秋吉台国際芸術村 山口県 Built
1995 深圳国際交易広場設計競技 深圳、中国 Unbuilt
1995 プラド美術館拡張及び再計画設計競技 マドリッド、スペイン Unbuilt
1996 『フィレンツェ・ファッション・ビエンナーレ‘96-タイム・アンド・ファッション』展 フィレンツェ、イタリア Built
1996 ヴィクトリア・ナショナル・ギャラリー拡張計画設計競技 メルボルン、オーストラリア Unbuilt
1996-2002 セラミックパークMINO 岐阜県 Built
1997-2003 山口情報芸術センター 山口県 Built
1997 フォートワース近代美術館設計競技 テキサス、アメリカ Unbuilt
1998 中国≪国家大劇院≫建築設計競技 深圳、中国 Unbuilt
1998 ウフィッツィ美術館新玄関設計競技 フィレンツェ、イタリア Unbuilt
1998- 深圳文化センター 深圳、中国 Built
1999 深圳会議展覧中心建築設計競技 深圳、中国 Unbuilt
1999- ザ・ミレニアム・ハウス ドーハ、カタール Built
1999-2002 ラ・カイシャ財団文化展示センター新ゲート バルセロナ、スペイン Built
1999- イソザキ・アテア ウルビタリテ・プロジェクト ビルバオ、スペイン Built
2000 北京国際展覧体育中心計画設計競技 北京、中国 Unbuilt
2000-2006 トリノ2006冬季オリンピックゲーム、アイスホッケースタジアム トリノ、イタリア Built
[ii] 「アルジェからの旅立ち」『磯崎新の思考力』王国社2005
[iii] ジャック・デリダ(Jacques
Derrida,1930年7月15日
- 2004年10月8日)は、アルジェリア出身のフランスのユダヤ系哲学者。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種、差延等の概念などで知られる。フッサール研究から出発し、ニーチェやハイデッガーを批判的に発展させた。哲学のみではなく、文学、建築、演劇など多方面に影響を与えた。またヨーロッパだけでなくアメリカ、日本など広範囲に影響を与えた。代表的な著作に『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』などがある。
[iv] 「ポモ/デコン」『磯崎新の思考力』王国社2005、p157
[v] 「非都市的なるもの」『建築という形式Ⅰ』新建築社1991年
[vi] 「ポモ/デコン」『磯崎新の思考力』王国社2005、p159
[vii] 『建築という形式Ⅰ』p192-209
[viii] 『造物主義論』鹿島出版会1996年
[ix] 「建築思潮」という名前の使用については、「建築思潮研究所」を主催する平良敬一さんに許可を頂いた。
[x] 『始源のもどき』あとがき
[xi] 磯崎新と「間」展をめぐっては、求められるままにではあるが「建築のポストモダンと「間」」を書いた(『KAWASHIMA』1985年5月。布野修司建築論集Ⅰ『廃墟とバラックー建築のアジアー』彰国社1998年所収)。かなりの時間をかけて「間」についてありとあらゆる文献を読んだ記憶がある。僕にとっての最初の空間論である。
[xii] 新潮社、2003年
[xiii] 筑摩書房、2004年がある。
[xiv] Arata Isozaki, “The
Japan-ness in Architecture”, MIT Press, USA, 2006
[xv] 「Any会議が切り開いた地平」『Anything』。
0 件のコメント:
コメントを投稿