現代建築家批評30 『建築ジャーナル』2010年6月号
現代建築家批評30 メディアの中の建築家たち
1968
磯崎新:ラディカリズムの原点[i]
磯崎新が繰り返し語るエピソード、事件がある。それは1960年代に集中する。「私の履歴書」は全30回の内、19回が1970年の大阪万博までの回顧である[ii]。処女論集『空間へ』がそもそも1960年代の回顧である。2年毎に文章の書かれた背景についてのクロニクルがつけられ、最後に詳細な「年代記的ノート」が付されている。
「1960年という日付けは私に決定的な影を落としたこの年まで私は東大の大学院に籍を置いて、丹下健三研究室の設計スタッフとして図面をひいていた。博士コースの期間を延長してもらったが、その最後の年であった。丹下健三研究室では「東京計画一九六〇」として知られる、東京湾上に東京の都市軸を延長するという未来都市の計画を担当していた。交通システム、オフィスや住居の新しいビルディング・タイプの開発など、やるべき仕事は無限にあった。一方で、私の処女作になった大分県医師会館(1960年)が工事中だった。」[iii]
そして、繰り返し振り返ることになるのが1968年である。
「私は年齢的には1960年世代だけど、建築家としての思考のしかたは1968年に属している」[iv]という[v]。『反回想Ⅰ』のほとんどは1968~70年に集中している。確かに、磯崎新の思考の根底には、一貫して、「既成のもの」「旧体制」「旧制度」「エスタブリッシュメント」に対する「反」がある。「反建築史」「反回想」「反建築的ノート」・・・著書やエッセイのタイトルにも「反」が用いられる。「違反」「異議申し立て」「解体」「革命」「前衛」といった言葉が好んで使われる。1968年に大学に入った僕らの世代にとって最も親しい言葉は、「異議申し立て」であり、「反」「叛」であり、「造反有理」であり、「自己否定」であった。磯崎新の書くものに「全共闘世代」が共感し、共鳴したのは、その思考の根底において通底するものがあったからである。
60年安保
「建築家としての私の出発点」[vi]として、磯崎新は「戦争の焼跡と六〇年安保の喪失感」について語る。
「当時の私は東大の丹下研の仕事を終えると永田町の国会議事堂へ向かい、安保反対のシュプレヒコールを上げるデモに加わった。行進や集会が夜になって流れ解散すると、本郷菊坂の木賃アパートに戻る明け方まで新宿で時間をつぶす。ホワイトハウスの床に座りながら、私は夢想した。吉村が近所の酒屋から付けで買った安いウイスキーに酔いながら。これまでの概念をひっくり返すほど過激に、革新的に建築を変えることができないだろうか―。」(私の履歴書⑪)
丹下研究室での仕事、なおかつアルバイトでデビュー作となる「大分県医師会館」の仕事をしながら、磯崎新は、日米安全保障条約の日本国会での批准が成立した日のあけがた、抗議のデモ隊の一員として、首相官邸の前にいた。
「その横の細い坂道に一台の装甲車が横向きに放棄され、右翼ともおもわれる一団がこれを占拠していた。もし国会の周辺をうずめた市民や学生が、警官隊と衝突したとすれば、この小道は格好の袋小路となり、ここになだれこんだ群集は、袋だたきにあうことが予想された。私は、この装甲車を孤立させるためのバリケードのなかにいて、彼らとむき合っていたのだが、もはや深夜がすぎると、互いに疲れ気味となり、全体に無秩序となり、いり乱れ、敵味方の区別もつかず、冗談をいい合ったりした。」実にリアルな場面描写である。
「その日までに約一週間、私は連日、国会の周辺をまわった。だから、そのあけがたには、疲れきっていた。・・・・戦争の時の記憶からすれば、あの瞬間に議事堂は炎上する筈なのである。しかし、何事も起こらず、議事堂に突入しようとしたひとりの女子学生の死だけが、結果となった。・・・はりつめていた内部が崩れようとした。その瞬間、私は装甲車の上に仁王立ちになり、その一群を指揮しながら、ほとんど一晩中身動きもせずに、どこからかの合図をまっている男の眼に気づいた。」。この時、敵であった「男の眼」があざやかな記憶となって残ったという。
磯崎は、1961年に東京大学数物系大学院建築学博士課程を修了(満期退学)し、丹下健三研究室(都市建築設計研究所URTEC)に所属する。ところが、その春、突然吐き気とめまいに襲われる。これも繰り返し語られるのであるが、脳に腫瘍ができているかもしれないと疑ったというが、過労を原因とする「メニエル症候群」に罹り、数ヶ月の入院を余儀なくされるのである。岸田日出刀教授からは、ノイローゼと思われ、気分転換のためにゴルフや芸事を勧められたり、外国留学を促されたりしたという。
新宿ホワイトハウス
磯崎新が繰り返し書くエピソードの筆頭は、「ホワイトハウス」と「ハプニング」である。これは、戦後美術史の一大事件としても記憶されることになる。
磯崎新の建築家としてのデビュー作は、「大分県医師会館」(1960年)である。ところが、それ以前に吉村益信の住宅兼アトリエ「新宿ホワイトハウス」(1957年)がある。磯崎によれば、簡単なスケッチを描いただけで、吉村が大工さんに相談しながら自力で建てたもので、デビュー作という意識はない(「私の履歴書」⑪)。しかし、この「新宿ホワイトハウス」は、上述のように、「安保反対」のデモ帰りに毎夜のように入り浸る磯崎新の根城であった。
1960年、吉村益信、赤瀬川源平に加えて、荒川修作、篠原有司男、風倉省作(匠)ら、無審査公募展「読売アンデパンダン展」に出展していた若い作家たちが「ネオ・ダダ[vii](ネオ・ダダイズム・オルガナイザー)」を結成する。この「ネオ・ダダ」に蝟集した連中は、夜な夜な「ホワイトハウス」に出入りした。3度の展覧会を実施したのみで、わずか1年たらずで解体する。そしてメンバーの大半は渡米することになる。
「ハプニング」は、磯崎新の住んでいた本駒込の一軒家で行われた吉村益信の壮行会で起こった(1962年)。ネオ・ダダの面々のみならず、岡本太郎、丹下健三、瀧口修造、一柳慧らも集う宴の最中、土方巽、篠原有司男が素っ裸で屋根の上で踊り出し、スポットライトで照らし出すと、近所が警察に通報、パトカーが駆けつける騒ぎになるのである。翌日、「Something happens」という招待状を送った磯崎新は警察に出頭、公然猥褻罪にあたると諭されて、始末書をとられた。
実は、磯崎自身、岸田日出刀教授の意を受けた丹下健三の紹介するフォード財団のフェローシップの最終選考に残っており、壮行を祝われる側にいたのであるが、結果的に採用されない。再び対人恐怖症になるかもしれぬ不安な日々を送ったという。もし、渡米が実現していたら、建築家磯崎の人生は全く違ったものになったであろうか。
「ネオ・ダダ」の終焉と「ハプニング」のはしりとして記憶される事件である。「反芸術」もまた「芸術」であると磯崎は警察署で主張するのであるが、このロジックをのちに「建築の解体」について繰り返すことになる。
10年後、「雛芥子」の面々と、製図室に製図台を並べた舞台をつくって、麿赤児率いる大駱駝館の旗揚げ公演をしたことを思い出す。金粉ショーの後、異形の集団は、東大の本郷キャンパスをそのままの姿で走り回って、正門前の銭湯に飛び込んだ。安田講堂前で黒テント芝居を打ったときには総長室からの度重なる出頭要請に雲隠れを続け、公演そのものは成立させたこともある。A.ジュフロアの「芸術の廃棄」というスローガンがぴったりくる時代の雰囲気があった[viii]。ただ、その頃、ハプニングは、既に日常茶飯事になってしまっていた。
「ハプニング」で知遇を得た瀧口修造にすすめられて、磯崎新が発表したのが、「孵化過程」(1962年)[ix]である。磯崎新自身がデビュー作品とするこの「孵化過程」は、「都市デザインの方法」[x]を含み、実作としてのデビュー作品となる「大分県立大分図書館」における設計方法を一般化する「プロセス・プランニング論」とともに、繰り返し振り返られることになる。
デビュー
「私の履歴書」には、「新宿ホワイトハウス」とは、別に、「大分県医師会館」より先にデビュー作になったかもしれない一件が明かされている。大学院生だった時に万寿院別院の本堂の再建を依頼されているのである(「高崎山万寿院別院計画1959-60)。依頼したのは、父の古い友人で、大分市長であった上田保である。この市長、高崎山の猿の餌付けに成功して大分を観光名所にした名物市長となる。火野葦平の『只今零匹』の主人公として描かれ、映画化もされたという。「岸田日出刀教授に話をつけてあるから、先生の設計ということにして助手をやれ」(「私の履歴書」⑧)というのである。
岸田日出刀、丹下健三(さらに加えて、高山栄華、吉武泰水―同じ大分出身であるがほとんど語られない―)、磯崎新の関係はかなり興味深い。上田市長を介した岸田、磯崎の特別な関係、体調不良の時に親身にされた話は上で触れたが、岸田日出刀教授に「わが師丹下健三がひとことも口答えできずにどなられている光景を私は何度か目撃している」[xi]雰囲気のなかで、磯崎はこの大教授と「私的におつきあいさせていただく」ことになるのである[xii]。例えば、東京都庁舎の後に超高層の別館を建てる計画があり、1963年に欧米の市庁舎を視察に行く東京都高官のお供を磯崎新に命じたのは岸田日出刀である[xiii]。
もし万寿寺別院本堂が磯崎新のデビュー作となっていたら、磯崎の軌跡は一体どうなっていたのであろう。仏教建築の現代化にいくらかでも寄与したのであろうか。あるいは磯崎新の世界デビューにいささかの足枷になったであろうか。
上田保市長は、上述の「新世紀群」のグループ展にも現れたのだという。東大生といえば郷里の星であったということであろうか。「大分でもう一人、父の代わりのように頼ったのが、私立学校「岩田学園」を経営していた岩田正氏である」(「私の履歴書」⑧)。この岩田氏が大分県医師会副会長中山宏男氏を紹介することで実現したのが、デビュー作「大分県医師会館」である。この中山氏の自邸が「N氏邸」(1964)であり、「辛島邸」「岩田学園」(1964)「大分県立大分図書館」(現アートプラザ1966)、さらに「福岡銀行大分支店」(1966)まで、大分ネットワークが磯崎のデビューを支えることになった。磯崎は「一人のパトロンが一つの町の建物を一人の建築家に継続的に任せるという、かつては普通だったパトロネージュの仕組みは近代化の過程で失われていくが、私はその最後の恩恵にあずかることができたのであろう」という。
1963年にURTECを退職し、磯崎新アトリエを設立する。「大分県立大分図書館」の設計を受けるための会社設立であった。もともとはURTECが契約した仕事であったが、その構想を磯崎新の名前で発表したことで、会社を設立せざるをえなくなるのである(私の履歴書⑬)。
「大分県立中央図書館」は日本建築学会賞を受賞する(1967年)。また、「建築年鑑賞」(1968年)を受賞する。そして続いて「福岡銀行大分支店」で文部大臣選奨新人賞を受賞する(1969年)。30代半ば過ぎての連続受賞であったが、若い受賞といっていい。
プロセス・プランニング論
1960年に東京で「世界デザイン会議」(5月11日~16日)が開催され、それを契機にメタボリズム・グループ(菊竹清訓、槇文彦、大高正人、黒川記章、川添登)が結成される。このメタボリズム・グループは、展覧会を開催し、マニフェストを含む機関誌一冊『Metabolism/1960』を出しただけであるが、世界の建築界に大きなインパクトを与えることになる。
磯崎によれば、50年代の丹下研究室がいったん分解して、その一部がメタボリズム・グループを形成し、残りは個別の活動をはじめた、ということである。磯崎新は、メタボリズム・グループに誘われるが、「安保がらみのこと」また「大分県医師会館」で忙しかったこともあり、また「何となく気が進まず」加わらない[xiv]。当時は、自分のやっていることとメタボリズムの違いはわからなかったというが、やがてメタボリズムとの距離、それへの批判を繰り返し書くことになる[xv]。
「海上都市」「塔状都市」「垂直壁都市」「農村都市」・・・といったメタボリズム・グループの建築家たちの未来都市の諸提案と「空中都市」の「孵化過程」というかたちでの表現の差異にその距離は示されていた。世界観であり、認識論であり、設計方法でもあるメタボリズム[xvi]は、計量可能かつ予測可能な時間にのみ基づいており、その歴史観、すなわち、その伝統論や未来論も、基本的に均質な時間の連続的な流れを前提としていた。また、メタボリズムには、アーバニゼーションとテクノロジーに対する素朴な信頼があり、成長と変化に対応しうる建築構造やシステムの提案、すなわち時間の技術化の提案によって「近代建築」の正統なる継承を目指そうとしたにすぎない。磯崎は、その未来主義、技術主義、支配の論理、計画主義を批判することによって、1970年代の建築をリードすることになるのである。
「1968年の思想」
「大分県立中央図書館」によって将来を期待される建築家として本格デビューするけれど、丹下研究室との関係は継続される。大分での仕事の一方で、「スコピエ計画」[xvii]そして「大阪万博EXPO’70」会場計画に関わることになる。並行して、福岡相互銀行長住支店・六本松支店(1971)、福岡相互銀行本店(1972)の設計を進めることになる。
そして、「建築家として自立して最初の10年間に記録されるべき日付」1968年がやってくる。あらゆるエスタブリッシュメント(既成権力)とそれを支える制度そのものへの「異議申し立て」を行う、世界中で巻き起こった若者たちの叛乱の中で、磯崎新は、「保持不能とみえるほどの捻れた姿勢」をとらされ、「職業としてEXPO’70に加担し、同時にこれに反対する勢力に同調するというアクロバット」を強いられることになった[xviii]。
第一に、「ミラノ・トリエンナーレ」が学生や若いアーティストによって占拠される事件に遭遇したということがある。パリの「五月革命」の波はミラノに及んでいた。磯崎は、「占拠賛成」の署名を行う。「体制のノーを叫ぶ彼らに共感していたし、自分の展示の内容[xix]を考えれば当然だ、と考えた」のである。しかし、ディレクターにしかられる。「私は自分が攻撃する側にいると思いながら、実は学生たちの攻撃の対象だったことに気が付いた。どんな異議申し立てをしようとも、イベントにかかわる以上、制度への加担者なのである」(私の履歴書⑲)
そして、1968年から1970年にかけて、EXPO’70の仕事をしていた東京のアトリエがあったお茶の水は、しばしば街頭闘争を繰り広げる争乱の場となったということがある。「この争乱の敵役、既成権力による国家的祝祭の仕掛けとしての万博と、この闘争へのシンパシーとは相容れることがない」[xx]。「身動きならぬダブルバインド」の只中におかれ、分裂症状を呈し、身体が不調となるほど精神的、肉体的にきつかった。
しかし、それにも関わらず、磯崎新は「1968年の思想」に拘り続ける。「1968年の思想」は、挫折したと考えるにも関わらず、である。
「いっさいの、大文字になった、すなわち形而上学と化した概念(<人間>、<芸術>、<建築>、<中心>、<西欧>、<男根>、<美術館>、<構造>、<左右対立>・・・)の死を宣告する思想」に磯崎は拘り続ける。そして、「この年にまきこまれた事件や、直感的に感知していた方向性や、共感を示した思想や作品にたいして、やっぱり私はいまも引きずられているだけでなく、積極的に責任をとろうと考えている」とまでいう。
EXPO’70
磯崎新は、66年以降、まる5年の間、コア・スタッフ(プロジェクト・アーキテクト)のひとりとして、「大阪万博」の会場計画へ深く関り、様々な政治力学が鬩ぎ合う「渦中」に置かれ、翻弄された。『空間へ』において、既に「日本万国博に関していえば、ほんとにしんどかったという他ない。・・・いま、戦争遂行者に加担したような、膨大な量の疲労感と、割り切れない、かみきることのできないにがさを味わっている。・・・おそらくそれは当初から加担し、途中で心情的に脱落しながら、脱出の論理を捜しえずに、遂におもてむきの義理をはたすため、最後まで関係を保ちつづけたという事実によることはあきらかだ。脱落の端初は、万国博がテクノクラート支配で貫徹される見込みがついたときだ。・・」と書いている。ダブルバインドによって自己心身が引き裂かれるという次元とは別の次元でもテクノクラシー支配の現実とのすさまじい葛藤とその結末が磯崎に与えた亀裂も大きい。
時を経て、より具体的にその「渦中」が明らかにされている[xxi]。
東大・丹下健三チームvs京大・西山夘三チームの主導権争いに巻き込まれ、磯崎新が西山夘三の降板について京都大学の重鎮に相談したエピソード、丹下チーム案を西山夘三教授に了承をとりに旅先まで追っかけたエピソード、その案が『朝日新聞』の一面にすっぱ抜かれたエピソードなど様々な裏話には事欠かない。この丹下vs西山の葛藤については、僕が京大に移った直後に、「東大チームの参謀である磯崎新と丁々発止でやりあった」という上田篤先生から何度か話を聞く機会があった。また、『建築思潮』02号(学芸出版社、1993年)が記録しているが、磯崎・原対談でEXPO’70のについて語るのを直に聞いたこともある。京大側からは、海藤清信がEXPO’70の会場計画の顛末に迫っている[xxii]。
しかし、磯崎新が翻弄されたのは学閥次元の争いにとどまらない。政官学産の巨大な構造に飲み込まれるのである。そこで、心底学んだのは、「計画するとは、虚構でしかない」「ビッグ・プロジェクトは政治力学によって進行する。民主的決定なんかのぞめず、政治的な決定しかない」・・・である。
[i] 磯崎新プロジェクト
1959-1960 高崎山万寿寺別院計画 大分県 Unbuilt
1959-1960 大分県立医師会館 大分県 Built
1960-1961 東京計画〔丹下健三研究室〕 東京都 Unbuilt
1960-1962 空中都市 東京都 Unbuilt
1961 プジョービル計画案 ブエノスアイレス、アルゼンチン Unbuilt
1962-1966 大分県立中央図書館 大分県 Built
1963 丸の内計画 東京都 Unbuilt
1963-1964 岩田学園 大分県 Built
1965 スコピエ市センター地区再建計画〔丹下健三チーム〕 スコピエ、ユーゴスラビア Built
1968-1969 A邸計画案 福岡県 Unbuilt
1966-1970 EXPO’70お祭り広場基本構想と諸装置設計 大阪府 Built
[ii] 「大分県医師会館」「都市計画」「ホワイトハウス」「ハプニング」「孵化過程」「渡欧」「アートセンター」「西山構想」「お祭り広場」「開幕前夜」「トリエンナール」、
[iii] 「一九六〇年の刻印」『<ネオ・ダダJAPAN1958-1998>展』カタログ、大分市教育委員会、1998年。『反回想Ⅰ』(GA,2001年)所収。
[iv] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので、その頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001)p.20
[v] 「何だか性懲りもなく、1968年にもどってしまう」「第六章 「歴史の落丁」がはじまった1968年の頃を想い出してみた」p.153
[vi] 『磯崎新の仕事術』(王国社、1996年)
[vii] ロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズといった画家、ハプニングなどのパフォーマンスアート活動を行っていたアラン・カプロー、クレス・オルデンバーグ、ジム・ダインなどの作家たちを一括りにして、美術評論家ハロルド・ローゼンバーグがネオ・ダダNeo-Dadaと名づけたことにはじまる。1950年代後半から1960年代のアメリカ合衆国の芸術運動をいう。
[viii] 「芸術とコンテスタシオン」 ,螺旋工房クロニクル,『建築文化』,彰国社,197804
[ix] 『美術手帖』増刊号、1962年4月。最初の都市構想プロジェクト「新宿計画(淀橋浄水場跡地開発計画)」(1961年)が基になっている。
[x] 『日本の都市デザイン』『建築文化』1963年12月号
[xi] 岸田日出刀と丹下健三の関係を「自然」と「作為」という概念をもとに読み解く磯崎の岸田日出刀論は実に興味深い。
[xii] 最初の離婚のトラブルにまで岸田日出刀夫妻を巻き込んでしまったという。『建物が残った』p.54
[xiii] 「戦後モダニズム建築の軌跡・丹下健三とその時代」『磯崎新の思考力』pp.82-85
[xiv] 「当初はおそらく乗りおくれただけである」『空間へ』p496。しかし、メタボリズム・グループが企画した展覧会に、一旦は出展を拒否されている。
[xv] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので、その頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001)
[xvi] 「近代建築」批判(乗り越え)を標榜して、成長、変化、代謝、過程、流動性といった時間の諸概念を建築に導入したメタボリズム・グループが究極的に行き着いたのは、カプセルという建築概念であり、そのカプセルによって構成されるメタポリスという都市後の都市の概念である。諸装置のビルトインされた異動空間単位としてのカプセルという概念は、空間そのものが交換(移動)可能であること、場所から切り離された普遍性、均質性を保持すること、従って、空間そのものが工業生産される商品となりうること、さらに成長、変化に対応することにおいて、時間をも空間化しうること、すなわち無差異化しうることをその前提としている。
[xvii] 1963年の地震で破壊されたスコピエの再建のための国際コンペで丹下研究室案が一等となり、制作担当者として、渡辺定夫、谷口吉生の3人で現地に駐在した。
[xviii] 「1960年の刻印」『反回想Ⅰ』(GA,2001)
[xix] 破壊(死)と再生(生)を繰り返す都市の姿を具体的に提示する「ふたたび廃墟になったヒロシマ」という未来の廃墟のモンタージュなど。
[xx] 「第十章 『手法が』の頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001)p250-264
[xxi] 「また万博が噂されているので、EXPO’70の頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001)p.182-197.「戦後モダニズム建築の軌跡・丹下健三とその時代」『磯崎新の思考力』p.111-115など。
[xxii] 「第5章 大阪万博と西山夘三」『西山夘三の住宅・都市論 その現代的検証』住田昌二+西山夘三記念すまい・まちづくり文庫、日本経済評論社2007年
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