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2021年3月31日水曜日

現代建築家批評17  形態は生産を刺激する  石山修武の建築思想

 現代建築家批評17 『建築ジャーナル』20085月号

現代建築家批評17 メディアの中の建築家たち


形態は生産を刺激する

石山修武の建築思想

 

 石山修武に、いわゆる「建築論」を展開する著書はない[i]。修士論文は『近代建築史における正統と異端』(1968年)というが、その後、「論文」と呼べる論文を書いてはいない[ii]。『バラック浄土』以降、数多くの本を、「自己運動」の記録として、またさらなる「運動」へ向けてのメディアとして、公にしてきているけれど、著書のほとんど全ては「ブログ」のようである。そして、その建築思想は、膨大な言葉の海の中で、断片的に語られるだけである。

安藤忠雄のようにコンクリートの幾何学をとことんつきつめるのでもなく、藤森のように建築の始原へ単純に回帰するのでもなく、伊東豊雄のように新奇な形態を求め続けるのでもなく、山本理顕のように社会のかたちと建築のかたちの関係を理論的につきつめるのでもない。

しかし、一連のコルゲートの住宅を「幻庵」に結晶させ、「開拓者の家」で一般解を確認(川井自邸を追体験)すると同時に、「卵形ドーム」等でバックミンスター・フラーのジオデシック・ドームを手の内にした頃、そして、コンテナを積んだ「神官の間」(1987年)までは、石山の位置は明快であった。建築家のポジションとして、安藤―山本、伊東―藤森がX,Y2軸の平面の場を設定するとすれば、石山は明らかに原点に位置して、3次元の下方に位置する筈であった。すなわち、石山は建築の工業的生産システムそのものを前提として、平たく言えば、工業製品を建材として建築表現の可能性を追求するのが石山修武の持ち場であった。

コルゲート住宅にしても、フラードームにしても、石山のオリジナルではない。川合健二にしても、フラーにしても、地球大の建築思想がある。石山が深く二人の建築思想に共鳴して出発したことは明らかである。しかし、システムそのものを提案する位相と石山が出発しようとした位相との間には、産業社会に対する期待や信頼において大きなずれがあった。

石山は、振り返って、「僕はやっぱり川合健二、バックミンスター・フラー、・・・流れとしたらそういう人たちの考え方をベースにしている・・・そういう人たちの考え方をベースとして、時々表現という演技はして見せるゾというような感じですね」[iii]という。

果たして、石山のやってきたのは「表現という演技」にすぎなかったのであろうか。

  

 小さな家の設計は可能か?

石山修武の初心、「建築(住宅)理論」の核は、『「秋葉原」感覚で住宅を考える』に最もシャープに示されている、と思う。その冒頭で、「小さな家の設計は可能か?」[iv]と石山修武は問う。そして、「建築家は無力である」と書き、「建築家は無力であってはならない」と書く。『住宅道楽』(講談社選書メチエ、1997年)には、「住宅建築家宣言」があり、「小住宅の可能性」を問う論考と共に、「世田谷村」へ至る住宅設計の悪戦苦闘が綴られている。

戦後まもなく、全ての「建築家」にとって共通に取り組むべきテーマは「住宅」であった。420万戸の住宅が不足する中で、住宅建設は喫緊の課題であったのである。その大課題に対して、建築家たちが採ろうとした方法にはいくつかの流れがあった。それぞれの流れの帰趨については『戦後建築論ノート』[v]に譲るが、1960年前後に住宅は「建築家」の主要なテーマでなくなる。変わって大テーマとなったのが、都市プロジェクトであり、アーバン・デザインであった。

八田利也の『小住宅設計ばんざい』(1958年)篠原一男の『住宅は芸術である』(1962年)が書かれたことが示すように、住宅の設計は、極く小さな回路の仕事に封じ込められてしまう。そして、60年代を通じて主役に躍り出たのが住宅メーカーである。「ミゼットハウス」(1959年)を嚆矢として出現した工業化住宅は10年後には住宅生産の1割を占めようとするまでに至る。日本に住宅産業が成立するのである。一方で、公団・公社・公営住宅の公的住宅供給の回路、他方、住宅メーカーによる住宅販売の回路、建築家が直接関与する機会はますます失われていく。1960年代末に至って、「建築家」に住宅設計を依頼する層が出現してくるのに合わせて創刊されたのが『都市住居』である。この『都市住居』が、次の世代の若い建築家が育っていくメディアになったこと、そして、原広司の「住居に都市を埋蔵する」、「最後の砦として住宅設計」という指針が若い建築家たちの指針になっていたことは、これまで繰り返し触れてきた通りである。

石山修武のコルゲート・パイプの住宅と「D-D方式」、そして大野勝彦の「セキスイハイムM1」は、住宅生産流通システムの全体、住宅産業を土俵とすることにおいてラディカルであった。『群居』が再構築しようとしたのは、「建築家」によるこの住宅戦線なのである。

 

 オープンシステムとフリーマーケット

「電気製品に秋葉原があり、カメラに新宿西口があり、雑貨に上野アメ横があるように、住宅にだって、自由な価格競争のおこなわれる、真のマーケットがある筈だ」というのが『「秋葉原」感覚で住宅を考える』の帯(キャッチコピー)である。「日本の住宅の価格、どこかおかしいぞ」「安くて、丈夫で、美しい、そんな家がなぜ持てないのだろう?」「住宅にも、フリーマーケット感覚を!」というのは今日でもわかりやすいスローガンである。住宅産業を支える基本的理念も基本的には同じである。しかし、住宅産業には「ブラック・ボックス」がある、という告発がそこに込められていたのである。

しかし、そもそも住宅は工業製品とは異なる。建築(住宅)は、基本的に「地」のものである。大野勝彦の「セキスイハイムM1」の場合、95%工場生産化されるけれど、具体的な敷地に据えられてこそ建築(住宅)であるとすれば100%工場生産化されることはあり得ないことである。車も飛行機もコンピューターも「全てが建築である」(H.ホライン)というのは「建築家」の夢である。石山もまたそれを共有するけれど、「住宅」そのものを「商品」としてフリーマーケットに委ねようというわけではない。石山の念頭にあったのは、住宅部品のフリーマーケットである。大量に工業生産されるものを使えば、もっと安く住宅をつくれる、というのが石山の主張であった。

 『群居』における石山修武と大野勝彦の間の争点は、オープン部品のあり方をめぐって、一定の生産システムを想定するか、セルフビルドを前提として住宅部品の全体マーケットを想定するかにあった。

「私たちの手元には工業化の方法はないと考えた方がいい。・・・いま何らかの手段を講じなければならぬのは、このブラック・ボックスの分解と再構成の方法を呈示することである。建設技術や工業製品の生産技術そのものに眼を向けるよりも、マーケットでの技術の流通の実相を把握することである。」と石山は書いている。

工業化構法を前提としながら、延々と「No.住宅」をつくり続けた池辺陽の例がある。それに対してビルディング・エレメント論から建築生産のオープンシステム論を展開する内田祥哉がいて、その弟子が大野勝彦である。工業化住宅として年間1万棟を超えるシェアを獲得した「セキスイハイムM1」にしても、それが「全体」を覆うことはありえないことははっきりしていた。

 

 「自己表現」のためのセルフビルド

 『「秋葉原」感覚で住宅を考える』は、石山の多くの著作がそうであるように、直接、「膨大な大衆」に訴えかける構えをとっている。「素人でも家は建てられる」[vi]、石山修武の住宅論は、直接「素人」にも向けられる。石山には「私たちも膨大な大衆の一断片として社会に漂っている」という感覚が当初よりある。『バラック浄土』が原点であり、無数のバラッカー、セルフビルダーへの共感が出発点にあるのである。

 しかし、出発点において、予め次のステップが問題であった。要するに個をどう「ひとつの全体」へつなげていくのか、それが問題なのである。石山修武がまずエールを送り、連帯しようとしたのが職人たちであった。

 「全国に散在する地場の工務店、そして、そこを拠り所にする大工さん、各種の職人さん諸君。更に、全国の中小、あるいは弱小建売業者諸君」と石山は呼びかける[vii]。「諸君が日本の住宅生産の、そして、その流通の主役であることはまぎれもない現実である。諸君は、その土地柄、風俗、習慣、趣向、気質といったことを知り抜き、身につけているひとたちである。別の言い方をするならば、風土固有の生産の形態を先験的に身につけている人々である。」。

石山は、こうして職人の方へ向かい、 大野勝彦は、地域住宅(HOPE)計画を仕掛けながら、『地域住宅工房のネットワーク―住まいから町へ、町から住まいへ』(彰国社 1988)の構築へ向かうことになった[viii]

 石山が工業社会において「奇人変人」に貶められてしまったセルフビルダーに眼を注ぐだけに終始したのですれば、「伊豆長八記念」以降の展開はありえなかった筈である。

 「この本は、自己表現のガイドブックである」と、2008年になってまとめた本が『セルフビルド SELF BUILD 自分で家を建てるということ』(交通新聞社)である。ホームレスのシェルター(完全0ハウス)やモビールハウス(モバイル電化ハウス)の中に、川合健二邸や「開拓者の家」の他、磯崎新の「隠れ家」、藤森照信の「神長官守矢史料館」、そして「ひろしまハウス」「世田谷村」も含まれている。

 誰もが建築家であり得る[ix]。自己表現するセルフビルダーにとどまるとすれば、また回帰していくのであるとすれば、「世田谷村」がその最終的な答えになるのであろう。

「バラック浄土」としては、あまりに「小乗」的かもしれない。

 

 鏝一本からのまちづくり

連帯を求めて、石山は「松崎町」へ向かった。部品→職人→まちづくりへという展開は、振り返って、実に鮮やかである。左官職人たちが鏝一本持ってかけつけることによってまちづくりが展開し始めるのである。

「システムか自己表現か」という問いは、石山に一貫するというより、「建築家」の思考に基底にある基本的な問いである。石山の場合、以上のように、徹底して「個から全体へ」である。しかし、石山があらたまってまちづくり論を展開することはない。石山の動きとそのネットワークの拡がりがそのまままちづくりなのである。まちづくりのプロセスと様々な仕掛けについて、われわれは『職人共和国だより 伊豆松崎町の冒険』『世界一のまちづくりだ』から多くのヒントを得ることが出来る。

メタボリズムの登場以降、1960年代を通じて、アーバン・デザインの方法、都市構成理論をめぐって、全体か個かー全体から個へ向かうのか、個から全体へ向かうのかーが問われてきた。メタボリズム・グループの建築都市論、すなわち、菊竹清訓の「代謝建築論」「か・かた・かたち」論、槇文彦の「生成建築論」「群造形論」、大高正人の「人工土地論」、黒川紀章の「行動建築論」のみならず、磯崎新の「プロセスプランニング論」、大谷幸夫の「Urbanics試論」、原広司の「有孔体理論」など、全て都市と建築をつなぐ方法をめぐっていたと言ってもいい。

しかし、1960年代の理論をめぐる議論はすぐさま醒めていく。理論より実践、大阪万国博やニュータウン計画など現実の計画が具体的な仕事になるのである。現実が理論を追い越していったといってもいいが、理論と現実との乖離が露わになったといってもいい。石山は、おそらくこの乖離をはっきりと自覚することによって出発したのである。

都市構成論のレヴェルにおいて、理論が理論にすぎないことははっきりしていた。そして、1960年代末から1970年代にかけて、とりわけオイルショック(1973年)によって、それが砂上の楼閣であったことは誰の眼にも明らかになった。石山は、この時代に『近代建築史における正統と異端』を書き、大阪万博の仕事に関わりながら、川合健二に出会い、コルゲート・パイプの住宅をつくり始めているのである。

理論より実践、砂上の楼閣ではなくリアリティ、石山の揺るぎない信念である。

 

 異形を産む生産方式

職人たちへのエールを送るに当たって、近代建築家の職能そのものの解体なくしては机上の空論に過ぎなくなる、と石山は書いている[x]。そして、C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」という概念と地下水脈をひとつにするかもしれない、という。「アーキテクト・ビルダー」論については「建築家」の生き延びるひとつの道として、本連載の第一回で書いた。

石山は、しかし、次のように書いて、一線を画する。

「クリストファー・アレグザンダーの理論は近代主義の正当な継承である。誰にでも、どこにでも、安価で快適な住環境をという理念の実現は、B.フラーのルネサンス的なヒューマニズムと共に今世紀に残された最大の課題である。しかし、それはB.フラーの世界観と同じようにある主の限界を内在させている。それは近代の工業化された国々、地域では適応することができないのだ。・・・その参加の理念はウィリアム・モリスがそうであったように、あまりにも中世主義的なのである。また、その建築はモリスのそれがそうであったように、あまりにも凡庸なものなのだ。既存の生産方式と異なる方法で建設される建築が既存の建築形式と同じであるはずがなく、しかもそれのキッチュであるはずがないのだ。・・・特異なものを考案することこそが、彼のいうアーキテクト・ビルダーの、あるいは擬洋風を建てた大棟梁たちの特権的な力であったのではなかろうか」

C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー論」の背景には「パターン・ランゲージ」論があり、設計プロセスを可能な限り論理化しようとする『形の合成に関するノートNotes on the Synthesis of Form(鹿島出版会)』(鹿島出版会、1978年)があり、その理論は極めてラショナルである。そして、「パターン」にしても基本的には普遍的なものとして呈示されている。しかし、現場で、直接組み立てる『住宅の生産』の方法は共有していた。そして、中世のマスタービルダーへ回帰できるものではないというのもその通りである。石山にとって決定的なのは、「既存の生産方式と異なる方式であれば特異な表現(異形の建築!)でなければならない」ということである。

建築生産システムがあって、個々の表現はそのベースの上に(それに寄生することによって)成り立つというのは石山の建築理論にはない。すなわち、スケルトンとインフィル、躯体システムと個々の空間(意匠)を分けるような重層的なシステムの提案は石山修武の念頭にはない。

石山は、しかも、既存の生産方式と異なる方式であれば特異な表現でなければならない、というテーゼをひっくり返す。特異なもの(形態)こそが新たな生産方式を産む、というのである。

「未見の形こそが既存の建築の生産方法、生産形態の管理されて形骸化している体系を刺激し、ゆさぶり、解体し、流動して止まぬものへと誘起する原動力になる・・形態は生産を刺激することができるのだ。」[xi]

 

 プロフェッサー・アーキテクト!?

石山修武のシステム(体系)嫌いは本能的なものである。しかし、石山の建築(住宅)論、まちづくり論は、結局、石山という個を中心とするネットワーク・システムに収斂することになる。石山の理論が全体システムへの展開を拒否し続けるとすれば、そうならざるを得ない。石山のアポリアである。

石山システムは、持続性、すなわち、技術を継承、維持していくシステムをもたない。また、地域を統合し、維持していくシステムをもたない。石山が動くところ、波紋が広がるようにネットワークが広がっていく。しかし、波紋はそのままでは消えてしまう。

 1988年に早稲田大学の教授となって、石山修武の拠点は、大学という制度の中へ移動する。石山の「建築運動」はそのことにおいて、大きく転換したようには見えない。今振り返ると、石山は、波紋を次世代に伝える大きな役割を引き受けたと考えることができるであろう。

 かつて「住宅建築家宣言」を出した[xii]石山は、「小住宅休止宣言」(1999年)を出すに至る。「もうやってられないのである」という。弟子に仕事を分配するなど、全体的な継承システムがなければ、そうなるのは必然である。石山自身が世界中の住宅をひとりで設計するわけにはいかないのである。まちづくりについても同様である。託すべきは、第二、第三の石山であり、無数の石山を育成することである。石山の遺伝子を建築教育のシステムの中にインプットできれば、その理論は一環する。

 しかし、大学という制度は、建築の生産システムと同様一筋縄ではいかない。僕は、東京大学で助手を2年間した後、東洋大学、京都大学、滋賀県立大学と私立大学、国立大学、公立大学で30年以上建築教育に携わってきた。それ故、石山修武の早稲田大学での「苦闘」はよく理解できる。『早稲田バウハウス・スクールの実験 学校をいかに暮らすか 性での試み』(早稲田バウハウス・スクール編、TOTO出版、2000年)、そして『早大石山研究室・建築は終わらない』(ごうどゆきお、王国社、2001年)を読むと、そのあり様は、ほとんど奇跡であるようにみえる。大学という、論文の本数のみを数える、ますます幼稚化する管理社会において、「職人・芸術・建築大学(A3)ワークショップ」を維持することは並大抵のことではないのである。

 しかし、つまるところ、石山のコルゲート住宅に始まる部品論、セルフビルド論、まちづくり論、職人論、まちづくり論は、徒弟制度・・・全て「世田谷村」に収約されていくように見える。果たして、石山修武は、日本一小さな村である「世田谷村」で完結してしまうのであろうか。



[i] 石山修武の著作群:『バラック浄土』 (相模書房1982年)/『「秋葉原」感覚で住宅を考える』 (晶文社1984年)/『職人共和国だより 伊豆松崎町の冒険』 (晶文社、1986年)/『笑う住宅』 (筑摩書房1986年)/『現代建築 空間と方法4』 (同朋舎1986年)/『現代の職人』 (晶文社、1991年)/『住宅病はなおらない』 (晶文社、1993年)/『世界一のまちづくりだ』 (晶文社、1994年)/『住宅道楽―自分の家は自分で建てる』 (講談社1997年) /『夢のまたゆめハウス』 (筑摩書房、1998年)/『建築はおもしろい―モノづくりの現場から』 (王国社1998年) /『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』 (デジタルハリウッド出版局1999年)/『石山修武 考える、動く、建築が変わる』 (TOTO出版1999年)

『石山修武の設計ノート―現場の声を訊け』 (王国社、2003年)

[ii] 石山自身も編者となって編んだシリーズ『都市・建築・歴史』全10巻(東京大学出版会、2006年)にも論文なるものは書いていない。

[iii] 『石山修武考える、動く、建築が変わる』(TOTO出版、1999年)。

[iv] 『「秋葉原」感覚で住宅を考える』pp.30-35

[v] 布野修司、相模書房、1981年。増補改訂『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』、れんが書房新社、1995

[vi] 『「秋葉原」感覚で住宅を考える』pp.36-46

[vii] 「全国の大工さん、職人さんにおくる演説」(『「秋葉原」感覚で住宅を考える』pp.189-198)。初出は、「ロディアの塔―大工・工務店のオヤジさん・職人さん達へー」(『群居』創刊号、19834月)。

[viii] 大野勝彦も、またまちづくりへ向かう(『七つの町づくり設計―現代の住宅』 丸善、1997年)。工業化住宅「セキスイハイムM1」で著名な大野であるが、処女著作は、『現代民家と住環境体』(SD選書105鹿島出版会1976)であり、伝統的住居への視線は既に示されている。木造住宅については、『現代の住宅―木造住宅』( 丸善、1998年)がある。

[ix] 本連載02「誰もが建築家でありうる」『建築ジャーナル』20082

[x] 2001年の左官職人」『職人共和国だより』(晶文社、1986年)pp.23-38

[xi] 『職人共和国だより』(晶文社、1986年)P34

[xii] 「第一章 住宅建築家宣言」『住宅道楽 自分の家は自分で建てる』(講談社選書メチエ、1997年)pp.10-44

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