現代建築家批評05 『建築ジャーナル』2008年5月号
現代建築家批評05 メディアの中の建築家たち
ゲリラという建築少年
安藤忠雄の建築思想
布野修司
安藤忠雄の発する建築的メッセージは実にわかりやすい。
建築に夢を!緑を!自然を!地域性を!日本精神を!
難解な建築理論や手法は安藤とは無縁である。安藤忠雄は、文章は苦手である、と自ら言う。そして実際、建築家同士が議論を展開するシンポジウムやパネル・ディスカッションは遠ざけてきたように見える。安藤の言うことは、多くの建築家にとってごく当然だから議論にならないのである。
通常の「建築家」だと照れてしまうような実に素朴な言葉を安藤は一般に向かって語りかける。安藤のテレビ・メディアを通じた話には実に説得力がある。そこに安藤忠雄の真骨頂がある。
しかし、安藤作品がその素朴な主張に答えているかどうかは別問題である。安藤論序説として既に書いたのであるが、コンクリートを主要な素材にする安藤にとって安藤にとって「自然」とは何か。安藤忠雄の「もっと緑を!」というのは、いささか薄っぺらではないか。例えば、「淡路花博覧会」というのに、建築は実に人工的である。帆立貝を百万枚集めたというけれど、死貝であって、コンクリートで固めたにすぎない。言ってることとやってることが違う、これは一般の人々の直感でもある[1]。
都市ゲリラ住居
安藤忠雄最初の文章は「都市ゲリラ住居」(別冊都市住宅『住宅第4集』、1972年)と題される。そして、「個を論理の中心に据えること、あるいは、また・・・」と書き出される。生硬な、というか、初々しい、というか、最初に作品を発表する意気込みに満ちた文章である。
論旨は明快である。
「経済的エフィシェンシーの原理」「技術進展の原理」に対して、如何に「個を論理の中心に据える」か、がテーマである。「近代資本主義論理の浸透」「高度な<情報化>と、それに伴うビューロクラシー」の中で、「<個>を思考の中心に据えること、あるいはまた、肉体的直感を基盤に据えた、自己表現としての住居をもとめること」が課題と宣言される。
同時に提示されているのは、ゲリラⅠ、ゲリラⅡ、ゲリラⅢという三つの住宅作品である。いずれも「猫のひたいほどのエリア」に建てられた独立住居である。
「中途半端な偽善的なコミュニティ論よりは、そのような都市に、それでも住みついていこうとする人々の意志と、その時の唯一の解決策を、より有効に吸いあげることの方が、はるかに、地についた行為ではないか」と安藤は明快にいう。
「外部環境の劣悪化の故に、たとえば、<ドラマティックな、内外空間の相互観入>を、空間的テーマとして追求するといったことが、幻想であり、無意味であることが、あまりにも明白である以上、・・・外部環境への<嫌悪>と、<拒絶>の意思表示としてファサードを捨象し内部空間の充実化をめざすことによって、そこにミクロコスモスを現出せしめ、あらたなリアリティをその空間に追い求めることになる」
シャープと言っていい。
東孝光の自邸「塔の家」が発表されたのは1967年である(1995年「塔の家から阿佐谷の家に至る一連の都市型住宅」として日本建築学会賞受賞)。猫の額ほどの土地でも都心に住みつく、という強烈な意志を表現する先例である。若い建築家が住宅作品によってデビューするのは常である。安藤のゲリラ住居が発表された1972年には、上述のように毛綱毅曠の「反住器」がある。『日本の住宅 戦後50年 21世紀へ』(彰国社、1995年)を編んだが、選定した50の作品の内に70年代初頭の作品が数多く含まれている。その時に「変わるものと変わらないもの」と題して次のように書いた。
「1970年代の前半に時代の転換点がある。それを象徴するのが毛綱毅曠の「反住器」であり、石山修武の「幻庵」である。それ以降、建築のポストモダンの流れが住宅において明らかになっていく。また、原広司の「最後の砦としての住宅設計」という意識、あるいは「住居に都市を埋蔵する」という方法意識が状況を表している。すなわち、第一次、第二次のオイルショックを経験した1970年代は、一般の「建築家」にとって住宅の設計が限定された表現の場であるという意識があった。そこで、近代住宅、モダンリビング、nLDKを超える試みが住宅設計における課題とされた。そして、1980年代になって、バブル期をピークに、歴史的様式や装飾の復活、地域主義、ヴァナキュラリズム、コンセプチュア・・・百花繚乱のポストモダン状況が訪れる。」
しかし、安藤の向かったのはポストモダンの方向ではなかった。
方法としての旅
安藤忠雄による著作は数多いが[2]、大半は作品集であり、直接書いた文章はそう多くはない。活字になっているのは作品発表に伴う原稿と、あとはインタヴユー、対談、講演の記録である。現在までに、講義録と呼びうるものが3冊ある。東京大学大学院での講義録『建築を語る』(1999年)『連戦連敗』(2001年)とNHK人間講座の『建築に夢を見た』(2002年)である。この3冊を中心に安藤忠雄の建築論、建築観をみよう。3つの講義はほぼ同時期に行われたものであり、当然ダブリも多い。また、それぞれの連続講義は必ずしも体系的ではない。自らの作品を中心として様々な事例を個別テーマあるいはキーワード毎に紹介するという構えがとられている。
インタビューを中心とする著作の中で、安藤はたびたび「旅」について語る。
『建築を語る』は5回の講義からなるが、本にするにあたって「序」が付され、「発想する力」と題される。最初のヨーロッパ旅行は横浜から船でナホトカに渡りシベリア鉄道で行く。帰りはマルセイユから象牙海岸、ケープタウン、マダガスカルを経由してボンベイに至り、そこで降りてベナレス(ヴァーラーナシー)に寄っている。講義はガンガの辺で「人生」「死」を思い、「ゲリラとして生きようと思った」ところから始まる。今でこそ130万円程(「ピースボート」)で世界を一周する若者向けの船旅があるが、海外渡航が自由化されたばかりの時代に、大航海時代的な旅をしたことは特筆されてもいい。大袈裟にいえば、空海が長安で「世界」を見た!と思ったような思いがあったに違いない。本人にとってこの24歳の旅が強烈なものであったことは、繰り返し彼自身が語るところである。
安藤には、『安藤忠雄の都市彷徨』(マガジンハウス、1992年)という旅そのものを主題にした本がある。『ブルータス』という一般向けの雑誌の連載をもとにしたものだ。この『ブルータス』というメディアは建築家を一般に開いていく上で大きな役割を果たすことになる。
「旅は人間をつくる。・・・旅はまた、建築家をつくる」と、安藤は冒頭に書いている。実際に建築を見ること、空間を体験すること、しかも、自らの育った文化とは異質の空間に触れることは、建築家の基本である。安藤は旅にこだわり続けてきた。後年、自らの処女世界旅行を英国の良家の子女が古典的教養を身につけるために行った「グランド・ツアー」になぞらえている。
仕事の関係でその足跡は世界に広がるが、アジアへの関心は少なくない。最初の海外旅行はボクシングのためのバンコクへの一人旅だったし、上述のように最初の洋行帰りにはインドに寄っている。また、『都市彷徨』は、NHKの番組絡みであるがベトナムのフエが最初に取り上げられている。後にも触れるが、淡路花博の会場設計にはムガル帝国第三代皇帝アクバルの設計したファテープルシークリーが下敷きにされている。
安藤建築の出発点は、おそらく名建築をトレースすること、なぞること、そして、それを敷地に適応させる(ずらす、変形させる)ことであった。
「おまえの建築はレファレンスである。それが勅諭ではなく、引喩だからいい」と、レンゾ・ピアノに言われている。そして、安藤は「過去に見たもの、自分の側にあったもの、そういうものたちが僕の血の中で凝縮され、混合され、濾過されて、あるとき突然、熱狂的なスピードで噴出してきたということであろうか」という[3]。
テキストとしての近代建築
しかし、旅先は圧倒的に欧米である。正規の建築教育を受けていない安藤忠雄にとって、旅の第一の目的は、巨匠たちの作品に学ぶことであった。具体的な内容として取り上げられるのは、専ら近代建築史に関わる建築作品である。
『都市彷徨』に取り上げられている主要な都市と建築家、作品を列挙すると、パリ、バルセロナ、セヴィリア、グラナダ、ハーグ、ベルリン、バーゼル、ウィーン、アテネ、アーメダバード、ニューヨーク、ボストン、ロスアンジェルス、マルセイユ、ローマ、ミラノ、ヴェネツィア、イスタンブール、カッパドキア、コルビュジェ、ガウディ、リートフェルト、ミケランジェロ、パラディオ、シナン、ミース、アドルフ・ロース、キースラー、フランク・O・ゲーリー、ハンス・ホライン、ファンズワース邸、ワッツ・タワー、ストックレー邸、タッセル邸、マジョリカ・ハウス、ロンシャンの教会、サグラダ・ファミリア、オルタ邸、タージ・マハル・・・となる。
それぞれについて簡単に述べよ!というと建築を学ぶ初心者たちへの試験問題になるであろう。そして、安藤忠雄の建築的関心、あるいは建築的テイストと呼びうるようなものを理解することができるだろう。
「講義」には、同じように彼が関心を抱く建築家や作品が出てくる。建築家は、誰でも、他の建築家たちの作品との距離、差異を測りながら仕事をするのである。この計測の手法が建築の土俵を分ける。安藤にとって、当初から計測の基準は近代建築の巨匠たちの作品、とりわけコルビュジェの作品だった。
安藤は次のように振り返っている。
「当時、日本の同世代の建築家の多くは、いかにしてモダニズムを彫刻するかというテーマで、それぞれ独自の展開を試みようとしていた。いまだモダニズムの問題を整理し切れていなかった私は、彼らの活躍を横目に、モダニズムをもう一度原点から問い直し、その可能性を見つめ直すことを自身の建築の目標に据えた。このスタート時点におけるモダニズムとの距離の測り方の違いが、それぞれのその後の建築活動のありようを決定づけることになったのだと思う。」[4]
素朴なナショナリズム!?:近代建築批判の位相
一方、ヴァナキュラー建築の世界についての関心も表明される。『建築に夢を見た』では、冒頭、建築の原点としての「住まい」をめぐって「集落との出会い」を語っている。また、続いて、集まって住む、集合住宅の原点として、中国福建の客家の「円形土楼」やエーゲ海のサントリーニやミコノスの集落に触れている。
1960年代の初頭以降、上述のように、日本には「デザイン・サーヴェイ」という流れがあり、各地の民家や集落への関心は存在してきた。また、グローバルには、B.ルドフスキーの『建築家なしの建築』以降、ヴァナキュラー建築への関心は存在してきた。
日本の建築家の中で「集落への旅」を方法として、住居集合の論理をつきつめ、「集落の教え」をもっぱらその建築手法としてきたのは原広司である。また、山本理顕である。もっぱら空間の形式、空間を成り立たせる制度を問題とする山本理顕に比べると、安藤の関心は一般的なレヴェルに留まっている。
安藤が述べるのは、多様なヴァナキュラー建築に対する画一的な近代建築といったわかりやすい二交対立の図式だけである。コルビュジェを敬愛し、その作品について繰り返し述べる安藤は、当然、近代住宅の基本テーゼであるその「住宅は住むため機械」「近代建築の五原則」「ドミノシステム」に触れる。そして、R.ヴェンチューリ以降の近代建築批判の潮流についても触れる。
問題は、安藤忠雄はどちらに与するのか、ということである。
そして、『住吉の長屋』を、近代を乗り越えようとする試みだという。しかし、果たしてそうか。
安藤忠雄は、当初、アドルフ・ロースのラウム・プランに傾倒しながら、小住宅設計ににとり組む。また、コルビュジェのサヴォア邸やリートフェルトのシュレーダー邸について語る。
安藤は明らかにヴェンチューリ流の近代建築批判の潮流には与しない。そして、 「僕とアール・ヌーヴォーの様式ほど不釣り合いなものはない」[5]という。
クリティカル・リージョナリズム?
安藤が自らの立場を説明する唯一のキーワードがK.フランプトンの「クリティカル・リージョナリズム」である。安藤は『建築を語る』の第1講「インターナショナリズムとナショナリズム」の中で、K.フランプトンの「批判的地域主義に向けて、抵抗の建築に関する六つの考察」[6]を引いている。K.フランプトンは、サブタイトル通り、「文化と文明」「アヴァンギャルドの興亡」「批判的地域主義と世界文化」「場所―形式の抵抗」「文化対自然―地勢、コンテスト、気候、光、構造的形態」「視覚性対触覚性」についてすぐれた考察を展開しているが、安藤の要約によると「批判的地域主義」とは以下になる。
・ 近代化に対して批判的でありながら、近代建築の進歩的な遺産を受け入れ、それを周縁的な実践に反映させること
・ 場所性に根ざし、風土性を生かした建築であること
・ 構造的真理に適った建築であること
・ 視覚だけでなく五感に訴えかける建築であること
・ 地域性を無批判に直接的形態として翻案するのではなく、モダニズムの実践として再解釈された地域性を反映させること
・ 建築の実践が、現代建築に対する積極的なクリティックとなり得ること
K.フランプトンの言説のなかには納得しかねる点もあると安藤は言うが、具体的に掘り下げられることはない。「伝統」「地域性」を一般的に対置しているにすぎないように見える。日本の近代建築の行方をめぐって、「丹下vs白井」あるいは「弥生的なるものvs縄文的なるもの」を主軸として争われた1950年代における日本の伝統論争にも触れるが、それに立ち入って論評することはない。「K.フランプトンの提唱クリティカル・リージョナリズムの論理のように系統だてたもの」ではなく、「丹下先生が言われた伝統論とはまた別」のもので、「形態の継承ではなく、精神風土の受け継ぎ方というか、町に対する建築の対処の仕方ということをどのように実際に建築に表現できるか」「日本のもののあり方、考え方、そして精神のあり方のようなもの」をどう建築に置き換えるか」が問題だというだけである。
安藤忠雄は、しばしば政治状況について触れる。事務所開設の前年、1968年の5月には、2度目の欧州旅行の途中、パリの「五月革命」のただ中にいた、という。また、ベルリンの壁の崩壊(1989年)について触れる。さらに、9.11の「同時多発テロ」についても語る。「ゲリラ」として出発した初心は、「状況に楔す」[7]「抵抗の砦」[8]といった初期の文章に見ることが出来る。しかし、以上のように、安藤の建築論は、必ずしも「ゲリラ」的でも、「抵抗」的でもない。底にあるのは、ラディカルと言うより、ナイーブな「建築少年」の「夢」である。
[1]「拝啓 安藤忠雄様 世界一美しい街とは何ですか 東京オリンピックと建築家職能」、『建築ジャーナル』
[2] 『安藤忠雄』(SD編集部編)、鹿島出版会、1982年3月/「安藤忠雄のディテール―原図集 六甲の集合住宅・住吉の長屋」、彰国社、1984年1月/『交感スルデザイン』、六耀社、1985年9月/日本の建築家編集部『安藤忠雄―挑発する箱』、丸善、1986年1月/『旅―インド・トルコ・沖縄』(住まい学大系20)、住まいの図書館出版局(発売:星雲社)、1989年3月/『安藤忠雄2: 1981‐1989』(SD編集部編)、鹿島出版会、1990年12月/『安藤忠雄の都市彷徨』、マガジンハウス、1992年5月/『安藤忠雄3: アンビルト・プロジェクト (1975-1991) 』(SD編集部編)、鹿島出版会、1993年11月/『安藤忠雄ディテール集』(二川幸夫企画編集)、A.D.A.Edita Tokyo、1991年10月 /『サントリーミュージアム天保山』(三宅理一と共著)、鹿島出版会、1995年10月/『安藤忠雄の夢構想―震災復興と大阪湾ベイエリアプロジェクト』、朝日新聞社、1995年10月/『現代デザインを学ぶ人のために』(嶋田厚ほかと共著)、世界思想社、1996年6月/『家』(住まい学大系76)、住まいの図書館出版局(発売:星雲社)、1996年7月/『直島コンテンポラリーアートミュージアム』(三宅理一と共著)、鹿島出版会、1996年9月/東京大学工学部建築学科安藤忠雄研究室『建築家たちの20代』、TOTO出版、1999年4月/『建築を語る』、東京大学出版会、1999年6月/『淡路夢舞台―千年庭園の記録』、新建築社、2000年5月/『大工道具から世界が見える―建築・民俗・歴史そして文化』(西和夫ほかと共著)、五月書房、2001年4月/『連戦連敗』、東京大学出版会、2001年9月/『建築に夢をみた』(NHKライブラリー149)、日本放送出版協会、2002年4月/Tadao Ando : light and water. New York : Monacelli Pres.
2003./『格闘わが建築 : 安藤忠雄 :
Tadao Ando』(DVD)、NHKソフトウェア・コロムビアミュージックエンタテインメント、2003年3月/『ル・コルビュジエの勇気ある住宅』、新潮社、2004年9月/『光の色』(リチャード・ペア撮影)ファイドン、2004年10月/『安藤忠雄建築手法』(二川幸夫企画・編集・インタヴュー)、エーディーエー・エディタ・トーキョー、2005年2月/『住宅の射程』(磯崎新ほかと共著)、TOTO出版、2006年10月/『安藤忠雄の建築1 住宅』、TOTO出版、2007年
[3] 『安藤忠雄の都市彷徨』、p49
[4] 『安藤忠雄の建築1 住宅』、TOTO出版、2007年。P72
[5] 『安藤忠雄の都市彷徨』、1992年、p154
[6] ハル・フォスター編、『反美学―ポストモダンの諸相』、室井尚+吉岡洋訳、勁草書房、1987年(Foster, Hal(Ed.),”The Anti-Aesthetic:
essays on postmodern culture”,Bay Press,1983)
[7] 『新建築』、1978年2月号
[8] 「新建築住宅設計競技、審査員からのメッセージ」、『住宅特集』、1985年冬号
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