現代建築家批評02 『建築ジャーナル』 2008年2月号
現代建築家批評02 メディアの中の建築家たち
誰もが建築家でありうる
ポストモダン以後・・・建築家の生き延びる道02
古典的な建築家の理念、すなわち、設計と施工は分離すべし、施主と施工者の間にあって、第三者として公共的利益を代弁するのがその職能である、という「建築家」の理念は、1970年代半ばの日本で大きく揺さぶられることになった。
設計料ダンピングを理由に「日本建築家協会(JIA)」を除名された、ある「建築家」の訴えで、「建築家」すなわち「建築士事務所の開設者」は、独占禁止法にいう「事業者」か否か、また建設事務所の開設者を構成員とする「日本建築家協会(JIA)」は「事業者団体」か否か、をめぐって、裁判が起こされたのである(1976年)。いわゆる「公取問題」である。
そして、1979年9月19日、公正取引委員会によって、日本建築家協会に対する「違法宣言審決」が出された。
「芸術家としての建築家」「フリーランスの建築家」「世界建築家」というのは幻想であった。「建築家」もただの「事業者」に過ぎない、というのが結論である。実態として、また法的な存在規定として当然のことだ、と当時思った。「建築家」幻想(「芸術家としての建築家」「フリーランスの建築家」「世界建築家」)はしばしば有害である、と思ったし、今でもそう思う。
それでは、「建築家」とは何か。
新たな職能像が求められる中で、地域で仕事をする建築家たちがどう生きるかという切実な模索の中で「アーキテクト・ビルダー」は魅力的な理念であった。少なくともひとつの手掛かりになると思った。「アーキテクト・ビルダー」とは、中世のマスター・ビルダーへの回帰ではない。その現代的蘇生である。実際、少なくとも住宅規模の建築においては、設計施工一貫(デザイン・ビルド)の方がはるかにいい建築がつくれる、ということがある。また、住宅設計で「確認申請」用の図面を書くだけ(「代願」)では食えない、という実態があった(ある)。
建築をつくらない建築家
祖父が大工で、父親も工業高校で建築を学んで県庁所在地とは言え小さな地方都市で建築行政に携わっていた、そんな血筋の息子であったけれど、僕は、建築家になろう(建築学科に進学しよう)などとは夢にも思っていなかった。父親が『新建築』を毎月とっていて、丹下健三はもとより、親父の仕事の関係で著書が送られてくる芦原義信、菊竹清訓の名前も知っていた。しかし、まさか芦原義信という建築家に建築の手ほどきを受けようとは夢にも思わなかった。
なぜ、僕自身が建築という分野を選択したのか、について書く紙数はここではない。高度成長の余波というか、大阪万国博へ向かう熱気の中で、建築という分野は結構人気があった。バブル期にも建築学科は人気があった。建築という分野は実に景気の動向と密接に関わっている。
全共闘運動の余韻が色濃く残る教室で、丹下健三の「アーバン・デザイン」という講義を聴いた―最初の2回だけで、後は渡辺定夫先生の代講であった―。スーパースターである建築家・丹下健三の講義であり、「アーバン・デザイン」という科目の新鮮さもあって、そして内容の意外さもあって今でもよく覚えている。
「日本は60年代に離陸した・・・しかし、ソフト・ランディングできるかどうか・・・君たちはある意味で不幸かもしれない、1980年代には建設の時代は終わっているでしょう」
ロストウの近代化論が下敷きである。建築家への夢を抱いて建築を学び始めた学生に随分なことをいうなあ、と思った。しかし、丹下健三のこの予言はほぼ当たったのだと思う。オイル・ショックの跡でバブル時代が再び訪れたということを除けば・・・。オイル・ショック以降の70年代から80年代初頭にかけて、建築界には閉塞感が充満していた。現在と同じである。
当時、日本を代表する前川國男が「いま最も優れた建築家とは、何もつくらない建築家である」と書いた(『建築家』、1971年春号、日本建築家協会)。
建築を建てることは、確かに一種の暴力である。
また、長谷川堯は、「建築家は獄舎づくりである」(『神殿か獄舎か』相模書房・1975年、SD選書復刻・2007年)と言いきっていた。
「建築をつくらない建築家」は、果たして建築家と言えるのであろうか。建築家は果たして「獄舎づくり」に過ぎないのであろうか。1970年代に建築を学び始めたものの心の奥底にはこんな問いが今でもある。
『戦後建築論ノート』の最後にかろうじて以下のように書いた。
「住宅の設計を最初の砦としてわれわれがささやかに構想できるのはここまでである。その試みの過程で、われわれはつねに制度の厚い壁に出くわすであろう。具体的にものの形態を規定する法・制度、建築の生産・流通・消費を支える制度、つくり手―作品―受け手の諸関係を支える制度、表現のレヴェルでのコード(大衆のイメージのコード、建築ジャーナリズムのコード)・・・われわれは、そのつど、それに反撃を試みねばならない。そして、そのつど制度への違反そして制度の囲い込みの運動を経験するであろう。
しかし、つねに、ものの本来的なあり方を見続ける必要がある。建築が様々な制度を通じてしか自己を実現することがないとすれば、制度と空間、制度とものの間のヴィヴィッドな関係をつねに見続けていく必要がある筈である」
「建築家なしの建築」
ハウジング計画ユニオン(HPU)と『群居』の発行は、その第一歩であった。そして、上述のように、「アーキテクト・ビルダー」という概念が大きな拠り所となった。
実は、卒業論文のテーマに選んだのがC.アレグザンダーである。その『形の合成に関するノートNotes on the
Synthesis of Form(鹿島出版会)』(鹿島出版会、1978年)を英文で読んで、HIDECSというグラフを解くプログラムを書いた。当時『都市住宅』でアレグザンダーの理論が取り上げられていて学生たちは皆読んでいたし、大阪万国博に出展していて『人間都市』(鹿島出版会、1970年)という本も出していた。コンピューターを用いた設計のはしりということもあって、学生たちの間でアレグザンダーは人気があった。
設計プロセスを徹底して論理化し、ユーザー、市民の参加を可能にするその方向性と方法に大きな興味をもった。そして、その後もアレグザンダーの軌跡はトレースすることになったが、『パターン・ランゲージ』(鹿島出版会、1984年)にしても、その後の展開は実によく理解できた。『パターン・ランゲージによる住宅の生産』(鹿島出版会、1991年)が書かれ、「アーキテクト・ビルダー」論が提出されたのは実に我が意を得たりであった。後に、建築フォーラム(AF)による国際シンポジウム(地球環境時代における建築の行方:徹底討論、第一日「環境のグランドデザイン クリストファー・アレグザンダー・原広司・市川浩、布野修司(司会)」1991年2月26~28日)の際に直接議論する機会を得ることになった(『建築思潮』創刊号、学芸出版社、1992年12月)。
1979年1月、初めてインドネシアに出かけることになった。前年5月に東洋大学に赴任し、磯村栄一学長に「東南アジアの居住問題に関する理論的実証的研究」という課題を与えられ、前田尚美、太田邦夫、内田雄造などの先生方と共同研究を開始することになったのである。以降、今日に至るまで「アジア都市建築研究」を展開することになるのだが、アジアのフィールドで考えたことも建築家の職能を考える上で決定的である。
ひとつはヴァナキュラー建築の世界の豊かさである。「建築家なしの建築」の膨大な世界がある。近代以前に美しい集落や住居を作ってきたのは無名の無数の工匠たちの技である。つい最近大田邦夫先生が『世界のすまいにみる 工匠たちの技と知恵』(学芸出版社、2007年)をまとめられたが、太田先生からは実に多くのことを学んだ。
R.ウォータソンの『生きている住まい』(布野修司監訳、アジア都市建築研究会訳、学術出版社、1997年)を翻訳したのも、『世界住居誌』(布野修司編、昭和堂、2005年)をまとめたのも太田先生の教えに導かれてのことである。
セルフビルドの世界:裸足の建築家
東南アジアを歩き出して、すぐさま、セルフヘルプ・ハウジング(セルフビルド(自力建設))あるいはコア・ハウス・プロジェクトという手法を知った。後者は、スケルトンあるいは一室と水回りだけを供給して後は居住者が仕上げるという手法だ。世界中の国々で、また地域毎に、様々なコア・ハウスが提案されていた。1976年にバンクーバーで第一回の「人間居住会議HABITAT」が開催され、マニラ―東南アジア最大のスラムと言われたトンド地区の北、ダガダガタン地区―を舞台に大規模な国際コンペが行われ、ニュージーランドの建築家たちが一等入選するが、残念ながら実現することはなかった。その敷地に大々的に展開されたのがコア・ハウス・プロジェクトである。一般的には、サイタン・サーヴィスSites & Servicesプロジェクトという。日本語にすれば「宅地分譲」であるが、インフラ整備された土地に建設の手がかりとして、スケルトンだけ、あるいは一部屋だけ供給するのがユニークである。SI(スケルトン・インフィル)(躯体・内装分離)・システムの遙かな先駆けであった。
誰もが建築家でありうる。
実際、かつては皆自分たちで家を建ててきたのである。
バンコクのアジア工科大学(AIT)には、C.アレグザンダーの共同者で『パターン・ランゲージ』の共著者S.エンジェルがいた。彼は、「ビルディング・トゥゲザーBuilding Together」というグループを率いて、ハウジング・プロジェクトを展開中であった。そしてマニラには、W.キースに率いられた「フリーダム・トゥ・ビルドFreedom to Build」というグループがいた。「フリーダム・トゥ・ビルド」というのは、J.FC.ターナーの書いた本からとったものだ。彼は、「ハウジング・バイ・ピープルHousing
by People」(John F.C. Turner, “Housing
by People Towards Autonomy in Building Environments”,
Pantheon Books, 1976)の著者でもある。彼にもアジアを歩き始めてからすぐに会った。さらに、スラバヤでカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)に取り組む建築家J.シラスに出会った。
第三世界の住宅問題、居住問題に取り組んだ一群の建築家たちは、もうひとつの建築家像を与えてくれる。誰もが建築家でありうる。しかし、誰もが建築をつくる時間とお金と経験があるわけではない。建築家が住宅建設の手助けをする、そんな住民参加を取り込んだハウジング・システムを組織する建築家は、1980年代にイネイブラーenablerと呼ばれるようになる。1960年代のアメリカでアドヴォカシー・プランニングAdvocacy Planningと呼ばれ、黒人や社会的弱者の代弁者advocatesとしての職能が注目を浴びたが、そしてまた、イギリスではR.アースキンらのコミュニティ・アーキテクト運動(ニック・ウエイツ・チャールズ・ネヴィット、『コミュニティ・アーキテクユア』、都市文化社、1992)が開始されるが、イネイブラーはその延長に位置づけられる。中国で「裸の医者」というのに倣って「裸の建築家Barefoot Architect」という言葉もある。チャールズ皇太子がポスト・モダニズムの建築を激しく批判し、大いに支援したのはコミュニティ・アーキテクトたちであった。C.アレグザンダーは、チャールズ皇太子が設立した建築学校に教師として招かれている。
田舎者が住みついた「カンポン」の世界
スラバヤのJ.シラスに導かれてカンポンkampungにのめり込むことになった。カンポンとはムラという意味である。カンポンガンkampunganというと「イナカモン」というニュアンスがある。都市なのにムラである。英語ではアーバン・ビレッジと一般的に訳される。物理的には貧困であるが、コミュニティはしっかりしている。KIPがイスラーム圏の最高の建築賞であるアガ・カーン賞を受賞したのは、このコミュニティの力による。
カンポンについて学んだことは『カンポンの世界』(パルコ出版、1991)に記した。なかでも、鍵となると思ったのはコミュニティの力である。フィジカルには貧しいけれども、コミュニティの組織はしっかりしている。相互扶助の仕組みがカンポンを支えていた。
カンポンには、ルクン・ワルガRW(町内会)、ルクン・タタンガRT(隣組)という住民組織がある。ゴトン・ロヨンgotong royong(助け合い)を国是とするインドネシアにおいてその基礎単位となるのがRW,RTである。これは日本軍が持ち込んだという学位論文があるが、たった2年半の占領で根付くものでもないであろう。町内会システムが強制的に導入されたのは15年戦争期であり、それがそのまま持ち込まれたことは間違いないが、おそらくインドネシア各地の共同体原理と共鳴しあうことによって維持されたのだと思う。コミュニティを基盤とするまちづくり(居住環境整備CBD)のモデルとなるのがKIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)である。
カンポンについての調査研究は、結局、布野修司の学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、1987年)にまとめられた。そして、このエッセンスを具体化する形で、スラバヤ・エコ・ハウスと称する実験集合住宅を建設する機会を得ることになった。
カンポンというのが英語のコンパウンドcompoundの語源であるという説があることを随分してから知った。アジアを訪れたヨーロッパ人がバンテンやマラッカで都市の囲い地を現地人がカンポンというのを聞いてインドの同じような居住地をカンポンと言うようになり、コンパウンドに転訛して、大英帝国が世界中に広めたのだという。異説もあるが、オックスフォード英語辞典OEDにもそう書いてある。このカンポン=コンパウンドに導かれるように、植民都市研究に赴くことになる。その後の経緯は、『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会、2005年)に譲りたい。
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