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2021年3月21日日曜日

現代建築家批評07 建築探偵から建築家へ 藤森照信の軌跡

 現代建築家批評07 『建築ジャーナル』20087月号

現代建築家批評07 メディアの中の建築家たち

建築探偵から建築家へ

藤森照信の軌跡

 

布野修司

 

メディアの中の「建築家」たちとして、安藤忠雄に継ぐ、あるいはそれを超える存在は藤森照信である。『建築探偵の冒険 東京編』(1986年)以降の一連の「建築探偵」シリーズのポピュラリティは群を抜いている。 

建築史家として出発して、40歳を過ぎて建築家としてデビューした、その軌跡自体は一般に思われるほど奇異ではない。村野藤吾にしても独立は40歳を超えてのことである。丹下健三でもデビュー作は40歳近い。それまでを修行期間と考えれば、藤森は「建築家」になるべくしてなったのである。

日本の建築史学の祖である伊東忠太を持ち出すまでもなく、建築が先であって、建築史は後である。建築史が史学となるのは実証主義史学に取り込まれることにおいてである。

一方、建築家にとって建築の歴史は自らが拠って立つ存在基盤である。安藤忠雄が徹底して学んだのは近代建築の歴史である。毛綱毅曠、石山修武、渡辺豊和といった建築家たちが建築史の研究室の出身であることも決して偶然ではない。日本建築学会でも「歴史意匠」という(分野、委員会があるだけである)。建築史学会が別に結成されているが、歴史と意匠は本来不可分である。

もともと建築家になりたかったのだ、と考えれば、その軌跡は一貫するものとして理解できる。安藤が「建築少年」であるのと同様、藤森照信も「建築少年」である。底抜けに建築好きなのは共通している。一般の人々の心を打つのは、「建築」を「つくる」(そして「見る」)素朴かつ根源的な楽しさである。

藤森が向かったのは、建築の過去であり、明治であり、原始であり、自然である。

 

 諏訪郡宮川村高部

1946年、敗戦1年後に長野県諏訪郡宮川村高部に生まれた。団塊の世代である。3年後輩ではあるが、同じように出雲の田舎から上京した僕は、都会生まれとは異なる感覚をなんとなく共有しているのだと勝手に思っている。『ザ・藤森照信』(2006年)に小学二年生まで住んだという幕末に建てられた生家の平面図があるが、僕が生まれたのも出雲の「四つ間取り」の民家だ。母方の祖父が大工だというが、僕の父方の祖父も大工だ。そもそも『古事記』には、建御名方命(たけみなかたのみこと)が出雲から州羽(諏訪)に進入し、諏訪大明神になったというのだ。もっとも、『タンポポの綿毛』(朝日新聞社、2000年)を読むと僕が3歳年下であることを割り引いても、テルボ(藤森)少年の育った諏訪郡宮川村高部は僕の育った簸川平野より20年は「遅れていた」ような気がしないでもない。「ニワトリをつぶす」のは見たことがあるが、トンボやチョウは食べたことがない。

東大闘争の余波で卒業が一ケ月遅れ、6月入学であったが、1972年に東京大学の大学院に入学して僕は藤森照信に出会った。太田博太郎先生の「建築史学史」の授業だったと思う。一緒に「闘った」り、議論したりした仲間とは違う学部では見かけなかった顔だったから、よく覚えている。年表を見て知ったのだが、東北大学で2年留年したのだという。一年前の修士課程入学であった。建築史研究室では、陣内秀信、渡辺真弓、六鹿正治らと同学年である。

一年後、「雛芥子」同人であった三宅理一、杉本俊多が稲垣栄三研究室に進んだこともあって、常に身近にいるという感覚が今でもある。東洋大学に移って国分寺に居(公団の分譲住宅)を構えたとき、同じ国分寺に住んでいた縁で、子供連れで訪ねて来てくれた記憶がある。逆に、まだ大野勝彦設計の「セキスイハイムM1」に住んでいて、やっぱり「家には屋根がないと」と木造の一棟を増築したばかりの藤森邸を訪ねたことがある。中央線を挟んで北と南、ほぼ同じ距離にそれぞれの根拠地は今でもある。「布野は皇居に向かって左、俺は右だ」というのが藤森照信の言い草である。

その後、広島大学に藤森客員教授、布野客員助教授というコンビで通ったことがある(1997-98年)。既に『丹下健三』を構想、執筆中で、「広島平和記念公園」の軸線計画や未発表であった淡路島の「戦没学生記念館」について随分と聞かされたものである。

京都に移って、しかもアジアを飛び回りだして、一緒に仕事をすることはあまりなかったが、ほとんど全ての著書は送ってもらってきた。その眩いばかりの軌跡を着かず離れずはらはらしながら僕は見てきた。

「歴史家」としての性(さが)なのであろうか、還暦を前にして藤森は既に自分史(自筆年譜)を書いてくれている(「特集*藤森照信 建築快楽主義」『ユリイカ』、200411月号)。多くの評伝を手掛けてきたから、後世現れるであろうもうひとりの「藤森照信」に多くの手がかりを残しておいてやろうということなのであろうか。自らを自ら神話化する言説集『ザ・藤森照信』(エクスナレッジ、2006年)も既に編まれている。

故郷をめぐって「日々の暮らしは江戸時代の延長のようなもんだったと思う」と藤森はいう。「江戸時代と明らかにちがっていたのは、明かりが灯火ではなく電灯、井戸にかわって水道、障子の真ん中にガラスがはまっていたくらいだ。・・・・全国どこでも田舎の暮らしは、高度成長の前までは、そんなもんだった。」(『タンポポの綿毛』「あとがき」)

藤森の建築観の基底には故郷・諏訪がある。『タンポポの綿毛』に描かれた少年テルボの世界がある。処女作「神長官守矢資料館」(1991年)にしても、「高過庵」(2004年)にしても故郷に建っている。NHK番組「課外授業へようこそ 家は自分で建てよう」(2001年)は、故郷に縄文住居を建てるというものであった。「高過庵」の敷地は、実験考古学と称して家族で「自家用縄文住居」(1987年)を建てた場所(畑)だ。

 

「山添喜三郎伝」

 造形系に進みたい、絵や彫刻ではなく、工芸とか工作的な分野、だから、工学部に進んだのだという。上述したように母方の祖父が大工棟梁で、小学2年生の時に家の建て替えを手伝わされた経験が大きいという。安藤忠雄もそうだけれど、家が出来ていく現場に立ち会うことは「建築家」を生む原点だと言っていい。

 旧制高校のような高校生時代から「へんな幻想的な世界」を生きていて、大学に入って文学の世界にのめり込んだという[i]。そして、歴史をやろう、と思った。「現実から身を引きたいという気持ちがあった」というのはよくわかる。僕が、全共闘時代に学んだ最大のものは、現実の世界の醜悪とも思える政治的な力学である。「建築の分野には歴史があるから助かった」というのもほとんど共有している。三宅理一、杉本俊多もそうである。僕もまた歴史の方へある意味で向かったのである。今日に至るまでまとめる機会を持たずに(サボッテ)きたけれど、吉武研究室という建築計画という分野に席を置いたおかげで、その起源、その成立根拠を探ることになるのである。来る日も来る日も図書室に籠もった。明治に遡って『建築雑誌』をはじめ全ての雑誌にまず眼を通した。『満州建築』や『台湾建築』の目次を全部コピーしたのも学生時代だ。それ以外にやることはなかったのである。

 僕の上の世代は基本的に大学から出た、あるいは出された。僕の学年ですら博士課程に残ったのは、環境工学の分野で将来を嘱望されながら交通事故で死んだ内田茂と三宅、杉本、布野の4人だけである。卒業論文を書く余裕など無かった。混乱に乗じて書かずに卒業した連中もいる。

 藤森の場合、東北大学の建築史講座の坂田泉教授の下で「山添喜三郎伝」という卒業論文(1969年)を書いている。新潟の角海浜出身の船大工で、東京に出て建築大工に転じ、師匠に従って「澳国万国博覧会」の日本館を建てた、その後、宮城県の技師になって多くの公共建築を手掛けた山添喜三郎の評伝である。藤森自ら、この卒論において「現場を歩くとか、文献を探すとか、実物を見るとか、関係者に会うとか、その後に僕がやることはみんなやってる」という。本文は引用に註も出典もなにもない、詳細な年表に資料番号が付されている。確かに藤森流である。

 一方、卒業設計は「幻視によってイマージュのレアリテをうるルドー氏の方法」と題される。「仙台の既存市街地を廃墟と化し、広瀬川沿いの自然を回復し、新たにストリート性のある端を架けようとした」ものだが、その橋のアーキグラム風のメカニカルな表現は、「明治建築」研究やこの間の建築作品とはかなりのギャップがある。はっきりしているのは、藤森が設計に並々ならぬ意欲をもっていたことだ。ルドゥーへの関心も早い。当時、コンペイトウ(井出、松山)と雛芥子(杉本、三宅、布野)で「ルドゥー研究会」をやるのは、もう少し後のことである。藤森の卒業設計作品は全国卒業設計展に出展される。その時、早稲田からは重村勉の「酔いどれ天使」が出ていた。藤森の中には、自らの設計の才能についての、ある思い、自負がある。

 

 建築探偵団 

 村松(貞次郎)研究室に入室するのは、卒業論文の流れからすると自然である。村松研究室は、近代建築史研究の一大拠点であったし、その拠点は藤森の参加を得て、さらに確固としたものとなるのである。

 自ら不出来という修士論文『日本人居留地洋風建築の研究』(1974年)から博士論文『明治期における都市計画の歴史的研究』(1979年)までの間、村松貞次郎の下で、「明治の洋風建築」[ii]、コンドル、辰野金吾、長野宇平治などの評伝[iii]を書く一方、堀勇良と「建築探偵団」を結成、東京のフィールドワークを展開し始める。

 デザイン・サーヴェイの残り香がまだ漂っていた。既に書いたが、「遺留品研究所」「コンペイトウ」・・・学生たちは、近代建築批判のネタを求めて皆街をあるいた。「書を捨てて、街に出よう」という寺山修司のアジテーションを「建築少年」たちは受け入れていた。

 もうひとつ、建築ジャーナリズムのパラダイムが大きく転換を遂げつつあった。その最初の一撃を打ち下ろしたのは、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(1972年)である。

 復刻された『神殿か獄舎か』(SD選書、2007年)の解題(「長谷川堯の史的素描」)で、「影響力はほんとうに大きかった」と書いている。確かに、『神殿か獄舎か』は、磯崎新の『建築の解体』とともに当時の若い建築、学生たちの必読書となった。藤森の場合、村松貞次郎の導きもあって、すぐさま「弟分の盃」を受けるのであるが、「雛芥子」もまたその衝撃にすぐさま反応している。誰かが「長谷川堯は面白い!」といい、講演を頼みに連絡をとり、新宿歌舞伎町の喫茶店で会った。議論は弾んだ。初対面の記憶は今でも鮮烈である。

建築ジャーナリズムの平面において、『神殿か獄舎か』に続いて、村松貞次郎などによって主導された『日本近代建築史再考』(『新建築』臨時増刊、1974年)そして『日本の様式建築』(同、1976年)などによって長谷川堯はスターとなった。堀勇良は、藤森にとって「当面のターゲットは長谷川堯さんだった」という。そして、「長谷川さんよりも先に、近代建築を見尽くす、関係資料を読み漁る、建築家の遺族を捜し出して原資料を集めまくる」ことを「日本近代建築史研究三大プロジェクト」として、「建築探偵団」を始めたのだという。

しかし、まとめられたのは『明治の東京計画』であり、都市計画史の範疇であった。何故、近代建築史でなく都市計画史であり、東京であったのか、後に触れよう。

 

 路上観察学会

 藤森の「日本近代建築史研究三大プロジェクト」は、彼のその後の展開にとって巨大なストックになった。建築家・藤森照信が誕生する大いなる源泉ともなるのである。

 『明治期における都市計画の歴史的研究』によって学位を得、東京大学生産技術研究所の講師となり、学位論文をまとめた『明治の東京計画』が毎日出版文化賞(第37回)、東京市政調査会藤田賞(第9回)を得る(1982年)と、ジャーナリズムを舞台とした大活躍が始まる。

 1970年代において、藤森は「近代の建築しか見ない。古建築は見ない。現代の建築は見ない。」という禁制を自ら課していたという。また、「設計には手を出さない」と言っていたという。裏を返せば、そして振り返って見れば、並々ならぬ関心が現代建築にも、設計にもあったということである。第一、街を歩いて、「近代建築(明治大正昭和戦前期の建築)」にのみ関心を集中するのは不自然である。何故、学位論文が都市計画史であったか、ということも、街歩きがそのベースになっていると考えることによって理解できるだろう。

 「建築探偵団」が「路上観察学会」に結びつくのはある意味必然であったと思う。赤瀬川原平とその「美学校」の教え子であった南伸坊らは、路上に残された意味不明の物体を収集して「超芸術トマソン」と称した。当時、読売巨人軍に在籍して三振ばかりして役に立たない大リーガーがトマソンである。まだトマソンというネーミングがなされる前に、宮内康と一緒に、赤瀬川原平から何十枚もの写真を見せられたことが懐かしい。

 同じように都市の「落とし物」に着目した「遺留品研究所」の例もある。路上への関心は当時から今日にまで潜在し続けていると思う。ただ、その眼の向かう対象は極めて多様であった。「デザイン・サーヴェイ」と呼ばれた大きな流れは、各地に残された「伝統的」な集落や街並みに向かい、そのデザイン手法に学ぼうとした。また、街並み保存や修景へと向かった。一方、変転する都市の表層を記号学的に読み解く一派もいた。藤森がまず与したのは歴史的建造物のインヴェントリーを作成する流れである。その公式の成果は、村松貞次郎を代表とする『日本近代建築総覧―各地に遺る明治大正昭和の建物』(1996年)に結実することになる。

 そして、その流れは、研究室に村松伸を得て、東アジアのフィールドに広がる。その集大成が『全調査東アジア近代の都市と建築』(筑摩書房、1996)である。この間、一般誌向けに西洋館をテーマにした多くのエッセイを執筆し、写真家の増田彰久とコンビを組んで多くの著作を出している。多くは、求めに応じてであろうが、それまでのストックをはき出すように、書きに書いている。

 

 建築家デビュー

 厄年を迎えた1989年、藤森照信は「神長官守矢史料館」の設計を始める。幼なじみであった守矢家78代当主守矢早苗によれば、「モダンな建造物が自然の中にできる」ことに違和感があり、「近年建築の分野で特有な考えをもたれているようだ」という照信さんなら「大方私の家のことも知っていてくれますから、史料館の意義も十分理解いただける」と依頼したのだという[iv]。この機会がなければ、建築家藤森照信の誕生はなかったかもしれない。故郷が建築家・藤森を生んだということである。

 上述のように、設計についての密かな意欲を「設計には手を出さない」という禁制によって押しとどめてきた藤森の創作意欲は以後堰を切ったようにほとばしり出ることになる。続いて、すぐさま取りかかったのが自邸「タンポポハウス」(1995年)である。

藤森が最初に住んだのは、大野勝彦設計の「セキスイハイムM1」である。振り返って「私にとって予期せざる満足をもたらしてくれたのは、ハイムM1の無表情であった。住み始めた当初、こんなにブッキラボウなただの箱なんかすぐ嫌になる、と予想していたが、事実はむしろ逆だった」という[v]。建築家でありながら「セキスイハイムM1」を買って住見続けているのが林泰義・富田玲子夫妻である。富田玲子の珠玉の建築論集『小さな建築』(みすず書房、2007年)によると21ユニットも購入したのだという。安価で増築が自在であることに加えて、二人とも建築家だからまとまらないということも「セキスイハイムM1」購入の理由である。大野勝彦の「セキスイハイムM1」をめぐっては、『群居』で考え続けてきた。スケルトン・インフィル方式あるいはコア・ハウス方式など建築家と住み手の関係をめぐる本質的問題がある。

それはともかく、藤森は、しばらくして、手狭になった自宅に木造の一棟を増築する。僕がお邪魔したのはこの頃である。近所の子供たちに「屋根がないのはおかしい」と言われたからだという。そして、おそらく自らつくるべき建築を確信したのであろう。自宅なら自由に出来る。「タンポポハウス」の誕生である。建築をつくる快楽に目覚めたのである。



[i] 「歴史の方へ」(『ザ・藤森照信』p96
[ii] 『近代の美術』 第20巻 昭和491月号 「明治の洋風建築」 (村松貞次郎編) 至文堂、1974
[iii] 『日本の建築 - 明治大正昭和』 第3巻 「国家のデザイン」 (写真:増田彰久)、三省堂、1979
[iv] 『ザ・藤森照信』p29
[v] 「トラックに乗ってやって来たわが家」『家をつくることは快楽である』 王国社、1998

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