現代建築家批評01 『建築ジャーナル』2008年1月号
現代建築家批評01 メディアの中の建築家たち
これから何回に分けて建築家について書こうと思う。具体的に、安藤忠雄、伊東豊雄、山本理顕といった建築家を順に取り上げる。全体として、建築家の社会的役割、社会に及ぼす建築の役割が浮かび上がればと思う。今回はそのための前口上である。3回にわたって、建築家の職能について考えてきたことを振り返っておきたい。
メタボリズム批判の行方
ポストモダン以後 ・・・建築家の生き延びる道
布野修司
出雲から上京し、大学に入学したのは1968年4月のことである。その年、パリで5月革命が起こり、6月、日大に続いて東大も全学ストライキに突入、10.21国際反戦デーの示威行動に新宿騒乱罪、・・・そして、安田講堂陥落へ、激動の一年であった。島泰三の『安田講堂1968-69』(中公新書、2005年)を読むと、たったの一年が濃密な時間の体験としてありありと思い起こされる。その後も全共闘運動が日本中に広がりをみせる騒然とした中で学生時代を過ごした。そして、高度成長の60年代が終わり、1970年代を迎えると時代は暗転する。2度(1973年、1978年)の石油危機(オイル・クライシス)を経験して、時代の雰囲気は重苦しかった。就職するにも求人はなく、建築も建たなかった。
議論しかなかった。というと嘘になるかもしれない。当時、我々(杉本俊多、千葉政継、戸部栄一、村松克己、久米大二郎、三宅理一、川端直志、布野修司・・・)は「雛芥子」―「遺留品研究所」(真壁智治、大竹誠、・・)、「コンペイトウ」(井出建、松山巌、元倉真琴・・・)といった兄貴分の向こうを張った命名であった―という集団名を名乗り、三里塚の鉄塔のディテール(ガセットプレートの原寸図)を描いたり、民家を移築したり、塹壕の測量をしたり、援農(農作業の手伝い)をしたりする一方で、ドイツ表現主義の映画会をしたり、黒テントの芝居のプロデュースをしたり・・・結構忙しかった。この頃の「雛芥子」の活動を記したのが故坂手建剛編集長が創刊した『TAU』(商店建築社)である(「<柩欠季>のための覚書」、1973年1月)。続けて、「虚構・劇・都市」「ベルリン・広場・モンタージュ」といった原稿を書いたのが筆者の建築ジャーナリズム・デビュー?である。
そんな学生時代に、「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(1975~77年)のコア・スタッフに招かれたのは僥倖であった。伊東豊雄をトップに、長尾重武、富永譲、北原理雄、八束はじめ、布野修司というのがメンバーで最年少であった。この企画で、渡辺豊和、毛綱モン太、大野勝彦、石山修武、安藤忠雄・・・に出会った。この場で考えたことは、建築を考える原点であり続けている。
連載の最後に「六〇年代の喪歌」(『建築文化』、1977年10月)という文章を書いた。そして、この文章を冒頭に置いて、『戦後建築論ノート』(相模書房)を書いた。1981年、32歳の時である。建築の1960年代の諸問題を、歴史を遡行する構えをとって論及した建築イデオロギー批判の書である。決して売れはしなかったけれど、様々な反響はあった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦編集長の命名であったが、近代建築批判の課題は広く共有されていたのだと思う。
直近の時代、1960年代をどう乗り越えるか、これが出発点である。そして、『戦後建築論ノート』がターゲットとしているのはメタボリズムである。
政治と建築:黒川紀章の死
黒川紀章が逝った(2007年10月12日)。享年73歳。その最後の一年は、まるで燃え尽きるような一年であった。
振り返ると予兆はあった。年初であったろうか、送られてきた「国立新美術館」(東京都港区、2006年)のオープニング展覧会の大型ポスターの一枚にいささかぎょっとしたことを思い出す。紋付袴に日本刀を手にして真正面を見据えたその思いつめた表情には鬼気迫るものがあった。随分と頬がこけ、どこか身体が悪いのかとも思った。おそらく、「共生新党」の立党による、都知事選への出馬(4月)も衆議院選挙(7月)への出馬も、決意されていたのであろう。
「政治の世界」が、建築家・黒川紀章の最終的に行き着いた場所であった。数多くの作品を残し、芸術院会員(1992年)、文化功労者(2006年)ともなって功なり名を遂げた黒川が、何故、死を賭して「政治の世界」を目指さざるを得なかったのか、その真相はわからない。正直、ドン・キホーテに終わったようにも思える。
建築家と政治は、もちろん、無縁ではない。国家的なプロジェクトに限らず、ごく身近な公共建築を設計する場合を考えても、むしろ密接に関係しているというべきである。事業が政治的諸関係の中で行われる以上その現実的過程に巻き込まれざるを得ないからである。
若くしてデビューして以来、黒川紀章は最も華々しくそういう世界を生きてきた。ODA(政府開発援助)による海外の仕事を含めて国家的なプロジェクトも少なくなく、かねてから政治の世界との付き合いは深い。晩年は1997年に設立された日本における最大の保守系団体である「日本会議」の代表委員であった。
スター建築家としての派手な振る舞いの背後で、真偽は常に定かではないが、仕事の獲得の度に政治家との親密な関係が取り沙汰されてきたのが黒川紀章である。東京新庁舎のコンペをめぐって、黒川紀章が週刊誌を舞台に激しく丹下健三批判を展開したことがある。都政をめぐる師と弟子との暗闘として大騒ぎになった。今回の都知事選の出馬についても、石原慎太郎都知事が安藤忠雄を東京オリンピックの施設計画を担当する東京都のマスターアーキテクトに指名したことに対する怒り、嫉妬、反撥がもとになっているという週刊誌報道があった。こうした次元で、取り沙汰される建築界にうんざりしながらも、案外そんなところかもしれない、と思ったりする。してみると、黒川紀章は、一貫して、その生き様を全うしようとしたと見ることもできるのである。
「メディア型」建築家
追悼文(産経ニュース、2007年10月16日)のなかで、磯崎新は黒川紀章を「日本では初めての、ただひとりともいえるメディア型建築家」と位置づけている。確かに、死の直前の選挙戦におけるパフォーマンスの数々には「メディア型」建築家の面目躍如たるものがあった。メディアへの露出頻度という点では、安藤忠雄が既に黒川を凌駕しているが、安藤の場合、彼を「国民的」スターにするメディア側の力が大きい。あくまで、ユートピアを目指すアバンギャルドの帰趨に関わる選択として磯崎は黒川を「メディア型」建築家として認めるのである。
「半世紀昔、私たちは丹下健三チームのスタッフとして東京を湾上に伸展させる構想作りに従事した。これは20世紀最後のユートピア計画であった。もちろん東京はびくともしない。私たちは挫折覚悟でプロジェクトをつくる意義を学んだ。あのころ、岡本太郎と丹下健三が近代芸術におけるアバンギャルドを体現していた。私たちは彼らの手伝いをし、影響を受けた。エポックメーキングだったと称された大阪万博に参加した。近代のユートピアがここで具現化したのだった。ユートピアを目指すアバンギャルドが、それ故に役割をおえた。歴史の皮肉である。建築家として自立する時期にあった私たちは、あらためて態度選択を迫られた。私は建築を建築として思考する道を選んだ。建築を批判的にデザインする。一方、黒川紀章はメディアの中で行動する道を選んだ。社会、政治・経済など、建築を外側から決める枠と組みあうことになる。その面倒な役割を身軽にこなした。」
磯崎は繰り返し大阪万国博Expo70について書く。自らの挫折と建築家としての出発の起点としてのみならず、近代建築史の大きな転換点としてでもある。磯崎は、そこで社会変革(社会的ラディカリズム)と建築(をつくること)の間の絶対的裂け目―決定的深淵―を見たのだという。
「建築を建築として思考する道を選んだ」のが磯崎であり、「社会、政治・経済など、建築を外側から決める枠と組みあうことになる」のが黒川紀章である。ただ、磯崎においても、社会との関わりを否定するわけではない。「広義の建築家の社会的使命を、棲み分け、分担していたのだ」というのである。自らの「東京都新都庁舎のコンペ」(1986年)落選について、「悲観することはない。いいアイデアさえ残れば、自らの手を超えても誰かが実現する」と書くところに、その棲み分け、分担の位相を理解することができるだろう。
東京都知事選の際の黒川紀章のマニフェスト[1]は群を抜いていた、と磯崎はいう。「新しいデザインの主題としてのハイパー都市東京を変革するポイントがすべておさえられて」おり、「黒川紀章の半世紀にわたる多面的な活動を集約する内容だった」、そしてさらに「半世紀間、私たちがトラウマのように背負いつづけた東京なる存在への対抗案がここにある」とまでいう。
「世界建築家」
黒川紀章の建築家としての出発は、京都大学を卒業し(1957年)、東京大学大学院の丹下研究室に在籍した(1958~64年)時代に開始される。丹下研究室の「東京計画1960」が発表され、「世界デザイン会議」を契機にメタボリズム・グループ(川添登、大高正人、菊竹清訓、黒川紀章、槇文彦)が結成された1960年から東京オリンピック開催(1964年)へ至る、日本が高度成長への離陸を開始する、まさにその滑走路を飛び立った建築家の一人、その申し子であった。
黒川は、大学院時代に、新東京計画案-50年後の東京(1959年)、垂直壁都市(1960年)、農村都市計画(1960年)、東京計画1960(サイクルトランスポーテーションシステム)(1961年)、霞ヶ浦計画(1961年)、丸の内業務地域再開発計画(1961年)、東京計画1961(へリックス計画)(1961年)、箱型量産アパート計画(1962年)、西陣地区再開発計画(1962年)とたて続けに都市計画プロジェクトを発表している。「東京計画」は、もちろん、丹下研究室のプログラムである。
1950年代末から1960年代初頭にかけて、日本の建築家たちは一斉に「都市づいて」いく。菊竹清則の「海上都市」「塔上都市」「海洋都市」をはじめとして、盛んに都市プロジェクトが発表される。丹下研究室の「東京計画1960」はその代表であり、象徴である。
アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、都市のあるべき姿を提案し、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問う、というこのスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。すなわち、プロジェクトを提案する建築家が立脚するのは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」の立場である。黒川紀章の場合、生涯、この立場、スタイルに拘り続けたようにみえる。未完のプロジェクトとなったのはカザフスタンの首都計画である。
都市へのコミットの回路として、この「世界建築家」のスタイルが衝撃力を持ちえたのはほんのわずかな時期に過ぎない。未来都市のプロジェクトは、大阪万国博Expo’70の会場に一瞬の虚構の都市として実現される一方で、急速に色褪せていく。数々のニュータウン計画が具体化される中で、建築家の構想力は現実に問われ始めるのである。
1973年暮れ、第一次石油危機(オイル・クライシス)が世界を襲った。建築家は「都市からの撤退」を余儀なくされることになる。都市プレジェクトどころか建築設計の仕事がない事態の中で、直接的で小規模なプロジェクト(住宅設計)をベースに若い建築家たちは近代建築批判のラディカルな試みを開始し始めた。
原広司の「住居に都市を埋蔵する」という方法意識が共有化される一方で、「世界建築家」のスタイルはその基盤を失う。その象徴である丹下健三が海外に仕事の中心を移し、1970年代を通じて日本国内でほとんど仕事をしていないことは記憶されていい。
アーキテクト・ビルダー
黒川紀章の世界観であり、認識論であり、設計方法でもあったメタボリズムは、1960年代を通じて建築界の支配的イデオロギーとなった。そのイデオローグであった黒川紀章の軌跡とその行き着いた地平は感慨深い。また、改めてメタボリズムの行方を再検証する必要があると思う。地球環境という枠組み、限界が明らかになり、循環、リサイクル、再生、コンヴァージョン・・・がテーマとしてクローズアップされるなかで、メタボリズム(新陳代謝)という概念は今猶検討に値する生命力を持っているように思えるからである。メタボリズム以後、次々と現代思想の流行の概念を追いかけてきたように思える黒川紀章においても、メタボリズムと共生の思想は連続して齟齬がない、ように思う。建築イデオロギーとしてのメタボリズムとその帰趨については、『戦後建築論ノート』に譲ろう。乱暴に言えば、メタボリズムは、スクラップ・アンド・ビルドの論理を正当化する役割を担った。あるいは、「社会的総空間の商品化」を促す機能をものであった。メタボリズム批判、すなわち近代建築の根源的批判は、産業社会の論理そのものの批判に行き着く、というのが、『戦後建築論ノート』の基本的構えである。
『戦後建築論ノート』を書いた後、ハウジング計画ユニオン(HPU)というグループに参加することになった。そして『群居』という雑誌を創刊する。1982年の12月号に創刊準備号を出して、翌年4月に創刊、2000年まで50号まで出した。メンバーは、大野勝彦を中心に石山修武、渡辺豊和、布野修司が設立し、野辺公一、高島直之、松村秀一らが加わった。
建築家の仕事、表現の場が住宅の設計という小さい回路に縮小していくなかで、住宅の生産・流通・消費の全過程を対象化し、具体的に活動を展開すべきだ、というのが共有された方針であった。戦後まもなく、住宅の問題は全ての建築家にとって大きなテーマであった。その初心に帰って、戦後の日本の建築家の歩みを総括したいという思いもあった。
『群居』が取り上げ、議論し、記録したテーマは多岐にわたる。住宅=まちづくりを主テーマに、住宅メーカー、職人、ビルダー、ディベロッパー、プランナー、建築家のそれぞれのアプローチを繰り返し取り上げるなかで、新たな職能のイメージとして浮かび上がったのが、C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」であった。
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