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2021年3月9日火曜日

 traverese20 2019 新建築学研究20

 「アジア」の欠落:世界建築史をいかに書くか?

Lack of Asian Architecture: How We Write a Global History of Architecture?

 

Shuji Funo

布野修司

 

 先ごろ『世界建築史15講』(彰国社、2019410日)という一冊の本(共著)を上梓した(図①)。タイトルが示すように、15回の講義(Lecture0115)を想定した教科書のスタイルである。それぞれにコラム(Column0115)を付し、計30本(章節)の原稿(4頁~12頁)からなる。編集委員会編というかたちをとったが、実質、布野修司、青井哲人、中谷礼仁の三人(幹事)で、全体構成、執筆者を考えた。建築史の専門家は一般的に筆が遅い。一行を書くのにも裏付けが必要で、時間がかかるのである[1]。案の定、思うように原稿が集まらず、僕は、責任をとるかたちで、30本中9本の原稿を書く羽目となった。だけど、僕にはこの一冊に拘る理由があった。

 京都大学時代(19912005)に遡る。アジアを随分歩いているのだから「世界建築史Ⅱ」を担当するようにと西川幸治先生に命じられたのである。「Ⅰ」が「西欧」、「Ⅱ」が「非西欧」である[2]。当時、『東洋建築図集』(1995年)の東南アジアの章の幾頁かを執筆したばかりであった。この際「アジア」の建築を勉強するか!と、講義を続けながら、『東洋建築図集』に取り上げられた建築を機会ある度に見て回った。現在までに『図集』に掲載された建築の90%以上実見したのではないか?そして、アジア都市建築研究会の仲間たちと『アジア都市建築史』(布野修司編、昭和堂、2003年)をまとめるにも至った。しかし、何故、「アジア」に限定されるのか?、何故「世界建築史」の「Ⅱ」なのか?、しっくりしてこなかったのである。 

 

 蘭領東インドのH.P.ベルラーヘ


 洋の東西を区別しない「世界建築史」の必要性を最初に意識したのは、スラバヤ(拙稿「ある都市の肖像―スラバヤの起源」『traverse19』参照)を訪れて、「オランダ近代建築の父」と言われるH.P.ベルラーヘの作品(生命保険年金協会AMLLビルKantoor van de ‘Algemeene Maatschappij voor Levensverzkering en Lijfrente’1900)(図②abcd)に出会った1982年である。その建設は、代表作「アムステルダム証券取引所」(1910)(図③abc)に10年先立っている。ベルラーヘとアムステルダム・スクールの建築家たちに惹かれて、堀口捨巳の『現代オランダ建築』(1930年)を片手に見て回ったのは1976年であるが、ベルラーヘの作品がインドネシアにあることなど全く知らなかった[3]。考えて見れば、オランダがインドネシアを植民地としたのは17世紀初頭であり、300年以上、自らの「世界」であったのだから、オランダの建築家がインドネシアで仕事をするのは不思議でも何でもない。調べてみると、インドネシアで活躍したすぐれた建築家は少なくない。その代表がデルフト工科大学(T.H.Delft)卒業の同級生H.M.ポントHenri Maclaine Pont1884-1971)とH.Th.カールステン(1884-1945)である。少なくとも、この二人は、同世代のG.T.リートフェルト(1888-1964)やJ.J.P.アウトOud(1890-1963)と同等に評価すべき建築家である。H.M.ポントは、「バンドン工科大学」(1918年、図④abcd)の設計で知られるが、「ポサランの教会」(1936年、図⑤abcd)が特にすばらしい。
                     

 H.P.ベルラーへは,1923年に初めてオランダ領東インドを訪れ,後年『私の印度旅行―文化と芸術に関する考察―』(Berlage, H.P.(1931))を出版する。5ヶ月にわたる旅行の目的は,オランダ本国政府のアドヴァイザーとして,プランバナン遺跡群の修復について報告書を作成することであった[4]H.P.ベルラーへは、そこで、プランバナンのロロ・ジョングランなどヒンドゥー建築の遺構を「死んだ伝統」として評価していない。そこには、当時のヨーロッパ人建築家のアジアの伝統建築に対する一般的見方をうかがうことができる。ベルラーヘが高く評価したのは、H.M.ポントやH.Th.カールステンの作品である。東インドにおける伝統的建築の「生きた」伝統とヨーロッパの新しい建築すなわち近代建築をいかに統合するかが,H.M.ポント,H.Th.カールステン,そしてH.P.ベルラーヘの共有するテーマであった。

       

 
 その後、東南アジアから南アジアへ、さらにアフリカやラテンアメリカにも足を伸ばし、「世界」を股にかけて活躍した建築家たちとその作品群を知ると、「世界建築史」の必要性をますます強く意識するようになったのである。






 



 

 「世界史」の世界史

人類最古の歴史書とされるヘロドトス(紀元前485420)の『歴史』にしても,司馬遷(紀元前145/135?~紀元前87/86の『史記』にしても,ローカルな「世界」の歴史に過ぎない。ユーラシアの東西の歴史を合わせて初めて叙述したのは,フレグ・ウルス(イル・カン朝)の第7代君主ガザン・カンの宰相ラシードゥッディーン(12491318)が編纂した『集史』(1314[5]であり,「世界史」が誕生するのは「大モンゴル・ウルス」においてである。しかしそれにしても,サブサハラのアフリカ,そして南北アメリカは視野外である。

日本で「世界史」が書かれるのは1900年代に入ってからである(坂本健一(190103)『世界史』、高桑駒吉(1910)『最新世界歴史』など)。明治期の「万国史」(西村茂樹(1869)『万国史略』、(1875)『校正万国史略』、文部省(1874)『万国史略』など)は、日本史以外のアジア史と欧米史をまとめ、世界各国史を並列するかたちであった。西欧諸国にしても、国民国家の歴史が中心であることは同じである。そうした意味では、「世界史」の世界史(秋田滋/永原陽子/羽田正/南塚信吾/三宅明正/桃木至朗編(2016)『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房)を問う必要がある[6]。 

   


 建築の世界史へ

 世界建築史もまた、古代,中世,近世,近代、現代のように西欧による「世界建築史」の時代区分によって書かれてきた。そして,非西欧世界については,完全に無視されるか,補足的に触れられてきたに過ぎない。建築は,人類の歴史の時代区分や経済的発展段階に合わせて変化するわけではない。すなわち,王朝や国家の盛衰と一致するわけではない。

 日本で書かれてきた建築史は、「西洋建築史」を前提として、それに対する「日本建築史」(「東洋建築史」)という構図を前提としてきた。「近代建築史」が書かれるが、ここでも西洋の近代建築の歴史の日本への伝播という構図が前提となっている。そして、近代建築の日本以外の地域、アジア、アフリカ、ラテンアメリカへの展開はほとんど触れられることはない。『日本建築史図集』『西洋建築史図集』『近代建築史図集』『東洋建築史図集』というのが別個に編まれてきたことが、これまでの建築史叙述のフレームを示している。

 世界建築史のフレームとしては,細かな地域区分や時代区分は必要ない。世界史の舞台としての空間,すなわち,人類が居住してきた地球全体の空間の形成と変容の画期が建築の世界史の大きな区分となる。建築史の場合、建築技術のあり方(技術史)を歴史叙述の主軸と考えれば、共通の時間軸を設定できるであろう。しかし、建築技術のあり方は、地域の生態系によって大きく拘束されている。すなわち、建築のあり方を規定するのは、科学技術のみならず、地域における人類の活動、その生活のあり方そのものであり,ひいては、それを支える社会,国家の仕組みである。

 世界各地の建築が共通の尺度で比較可能となるのは産業革命以降であり、世界各国、世界各地域が相互依存のネットワークによって結びつくのは,情報通信技術ICT革命が進行し,ソ連邦が解体し,世界資本主義のグローバリゼーションの波が地球の隅々に及び始める1990年代以降である。各国史や地域史を繋ぎ合わせるのではなく,グローバル・ヒストリーを叙述する試みとして、『世界建築史15講』は、日本におけるグローバルな建築史の叙述へ向けての第一歩である。

 

 神話としての歴史―「世界建築史」はいかに可能か?

 建築の世界史あるいは世界の建築史をどう叙述するかについては,そもそも「世界」をどう設定するかが問題となる。人類の居住域(エクメーネ)を「世界」と考えるのであれば,ホモ・サピエンスの地球全体への拡散以降の地球全体を視野においた「世界史」が必要である。しかし,これまでの「世界史」は,必ずしも人類の居住域全体を「世界」として叙述してきたわけではない。書かれてきたのは,「国家」の正当性を根拠づける各国の歴史である。一般に書かれる歴史はそれぞれが依拠している「世界」に拘束されている。すなわち、これまでの「世界」は、数多くの「欠落」を含んだものである。世界建築史のフレームとしては,細かな地域区分や時代区分は必要ない。世界史の舞台としての空間,すなわち,人類が居住してきた地球全体の空間の形成と変容の画期が建築の世界史の大きな区分となるのではないか。

 いずれにせよ、叙述のための取捨選択が無数の「欠落」を含むことは明らかである。西欧における「世界建築史」嚆矢といっていい[7]B.フレッチャーの『比較の方法による建築史』[8]は、現在に至るまでD.クリュックシャンクによって改訂[9]が続けられているけれど、フレームを固定したままで「欠落」を埋めるだけで、「世界建築史」というわけにはいかない。問題は、フレームであり、視点であり、切り口である。近代建築批判が顕在化する中で、「W.モリスからW.グロピウスまで」を軸とするN.ペブスナーの『モダン・デザインの展開』やR.バンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』などを「神話としての歴史」としてその見直しを迫る動きがあったようにーN.ペブスナーは自ら『反合理主義者たち 建築とデザインにおけるアール・ヌーヴォー』を書いたー、建築の多様な側面に視点を当てる「世界建築史」が必要である。

 インドネシアを代表する建築史家であるJ.プリヨトモ(スラバヤ工科大学名誉教授)は、9世紀のヨーロッパに「ボロブドゥールに匹敵する建築はない、西欧による「建築史」はアンフェアだ」というのが口癖である。少なくとも、アジアに軸足を置いた「世界建築史」が必要だともいう。「西欧建築史」「日本建築史」「東洋建築史」「近代建築史」の並立は論外である。「世界建築史Ⅱ」の「Ⅱ」も不要である。

 

『世界建築史15講』の構成

『世界建築史15講』は、大きく「第Ⅰ部 世界史の中の建築」「第Ⅱ部 建築の起源・系譜・変容」「第Ⅲ部 建築の世界」の3部からなる。

第Ⅰ部では、建築のの全歴史をグローバルに捉える視点からの論考をまとめた。建築は、基本的には地球の大地に拘束され、地域の生態系に基づいて建設されてきた。建築という概念は「古代地中海世界」において成立するが、それ以前に、建築の起源はあり、「古代建築の世界」がある。そして、ローマ帝国において、その基礎を整えた建築は、ローマ帝国の分裂によって、キリスト教を核とするギリシャ・ローマ帝国の伝統とゲルマンの伝統を接合・統合することによって誕生するヨーロッパに伝えられていく。ヨーロッパ世界で培われた建築の世界は、西欧列強の海岸進出とともにその植民地世界に輸出されていく。そして、建築のあり方を大きく転換させることになるのが産業革命である。産業化の進行とともに成立する「近代建築」は、まさにグローバル建築となる。

第Ⅱ部では、まず、世界中のヴァナキュラー建築を総覧する。人類の歴史は,地球全体をエクメーネ(居住域)化していく歴史である。アフリカの大地溝帯で進化,誕生したホモ・サピエンス・サピエンスは,およそ125000年前にアフリカを出立し(「出アフリカ」),いくつかのルートでユーラシア各地に広がっていった。まず,西アジアへ向かい(128万年前),そしてアジア東部へ(6万年前),またヨーロッパ南東部(4万年前)へ移動していったと考えられる。中央アジアで寒冷地気候に適応したのがモンゴロイドであり,ユーラシア東北部へ移動し,さらにベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ向かった。そして、西欧列強が非西欧世界を植民地化していく16世紀までは、人類は、それぞれの地域で多様な建築世界を培っていた。建築が大きく展開する震源地となったのは、4大都市文明の発生地である。そして、やがて成立する世界宗教(キリスト教、イスラーム教、仏教・ヒンドゥー教)が、モニュメンタルな建築を建設する大きな原動力となる。宗教建築の系譜というより、ユーラシア大陸に、ヨーロッパ以外に、西アジア、インド、そして中国に建築発生の大きな震源地があることを確認する。

 第Ⅲ部では、建築を構成する要素、建築様式、建築を基本的に成り立たせる技術、建築類型、都市と建築の関係、建築書など、建築の歴史を理解するための論考をまとめた。さらに多くの視点による論考が必要とされるのはいうまでもない。



[1] 本書のもとになったのは、『世界建築史図集』あるいは『グローバル建築史事典』といった世界中の建築を網羅する資料集あるいは事典の構想である。しかし、そうした建築史集成や体系的な建築史叙述は未だ蓄積不足で、時間もかかることから、まず、グローバルに建築の歴史を見通す多様な視点を示すことを優先したのであった

[2] 京都大学には、建築学科一期生村田治郎の学位論文『東洋建築系統史論』に始まる「東洋建築史」という科目があった。しかし、戦後、「東洋建築史」という科目は日本の建築学科から―京都大学を除いて―なくなる。日本の建築界は欧米一辺倒となるのである。戦後、建築ジャーナリズムにおいてアジアの建築に触れたのは、「天壇」「宗廟」について書いた白井晟一ぐらいである。僕は、東京大学で太田博太郎、稲垣栄三先生から建築史を教わったけれど、「東洋建築史」については聴いた記憶がない。京大隊の一員としてガンダーラで発掘作業に携わってきた西川先生には、「東洋建築史」を「世界建築史Ⅱ」として存続させたい、という強い思いがあった。

[3] AMLLビルは、オランダ領東インドで活動していたM.J.フルスィットHulswit18621921)に依頼された設計案について意見を求められ,「ヨーロッパの建築をそのまま適用したもので拒絶せざるを得ない」と批判したことから,結果的にベルラーヘの案が採用されたのが経緯である。ベルラーへは,さらに,本国で多くの支社事務所を設計していたネーダーランデン保険会社De Algemeene Nederlanden van 1845のバタヴィア本部の設計(1913)にも関わっている。いずれも設計のみへの関与で現地での施工監理を行ったわけではないが,現地の事情には通じており,東インドの若い建築家たちへの影響力は大きかったと考えられる。

[4] 37葉のスケッチが掲載されているが,スラバヤについては,カリマス沿い,中国廟,アラブ街の三葉のスケッチが掲載されている(図abcd)。

[5] ジャーミ・アッタヴァーリーフJāmi` al-TavārīkhJāmi` al-Tawārīkh。この『集史』による「世界史の誕生」をベースに,ユーラシア全体を視野に収めながら,遊牧民の視点から世界史の叙述を試みてきたのが杉山正明の『遊牧民から見た世界史』(1997)『逆説のユーラシア史』(2002)など一連の著作である。

[6] 今日のいわゆるグローバル・ヒストリーが成立する起源となるのは西欧による「地球」の発見である。西欧列強は,世界各地に数々の植民都市を建設し,それとともに「西欧世界」の価値観と仕組みを植えつけていった。すなわち、これまでの「世界史」は,基本的に西欧本位の価値観,西欧中心史観によって書かれてきた。西欧世界は、その世界支配を正統としてきたのである。そして、西欧世界では、世界は一定の方向に向かって発展していくという進歩史観いわゆる社会経済(マルクス主義)史観あるいは近代化史観が支配的となってきた。リン・ハント(2016[6]は,第二次世界大戦後に歴史叙述のパラダイムとなってきたマルクス主義,近代化論,「アナール学派」,「アイデンティティの政治」(1960年代,70年代のアメリカ合衆国で盛んに試みられるようになった,排除され周縁化されている集団の歴史に着目する一連の歴史叙述)と、そのパラダイムを批判してきた文化理論(ポスト構造主義,ポスト・コロニアリズム,カルチュラル・スタディーズ等々)の展開をともに総括しながら,1990年代以降のグローバリゼーションの進行を見据えた新たなパラダイムの必要性を展望する。秋田茂・永原陽子・羽田正・南塚信吾・三宅明正・桃木至朗編(2016)もまた、21世紀を見通せる「世界史の見取り図」の必要性を強調するところである

[7] フレッチャーに先だって、Fergusson, James (1855), “The Illustrated Handbook of Architecture : Being a Concise and Popular Account of the Different Styles of Architecture Prevailing in All Ages & Countrie, Vol.and Vol.”, John Murray、、Fergusson, James (1867), “A History of Architecture in All Countries, Vol. and Vol., John Murrayがある。

[8] Fletcher, Banister (1896), “A History of Architecture on the Comparative Method“, Athlone Press, University of London (バニスター・フレッチャー(1919)『フレッチャア建築史』古宇田実・斉藤茂三郎訳, 岩波書店)

[9] Cruickshank, Dan (1996), “Sir Banister Fletcher's a History of Architecture”, Architectural Press (ダン・クリュックシャンク (2012)フレッチャー図説・世界建築の歴史大事典 : 建築・美術・デザインの変遷』飯田喜四郎監訳, 西村書店)

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