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2021年3月18日木曜日

現代建築家批評04 ボクサーから東大教授へ 安藤忠雄の軌跡01

 現代建築家批評04 『建築ジャーナル』20084月号

現代建築家批評04 メディアの中の建築家たち

安藤忠雄は、おそらく現在日本で最も著名な世界的建築家である。建築界における国際的知名度という点では伊東豊雄が安藤に並ぶと言っていいけれど、日本国内のポピュラリティでは群を抜いている。

独学で建築を学び、東大教授になり、さらに文化功労者となった、そのサクセスストーリーは、国民的関心を呼ぶに充分である。

丹下健三、黒川紀章に続く日本の建築家の代名詞が安藤忠雄である。日本の近代建築の歴史において、建築界の中枢を握ってきた学閥(スクール)の系譜を思う時、その存在は極めてユニークである。戦前に蔵前工業高校卒で、逓信省営繕の製図工から「創宇社」を興し、一躍時代の寵児となった山口文象、あるいは同じく独学で建築を学んだ白井晟一のような例があるが、時代が違う。メディアのありようが異なる。並行して、建築アカデミズムの地盤沈下がある。安藤忠雄を国民的スターにしたのはメディアの力である。また、安藤忠雄を必要としたのは時代である。誰もが建築家である、誰もが建築家になりうる、そんな夢を見させてくれるのが安藤忠雄である。

 

ボクサーから東大教授へ

安藤忠雄の軌跡01

布野修司

 

双子の安藤

安藤忠雄は、19419月13、大阪港区で生まれ、旭区の母の実家(安藤家)で祖父母に育てられる。間口2間、奥行き8間という。「空襲で焼け出され、疎開後に戻った大阪で住み始めた家は、下町の典型的な長屋街。良好な住環境と言いがたかったが、高密度ゆえの濃密なコミュニティがあり、何より子供時分の私には、木工所、ガラス工場といった町工場の存在が魅力的だった。」と書いている[1]

デビュー作は『住吉の長屋』であり、長屋で生まれた安藤にとって長屋は原点であるが、彼の作品群に「濃密なコミュニティ」の匂いはしない。安藤自身は、モノをつくる姿勢、作法のようなもの、モノづくりの厳しさ、喜びを知ったという。十代半ば、中学2年生の時に自宅の改造の現場に立ち会い、見慣れた薄暗い住まいが、光の導入によって変化を遂げる過程を眼の当たりにした感動を、建築を志した理由のひとつに挙げる。その生家のファサード写真をみると、なんとなく垢ぬけている。

双子の弟、北山孝雄(北山創造研究所)がいて、さらに下に弟、建築家北山孝二郎がいる。安藤は、1969に安藤忠雄建築研究所を大阪に設立することになるが、ローズガーデン(1977年、神戸市生田区)等初期の作品のいくつかは、弟の孝雄の所属していた、セツ・モードセミナー出身の浜野安宏が代表を務める浜野商品研究所[2]と共に実現したものである。僕らの世代が安藤忠雄の名前を知ったのはローズガーデンである。

北山孝雄は、プロデユーサーとして『神戸大丸界隈計画及びブロック30』、『ON AIR(渋谷)』、『函館西波止場』、『徳島市東船場ボードウオーク』、『亀戸サンストリート』など、実に多彩な活動を展開しつつあり、著作[3]も多い。大工の文さんこと田中文夫[4]棟梁から『大阪人 北山孝雄の 24時間』(1997年、東京ソルボンヌ塾)を頂いたのであるが、意外なつながりに建築の世界の縁を思った。稀代のインテリ大工として知られる大文さんは、その昔、亡くなった建築史家の野口徹[5]さんとともに浜野安宏と仕事をしていたことがあるのである。

建築あるいはまちづくりをプロデュースする双子の弟の存在は、安藤忠雄の仕事を考える上で極めて暗示的である。建築のプロデュースという仕事はこれまで全くなかった職域と言っていいからである。1962年から東京で仕事を始めた北山孝雄を通じたネットワークで多くの知己を安藤は得ることになる。

北山孝二郎は、ピーター・アイゼンマンとの共同作品「コイズミライティングシアターIZM」(1987-90年)でも知られる建築家である。一家の建築家としての才能は疑いがないところである。

 

安藤伝説

安藤は、工業高校を卒業後、独学で建築を学んだ、という。また、工業高校(大阪府立城東工業高校機械科)在学中17歳でプロボクサーとしてデビューしている。弟(孝雄)が突然ボクシングを始めたことに刺激を受け、ジムに通い始め、2ヶ月程でプロのライセンスを取得したという。ボクサー時のリングネームは「グレート安藤」。フェザー級。戦歴はプロ戦績通算831分―231337分け、という説もある。「安藤伝説」のふたつの柱である。真偽を確かめたことはないが、精悍な顔つきでファイティング・ポーズをとる写真が残っている[6]大阪工業大学短期大学部建築科(夜間部)中退というのが学歴であるが、通信教育で図面描きを身につけたのだというそして、友人の紹介でインテリア・デザインを手掛ける。建築事務所での短期勤務歴がある。長沢節が創った美術学校であるセツ・モードセミナーに参加したりしているから、浜野安宏との出会いもこの初期の暗中模索時代であろう。いずれにせよ、安藤は専門的な建築教育を受けていない。彼は、建築を学ぶ源泉として、しばしば旅をあげる。20歳の時に日本一周旅行を行う。また、1965年からヨーロッパへのひとり旅を試みている。ボクシングの試合で得たファイトマネー、設計事務所を転々としながらのアルバイトで貯めたお金を手に放浪して回ったというが、とにかく、建築を見て回りたかった、という。当時、建築界では、神代雄一郎、宮脇檀らがデザイン・サーヴェイを開始していた。1960年代初頭、日本列島のここそこには美しい集落や町並み景観がまだまだ残されていた。その風景に触れたことは安藤の原点であり続けている。

旅が建築家安藤を育てた。

日本一周もそうであるが海外への一般渡航が解禁されたばかりの欧州行にしても、ほとばしり出る青春のエネルギーがなせるわざである。インテリア、家具やグラフィック・デザイン、都市計画の仕事をしながら、建築雑誌を購読し、数多くの「教科書」を読んでいる。大学の講義の無断聴講もしている。太田博太郎の『日本建築史序説』を繰り返し読んだという。また、ヨーロッパへはG.ギーディオンの『時間・空間・建築』を携えていったという[7]

安藤忠雄は、原点において、「建築少年」であった。


事務所開設

1969年、大阪の梅田に事務所開設する。28歳の時である。その直前には大阪市立大学の水谷頴介の主催するTeam URに在籍し、再開発の調査、マスタープランを手伝っていたという。水谷頴介先生とは渡辺豊和さんの紹介で晩年何度か飲んだことがある。関西では知る人ぞ知る名物先生で弟子たちも多い。この水谷スクールに触れたことも安藤の大きな力になることになる。

最初の仕事は、作品年表によれば「小林邸(スワン商会ビル)[8]」(1969-72年)である。ただ、本人が書くところによると事務所に最初に舞い込んだ仕事は「冨島邸」(1973年)である。続いて、1974年には立見邸など5軒、1975年には「双生観(山口邸)」など3軒、立て続けに小住宅を竣工させる。

オイルショックが日本列島を襲う中で、かなりの仕事量と言えるのではないか。大阪には高度成長と大阪万国博覧会Expo70の余韻が残っていたというべきであろうか。

このころ、若い学生たちの関心の舞台は『都市住宅』であった。あるいは『建築』であった。いずれも平良敬一さんが創刊に関わる。4号で終わった『TAU』にも触れたが、若い建築家たち、学生たちを建築ジャーナリズムがとりあげてくれた。遺留品研究所、コンペイトウ・・・などの活躍の舞台が『都市住宅』であった。石山修武、毛綱モン太(毅曠)は、二人で「奇想異館」を掘り起こす連載を行っていた。

毛綱モン太は中でも強烈であった。「反住器」(1972)は衝撃的であり、「給水塔の家」のプロジェクト(毛綱邸計画)(『都市住宅』196910月。「北国の憂鬱」と同時発表)には心が躍った。六角鬼丈の「家相の家」(1970年)、渡辺豊和の「112(吉岡邸)」(1974年)、象設計集団(チーム・ズー)の「ドーモ・セラカント」(1974年)、石山の「幻庵」(1975年)など、ポストモダンの潮流を担う数々の住宅作品が生み出されていたのが1970年代初頭である。

そんな中、冨島邸と二つの計画案を安藤忠雄は『都市住宅』(737月号、臨時増刊 住宅)に載せる。その時にはじめて書いたという文章が「都市ゲリラ住宅」である。この文章については後に触れよう。

『都市住宅』誌に安藤を紹介したのは渡辺豊和である。未だRIAに在籍していた渡辺豊和と毛綱モン太が出会うのは、『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』(アセテート、2006年)によれば、安藤が事務所を開設した1969年のことである。安藤ともほどなく交流が成立したのであろう。この渡辺、毛綱、安藤の三人は、やがて「関西の三奇人(馬鹿?)」と呼ばれるようになる。植田実の命名だという。

 

日本建築学会賞受賞

10軒足らずの住宅の設計を忙しくこなしながら、平行して、「住吉の長屋(東邸)」が設計される(1976年竣工)。そして、この「住吉の長屋」は1979年の日本建築学会賞作品賞を受賞する。宮脇 檀の「松川ボックス」、谷口 吉生,高宮 真介「資生堂アートハウス」との同時受賞であった。

安藤の日本建築学会賞受賞は、㈱象設計集団+㈱アトリエ・モビル(1981年、名護市庁舎)、毛綱毅曠(1984年、釧路市博物館・釧路市湿原展望資料館)、長谷川逸子(1985年、眉山ホール)に先立つ。原広司(1986年、田崎美術館)さらに渡辺豊和(1987年、龍神村民体育館)より早い。翌年、林雅子が「一連の住宅」が受賞しているのに比すると、たった一戸の住宅での受賞は異例の評価といっていい。

作品賞は、前年度「該当作品なし」である。1979年度も、「該当作品なし」となりそうであった。総評は、「作品賞の空白が続くことによる今後への影響が憂慮された結果、審査の方針を作品そのものよりは、作品そのものよりは、作品を生み出した設計者の精神、考え方の可能性、制作態度をより重視する方向に変えることによって、該当作品を得ることにしたのである」[9]という。両年度の審査委員長は大江宏である。当時、彰国社で刊行が企画されていた新建築学大系第1巻『建築概論』の編集コアスタッフとして大江先生とは頻繁に会う機会があった。宿がたまたま近かったこともあって深夜にタクシーで送って頂くことも度々であった。直接話されることはなかったが、「総合得点の高い」有力候補の「制作態度」は認められない、という雰囲気であった。退けられたのは「ひろしま美術館」の作者である。

安藤忠雄はラッキーであったといっていい。この受賞が安藤の建築家としての出発点になる大きな転機になったことは、本人が繰り返し語るところであり、また、衆目の認めるところである。安藤評価のきっかけは伊藤ていじの朝日新聞記事(1976108日)だという。賞は人を育てるのである。

「住吉の長屋」、あるいはそれに先立つ「双生観」以降、安藤の作品の傾向はがらっと変わっている。本人が言うように、安藤が初期の狭小住宅で修作を繰り返すなかで、範としていたのはA.ロースであり、その「ラウム・プラン(空間計画)」である。「そっけない四角い箱の内に、複雑多様な空間のドラマを潜ませる建築」を安藤は必死に試みているのである。しかし、「住吉の長屋」において、安藤は「複雑多様」ということを捨ててしまう。このことについても続いて触れよう。

「雨の日にトイレに行くのに傘をささねばならないとは、何という建築家の横暴か」

確かにスキャンダルであった。彼は、いわゆる機能的なプランニングの手法を捨て去った。その代わりに何かを選択した。誰もがそこに近代建築批判の本質を嗅ぎ取った。

顕彰理由は次のように言う。

「全体については内外を打ち放しコンクリート、床を玄昌石、手造りの家具という数少ない材料と工法による住空間は明快な設計意図を反映して格調が高く安定感がある。反面、外壁のインシュレーションの間隔や手摺のない階段、雨の日も光庭を通らねばならないという生活上の問題等々に対する一般的な不安感もある。しかし、都市で失われつつある自然と人間の対応について、このような極限に近い住環境においてもそれを目指して実現させ、完成後も周期的にアフターケアを実行しているという努力に支えられているこの住宅を都市住宅のひとつのあり方として評価し、ここに日本学会賞を贈るものである。」

 

東大教授就任

「住吉の長屋」に続いて、「ローズガーデン」「北野アレイ」(1977年)「甲東アレイ」(1987年)などの商業建築が竣工する。そして、大規模な集合住宅として「六甲の集合住宅Ⅰ」(1983年)に至り、日本文化デザイン賞(六甲の集合住宅ほか)を受ける。

その後の活躍は数々の受賞が示している[10]。安藤ワールドが完成するのは「水の教会」(1988年)、「光の教会」(1989年)においてである。

この過程で、安藤忠雄は、東京大学教授に就任(1997年)することになる。

東京帝国大学―東京大大学の建築学科出身の建築家たちが日本の近代建築をリードしてきたことは言うまでもない。戦前期に遡って、日本の建築家の学閥(スクール)についてまとめた本に村松貞次郎の『日本建築家山脈』(鹿島出版会、1965年)がある。ここでは日本の建築家山脈の全貌に触れる余裕はないが、東京大学にとってみれば、日本のリーディング・アーキテクトをプロフェッサー・アーキテクトとするのは大きな指針である。

戦後建築をリードし続けたのは、前川國男であり、丹下健三である。そして前川―丹下の両スクールから、磯崎新、黒川紀章ら数多くの建築家が育った。1962年に東京大学に都市工学科が出来、丹下健三、大谷幸夫が移るとともに、建築学科に設計計画の講座がつくられ、招かれたのが芦原義信である。そして、槇文彦がそれを継いだ。

全共闘運動の残り火がまだ勢いのある頃、東大に赴任した芦原義信先生と激突!?したのが、我らが「雛芥子」の学年であった。設計製図を習ったのは一年上の陣内秀信、六鹿正治らの学年が一期生、われわれは二期生である。今振り返ると身近な空間の利用と管理をめぐる争い!?であるが、われわれは空間のあり方について多くを学んだ。結果的には、芦原先生はじめ内田祥哉、稲垣栄三、鈴木成文といった先生と親しく交わった。しかし、その上の学年はそうはいかない。学生と教授陣との間には大きな溝が出来ていたように思う。そうした上級生の中に安藤忠雄を東大教授に招いたとされる鈴木博之さんがいた。

芦原、槇に続く、プロフェッサーとして世界的知名度のある建築家が欲しい、と考えるのは自然である。詳細は知らないが、多くの卒業生を排しての安藤忠雄の選出には多くの議論があったのだろう。京都大学にいたから知っているのであるが、当時、京都大学でも安藤忠雄を教授で呼ぼうという動きがあった。しかし、京都大学工学部の場合、教授就任には博士の資格(学位論文を書いている)のが必須であった。

ここでも安藤は、ラッキーであった!?


 

 

      



[1] 安藤忠雄、『建築手法』、A.D.A.EDITA Tokyo2005年。P12

[2]  1962年、クリエーターズリミテッド「造像団」設立。1965年、浜野商品研究所設立。1992に浜野総合研究所と改名。

[3] 『実感思考』、史輝出版、1995年、『街の記憶』、六耀社、2000年、『発想の原点』、北山創造研究所、六耀社、2001年、『24365東京』、北山孝雄+北山創造研究所、集英社、2003年、『このまちにくらしたい うずるまち』、北山孝雄+北山創造研究所、産經新聞出版、2006年など

[4] 田中文夫

[5] 野口徹(1941-87)。主論考『日本近世の都市と建築』(東京大学出版会、1992年)で知られる。北山孝雄は「遺稿集刊行会」の発起人の一人である。

[6] 安藤忠雄、『建築手法』、A.D.A.EDITA Tokyo2005年。P13

[7]  最初の旅にR.バンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』を持っていったと言うが、記憶違いであろう。

[8] 『安藤忠雄の建築1 住宅』、TOTO出版、2007

[9] 『建築雑誌』、日本建築学会、19808月号

[10] 1979年 日本建築学会賞(「住吉の長屋」)

1983 - 日本文化デザイン賞(「六甲の集合住宅」ほか)

1985 - 5回アルヴァ・アアルト賞

1986 - 芸術選奨文部大臣賞新人賞(「中山邸」ほか)

1985 - 毎日デザイン賞

1987 - 毎日芸術賞(「六甲の教会」)

1988 - 13吉田五十八賞(「城戸崎邸」)

1989 - フランス建築アカデミー大賞

1990 - 大阪芸術賞

1991 - アメリカ建築家協会(AIA)名誉会員、アーノルド・ブルンナー記念賞(アメリカ)

1992 - 1回カールスベルク建築賞(デンマーク)

1993 - イギリス王立英国建築家協会(RIBA)名誉会員。日本芸術院賞

1994 - 26日本芸術大賞(「大阪府立近つ飛鳥博物館」)、朝日賞

1995 - 1995年度プリツカー賞1994年度朝日賞、第7回国際デザインアワード、フランス文学芸術勲章(シュヴァリエ)

1996 - 8高松宮殿下記念世界文化賞、第1回国際教会建築賞

1997 - ドイツ建築家協会名誉会員、王立英国建築家協会ロイヤルゴールドメダル(RIBAゴールドメダル)、第4回大阪キワニス賞、フランス文学芸術勲章(オフィシエ)

2002 - アメリカ建築家協会ゴールドメダル(AIAゴールドメダル)、京都賞思想・芸術部門受賞

2005 - 国際建築家連合ゴールドメダル(UIAゴールドメダル








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