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2021年3月6日土曜日

アレクサンドロスの都市 Cities of Alexander the Great

traverese17 2016 新建築学研究17 


 Cities of Alexander the Great 
アレクサンドロスの都市 
Shuji Funo
 布野修司 

アジア三部作(『曼荼羅都市-ヒンドゥ-都市の空間理念とその変容』(2006年)『ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容』(2008年)『大元都市-中国都城の理念と空間構造-』(2015年))を上梓して、『世界都市史』も射程に入ったなあと思っていたところ、『世界都市史』(仮)執筆の依頼があって一気に書き出した。そして、世界中の都市にそれぞれの歴史がある、本の骨格を彩る形でコラムとか、囲み記事で都市を紹介したらどうかと思いついたのが運のつきであった。編集部にいっそのこと『世界都市史事典』(仮)にしようと言われて、総計2000頁近くなる企画になってしまった。2分冊になるという。その全体構想を紹介したいのだけど、紙数が限られるというから、ひとつの都市だけ紹介しようと思う。つい最近(20162月)訪れる機会があったエジプトのアレクサンドリアである。アレクサンドリアを設計したのは、言うまでもなくアレクサンドロス大王である。彼の名を冠する都市は一説に拠れば数十に登るという。それを追いかけてみよう。彼に匹敵するほど多くの都市を建設した建築家は世界史上何人いるのであろうか[1]

 

アレクサンドリア

アレクサンドロス大王(356323BCE)が建設したアレクサンドリアは、プルタルコス『対比列伝』「アレクサンドロス伝」は70以上といい,ストラボン(紀元前63年頃~23年頃)(『地理書(誌)』全17巻)は8,ローマ帝国の歴史家ユニアヌス・ユスティアヌス(『ピリッポス史』)は12という。N.G.L.Hammond(1981)18というが、Fraser, P.M.(1996)は,諸文献から57の候補を挙げた上で12の場所を同定する[2]

アレクサンドリアは,アレクサンドロスの軍事拠点であり植民都市である。既存の都市を拠点とした場合も少なくないし,70という場合は当然それを含んでいる。しかし,アレクサンドロス自ら計画した都市となるとそう多くはない。滞在は1年を超えることはなかったから,建設を見届けるということはなかった筈だ。森谷公俊(2000a)は,新たに建設されたアレクサンドリアは,①エジプトのアレクサンドリア(アル・イスカンダレーヤ,②アレクサンドリア・アレイアAria(na)(アリアナ:現ヘラート),アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラーFarah),アレクサンドリア・アラコシアArachosia(アラコシオルム:カンダハル近郊シャル・イ・コナ),⑤アレクサンドリア・カピサ(カウカソス(コーカサス):現ベグラム?),⑥アレクサンドリア・オクシアナ(オクソス:現アイ・ハヌム?),⑦アレクサンドリア・エスカテEschate(最果てのアレクサンドレイア,ホジェント,現レニナバード),アレクサンドリアアケシネスアレクサンドリア・オレイタイ(旧ランバキア:現ソンミアニ),⑩スーサ南部のアレクサンドリア(スパシヌ・カラクス)の10都市という(図a)。


アレクサンドロスが13歳になった時,父フィリッポスⅡ世が帝王教育のためにアリストテレスを教師に招いたことはよく知られる[3]。マケドニアの王になるのは20歳の時であるが、それ以前,16歳の時に,自らの名を冠した都市アレクサンドロポリスを建設している。アレクサンドロスが軍事に優れ,あらゆる技術に精通した政治家であり,さらに建築,都市計画の才があったことは疑いがない。先のリストに、マケドニアに設計したというアレクサンドロポリス(を加えると11となる。

 

エジプトのアレクサンドリア

 アレクサンドロスの東征は, 紀元前334年の遠征開始から紀元前330年夏のダレイオスⅢ世の死亡によってハカーマニシュ朝ペルシアが滅亡するまで(Ⅰ),紀元前330年秋の中央アジア侵攻から紀元前326年にインダス川を越え,遠征を中止し反転を決定するまで(Ⅱ),紀元前326年末から紀元前323年のその死まで(Ⅲ)の3期に分けられる。

Ⅰ期に建設されたのがエジプトのアレクサンドリアである(b)。アンキュラ(現アンカラ)から南下,フェニキア地方の大半の都市を開城、ガザも破ってエジプトへ侵攻,さらに聖都ヘリオポリスを経てメンフィスに至り,川を下ってナイル・デルタの西端のカノボスに到達して都市建設を決定する。自ら計画図を引いたとされるが、選地などに神意を問うた占師としてアリスタンドロス、また,建築家の名としてディノクラテスが知られる[4]。紅海,地中海を繋ぐ絶好の場所に位置したアレクサンドリアは,ヘレニズム世界最大の都市に成長していくことになる。ただ、完成するのは,プトレマイオス朝になってからである(図c[5]。現在のアレクサンドリアは、点々と歴史的遺構が残されているが、周辺地域を合わせれば1000万人を超える、カイロに次ぐ大都市である(図d,e)。

 

 
  


バクトアリアのアレクサンドリア

アレクサンドロスは,紀元前3314月にエジプトを発ち,ダレイオスⅢ世をエクバタナに敗走させる。ユーフラテス川、ティグリス川を渡ってバビロンに入城,さらにスーサ,続いてペルセポリス(図f)を占領,帝国の財宝を略奪接収して,ペルセポリスに火をつけ、廃墟とする。


以降,アレクサンドロス独自の進軍が開始される[6]。アレクサンドリアが各地に建設されるのはこれ以降である。その建設は一般に東西融合政策の一環とされるが,一方で,傭兵としてきたギリシャ兵の処遇が問題であり,植民都市建設の第1の目的は,彼らを住まわせ支配拠点とすることであった。アレクサンドリアの住民となったのは,地元住民の他,退役したマケドニア人,そしてギリシャ人傭兵であり,アレクサンドロスに反抗する不満分子を隔離する機能もあった。

紀元前330年末、冬のヒンドゥークシュ山脈に入り,カーブルに到達して冬を越すが,この間建設したのがカウカソス(コーカサス)のアレクサンドリアである()。ハカーマニシュ朝ではカピサと呼ばれていた交通の要所にあった町を再建したとされる。アレクサンドリア・カピサは,後にグレコ・バクトリア王国,そしてクシャーナ朝の都となる。アリアノス(2001)は記述しないが,バクトリアのアレクサンドリアとされるのが,ヘラート([7],ファラー([8],カンダハル(④)である。ガズニーそしてバルフ(バクトラ)にもアレクサンドリアが建設されたとされるが,カンダハル,ヘラートも含めて,アレクサンドリアの当初の痕跡は残されていない。

そうしたなかで,当初の様子がうかがえるのが,ヒンドゥークシュ山脈の北に位置し,アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus)(⑥)に比定されるアイ・ハヌムAi-Khanoum, Ay Khanum)遺跡である[9]。様々な工芸品や建築物,ギリシャ様式の劇場,ギュムナシオン,ポルティコに囲まれた中庭のあるギリシャ様式の住居の遺構などが見つかっている。

 

最果てのアレクサンドアリア

アレクサンドロスは,紀元前329年春,カワク峠を越えてバクトリア地方に入り,ソグディアナへ向かい、タナイス(ヤクサルテス,現シルダリア)川に「アレクサンドリア・エスカテ(最果てのアレクサンドリア)(⑦)」を建設する。シルダリア川は当時アジアの果てと考えられていた。現在のタジキスタンのホジェンドに比定される[10]

最果てのアレクサンドリアの後、アレクサンドロスはインドに向かう。紀元前326年にインダス川渡ってタキシラに入り、川の両岸にニカイア(現モング付近)とブケバラ(現ジャラルプール)という2つの都市を建設する。これがアケシネス河畔のアレクサンドリア()である。そしてさらに進軍するが,部下に造反され,ついに進軍を断念、退却する。インダス川を河口まで大船団を仕立てて下り、デルタの先端部のパタラに着いたのが紀元前325年,ここからはネアルコスを指揮官とする沿岸探索航海[11]を別立てとし,自らの本隊は沿岸を陸行し、アレクサンドリア・オレイタイ([12]を建設したとされる。アレクサンドロスは,紀元前3241月ペルシア帝国の旧都パサルガダイ[13]に到着,さらにスーサに至る。スーサ南部にもアレクサンドドリア(⑩)を建設したとされるが詳細は不明である。帰還したアレクサンドロスは,帝国をペルシア,マケドニア,ギリシャ(コリントス同盟)の3地域に再編し,同君連合の形をとる。そして,アラビア半島周航を目前に熱病に倒れたのであったる。

 

紀元前5世紀には確立していたギリシャのグリッド都市の伝統は,アレクサンドロス大王の長征によって,東方に伝えられた。その具体的な形態は知られないが,ギリシャ風の都市計画,すなわちヒッポダミアン・プランが伝えられたことは大いに想定される。中央を幹線大路が南北に走り,それに直交して東西に小路を設ける魚骨(フィッシュ・ボ-ン)型の街路構成をとるパキスタンのタキシラにある都市遺構としてシルカップが知られるが,ヘレニズム期に属し,ギリシャ人の影響のもとに建設されたとされている。グリッド都市は敵国の領土に新たな都市を短期間に建設するのに適した形式であり,軍事都市の性格をもっていたアレクサンドリアは,おそらくシルカップ(図g)のモデルとされたのである。


 

主要参考文献

アッリアノス(2001)『アレクサンドロス大王東征記』上下、大牟田章訳、岩波文庫。

N.G.L.Hammond(1981), “Alexander the Great; King, Commander and Stateman”London

P.M. Fraser(1996), “Cities of Alexander the Great”, Clarendon press Oxford.

森谷公俊(2000a)『アレクサンドロス大王 「世界征服者」の虚像と実像』講談社選書メチエ

森谷公俊(2000b)『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』吉川弘文館

 



[1] ホセ・デ・エスカンドンが、ヌエヴォ・サンタンデール入植地(メキシコ、タマウリパス)に建設したのは25都市である(布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』京都大学学術出版会)

[2] 最も信憑性が高いとされるアリアノス(2001)を邦訳で読んでみたが、辛うじて8つを確認できた。

[3] アリストテレスは,王位についたアレクサンドロスに『王たることについて』と『植民地の建設について』という諭説を送ったとされる。

[4] 「彼は自分でも,アゴラは町のどのあたりに設けるべきか,神殿はいくつ程,それもどんな神々のために神殿を建立すべきか…,それにまた町をぐるりと囲むことになる周壁は,どのあたりに築いたらよいかなど,新しい町のためにみずから設計の図面を引くなどした。」,そして,「これから築造される周壁のおおよその線引きを,自分の手で現場の技術者に残したいと考えたが,地面にその印をつけてゆく手段が身近になかった。そこで…大麦をあるだけ容器にとり集め,先に立ってゆく王が道々指示する場所には,その大麦を地面に撒いていく・・・」方法がとられた(アリアノス(2001)))。そして,エジプトの最高神アモンAmon(アメンAmen)を祀る神殿のあるリビア砂漠のシーワ・オアシスに参詣,神託を受けた後,メンフィスに戻る途中にアレクサンドリアの起工式を行っている。

[5] プトレマイオスⅠ世(紀元前323より太守。位:紀元前304282)は,シーワ・オアシスのアモン神殿に運ばれるアレクサンドロスの遺体を略奪し,大十字路の交点に埋葬する。そして,学問,音楽,芸術の都とすべく大事業に着手する。プトレマイオスⅡ世(紀元前282246),Ⅲ世(紀元前246221)と引き継がれて,アレクサンドリアは絶頂期を迎える。ファロス島の東端には高さ120mを超えるファロス大灯台が建設された。新都の位置を示すランドマークであり,監視塔であり要塞でもある。建築家としてソストラトスが知られるが,彼は,エラトステネスとユークリッドの同時代人である。西の沿海部に宮殿群,官庁群のコンプレックスとして王宮があり専用の港をもっていた。広大な敷地に図書館,観測所,動物園,講堂,研究所,食堂,講演などが建ち並ぶ学園ムセイオンは,カノポス通りとソマ通りの交点,アレクサンドロ大王の廟の向かい側にあったとされる。中心神殿であるセラピス神殿は南西部に建てられ,劇場と競馬場は王宮のある北東部にあった。ディノクラテスの設計計画は,1世紀かけて完成するのである。

[6] 東征開始からハカーマニシュ朝滅亡までの進軍経路において,アレクサンドロスの名に因む都市に,アレクサンドリア・ニア・イッサス 後の時代にアレクサンドレッタと改称,イスケンデルン,トルコ),そして,バグダードの南にあるイスカンダリア(イラク)がある。イスカンダル Iskandar は,アラビア語・ペルシア語で,もともとアリスカンダールAliskandarであったが,語頭のアルal-が定冠詞と勘違いされ,イスカンダルとなった。アラビア語では定冠詞をつけてアル・イスカンダル al-Iskandar と言うのが普通である。ksが入れ替わった理由は不明とされる。この2つの都市は命名のみで新たに建設されたものではない。

[7] 。ハライヴァと呼ばれていたヘラートの地に建てられたのはアレクサンドリア・アレイアである。ハライヴァはギリシャ語でアレイアAreia,ラテン語でアーリヤAriaである。セレウコス朝の支配下になり,パルティアを経て,サーサーン朝ペルシアに併合される。652年にイスラームの支配下に入り,ウマイヤ朝そしてアッバース朝のもとでは,東方イスラームを代表する交易都市として栄えた。12世紀後半,ゴール朝がヘラートを奪取し,事実上の首都となる。1221年と翌年,モンゴル軍が2度にわたってヘラートを襲い,徹底的な破壊を受けてほとんど廃墟と化したが,フレグウルスの地方政権となったクルト朝が首都とすることによってめざましい復興を遂げる。その後,ティムールが征服(1380年),ティムール朝の首都となったことでヘラートは歴史上でもっとも繁栄した時代を迎える。16世紀に入ると,ウズベクのシャイバーン朝とサファヴィー朝の争奪に翻弄され,衰退していくことになる。

[8] アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラー)は,ヘラートからカンダハルへ回り込む道筋に位置するが,遺構の詳細は不明である。カンダハルの名前は,アレクサンドロスAlexandorosxandorosが転訛したとの説がある。ペルシア帝国の属州アラコシアに建設され(アレクサンドロス・アラコシア),分裂後セレウコス朝の支配下に入り,マウリヤ朝のチャンドラグプタに割譲された。アショカ王在位紀元前268~前232年)の法勅碑文も残され,クシャーナ朝のもとで仏教文化が栄えるが,7世紀にはイスラームの支配下に入る。9世紀から12世紀にかけて,サッファール朝,ガズナ朝,ゴール朝に支配され,1222年にはチンギス・カンによって大モンゴルウルスの版図に組み入れられる。1383年以降,ティムール帝国に支配下に入るが,16世紀初頭にティムール朝の王子バーブルが南下してきて,カーブルを拠点とするムガル帝国を建てると,サファヴィー朝との抗争の最前線となる。18世紀末サファヴィー朝に変わってアフシャール朝が建つと,アレクサンドロス以来のカンダハルは徹底的に破壊される。18世紀半ば,ドゥッラーニー朝が建って,旧市の東5km離れた位置に新たな城塞都市が建設され,18世紀末にカーブルに移るまでドゥッラーニー朝の首都として使われた。

[9] アイ・ハヌムは,長さ約3kmの城壁に囲われており,中央の丘に城砦と塔が建っていた。また,数千人収容可能な直径約84mの円形劇場があり,ペルシアの宮殿を思わせる巨大な宮殿があった。ギュムナシオンも100m四方の巨大なものであった。セレウコス朝とグレコ・バクトリアの主要都市として存続したが,紀元前145年ごろに破壊され,その後再建されなかった。1964年から1978年までアフガニスタン考古学フランス調査団が発掘し,ロシアの科学者も発掘を行ってきたが,アフガニスタン戦争で発掘は中断し,その地は戦場と化したために遺跡はほとんど原形をとどめていない。

[10] その後,8世紀にイスラーム化され,ホジェンドと呼ばれるようになる。10世紀には,中央アジアでも有数の都市となったが,大モンゴルウルスの版図に入り,14世紀にはティムール朝の支配を受けた。

[11] この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に,ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され,貴重な記録となっている。

[12]アレクサンドロスⅢ世が,当時のオレイタイ地方にあった大集落ランバキアを拡充させ,アレクサンドリアと命名したとされる。ランバキアの所在地は不明である。

[13] ペルセポリスの北東87キロメートルに位置する,ハカーマニシュペルシアの最初の首都であり,キュロスによって紀元前546年に建設された。キュロスⅡ世の墓と伝えられる建造物,丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞,そして2つの庭園から構成される。建造物は2004年,庭園は2011年,世界文化遺産に登録された。


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