現代建築家批評11 『建築ジャーナル』2008年11月号
現代建築家批評11 メディアの中の建築家たち
風の変様体・透層する建築
伊東豊雄の建築論
伊東豊雄は実に多才である。安藤忠雄と違って、自らかなりの文章を書く[i]。多くは求められるままにであろうが、名コラムニストとして知られる山本夏彦が主宰していた『室内』に時評を何度か依頼されていることをみても、その批評家としてのセンス、エッセイストとしてのセンスは相当のものである。そして、実に幅が広い。
僕の二冊目の本で処女評論集『スラムとウサギ小屋』(青弓社、1985年)についての書評「突き抜ける明るさ」[ii]を『風の変様体』(青土社、1989年)に収録してくれている。そして、「アジアのスラム」に惹かれていった僕の関心をものの見事に見抜いている。興味深いことに、もし「日本以外の土地で暮らすとしたら、一にバンコク、二にバルセロナ、三、四にメキシコシティかブエノスアイレス、もしアメリカでと訊ねられればサンフランシスコ」と書いている[iii]。欧米に囚われないこのグローバルなスタンスも伊東豊雄の感性のしなやかさを示している。
建築論としての本格的な論文は少なく、建築家論や作品批評に自らの建築論を忍び込ませるスタイルを採る。そして、常に建築的、社会的状況の流れを見定めながら、自らと自らの作品の位置を見定め測定する構えが特徴的と言える。そして、建築家として当たり前のことだけれど、設計という行為そのものを問い続けることから問題を立てるのが一貫する姿勢である。
伊東は、処女作「アルミの家」を発表するに際して、「設計行為とは歪められてゆく自己の思考過程を追跡する作業にほかならない」[iv]という長いタイトルの文章を書いている。そこで、「設計という行為にひとつの論理を立てようと努力することを信じていられようか」といいながら、「なお設計という行為に踏みとどまろうとすれば、それはいま自分の周辺で行われている不条理を不条理のままに露呈することでしかありえないはずである」という。そして、「何にもまして、私は具体的なものをつくりあげたいというもっともプライマリィな感覚を全ての基盤に据えたいし、この論理以前の感覚のみを通じてコミュニケーションの足がかりをつくりたいと考えている」という。
建築の最先端を走り続ける伊東豊雄をリードし続けているのは、この「論理以前の感覚」である。
ポストモダンへ:菊竹・篠原・磯崎を超えて
伊東豊雄は、その処女論考「無用の論理」[v]において、「URBOT」に即して、その思想に大きな影響を及ぼした二つの相反する系譜、W.ムーアに代表されるカリフォルニア・ヴァナキュラー建築の流れとアーキグラムからスーパースタジオへとつらなっていくファンタスティックなユートピアの流れを挙げている。
当時、グローバルな建築状況を見事に整理してくれていたのが磯崎新の『美術手帖』の連載であり、それはやがて『建築の解体』にまとめられるが、伊東の世代から僕らの世代までは、この一書によって建築状況についての共通認識を持っていたと言っていい。「主題の不在」という磯崎流の総括によって、磯崎は自らのポストモダンの方向性(手法論、引用論、折衷論)を定めて行くのであるが、われわれは何を選択するのかそれが問題であった。そして、先行世代を如何に超えるかがいつの世代でも問題となる。「近代の呪縛」シリーズで夜な夜な議論していたのはそういうことだ。
伊東の場合、前述のように、その具体的対象は、まず菊竹であり、磯崎であり、篠原であった。
「菊竹清訓氏に問う、われらの狂気を生きのびる道を教えよと」[vi]、伊東豊雄は、新作「萩市庁舎」を批判しながら、まるで菊竹清訓を総括するかのように書いている。「菊竹清訓という一人の建築家がこの十年間、状況とどのように対してきたかを考えてみたい。それはまた、私の状況に対する視点を氏に問うことに他ならない」[vii]。
作品の質においても、社会との対応においても、「狂気」と呼べるような迫力を菊竹が欠いてきていることを指摘しながら、状況との苦闘こそを目指すべきだとするが、その行方が見出せていないもどかしさがそのタイトルに表現されている。一方で状況は変化したという認識がある。60年代における建築家と社会あるいは都市との関わりを大きく「生活派」もしくは「社会派」と「空間派」に分けた上で、この段階では、はっきり後者を代表する篠原一男の立場をとると書いている。実際、丹念に篠原の住宅作品を分析しながら、「いまほど篠原一男氏の建築に関心を寄せるときはない」と書いた。磯崎新については、新作「北九州美術館」をめぐって、その作品を振り返りながら、「磯崎新という建築家の空間に興味を抱くのは、彼が自己の身体性を引きずっている限りにおいて、またその身体性へと向かうレトリックやマニエラである限りにおいてである」。身体性抜きに建築が成立するのか、という批判が磯崎に対してもあった。
都市から都市へ
こうして、社会あるいは都市との関係を、また状況との関わりを伊東豊雄は一貫して、自らの思考の基礎においてきた。初期の伊東豊雄は、自らの建築をどのような文脈において位置づけるかを考え続ける。近代建築の様々な潮流、自ら建築家修行を開始した1960年代の建築動向、超えるべき先行世代とその方向を競い合う同世代の建築家たちの動向、そうした中で自分の依拠する文脈を探ろうとしている。「文脈を求めて」[viii]において、結局は、自分の依拠する文脈は現実の都市だと書く。さらに、現実の都市と自らの建築を結びつけるキーワードとして、①コラージュ、②均質性、③表面性、④レトリック、⑤リズム、⑥断層を挙げている。さらに「コラージュ的建築」と「表面的建築」に関心を持つという[ix]。初期の建築論をまとめる文章に「<俗>なる世界に投影される<聖>」があるが、そこでも、「都市から」「ふたたび都市へ」という構えがとられている。
この都市への関心、とりわけ東京への関心は当初から、また以後も一貫している。安藤忠雄が近代建築の巨匠とりわけコルビジュエの作品をテキストとしたのとも、藤森照信が原初的な「自然素材による建築」を目指したのとも異なり、はるかに錯綜し、混沌とした現実の都市を伊東は文脈とするのである。伊東の建築意欲にパワーを与え続けているのは、現実の都市のヴァイタリティといえるであろう。
伊東豊雄の建築論は、従って、同時に都市論でもある。事実数多くの文章で都市について触れている[x]。『シュミレイテド・シティの建築』[xi]は、ロンドンで開かれたジャパン・フェスティバルの催し「ヴィジョンズ・オブ・ジャパン」展のために、それまでの作品を都市論として位置づけたもの(リーフレット)である。
消費の海
「消費の海に浸らずして新しい建築はない」[xii](1989年)は、バブル期最中に書かれたものであるが、状況に対する伊東の対処のスタンスを見事に示している。「凄まじい勢いで建築が建てられ、消費されている」状況の中で、「このような状況が建築家にとって危機的であるとしたら、それは建築家が消費社会を否定して生きられるかという問題ではなく、建築だけが消費の外にあり得るという想いを、建築家がどれほど徹底的に捨てきれるか、という認識にこそまずあるべきではないだろうか」。「このような時代には形態の良し悪しとか、オリジナリティの有無を議論してみてもはじまらない」。
この認識の位相は、安藤忠雄のナイーブな建築観とは決定的に異なる。また、同じように消費の海を意識しながら藤森が戦略的に目指そうとするところとも異なる。二人が暗黙のうちに、あるいはアプリオリに「建築」という概念を設定しているのに対して、伊東はそれを疑っている。「意識ある建築家ならば皆、建築という概念に想いをはせてきた。しかしほとんどの試みがどうも消費最前線に対して無自覚でありすぎる、つまり自らの建築を信頼しすぎているように見える」。「建築の自律性、芸術性への試みが有効であったのは70年代までであったのではないだろうか」。
伊東豊雄は、しかし、「建築」という概念を否定するわけではない。むしろ逆である。建築が社会的な存在であるという事情を断ち切れない以上、建築が消費される状況を嘆こうが嘆くまいが関係ない。社会は、「建築家」が想像しているよりもはるかにドライにそしてラディカルに動いている。「私の関心はただひとつ、このような時代にも建築は建築として成り立つであろうか、という問いである」。
そして、「建築の概念を問おうとするときにフォルマリスティックな操作ではなく、まず新しい都市生活のリアリティを発見することから始めたいと考えている」という。
偽装工作
デビューして10年、伊東は、菊竹のメタボリズム、篠原の象徴論、磯崎の手法論を超える方向性をはっきり自覚するに至っている。「設計行為とは意識的操作に基づく形態の偽装工作である」[xiii](1981年)という文章は、処女作「アルミの家」の発表に際して書いた「設計行為とは歪められていく自己の思考過程を追跡する作業に他ならない」を総括する形で書かれたものだ。そして以前の文章を「自己のイメージの内にあった形態や空間への執着と信頼の大きさに我ながら驚き、羨望に駆られるほどである」という。実は「歪められていく」のではなく、「仮説的にせよ、設計初期の段階で設定された建築モデルの形式を解体し、ほとんど形式が消滅する地点にまでその作業を続行する過程で、形態にしろ、空間にしろ、当初の明快さは消えて次第に不透明な澱みに沈んでいく」のである。「美しくありたいとは願ってもその美しさが突出するような空間ではなく、明晰なることを願ってもその明晰さが半透明の澱みの奥にのぞかれる類の空間を求める時、作業はファインダーの焦点を次第にずらしていく行為となり、夕闇に包まれていく風景を見送る行為となる」のである。すなわち、「現実に存在しながら全く存在の重みを感じさせず、希薄でもはや形態を喪いかけている形態、そこにはものの実態感ももはやない、そのような形態は意識的な偽装工作によってしか生じないはずである」という結論に至るのである。
外的条件によって歪められても純粋に保持されるイメージの空間、それに耐える形態の強さ、空間の透徹さへの拘りは、伊東の中で消えていく。以降、建築論としては、捉えどころがなくなっていく。むしろ、「建築」を確固たるものとして捉えない、常に変わっていくものとして捉えようとするというのが、その建築論の基礎にある。自ら言うところのキーワードは二冊の評論集のタイトル「風の変様体」と「透層する建築」である。
形態の溶融
突然閃いたのかのようにー上述のように設計プロセスについての真摯な思考に裏付けられていたのであるがー伊東豊雄は、「風の建築」を目指すことを宣言する。「風の建築」とは、風を視覚化する建築でも風を取り入れる建築でもない。
「風のように軽やかで、状態だけがあって形態をもたない建築が存在したら、どんなに素晴らしいかと思う」。
「状態だけあって形態を持たない」のは一般的には建築ではない。それを目指すということは、すなわち、建築の始原、プリミティブな状態、建築が立ち上がる瞬間を目指すということである。伊東は、後に「境界の曖昧な状態」(Blur)という概念に行きつく。そして、「風の建築」は、固定した形をもたない、絶え間なく変転していく「変様体としての建築[xiv]」でもある。そして、それは「柔らかく身体を覆う建築[xv]」、「半透明の皮膜に覆われた空間[xvi]」として具体的に提示された。「流動体」あるいは「流動性」もキーワードとなる。さらに「形態の溶融」[xvii]ともいう。自ら90年代の建築の方向を明確にすることになったという論文が「二一世紀の幔幕―流動体的建築―」[xviii]である。
「風の建築を目指して」[xix]、これは、同世代の建築家たち、ポストモダンの旗手たちへの先行スパート宣言であった。そこで伊東は「ファルマリスティックな操作の停止」を表明する。そして、コスモロジーとの決別をうたう。
「私たちの周辺に、内面の宇宙に囚われるあまり閉ざされてしまっている建築のいかに多いことか。歴史的なヴォキャブラリーに頼ろうが、土着のヴォキャブラリーに頼ろうが、建築家がこの内面の宇宙に囚われている限り、建築は決して生きられることはあるまい。」
伊東は、ここでポストモダンの主流となりつつあった「ヒストリシズム(歴史主義)」も、「コンセプチャリズム」も、「フォルマリズム」も、「ヴァナキュラリズム」も、自信に充ちて批判している。
槙文彦が「平和な時代の野武士たち」と呼んだ一群の建築家たちは次第に色分けされるようになる。そして「ポストモダニズムに出口はない」という「天の声」(丹下健三)とともに、バブルが弾け、近代建築批判の深度が真に問われ始める。コスモロジー派あるいはコンセプチャリズムと呼ばれた、渡辺豊和、六角鬼丈、毛綱毅曠らが沈黙を余儀なくされるようになる。奇観異観の類は都会的なメディアにはなじまない。工業ヴァナキュラーで突破を図った石山修武にしてもファッションとは成り得ない。時代を制したのは、伊東豊雄を先頭とする流れであった。
プロトタイプの解体
伊東豊雄は、拙著『スラムとウサギ小屋』について次のように書いている。
「突き抜ける明るさ、布野修司がアジアのスラムに惹かれていったのも、アナーキーとしか言いようのない明るさであったのではないだろうか」
「奇妙なニュータウン」[xx]と題したエッセイをとりあげて、「悲惨な貧しさのなかでも彼らが心底笑っていられるのは、彼らの住まいが徹底的に開かれているからである。彼らの住まいはどんな現代建築よりも多くのことをわれわれに教えてくれる。布野の指摘するように、彼らにとっては住むことそのものがつくることである。彼らは住みつつつくり、つくりつつ住んでいる。こんな単純で当然至極の事実が彼らを開いている」と書く。
変様、流動、仮設、伊東豊雄は、徹底してステレオタイプを嫌う。そして、プロトタイプそのものも疑う。「八代市立博物館」以降、公共建築の設計に携わるようになってはっきりする。これは山本理顕も共有するところだが、山本が新たな制度=施設を提案するのに対して、伊東は、制度から逃げようとする。だから、逃走(透層)する建築である。
「物事を合理的に運ぼうとする」秩序からまず疑ってかからなくてはならない。」[xxi]
こうした意識を持ちながら公共建築の設計を行うことは容易なことではない。公共=制度というステレオタイプの壁に設計の最初から最後までぶち当たるからである。1990年代に入って、「公共建築に何が可能か」[xxii]「通過点としての公共建築」[xxiii]といった公共建築に関わる発言が増えていく。伊東豊雄と「公共建築」あるいは「公」との衝突、軋轢が頂点に達したのが「仙台メディアテーク」である。「地元誌」との対応を含めて、新たな公共建築のあり方が模索され、議論され続けた。そして、竣工間近になっても伊東自ら完成像が見えてこない建築としてそれは実現する。
「つまり永久にアンダー・コンストラクション」であることこそが、この建築の最大の意味ではないか」と「せんだいメディアテーク」についていう。伊東にとって、「<アーキタイプ>のない建築、それは私にとって「理想の建築」なのである」[xxiv]
[i] 伊東豊雄の主要著作:「伊東豊雄-風の変様体(現代の建築家)」SD編集部(鹿島出版会) 1988/05 /「八代市立博物館・未来の森ミュージアム(建築リフル)」伊東豊雄(TOTO出版) 1992/11/「フランクフルト - キクカワ プロフェッショナル ガイド Vol.5/1996」伊東豊雄(建築・都市ワークショップ) 1996/3/「ドミニク・ペロー:DES NATURES-都市という自然(TN Probe 7)」伊東豊雄(TNプローブ/大林組) 1998/11/「10+1(No.16)」伊東豊雄(INAX出版)
1999/03/「風の変様体-建築クロニクル」伊東豊雄(青土社) 1999/12 /「透層する建築」伊東豊雄(青土社) 2000/09/「せんだいメディアテーク コンセプトブック」伊東豊雄(NTT出版) 2001/03 /「UNDER
CONSTRUCTION -せんだいメディアテーク写真集」伊東豊雄(建築資料研究社) 2001/09 /「伊東豊雄1970‐2001(GA Architect)」伊東豊雄(A.D.A.Edita TOKYO) 2001/09 /「伊東豊雄/ライト・ストラクチュアのディテール」伊東豊雄建築設計事務所(彰国社) 2001/10/「シミュレイテド・シティの建築(INAX ALBUM 1)」伊東豊雄(INAX) 2001/12 /「リアリテ ル・コルビュジエ-建築の枠組と身体の枠組」伊東豊雄(TOTO出版) 2002/01 /「Serpentine
Gallery Pavilion 2002:Toyo Ito With Arup」伊東豊雄(建築都市ワークショップ) 2002/01/「大社建築事始(大社町二十一世紀文庫)」伊東豊雄(大社文化プレイス)
2002/03/「建築:非線型の出来事-smtからユーロへ」伊東豊雄(彰国社) 2003/01 /「みちの家 くうねるところにすむところ―子どもたちに伝えたい家の本」伊東豊雄(インデックスコミュニケーションズ) 2005/07
[ii] 『住宅建築』。1987年6月号
[iii] 『透層する建築』、p.384
[iv] 『新建築』、1971年10月号。この文章の冒頭で、伊東は、宮内康の「アジテーションとしての建築」(『美術手帳』1971年8月号)を引いている。
[v] 『都市住宅』、1971年11月号
[vi] 『建築文化』、1975年10月号
[vii] 「菊竹清訓氏に問う、われらの狂気を生きのびる道を教えよと」『建築文化』1975年10月号
[viii] 「文脈を求めて」、『新建築』1976年6月号「中野本町の家」は文脈をもたないという指摘(多木浩二)への回答として書かれた。
[ix] 「建築におけるコラージュと表面性」と題され、『風の変様体』の1978年のクロニクルにあるが、何故か初出である。少なくと、「ホテルD」「PMTビル」(1978年)の頃は、「コラージュ」と「表面性」をキーワードとしていたことを示している。
[x] 「未来的都市における建築のリアリティとは何か」(『別冊新建築12』1988年12月号)、「虚構都市にみる「家」の解体と再生」(1988、『透層する建築』所収)、「記憶の中の九つの都市」(1988年)、「シュミレイテド・シティの建築」(『建築文化』1991年12月号)、「都市のノイズが新しい建築をつくる」(『P&T』1991年7月号)
[xi] INAX出版、1992年
[xii] 『新建築』、1989年11月号
[xiii] 『都市住宅』、1981年4月号
[xiv] 『住宅建築』1985年7月号
[xv] 『建築都市ワークショップファイル1』1986年6月
[xvi] 『SD』1986年9月号
[xvii] 『新建築』1982年4月号
[xviii] 『新建築』、1990年10月号
[xix] 『建築文化』1985年1月号
[xx] 「奇妙なニュータウン」(『スラムとウサギ小屋』)という文章の中で伊東が引いているのは以下である。「異様な住居である。新築だというのにまるで廃屋である。建ったばかりだというのに、もう何年も修理を重ねて今にも朽ち果てようとしているかに見える。しかし、紛れもなく、それは彼らの新しい住居である。今、まさに、彼らはここに住もうとしている。(中略)やがて、客が来ておしゃべりが始まる。勿論、旧知の間柄ではないのであるがすぐさまうちとけて話が弾んだ。彼らの新たな生活はこののどかな新天地へトラックの荷台から降りたった瞬間から既に始まっていたのである。
しかし、果たして、これは新たな生活の始まりなのであろうか。始まりも終わりもない彼らの生活のスタイルそのものではないか。」そして、伊東は次のようにいう。「われわれは自らをモルタルで白く塗り込めたウサギ小屋のなかで、ホームドラマの役者のように上辺だけの笑いを送り続けているのである。悲惨な貧しさのなかでも彼らが心底笑っていられるのは、彼らの住まいが徹底的に開かれているからである。彼らの住まいはどんな現代建築よりも多くのことをわれわれに教えてくれる。布野の指摘するように、彼らにとっては住むことそのものがつくることである。彼らは住みつつつくり、つくりつつ住んでいる。こんな単純で当然至極の事実が彼らの住まいを開いている。」
[xxi] 「アンドロイド的身体が求める建築」『季刊思潮』第1号、1988年6月号
[xxii] 初出不詳(1994年)として『透層する建築』に収められている(pp.308-312)。
[xxiii] 『新建築』1995年7月号
[xxiv] 『透層する建築』p.538
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