このブログを検索

2021年3月22日月曜日

現代建築家批評08 建築史学という呪縛  藤森照信の建築史観

 現代建築家批評08 『建築ジャーナル』20088月号

現代建築家批評08 メディアの中の建築家たち


建築史学という呪縛 

藤森照信の建築史観

 

布野修司

 結局、藤森照信の建築史家としての仕事は、『明治の東京計画』(1982年)『日本の近代建築』(1993年)『丹下健三』(2003年)ということになろうか。しかし、『明治の東京計画』は、都市(計画)史であり、『丹下健三』は卒業論文以降数多くものしてきた評伝である。『明治の東京計画』にしても、扱われるのは制度設計を含めたプロジェクトであり、それに関与した人々の人物群像が基本になっている。『日本の近代建築』を書いて、「日本近代建築研究をはじめた時からの目的を果たす。これで歴史研究から離れても許される、と思った」という(藤森照信年譜)。あとがきには、「この本以後については、子供の頃から文を書くよりは好きだった、物を実際に作る仕事に手を広げられれば、と願っている」とはっきり書いているから、『日本の近代建築』が集大成ということであろう。

 管見の範囲であるが、これまで書かれた藤森照信論の中で最も鋭いと思われる一文[i]の中で、中谷礼仁は、次のように言う。

 「藤森の指導教授は村松貞次郎(1924-1997)だった。日本近代建築における西洋建築技術移入の変遷をいち早くまとめた人物であり、その他大工技術の研究の研究にもすぐれた業績を著していた。そしてそのまな弟子である筈の藤森が、なぜか様式研究者なのである。それも本人が唱えるように「看板」様式主義者。そして、提出した博士論文は『明治の東京計画』であり、こちらは綿密な都市史ときている。なんだ?・・・なぜそんな後者の領域(技術史、生産史、工学的領域:引用者註)に属しながら、藤森が建築を探偵し、様式を主張し、都市を語り、あげくのはてにはゲージュツ(路上観察、トマソン)までを伴とするのか、外野からは全くもってわからなかったのであった。かなりいかがわしい!」

 建築生産史研究(渡辺保忠研究室)の系譜を引き「歴史工学者」を名乗る中谷は、この一文において、「建築学」という体系からこぼれ落ちた「歴史意匠」と「建築」の本質を「藤森照信のいかがわしさ」に見るのであるが、藤森の「建築観」そして「建築史観」を以下に見よう。

 

「神殿か獄舎か」

 何故、都市計画史なのか。藤森は、その経緯を様々に語っている。村松貞次郎、稲垣栄三、桐敷真次郎らによって昭和三十年代に、日本近代建築研究はスタートし、一定の成果をみた後の停滞期に研究をはじめた藤森にとって、テーマの選択が大きな問題であった。「幕末、明治初期の実証的研究に引きつづいて、明治十年代以後のコンドルや辰野金吾といった本格的建築家について実証主義研究をするか」、「通史的研究によって概略は知られた分離派はじめその頃のことをもっと深く調べ論ずるか」[ii]、考えている最中に長谷川堯の『神殿か獄舎か』が出た。

 『神殿か獄舎か』にまとめられることになる論考が『近代建築』誌に連載されている時から僕らはそれを読んでいた。磯崎新の『建築の解体』(1975)についても同様で、そのもとになった『美術手帖』の連載は必読論考であった。これは、いわゆる「全共闘世代」あるいは「団塊世代」に共通だったと思う。『神殿か獄舎か』と『建築の解体』は、若い世代に圧倒的に影響力を持ち、その後の日本の「建築のポストモダン」を方向付ける二冊となった。

 『神殿か獄舎か』のわかりやすさは、そのタイトルの二分法に示されている。近代建築を主導してきた流れを「神殿志向」と規定して全面批判し、建築家は本来「獄舎づくり」だ、と説く。「神殿志向」の代表が、前川國男、丹下健三とその弟子たちであり、磯崎新もそこではばっさりと斬られている。それに対して、大正期の建築家たち、中でも「豊多摩監獄」の設計者である後藤慶二が称揚されている。続いて出版された『都市廻廊』『雌の視角』も同様で、中世か近代か、「雄」か「雌」か、という明快な二分法が論法の基軸になっている。「雄」とは、日本の近代建築を大きく規定してきた「構造派」(建築構造学派)のことである。

 僕自身、「昭和建築」を近代合理主義の建築と規定し、「大正建築」を救う、という長谷川堯の歴史再評価の試みには大きな刺激を受けた。1976年の暮れ、堀川勉、宮内康らとともに「昭和建築研究会」という研究会を設立したのだが、長谷川堯の一連の著作のインパクトが大きいことは、その名に示されているだろう。要するに、「昭和建築」を全面否定するのではなく、その中に可能性を見いだそうという対抗意識があったのである。「昭和建築研究会」は、まもなく「同時代建築研究会」と改称、宮内康の死(1990年)まで活動を存続する[iii]

 僕は、1981年に、処女論考『戦後建築論ノート』(相模書房、改訂版『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(れんが書房新社、1995))を出すが、その中で長谷川堯の歴史評価についてかなりのスペースを割いている。長谷川堯の近代建築批判の内容には大いに共感しながらも、歴史を遡るだけのように思えたその方向性には不満だったのである。若い世代が「戦後建築」をどう乗り越えるか、が問題ではないか、という思いが強かった。この点では、磯崎新の『建築の解体』の、「近代建築」の流れを前提にした「近代建築」批判の試みの方に、むしろ共感していたと言っていい。全く方向を異にしているように思える二つの著作が同時に読まれた背景は、近代建築の乗り越え方にかかっていたのである。

 ひとつの大きなテーマは、戦前戦後の連続・非連続の問題、なかでも「帝冠(併合)様式」の評価の問題であった。長谷川堯は、「帝冠様式」を日本の近代建築が成立するに当たって必要な「排泄物」のようなものだと片づけてしまうのであるが、日本ファシズムと表層的なデザイン規制をめぐる問題はもう少し根が深いと思えていた。この問題は、「ポストモダニズムの建築」が跋扈するに従って「同時代的」な問題となったし、現在も「景観問題」が大きく浮上するなかで未だに継続している決して小さくない問題である。結局、近代建築批判が安易に見いだしたのは、様式や装飾の復活を素朴に標榜する「ポストモダン歴史主義Postmodern Historicism」の流れである[iv]

 

「看板建築」

 『戦後建築論ノート』は、建築イデオロギー批判の書であって歴史書でも研究書でもない。しかし、歴史研究を志す藤森にとって、長谷川堯が超えるべき大きな存在であったことは自ら書いている。

「私がひそかに考えていた文学的な歴史叙述を長谷川堯がやっているのだからますますたまらない」

藤森にとって、大きな敵は、実証主義史学であった。

「大学の研究室で建築史を学んでいると、アカデミズムの常として、実証性を強く言われる。」

 直接聞いたこともあるが、藤森が度々触れるのが「看板建築」事件である。「看板建築の概念について」を日本建築学会で発表。前年からの発掘調査の「実証的」成果であったが、ジャーナリスチックとの批判が多発」(1975年、藤森照信年譜)。

 その場に居なかったからやりとりは不明であるが、批判のコメントは稲垣栄三からのものであった、と聞いた。僕自身は、稲垣栄三の『日本の近代建築』に大きな影響を受けた。『戦後建築論ノート』で書いているが、「近代日本の建築」か「日本の近代建築」か、という視点においては、稲垣の方が他の建築史家よりも懐が深いと思えていた。

アカデミズムかジャーナリズムかをめぐっては、稲垣栄三、町家の成立を大きなテーマにしていた故野口徹と鼎談したことがある[v]。一般の読者への表現も力になる、積極的に一般メディアにアプローチすべきではないか、という僕に対して、二人はしっかりした論文が残る、という。

 「昭和3年より、本格的に震災復興が行われるが、その中で、かつての街や形式に代わるものとして、独自な洋風ファサードを持った都市住居形式が成立した。それは、隣棟計画、平面計画、構造技術においては先行の町家形式を基本的に踏襲しながら、ファサードにおいては決定的に異なり、あたかも、建築躯体の前面に、衝立てを置いた如くに扱われている故に、看板建築と呼称する。」

 問題は、「看板建築」というネーミングがジャーナリスティックかどうかであったのではない。「看板建築」が新しい都市住居の形式かどうかが問題であったのだと思う。稲垣・野口は、そしてイタリアからティポロジア(建築類型学)の手法を持ち帰る陣内秀信ら稲垣研究室にとって、敷地の型と建築の型が問題であり、「看板建築」は、大きな要素と認められない、ということである。

フィールドワークに基づいて「看板建築」群を発見し、名付けた藤森の功績は大きい。街並み景観をかたちづくるのは、「看板建築」なるものである。ポストモダンを標榜した建築の多くもまた「看板建築」であった。

問題は、藤森の眼がファサードという表層に留まったままかどうかである。

 

「明治の東京計画」

 藤森の拘る(気にする)「実証主義」の問題は、もちろん、一般的な問題としてある。ただ、建築学というアカデミズムの制度においては、「論文」(を書く)という制度、あるいはその形式の問題と言ったほうが分かりやすい。「建築」を論文にするアポリアは、建築学の分野では大きな問題であり続けているのである。建築史学が歴史学に赴こうとすればそのパラダイム(「実証主義史学」)に拘束されるのは当然である。建築を工学的な技術の枠内で考えようとすれば、工学というパラダイムに拘束される。

 工学という枠組みで出発した日本の建築学の歴史についてここで書く余裕はないが[vi]、日本建築学会は学術、技術、芸術の三位一体をうたう、世界でも極めてユニークな「学」の殿堂である。一方、日本の大学のほとんどは、プロフェッサー・アーキテクトに博士の学位を要求する。安藤忠雄の東京大学教授就任について触れたが、京都大学の場合は、内井昭三、高松伸といった建築家を招くに当たって学位論文を書くことを求めている。藤森が渡辺豊和や竹山聖といった建築家に博士(東京大学)の学位を出したのは、建築学というアカデミズムのなかでは、特筆すべき快挙である。快挙というよりも何よりも、藤森にとっては、自らの建築学における存在基盤に関わっているのである。

 とにかく、学位論文を書くに当たって、藤森は、「明治の東京」を選んだ。群を抜いた大学位論文となった。

 都市計画史というと、第一に、制度史あるいは法制史に留まるものが多い。今日に至るまでそれが主流である。第二に、藤森以前に、近代日本の都市計画史に関する仕事はほとんどない。石田頼房[vii]、渡辺俊一[viii]らの著書が一般向けに上梓されるのはむしろ後である。日本を問題するにしても、欧米の都市計画制度の導入に関心が払われるのが一般的である。そうした中で、藤森は、都市計画制度に関わるひとつのプロジェクトが成立する過程の議論、政治的力学をダイナミックに描き出す。

 扱われるのは、「銀座煉瓦街計画」「明治一〇年代東京防火計画」「市区改正計画」「官庁集中計画」である。昭和戦前期までの東京を決定づけた「明治の東京計画」が見事に描き出されている。

 建築探偵団として東京を這いずり回った経験がテーマを支え、「論文らしからぬ」文章に活き活きと息づいている。藤森が焦点を当てたのは、必ずしも、東京という都市の歴史ではない。都市を計画しようとした人々の意志とその現実化の過程である。建築家の評伝を書く手法と同じである。ウォートルス、エンデ&ベックマンなどの仕事に関心が集中するのは変わらないのである。

土地の側から都市を描く、例えば、陣内秀信の『東京の空間人類学』とはヴェクトルが異なる。ほぼ同じ頃、松山巌が『乱歩と東京』を書いた。松山は、江戸川乱歩の探偵小説を読み解くことにおいて東京の近代に迫った。人とその表現、集団の作品としての東京へのアプローチである。こうしてわれわれは、東京論の核となる三部作をもった。1980年代中葉から1990年代初頭にかけて、東京論ブームが起こるが、建築の分野からのこの三作が火付け役になるのである。

多くの東京論は、その時間的パースペクティブに関して大きく三つに分けることができた。すなわち、レトロスペクティブな東京論、ポストモダンの東京論、そして、東京改造論の3つである[ix]。この3つは実は同根であり、背景にあるのは「東京(一極集中)問題」と総称される諸問題であった。17世紀初頭には小さな寒村にすぎなかった江戸が一九世紀半ば過ぎに東京と名を変えて1世紀あまり、東京は、その歴史的形成の過程において幾度かの転機をもつ。藤森が焦点を当てたのは、江戸から東京への転換における空間の再編成の時期である。そして、関東大震災後の近代都市への編成、第二次世界大戦時における一瞬の白紙還元と戦後復興、東京オリンピックを契機とする高度成長期の大変貌、そして、東京という都市は明らかに過飽和状態に達し、都市のフロンティアが消滅しつつあることが強く意識されたのが1980年代末である。

 

『日本の近代建築』

 稲垣栄三の『日本の近代建築』が書かれたのは1959年のことである[x]。藤森が同じタイトルの本を書いたのは1993年、34年後のことである。村松貞次郎の『日本建設技術史』(1959年)『日本近代建築史ノート』(1965年)も含めて、先行して書かれた日本の近代建築の歴史についての評価は、『戦後建築論ノート』にかなりのスペースを割いて書いた通りである。

 稲垣・村松らの歴史叙述の基軸に共通に据えられていたのは、日本建築の近代化である。最も包括的構えをとった稲垣の『近代建築』の叙述は、日本の近代文化の特質から建築生産の機構、デザインの特質からそれを支える技術、都市計画から住宅、また職能の問題へと多岐にわたっている。大きく整理すれば、近代デザインの確立、建築家という職能の確立、建築技術、建築生産機構の近代化という3つの軸があり、近代日本の形成そのものを建築の領域に即して問うのが稲垣であった。

 藤森の『日本の近代建築』に対する第一の不満は、その叙述が稲垣栄三の『日本の近代建築』と全く同様、第二次世界大戦までで終わってしまっていることである。

 戦後既に半世紀を経ているにもかかわらず、何故、戦後の過程は書かれなかったのか。しかも、その記述の過半は幕末・明治編である。むしろ、歴史を遡行する構えが採られている。実証主義建築史学の史学史観からは評価が薄いかもしれないが、伊東忠太が担ったような、日本の建築の行方を大きく指し示す役割が藤森にはあるのではないか。『昭和住宅物語』(新建築社、1990年)では戦後の住宅作品に触れられるが、少なくとも、戦後のある段階までは叙述する必要があったのではないか。

 それよりも大きな問題は、日本の近代建築の歴史が様式の変遷史に還元されてしまっていることである。藤森照信『日本の近代建築』の冒頭に「日本近代建築系統図―1238派―」なる年表が示される。師である村松貞次郎の『日本建築家山脈』を思わせるが、こうした系統図によって整理される歴史とは一体何か。「様式選択史観」と書評[xi]をしたのであるが、38派の中に「社会政策派」、「歴史主義建築論」とかがあり、正直、とまどわざるを得ない。唯一評価するとすれば、冒頭、「ヴェランダコロニアル建築」という章を設けて、アジアへの視点を示唆していることである。実は、藤森の修士論文『日本人居留地洋風建築の研究』は、この視点に関わっている。ここで触れる紙数がないが、ザビエル、そして平戸商館から説き起こし、釜山倭館、日本人居留地に触れる修論は、出来はともかく、アジア建築史へ向かう先駆的なものと言っていい。『全調査東アジア近代の都市と建築』 (汪坦・藤森照信監修、 筑摩書房、1996年)には、その後の成果がまとめられている。ただ、さらに日本の近代建築をさらに大きくグローバルに位置づける視点が欲しい。

 結局、藤森にとって、歴史研究とは、歴史的建造物のインヴェントリーをつくって、その様式とそれを支える諸関係を整理することに留まるのであろうか。

 藤森は、自ら建築の行方を示すべく、建築をつくる現場へ赴いたように思える。



[i] 「歴史意匠という言葉を知っていますか」(『ユリイカ』「特集*藤森照信 建築快楽主義」)

[ii] 「長谷川堯の史的素描」(長谷川堯『神殿か獄舎か』復刻版、2007年解題)

[iii] 宮内康の遺稿集『怨恨のユートピア・・・宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年)は、『神殿か獄舎か』の時代をよく伝えている。「同時代建築研究会」は、長谷川堯と磯崎新をゲストとするシンポジウムも行っている(『悲喜劇・1930年代の建築と文化』、同時代研究会編、現代企画室、 1981年)。

[iv] 長谷川堯の仕事は、そうした表層デザインの流れとは無縁であったと思う。しかし、その主張はその流れと明らかに重なって受容れられていった。結局は、『神殿か獄舎か』は深いところでは読まれなかったのかもしれない。「獄舎づくり」の伝統は遙かに長く深い流れをもっている。その後の長谷川堯の仕事は歴史をさらに大きく見つめ直す方向へ向かい、ポストモダニズム建築をめぐる喧騒から遠のいていくことになるのである

[v]

[vi] 拙稿、「近代日本における建築学の史的展開」(『新建築学大系01 建築概論』、大江宏編,彰国社, 1982年)

[vii] 『日本近代都市計画史研究』 柏書房日本近代都市計画の百年』 自治体研究社 1987年     『未完の東京計画』  筑摩書房 1992年

[ix]拙稿、『早稲田文学』、一九八九年七月。『イメージとしての帝国主義』(青弓社 一九九〇年)所収。以下のように書いた。「路上観察の東京論、俯瞰する東京論、というように視線の置き方によって分けたり、イメージとしての東京論、景観としての東京論、形態としての都市論、というように対象やレヴェル、次元によって分けたりできようが、およそ以上の三つであったレトロスペクティブな東京論においては、ひたすら、東京の過去が掘り起こされる。東京の過去とは江戸であり、一九二〇年代の東京である。また、地形であり、水辺であり、緑であり、自然である。そして、そうしたものを失ってしまった東京がノスタルジックに回顧されるのである。また、現在の東京に、失われたものや価値が対置される。一方、ポストモダンの東京論は、ひたすら、現在の東京を愛であげる。いま、東京が面白い、世界でも最もエキサイティングな都市「東京」というわけだ。路上観察、タウンウォッチングに、パフォーマンスである。しかし、この二種類の東京論は、実は根が同じとみていい。ポストモダンの建築デザインを考えてみればわかりやすいだろう。都市の表層を覆うのは過去の建築様式の断片である。すなわち、すでに都市の表層を支配するのは、皮相な歴史主義のデザインである。近代建築に対して、それを批判すると称して(ポストモダンを標榜して)装飾や様式が実に安易に対置されたのであった。過去や自然はいとも容易に掘り起こされて、現在の都市は、そのまがいもので飾りたてられ始めたのである。

 そして、この二種の東京論が結果として覆い隠し、覆い隠すことにおいて支持し、促すのが東京改造のさまざまな蠢きである。レトロスペクティブな東京論は東京が変わっていくことへのある意味では悲鳴であった。東京の変貌、その再開発や改造の動きと過去の東京へのノスタルジーが東京論という形でブームとなったことは、言うまでもなくストレートにつながっている。過去への郷愁は、それだけでは無力かもしれない。しかし、それは、すなわち、都市の過去や自然、水辺の再発見は巧妙にウォーターフロント開発や、都市の再開発へと接続されるのである。こうして仮に三つに分けてみた東京論はひとつの方向を指し示す。東京という空間はいままさに再編成されつつある。東京のフィジカルな構造はいまドラスティックに変わりつつある。」

[x] 丸善、1959年。SD選書、1979年復刻。

[xi] 『共同通信』配信、『岩手新聞』他、19931214

0 件のコメント:

コメントを投稿