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2021年3月1日月曜日

建築少年たちの夢:現代建築水滸伝 Dreams of Archi-Boys:Story of Contemporary Japanese Architects

traverse12 2011 新建築学研究12

 Dreams of Archi-Boys:Story of Contemporary Japanese Architects
 建築少年たちの夢:現代建築水滸伝 
Shuji Funo 
布野修司 

『建築ジャーナル』誌での連載「布野修司の現代建築科批評 メディアの中の建築家たち」(20081月号~201012月号)をもとに『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』(彰国社,2011610日)を上梓した。「建築少年たちの夢」といいながら扱った建築家たちは、「永遠の建築少年―安藤忠雄」「建築の始原へ―藤森照信」「形の永久革命―伊東豊雄」「家族と地域と社会のかたち―山本理顕」「セルフビルドの世界―石山修武」「建築の遺伝子―渡辺豊和」「地球に根ざして―象設計集団 」「集落から宇宙へ―原広司」「「世界建築」の羅針盤―磯崎新」と、全員60歳を超える建築家たちだから、『建築老人たちの夢』とすべきだといわれるかもしれない。もちろん、いまや世界をまたにかける建築家たちは全て「建築少年の夢」を持ち続けた人たちなんだよ、という思いを込めたタイトルなのであるが、実は、原稿にした初稿の段階では、連載時でもそうであったけれど、若い建築家たちにも多少は触れて、期待を書き留めていた。しかし、紙数、定価など出版事情の制約から削らざるを得なかった。電子ジャーナル、電子ブックが隆盛になりつつある中で、出版していただけるだけでも幸せと考え、再構成したのが今回の拙著である。

以下は、『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』の裏話、補遺である。

 

1 水滸伝

1960年代末から1970年代にかけて,「全共闘」運動が燃えさかる中に,日本各地に建築少年たちの「梁山泊」がいくつもできた。そうした「梁山泊」の中から世界に名を轟かせる建築家が育っていった。『建築少年たちの夢』は,そうした建築家たちと「梁山泊」で出会い,その活動を見続けてきた著者による,いわば「現代建築水滸伝」である。」という扉の言葉は著者、すなわち僕自身が書いたキャッチフレーズである。

京都大学吉田キャンパスの百万遍交差点のすぐ近くに「梁山泊」というお店があるが、行ったことがあるだろうか。「梁山泊」という言葉にかけた思いが多分主人にはあるんだろう。僕は、店を始めるころを知っている。

まだ海のものとも山のものともわからない、わいわいがやがや建築の夢を語る場所がかつてあった。その場所のイメージは「梁山泊」に重なる。ただ、「水滸伝」は、梁山泊に謂集した無頼たちが結局は宋朝皇帝に帰順してしまう物語である。徹底して義に生きる若者を描く『三国志』とは異なる。若者には『三国志』は読ますな、老人には『水滸伝』を読ますな、あるいはその逆も、中国ではよく言われるが、意味深なタイトルではある。

『水滸伝』(水滸傳)は,明代に書かれた「中国大奇書」の1つである。施耐庵(あるいは羅貫中)が,それまで「講談」として語られてきた,北宋徽宗期に起こった反乱を題材とする物語を集大成して創作されたとされる。「滸」は「辺(ほとり)」の意味であり,『水滸伝』とは「水辺の物語」という意味である。「水辺」とは,本拠地である「梁山泊」を指す。

『建築少年たちの夢』は9人の建築家を取り上げている。『水滸伝』の場合,主要な登場人物は108星であり,108星のうち,上位36星を天罡星(てんこうせい)36星,下位72星を地煞星(ちさつせい)72星と呼ぶ。天罡星とは北斗七星のことで,地煞星は星占いでの凶星を意味する。

水滸伝の物語は実話ではない。しかし,代に編纂された歴史書『宋史』には,徽宗期の初め(12世紀)に宋江を首領とする36人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されている。実際,もともとは36星であった。13世紀に書かれた説話集『大宋宣和遺事』には,宋江以下36人の名前と彼らを主人公とする物語が掲載されている。15世紀頃にまとめられた『水滸伝』で,36人の豪傑は3倍の108人に増やされた。

「水滸伝」は「回」と呼ばれる「講談」の1話に相当するまとまりからなるが,最も古い百回本のほか120回本,70回本がある。『建築少年たちの夢』は36回からなる(各建築家については,原則として,その軌跡,言説(思想・手法・理論),作品(評価,代表作,可能性)の3回からなる)はずであった。

『建築少年たちの夢』は9人を取り上げるに過ぎないけれど,登場する建築家は優に108人を超える。それに『水滸伝』でも108星全員の活躍がそれぞれ物語られるわけではない。十分に個人的活躍が物語られるのは,せいぜい36星の内,半分ぐらいである。曲亭馬琴(瀧澤興邦17671848年)は,『水滸伝』をモデルとしながら,主人公は多すぎるとみて8人に絞って『南宋里見8犬伝』を書いたのである。『建築少年たちの夢』はそれに倣ったかたちになる。

『水滸伝』を貫くテーマは「忠義」である。『建築少年たちの夢』(現代建築水滸伝)を貫くテーマは,「近代建築」の理念であり,その呪縛であり,「建築」(という)「夢」である。

 

2 誰もが建築家である/建築をつくらない建築家

もうひとつ『建築少年たちの夢』に込めた思いは、「誰もが建築家である」あるいは「誰もが建築家になりうる」というメッセージである。冒頭(第1章)に独学で建築を学んで東大教授になり、文化勲章受章者となった安藤忠雄論をおいて、そのことを強調したけれど、実際は、僕自身に即して書くつもりがあった。扉の言葉から推測されるように、『建築少年たちの夢』は、僕自身の自分史、半生記の趣ももっている。

あの!世界の安藤忠雄も無名の時代があった。その時代に身近に接していて、あれよあれよという間に大スターになっていった、若者たちにはチャンスがある、といいたいのである。

祖父が大工で,父親も工業高校で建築を学んで,県庁所在地とはいえ小さな地方都市で建築行政に携わっていた,そんな血筋の息子であったけれど,建築家になろう(建築学科に進学しよう)などとは夢にも思っていなかった。父親が『新建築』誌を毎月とっていて,丹下健三はもとより,父の仕事の関係で著書が送られてくる芦原義信[1],そして菊竹清訓の名前も知っていた。しかし,大学に入って,まさか芦原義信という建築家に直接建築の手ほどきを受けようとは夢にも思わなかった。大学3年生(回生)になって,最初の設計課題の担当が芦原義信先生だったのである。なぜ,僕自身が建築という分野を選択したのか,自分でも未だに分からない。高度成長の余波というか,大阪万国博へ向かう熱気の中で,建築という分野は結構人気があった。バブル期にも建築学科は人気があった。建築という分野は実に景気の動向と密接に関わっていることは,はっきりしている。建築を選ぶにあたっては紆余曲折があったが,後悔したことはない。

全共闘運動の余韻が色濃く残る教室で,丹下健三の「アーバン・デザイン」という科目の講義を聴いた。最初の2回だけで,後は渡辺定夫[2]の代講であった。スーパースターである建築家・丹下健三の講義であり,「アーバン・デザイン」という科目の新鮮さもあって,そして内容の意外さもあっていまでもよく覚えている。

「日本は60年代に離陸した・・・しかし,ソフト・ランディングできるかどうか・・・君たちはある意味で不幸かもしれない,1980年代には建設の時代は終わっているでしょう」

W.W.ロストウ[3]の近代化論が下敷きである。建築家への夢を抱いて建築を学び始めた学生に随分なことをいうなあ,と思った。しかし,丹下健三のこの予言はほぼ当たったのだと思う。オイルショックの跡でバブル時代が再び訪れたということを除けば・・・。オイルショック以降の70年代から80年代初頭にかけて,建築界には閉塞感が充満していた。

当時,日本を代表する前川国男[4]が「いま最も優れた建築家とは,何もつくらない建築家である」と書いた(『建築家』日本建築家協会,1971年春号)のである。

 

3 アーキテクト・ビルダー

建築を建てることは,確かに一種の暴力である。

長谷川堯[5]は,「建築家は獄舎づくりである」(『神殿か獄舎か』相模書房,1975年。SD選書復刊,2007年)と言いきっていた。

「建築をつくらない建築家」は,果たして建築家と言えるのであろうか。建築家は果たして「獄舎づくり」に過ぎないのであろうか。1970年代に建築を学び始めたものの心の奥底にはこんな問いがいまでもある。『戦後建築論ノート』(相模書房、1980年)を書いた時には、「建築家」とは一体何なのか、ということを考えていたのである。『建築少年たちの夢』は、『戦後建築論ノート』、そしてその改訂版である『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(れんが書房新社、1995年)の続編である。

『戦後建築論ノート』の最後にかろうじて以下のように書いた。

「住宅の設計を最初の砦としてわれわれがささやかに構想できるのはここまでである。その試みの過程で,われわれはつねに制度の厚い壁に出くわすであろう。具体的にものの形態を規定する法・制度,建築のレベル流通・消費を支える制度,つくり手―作品―受け手の諸関係を支える制度,表現のレべルでのコード(大衆のイメージのコード,建築ジャーナリズムのコード)・・・われわれは,そのつど,それに反撃を試みねばならない。そして,そのつど制度への違反そして制度の囲い込みの運動を経験するであろう。しかし,つねに,ものの本来的なあり方を見続ける必要がある。建築が様々な制度を通じてしか自己を実現することがないとすれば,制度と空間,制度とものの間のヴィヴィッドな関係をつねに見続けていく必要がある筈である」

要するに、出発点は住宅の設計である、ということである。『建築少年たちの夢』で繰り返し書いているけれど、どんな国際的な大スター建築家でもほとんどが住宅作品でデビューしているのである。住宅、それは全ての人にとって身近である。だから、誰もが建築家であり、建築家になりうるのである。「芸術家としての建築家」などと気取る必要は無いのである。

そうした出発点において、C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」という概念は魅力的に思えた。少なくともひとつの手掛かりになると思った。「アーキテクト・ビルダー」は,中世のマスタービルダー(大棟梁,親方)への回帰ではない。その現代的蘇生である。実際,少なくとも住宅規模の建築においては,設計施工1貫(デザイン・ビルド)の方がはるかにいい建築がつくれる,ということがある。また,住宅設計で「確認申請」用の図面を施主の代理で書くだけの「代願」屋では「食えない」という現実がある。

実は,卒業論文[6]のテーマに選んだのがC.アレグザンダーである。その『形の合成に関するノートNotes on the Synthesis of Form』(鹿島出版会,1978年)を英文で読んで,HIDECSHierarchical Decomposition)という「グラフ」を数学的に解くプログラムを書いた。当時『都市住宅』でアレグザンダーの理論が取り上げられていて学生たちは皆読んでいたし,大阪万国博に出展していて『人間都市』(鹿島出版会,1970年)という本も出していた。コンピューターを用いた設計のはしりということもあって,学生たちの間でアレグザンダーは人気があった。

設計プロセスを徹底して論理化し,ユーザー,市民の3加を可能にするその方向性と方法に大きな興味をもった。そして,その後もアレグザンダーの軌跡をトレースすることになったが,『パタン・ランゲージ』(鹿島出版会,1984年)にしても,その後の展開は実によく理解できた。『パタン・ランゲージによる住宅の生産』(鹿島出版会,1991年)が書かれ,「アーキテクト・ビルダー」論が提出されたのは実に我が意を得たりであった。後に,建築フォーラム(AF)による国際シンポジウム[7]の際に直接議論する機会を得ることになる(『建築思潮』創刊号,学芸出版社,199212月)。

ハウジング計画ユニオン(HPU)と『群居』の発行は,「アーキテクト・ビルダー」を目指す第1歩であった。ごく最近、『建築雑誌』の「日本のデザイン×ビルド」という特集に求められてその頃のことを書いた[8]

 

4 カンポンの世界

僕は、19791月,初めてアジア(インドネシア)に出かけることになった。前年5月に東洋大学に赴任し,当時の磯村栄1[9]学長に「東南アジアの居住問題に関する理論的実証的研究」という課題を与えられ,前田尚美,太田邦夫[10],上杉啓,内田雄造[11]などの先生方と共同研究を開始することになったのである。以降,今日に至るまで「アジア都市建築研究」を展開することになるが,アジアのフィールドで考えたことも建築家の職能を考える上で決定的であった。

『建築少年たちの夢』においては、このアジアという契機については、全て削除せざるを得なかった。ただ、ヴァナキュラー建築の世界の豊かさについては随所で触れた。安藤忠雄にしても、山本理顕にしても、原広司にしても、その設計方法の中核に「建築家なしの建築」Architecture without Architects(バーナード.ルドフスキー[12])の世界を位置づけているのである。近代以前に美しい集落や住居を作ってきたのは無名の無数の工匠たちの技である。太田邦夫先生が『世界のすまいにみる 工匠たちの技と知恵』(学芸出版社,2007年)そして『エスノ・アーキテクチャー論』(SD選書,鹿島出版会,2010年)をまとめられたが,太田先生からは実に多くのことを学んだ。R.ウォータソンの『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(学術出版社,1997年)[13]を翻訳したのも,『世界住居誌』(布野修司編,昭和堂,2005年)をまとめたのも太田先生の教えに導かれてのことである。

アジアのフィールドで学んだのはそれだけではない。東南アジアを歩き出して,すぐさま,セルフヘルプ・ハウジング(セルフビルド(自力建設))あるいはコア・ハウス・プロジェクトという手法を知った。後者は,コア・ハウスと呼ばれるスケルトン(骨組み)あるいは1室と水回りだけを供給して後は居住者自らが住宅を仕上げるという手法だ。世界中の国々で,また地域毎に様々なコア・ハウスが提案されていた。1976年にバンクーバーで第1回の「人間居住会議HABITAT」が開催され,マニラ―東南アジア最大のスラムと言われたトンド地区の北,ダガダガタン地区―を舞台に大規模な国際コンペが行われ,ニュージーランドの建築家たちが1等入選するが,残念ながら実現することはなかった。その敷地に大々的に展開されたのがコア・ハウス・プロジェクトである。1般的には,「サイタン・サーヴィスSites & Services」プロジェクトという。日本語にすれば「宅地分譲」であるが,インフラ整備された土地に建設の手がかりとして,スケルトンだけ,あるいは1部屋だけ供給するのがユニークである。SI(スケルトン・インフィル)(躯体・内装分離)システムの遙かな先駆けであった。

誰もが建築家でありうる。

実際,かつては皆自分たちで家を建ててきたのである。

バンコクのアジア工科大学AITには,C.アレグザンダーの共同者で『パタン・ランゲージ』の共著者S.エンジェルShromo Angel[14]がいた。彼は,「ビルディング・トゥゲザーBuilding Together」というグループを率いて,ハウジング・プロジェクトを展開中であった。そしてマニラには,W.キースKeyes[15]に率いられた「フリーダム・トゥー・ビルドFreedom to Build」というグループがいた。「フリーダム・トゥー・ビルド」というのは,J.FC.ターナー[16]の書いた本[17]からとったものだ。彼にもアジアを歩き始めてからすぐに会った。さらに,スラバヤでカンポン・インプルーブメント・プログラムKIPに取り組む建築家J.シラス[18]に出会った。

第三世界の住宅問題,居住問題に取り組んだ一群の建築家たちは,もうひとつの建築家像を与えてくれたのである。しかし,誰もが建築をつくる時間とお金と経験があるわけではない。建築家が住宅建設の手助けをする,そんな住民3加を取り込んだハウジング・システムを組織する建築家は,1980年代にイネイブラーenablerと呼ばれるようになる。1960年代のアメリカでアドヴォカシー・プランニングAdvocacy Planningと呼ばれ,黒人や社会的弱者の代弁者(アドヴォケイトadvocates)としての職能が注目を浴びたが,そしてまた,イギリスではR.アースキン[19]らの「コミュニティ・アーキテクト」運動[20]が開始されるが,イネイブラーはその延長に位置づけられる。中国で「裸の医者」というのに倣って「裸の建築家Barefoot Architect」という言葉もある。チャールズ皇太子[21]がポストモダニズムの建築を激しく批判し,大いに支援したのは「コミュニティ・アーキテクト」たちであった。C.アレグザンダーは,チャールズ皇太子が設立した建築学校に教師として招かれている。

さらに、スラバヤのJ.シラスに導かれてカンポンkampungにのめり込むことになった。カンポンについて学んだことは『カンポンの世界』(パルコ出版,1991)に記した。KIPのアガ・カーン賞受賞に丹下健三が最後まで反対したエピソードをその前書きに書いている。鍵となると思ったのはコミュニティの力である。フィジカルには貧しいけれども,コミュニティの組織はしっかりしている。相互扶助の仕組みがカンポンを支えていた。

カンポンには,ルクン・ワルガRW(町内会),ルクン・タタンガRT(隣組)という住民組織がある。ゴトン・ロヨンgotong royong(助け合い)を国是とするインドネシアにおいてその基礎単位となるのがRW,RTである。これは日本軍が持ち込んだという学位論文があるが,たった2年半の占領で根付くものでもないであろう。町内会システムが強制的に導入されたのは15年戦争期であり,それがそのまま持ち込まれたことは間違いないが,おそらくインドネシア各地の共同体原理と共鳴しあうことによって維持されたのだと思う。コミュニティを基盤とするまちづくり(居住環境整備CBD)のモデルとなるのがKIPである。

カンポンについての調査研究は,結局,僕の学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987)にまとめられた。そして,このエッセンスを具体化する形で,スラバヤ・エコハウスと称する実験集合住宅を建設する機会を得ることになった。

カンポンというのが英語のコンパウンドcompoundの語源であるという説があることを随分後になって知った。アジアを訪れたヨーロッパ人がバンテンやマラッカを訪れて,都市の囲い地を現地人がカンポンというのを聞いてインドの同じような居住地をカンポンと言うようになり,コンパウンドに転訛して,大英帝国が世界中に広めたのだという。異説もあるが,オックスフォード英語辞典OEDにもそう書いてある。このカンポン=コンパウンドに導かれるように,植民都市研究に赴くことになる。その後の経緯は,『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会,2005年)の「あとがき」に書いた。

 

 5 タウンアーキテクト

 アジア各地を歩く一方で,ある研究会に招かれることになった。仕掛け人は森民夫長岡市長(全国市長会会長),当時,建設省(現国交省)の課長補佐であった。東京大学建築学科の同級生である。「建築文化・景観問題研究会」((財)建築技術教育普及センター)という。建築行政というのは,建築基準法違反の取り締まり行政ばかりで,町並みはちっともよくならない。よりよい,美しい街並み景観をつくりあげるためにはどうしたらいいか。メンバーは,建設省の若手官僚と新進気鋭の建築家で,座長を務めることになった。いまや都市計画学会の学界の重鎮といってもいい大西隆[22],西村幸夫[23]の両東京大学教授なども委員に名を連ねていただいた。大西隆先生は、今度の東日本大震災復興委員会の委員であり、森民夫は、検討部会の部会長代理である。つい最近、復興委員会の提言直前、久し振りに森民夫と会った。震災復興のために貴重な意見交換をすることができた。「被災地の最も深い現場から無数のコミュニティ・アーキテクトを育てよ」という僕の提案を森民雄は一瞬に理解してくれた。

それもその筈である。コミュニティ・アーキテクトという職能の必要性についての議論は「建築文化・景観問題研究会」の議論に遡るのである。

その議論の結果,「アーバン・アーキテクト」と呼ぶ制度が実施されることになるのである。その主張は,簡単にいうと「豊かな街並みの形成には「建築家」の継続的参加が必要である」ということである。いかにすぐれた街並みを形成していくか,建築行政として景観形成をどう誘導するか,そのためにどのような仕組みをつくるか,という問題意識がもとになっており,その仕組みに「アーバン・アーキテクト」と仮に呼ぶ「建築家」の参加を位置づけようという構想である。

 「アーバン・アーキテクト」制の構想は,一方で「マスターアーキテクト」制の導入と受けとめられたようである。「マスターアーキテクト制」というのもはっきりしないのであるが,いくつか具体的なイメージがある。「マスターアーキテクト」制とは,もともとは,大規模で複合的な計画プロジェクトのデザイン・コントロール,調整を1人のマスターアーキテクトに委ねる形をいう。住宅都市整備公団の南大沢団地,あるいは滋賀県立大学のキャンパスの計画において,いずれも内井昭蔵[24]をマスターアーキテクトとして採用された方式がわかりやすい。また,長野オリンピック村建設におけるケースがある。マスターアーキテクトがいて,各ブロックを担当する建築家(ブロック・アーキテクト)に指針としてのデザイン・コードを示し,さらに相互調整に責任をもつ。もう少し複雑な組織形態をとったのが幕張副都心の計画である。委員会システムが取られ,デザイン・コードが決定された上で,各委員がブロック・アーキテクトとして,参加建築家の間を調整するというスタイルである。いずれも,新規に計画されるプロジェクト・ベースのデザイン・コントロールの手法である。

 しかし,「アーバン・アーキテクト制」は実現されることはなかった。1995117日早朝545分阪神・淡路大震災が起こり,事態は一変することになった。

阪神淡路大震災の被災地を歩き回りながら多くを学んだ。

アーバン・アーキテクト制は吹っ飛んだ。それどころではない,コントロール,検査が先だ。そして導入されたのが第三者検査機関による建築確認システムである。

日本の戦後建築とは一体何であったのか。

そして「建築家」はどう責任をとるのか。まちづくり,景観行政以前に,「建築家」の能力が問われることになった。

阪神淡路大震災に大きなショックを受けて,『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』(建築資料研究所,2000年)を書くことになったが,並行して,『戦後建築論ノート』を改訂する機会を得た。『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(れんが書房新社,1995年)である。

全体的に字句の手直しをしたが,骨子は変わらない。増補したのが第4章「世紀末へ」の「Ⅱ.戦後建築の終焉」と「Ⅲ.世紀末建築論ノート―デミウルゴスとゲニウス・ロキ―」である。

『戦後建築論ノート』を書いて15年,その間の歴史の推移はドラスティックであった。ベルリンの壁が破れ,冷戦構造が解体され,ソビエト連邦が崩壊し,世界の枠組み大きく変わった。建築家の行方は袋小路だったと思う。磯崎新は唯1特権的に「大文字の建築」を論(あげつら)うところに追い込まれていた。『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』の最後の項は「「地球」のデザイン」という見出しである。この課題設定は間違っていなかったと思う。

阪神淡路大震災後5年を経て,「京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)」という実験を始めることになった(2000年)。アーバン・アーキテクト制の挫折が悔しかったことが大きい。京都CDLの立ち上げについては『traverse 2』に書いている。京都CDLの7年にわたる活動は『京都げのむ』16号にまとめられている。その詳細は省くけれど,これまた様々な問題があり,活動停止に追い込まれることになった。

しかし,我ながらしつこいというべきか。その後,滋賀県立大学で,「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」[25]を立ち上げることになった。地域社会が崩壊するなかで,地域再生を担う職能が求められていることは間違いない。これは現在進行形である。

『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』で考えたことは大きく変わっていない。ただ,景観を主軸とした「タウンアーキテクト」の構想に,防災と地域再生の役割を合わせて考えるようになった。景観をめぐっては,「景観法」(2004年)ができた。この法律は使えると思う。大きな流れにはなっていないように思えるけれど,タウンアーキトクト制あるいは「コミュニティ・アーキテクト」制とリンクすればいい[26]。その後,日本建築学会や建築士会,国交省などで「コミュニティ・アーキテクト」を様々な形で具体的に根づかせようとする動きがある。

「タウンアーキテクト」制あるいは「コミュニティ・アーキテクト」制の構想の背景には,言うまでもなく,より切実な事情がある。日本の産業構造が大きく転換する中で,建設業界もまた転換せざるをえないのである。スクラップ・アンド・ビルドの時代は終わった。細かい数字はあげないけれど,極端にいえば,日本の建築家は半減してもおかしくない。第三者検査機関の設置以降何が起こったか。耐震偽装問題である。そして,建築士法改正があり,建築士の資格や教育機関の設置基準を強化する動きが加速されつつある。

そうした中で,日本の建築家はどう生きていけばいいのか。少なくとも3つの方向が考えられる。

1つは,建築ストックの維持管理,その再生活用をめざす道である。

2つめは,まちづくりである。クライアントの依頼で仕事をするのではなく,自治体と地域社会を媒介する役割を担う。「タウンアーキテクト」あるいは「コミュニティ・アーキテクト」として生きる道である。

3つめは,海外,中国,インド,そしてアフリカに行くことである。建設需要のあるところに建築家の仕事はある。これは建築家の宿命でもある。

しかし,時代がどう推移しようと,建築家という職能は無くならないであろう。建築という仕事は実に楽しい創造的な仕事だからである。

僕がこの間出会って来た建築家たちはいずれも建築の夢を語り続ける建築少年であり,いまも語り続けている建築少年である。そうした建築少年たちの夢の足跡を『建築少年たちの夢』では語りたいと思ったのである。

 

6 建築家それぞれの役割

冒頭に書いたように、『建築少年たちの夢』のもとになっているのは,『建築ジャーナル』に20081月から3年間にわたって連載した原稿である。

「メディアに頻繁に取り上げられる建築家に焦点を絞り,デビューから現在までの代表作を挙げながら,社会に及ぼす建築の役割および建築思想の変遷に重きをおいて,作品に通底(および変化)する建築思想を探るとともに,社会に及ぼす建築の力について」書いて欲しいというのが依頼であった。「1人の建築家を上,中,下の3号に渡って」というのも編集部の指示であったけれど,さすがに磯崎新についてはそれでは収まらなかった。

当初,編集部(中村文美編集長)から求められたラインナップは,<現代建築界のトップランナー>1.安藤忠雄,2.伊東豊雄<デザインの新奇追求派>3.妹島和世+西沢立衛,4.青木淳<空間の型・建築のこだわり派>5.山本理顕(難波和彦)<アンチ・モダニズム・エコロジー派>6.藤森照信(象設計集団)・・・であった。妹島和世+西沢立衛(SANAA),青木淳[27],難波和彦が残されている。

ただ僕なりの組立てもあり,建築家の選定についてはある程度まかせて頂いた経緯がある。結果として,安藤忠雄,藤森照信,伊東豊雄,山本理顕,石山修武,渡辺豊和,象設計集団,原広司,磯崎新と,とりあげてきたのは全て60歳以上の建築家たちである。まず,僕より年上の建築家,僕が刺激を受けてきた建築家について「片付け」ようと思った。日本の建築のポストモダンの構図を描こうと考えたのである。そうすれば,若手も位置づけることができる。拡がりを考えて,石山修武,渡辺豊和を加えた。そして結果として,原広司,磯崎新にまで遡ることになった。

磯崎新を中心(主題の不在)に引かれる「アート―歴史軸」と,原広司によって引かれる「住居・集落・都市・地球・宇宙―空間軸」で張られる平面に,建築技術に対するスタンス,「自然―テクノロジー軸」を垂直軸とする空間にこれまでとりあげてきた建築家たちをプロットすることで,およそポストモダン以後の建築家の位置とヴェクトルは位置づけることができたと思う。すなわち,近代建築批判の方向は,歴史へ(磯崎新),集落へ(原広司),自然へ(藤森照信),セルフビルドへ(石山修武),コスモロジーへ(渡辺豊和・毛綱毅曠),地域へ(象設計集団),住居へ(山本理顕),日本へ(安藤忠雄),形へ(伊東豊雄)といったヴェクトルで目指されてきたという構図である。

オーヴァー・シクスティとして,また,さらに気になる建築家として,長谷川逸子,六角鬼丈,鈴木了2[28],坂本1[29],石井和紘,大野勝彦,元倉真琴、難波和彦,,高松伸,平倉直子[30],若林広幸[31],内藤廣,北河原温らをあげるべきであろうか。

 メディアの中の建築家としてとりあげるべきアンダー・シクスティは,1950年代生まれのオーヴァー・フィフティとして,まずは隈研吾,妹島和世西澤立衛(SANAA)であろうか。さらに続いて,青木淳,竹山聖,大江匡,宇野求,古谷誠章,団紀彦,小嶋1浩,高橋晶子,新田正樹[32],遠藤秀平[33],新居照和・ヴァサンティ夫妻らであろうか。しかし,1950年代生まれの現在50歳代の建築家たちは多かれ少なかれ,以上のようなポストモダンの構図の中で仕事をしてきたようにみえる。それにひとりについて原稿用紙(400字詰)50枚で論ずるに足るテキストを表してくれている建築家はそう多くはないのである。

 『建築少年たちの夢』でとりあげてきた建築家たちは,またはとりあげるべき建築家たちは,建築が好きで好きでたまらないという「建築少年」たちである。そして,「建築」という夢を追い続けている建築家たちである。既に,『建築少年たちの夢』でとりあげてきた建築家たちを追って,それを乗り越えようとする多くの「建築少年」たちが多彩な活動を開始しつつある。

安藤忠雄が大阪をベースとし続けるように,建築家はまず自らの拠って立つべき地域を基盤とすべきだと思う。僕の故郷である出雲には,亀谷清,江角俊則,江角彰宣らの出雲建築フォーラムの建築家たちがいる。各県,各地方の建築家と日本建築家協会,日本建築士会などの全国組織との関係をめぐっては様々が問題があり,それについては『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』(2005年)で論じたが,若い建築家にとって,既存の制度的枠組みをいかに突破するかが最初に超えるべき障壁である。

 「大文」,大工の文さんこと田中文雄さんの訃報が届いたのは,20108月初旬,中国旅行中のことであった。「大文」さんについては,第1章(安藤忠雄)と第9章(磯崎新)で触れた。2人の大建築家とつながっていた,この稀代の大棟梁については,知る人ぞ知るで,実に残念である。

これも触れたが,「大文」さんとは,内田祥哉先生に頼まれて「職人大学」(現・ものつくり大学)設立を手伝うために呼ばれ,1990年代を通じてとことんつきあった。藤沢好一,安藤正雄の両先生にも加わって頂いて,SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)という現場の職人さんたちが集うフォーラムをつくった。

職人を大学なんかでつくれるか,といいながら,建築史学を中心に大学に期待していたのが田中文雄さんである。「職人大学」を東大,早稲田に匹敵する大学に,というのがスローガンであった。

 SSFでは,実に多くの職人さんたちに出会った。すごいのは,とにかく現場監督である。いかに机上の小手先の技術が発達しようと,それを実現する現場の技能者,サイト・スペシャリストがいなければ建築の未来はない。

現場で全てを管理し,差配する能力,それを育てるのはやはり現場でしかない。問題は,その現場そのものが少なくなりつつあることである。

 

7 3.11

そして、2011.3.11が起こった。

 『建築少年たちの夢』のあとがきに以下のように書いた。

 「この国難ともいうべき日本の危機を前にして、敗戦後まもなくの廃墟の光景がまず浮かんだ。振り出しに戻った、という感情にも襲われた。そして、戦災復興からの同じような復興過程を再び繰り返してはならないと震えるように思った。戦後築きあげてきた日本列島のかたちがそのまま復元されることがあってはならないのではないか。エネルギー、資源、産業、ありとあらゆる局面で日本を見直し、再生させていく、世界に誇れる建築と都市が新たに創造されなければならない。そのために必要なのが「建築少年たちの夢」である。建築を学ぶものはすべてが日本再生のまちづくりに取り組もう。そして、現場で深く考えよう。そこに建築の未来を見出そう。次の世代として、世界をまたにかける建築家が生まれるとしたらその中からである。それは夢などでは決してない。」

 今、夢想して動いているのは以下のようなことである。

各地域の、各自治体による復興計画は、いずれ近い将来、実際のまちのかたちになって表現される、結果がわかるコンペティションである。様々な解答があってしかるべきであり、それぞれのまちが世界に誇れるまちに生まれ変わっているかどうかが勝負である。100年後には世界遺産に登録されるようなまちとなっていることが目標となるだろう。ということは、復興計画のプロセスは、世界に発信し続ける内容を持ち続ける必要があるということである。

 地域主体の復興計画をうたい強調してきたのであるが、それがどう国際的に開かれているかは大きな視点、評価軸になる。まさに国際的に生きてきた三陸海岸の遠洋漁業の漁師さんたちの視野が模範となる。今回の震災復旧の支援にどれだけ国境を越えた参加があったかを考えてもそれは明らかである。世界の中の地域、地域の中の世界を見据え、世界に通用する提案が求められているのである。

 国際復興まちづくりコンペの骨格は以下のようである。 

  コミュニティ・アーキテクト集団の編成

被災地の基礎自治体(市町村)毎に、在住、近在の建築士、建築学会員等を中心に第一次コアを設立、自治体首長および復興計画ボードとの連携関係を確立する。この第一次コアの立ち上げには、当該地域の出身者、これまで当該自治体の都市マスタープラン、基本計画等に携わった経験をもつ都市計画家、コンサルタント、公共建築の設計を手掛けた建築家が関与する。第一次コアをサポートする大学研究室を近接都道府県を第二次コアとして加える。さらに、この地域コアに全国からサポーターを第三次として、また諸外国から第四次として招聘する。このコミュニティ・アーキテクトの集団は、復興計画のヴィジョン、具体的計画、そしてその実行の過程に長期にわたって関与する。

コミュニティ・アーキテクト・ボード

コミュニティ・アーキテクトのネットワーキングはコミュニティ・アーキテクト・ボードCAB(日本建築学会を想定)が行う。また、CABは、復興会議、国の省庁、関連機関、関連諸団体との調整を行う。

国際復興まちづくり会議

各コミュニティ・アーキテクト集団は、復興まちづくり計画とその実現のプロセスを競うことになる。CABは、復興まちづくりのための情報交換と意見交換のためのシンポジウム・会議を定期的かつ持続的に開催する。また、その内容を国内外に発信、ネットワークとその支援体制の組換え、補強を行う。さらに、グローバルな経験交流のための国際会議を組織する(国際建築家協会UIAのような国際機関を想定)。

競われるまちづくりの評価基準は、従って、世界文化遺産登録基準(人類の創造的才能を表現する傑作、・ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの、現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠、・人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例、・特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例など)と言えばわかりやすいかもしれないが、被災地を消滅した地域、存続が危ぶまれている地域に適用するわけにはいかない。

共通に求めるべき項目があるとすれば、やはり、地域が自立循環系をどれだけ自らのうちに含みこんでいるかどうかということになる。第一に、それぞれの地域に固有な住居(エコハウス)の型をもつこと、第二に、複数のエコハウスが集合してできる共同住宅さらには街区(エコ・ヴィレッジ)の型をもつこと、第三に街並み景観の全体が地域の自然環境と一体となったアイデンティティをもつことである。

コミュニティ・アーキテクトには、それぞれの地域に即して、既に少なくとも以上の三点について具体的なイメージ、モデルを提示することがもとめられている。コミュニティ・アーキテクトたらんとする若い諸君は失敗を恐れる必要はない。その責任は自分たちの世代がとればいいのである。



[1] 1918年東京生まれ~2003年死去。府立1中,旧制成城高校1942東京帝国大学工学部建築学科卒業。1945坂倉準3建築設計事務所入所。1953ハーバード大学大学院修士号(M.Arch.)取得,マルセル・ブロイヤーの事務所入所。1956年芦原建築設計研究所開設。1959法政大学教授。1961工学博士(東京大学)。1965武蔵野美術大学教授。197079年東京大学教授。1979年アメリカ建築家協会名誉会員。1985日本建築学会会長。1987王立オーストリア建築家協会名誉会員。東京大学名誉教授。武蔵野美術大学名誉教授。日本芸術院会員。日本建築美術協会会長。著書に『外部空間の設計』(1975年)『街並みの美学』(1979年)『隠れた秩序』(1986年)『東京の美学』(1994年)など。

[2] 1932東京生まれ。都市計画家東京大学名誉教授工学博士1956東京大学工学部建築学科卒業,同数物系大学院建築学専門課程・修士課程博士課程修了1984年東京大学教授1985年「地方都市と大学立地に関する1連の研究」で日本都市計画学会論文賞受賞。

[3] W.W.Rostow1916年ニューヨーク生まれ~2003年死去。アメリカの経済学者。その経済発展段階説は,5段階に分けられる。第1段階:伝統的社会産業構造が在来産業のモノカルチュアで,労働生産性も低く,経済活動の大部分が食料確保のための農業生産に向けられている。第2段階:離陸先行期経済の成長局面・好循環局面に移る離陸テイクオフ)のための必要条件が徐々に満たされていく期間である。第3段階:離陸離陸期になると貯蓄率と投資率が急速に高まり,1人当りGNPは持続的な上昇を開始する。投資率が5%以下から10%以上に増加すること。主導産業があらわれ他の産業部門の成長を誘発すること。経済成長を持続するための政治的・社会的・制度的な枠組みが成立することの3つをロストウは離陸期の特徴としてああげている。第4段階:成熟化離陸期のあとにくる波動を伴う長い進歩の時期である。近代的産業技術が全分野に広がり主導産業が重化学工業になる。また産業構造は第2次産業に特化する。第5段階:高度大量消費成熟化の時代を経て国民1般の所得水準が更に上昇すると消費需要の構造が変化し耐久消費財やサ-ビスに対する需要が爆発的に増大する。

[4] 1905新潟市生まれ~1986年。1928東京帝国大学工学部建築学科卒業,ル・コルビュジエの事務所に入所。1930年帰国,東京レーモンド建築事務所に入所。

1931年東京帝室博物館公開コンペ作品,実質的デビュー。1934年木村産業研究所(弘前市)。1935年事務所開設。19591962年日本建築家協会会長。19651969UIA国際建築家連合)副議長。 1968年第1日本建築学会賞大賞受賞。1984年日本建築家協会名誉会員。

[5] 1937島根県玉造温泉生まれ。早稲田大学1文学部卒業。1975年『都市廻廊』で毎日出版文化賞1977年武蔵野美術大学助教授。1979年『建築有情』でサントリー学芸賞1986日本建築学会賞(業績部門)武蔵野美術大学教授。名誉教授。著書に『神殿か獄舎か』1972年『建築の生と死』1978年『生きものの建築学』1981年『議事堂への系譜』1981年『建築逍遥』1990年『田園住宅』1994年など。

[6] 『構造/操作/過程―構造分析の試み―』(東京大学修士論文)1971年十2月。

[7] 地球環境時代における建築の行方:徹底討論,第1日「環境のグランドデザイン クリストファー・アレグザンダー・原広司・市川浩,布野修司(司会)」199122628日)

[8] 拙稿「アーキテクト・ビルダーとタウンアーキテクト」『建築雑誌』20114月号

[9] 1903東京生まれ- 1997都市社会学者。1928東京帝国大学卒業,36ベルリンへ留学,48東京都民政局長,52ボストン大学客員教授,53年都庁退職。東京都立大学教授,59ハーバード大学客員教授,66東洋大学教授,68世界エキスティックス学会会長,69東洋大学学長,同和対策協議会委員,79日本都市学会会長,85地方自治経営学会会長,9297財団法人人権教育啓発推進センター理事長。主著に,『区の研究』(1936年)『都市社會學』(1953年)『都市社会学研究』(1959年)『 現代の都市と政策 危機の空間から解放の空間へ』(1969年)『同和問題と同和対策』(1982年)など。

[10] 1935年東京生まれ。1959年東京大学工学部建築学科卒業,㈱現代建築研究所入社 1961年東京大学教養学部図学教室助手,1966年東洋大学工学部建築学科助教授,1984年「東ヨーロッパの伝統的木造建築の研究」で工学博士。同学科教授を経て2001年ものつくり大学建設技能工芸学科教授,2005年同大学退職,太田邦夫建築設計室主宰。東洋大学・ものつくり大学名誉教授, 竹中大工道具館理事,住宅総合研究財団評議員。作品に「ぼっこ山荘」(1962年)「3笠の家」(1963年)「5千尺ロッジ」(1965年)「松本の家」(19661972年)「丘の上病院」(1969年)「杢太良」(1972年)「史跡根古谷台遺跡(復原)」(1990年)など。著書に『ヨーロッパの木造建築』(1985年)『ヨーロッパの民家—建築巡礼4』(1988年)『東ヨーロッパの木造建築—架構方式の比較研究』(1988年)『ヨーロッパの木造住宅』(1992年)『世界のすまいにみる 工匠たちの技と知恵』(2007年)『エスノ・アーキテクチャー論』(2010年)など。

[11] 1942年生まれ。1966年東京大学工学部建築学科卒業,大学院修士課程,博士課程を経て,東洋大学助手,助教授,教授。著書に『同和地区のまちづくり論』(1993年)『まちづくりとコミュニティワーク』(2006年)など。

[12] 1905年オーストリア生まれ。1928年ウィーン工科大学建築学英文学修士号を取得,同年よりベルリン工科大学助手,3031年ウィーン工科大学建築学科准教授3738イタリアの建築雑誌の編集長を務めた後,ブラジルサン・パウロで建築事務所を設立,41年渡米し,その後アメリカに永住。4243年アメリカの建築雑誌New Pencil Points』副編集長,アート・ディレクター,『Interiors』誌編集長,アート・ディレクターを務める。作品に,ブリュッセル万国博アメリカ館設計(58年),著書に『建築家なしの建築』(64年),『みっともない人体』(71年),『人間のための街路』(73年),『驚異の工匠たち』(77年),『さあ横になって食べよう』(80年)など。

[13] 布野修司監訳(1997)『生きている住まいー東南アジア建築人類学』ロクサーナ・ウォータソン著 ,アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,19973

[14] 1962年イスラエル工科大学建築都市計画学部卒業,1967UCバークレー環境デザイン学部建築学科卒業,1972年博士号取得。イスラエル工科大学建築都市計画学部講師。UCバークレー客員講師。1976年アジア工科大学(バンコク)助教授,82年教授。89MIT客員教授。2000年~ニューヨーク大学都市計画兼任教授。2002年~プリンストン大学講師。プリンストン大学ワグナー・スクール,ウッドロー・ウイルソンスクールで計画史,計画論を教える。著書に“Housing Policy Matters: A Global Analysis ”“The Expansion of Cities”“,The Atlas of urban Expansionなど。

[15] 1956年イェズス会神父として来比し,長年住宅事情の改善に取り組んできた。1975年フリーダム・トゥー・ビルド社を設立し,当初マニラ郊外のスラム居住者の再定住地で建築資材の供給等により住宅の自力建設を支援した。1980年代から中低所得者向けのデ・ラ・コスタ住宅建設事業を開始し,自助建設の思想に基づき事業努力,政府融資の活用等を図ることにより環境の整備された敷地およびコア住宅を低価格で供給するよう努めてきた。

[16] John F.C. Turner1927年ロンドン生まれ。建築家。ハウジングの分野で世界的に活躍。コミュニティをベースとする自力建設,自主管理によるハウジングを主張。195765年ペルーでの実践を踏まえ,ケンブリッジとMITの共同都市研究センターで調査研究著作活動。MIT (196573)AAスクールおよびロンドン大学開発計画ユニット(197483年)で教鞭をとる。その後,HICHabitat International Coalition)を立ち上げ,1987年の国連国際居住年(UN International Year of Shelter for the Homeless)のプロジェクトを主導した。1987年にはTCRT00ls for Community Regeneration)を設立,草根のハウジング活動の支援を続けている。

[17] John F.C. Turner”Freedam To Build” Macmillan, New York, 1972John F.C. Turner“Housing by People Towards Autonomy in Building Environments”, Marion Boyars, London 1976Pantheon B00ks .New York, 1977)

[18] Johan Silas1936年カリマンタン・サマリンダ生まれ。1963年バンドン工科大学ITB卒業。1965年スラバヤ工科大学ITS講師,教授。2006年退官。スラバヤ工科大学名誉教授。1979年ロンドン大学DPU1980年ロッテルダムHISなどで講義。ハウジング,人間居住分野で国際的に活躍。1986KIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)でアガ・カーン賞,1991年国際居住年記念賞,インドネシア建築家協会特別賞,2005年国連HABITAT学術賞など受賞多数。著書に“Low-Income Housing in the Developping Countries”(G.Payne(ed.))“Kampung Surabaya”“Rumah Produktif”など。「J.シラスと仲間たち」『群居』38号,19956月。

[19] 1914年ロンドン生まれ~2005年死去。1937RIBA(王立英国建築家協会)会員。193739年ルイス・デ・ソアソン事務所。1938RTPI(王立都市計画協会)会員。1942年スウェーデンに渡り,1944-45年ストックホルム・アート・カレッジで学ぶ。1955年ロンドンに戻り,チームⅩで活動。1959CIAM国際会議3加。1965年スウェーデン建築家協会会員。1966AIA(米国建築家協会)会員。1970年「バルベーラレン集合住宅」でカスパー・サリン賞受賞。1972年王立スウェーデン美術アカデミー外国人会員。1975年ルンド大学名誉博士号取得。1978CBE(大英帝国指揮者)に任命。1980年「フレスカーティの学生会館」でカスパー・サリン賞受賞。1981年アースキン・アトリエ解散。1982年ヘリオット・ワット大学から文学名誉博士号取得。1983年西ドイツ建築家連盟名誉会員。1985年ロンドン王立芸術アカデミー名誉会員,ストックホルムの芸術協会および西ドイツの芸術アカデミー会員。1999年スウェーデン政府名誉博士号取得。2000年ヨハネス・トヴァットとパートナーシップを組む。王立カナダ建築協会ゴールド・メダル(1982),フランス芸術・文学賞(1986),ヨーロッパ・スティール・デザイン賞(1999)RIBAロイヤルゴールドメダル(1987)など。作品に「ユトルプの集合住宅」(1945-55)「ケンブリッジ大学クレアホール」(1969)「ストックホルム大学学生センター」(1983)「ジ・アーク」(1990)「グリニッジミレニアムビレッジ」(200005)など。

[20] ニック・ウエイツ・チャールズ・ネヴィット,『コミュニティ・アーキテクユア』,都市文化社,1992

[21] 1948エディンバラ公フィリップと公妃エリザベスの長男としてバッキンガム宮殿にて誕生。1952年,祖父・ジョージⅥ世が崩御し,母・エリザベスがイギリス女王に即位すると,チャールズは推定相続人として王位継承順位が1位となる。それに付随して,コーンウォール公・ロスシー公の称号を得た。1958年には,チェスター伯・ウェールズ公の称号を得た。事実上の立太子にあたる。1968年には女王からガーター勲章が授与され,21歳でウェールズ公としての戴冠式を行った。現代建築に批判的であることで知られる。イギリス各都市の再開発によって伝統的な街並に調和しない近代建 築が次々と建てられている現状を批判し,実用1点ばりの近代建築の現状 1石を投じたいと述べ伝統的な建物が並ぶかつての美しい町並を再現し ようと呼びかける。パリの「ポンピドー・センター」やマドリードの「バラハス国際空港」などを設計した建築家リチャード・ロジャースRichard Rogersがロンドンで計画していた新プロジェクトを中止に追い込んだ。ロンドンの老舗美術館「テートギャラリー」の新館コンペ案を見て,「私の大切な友人の顔にできたおできのような」と評したと言われている。イギリスの歴史的建築物が,次々と取り壊されていくことを心配したチャールズ皇太子は,1989年「英国の未来像-建築に関する考察」をBBCの番組で発表。同時に著作(出口保夫訳,東京書籍1991)として刊行し,世界的な反響を呼んだ。

[22] 1948年愛媛県生まれ。都市工学。都市計画,国土計画,地域開発。東京大学工学部都市工学科卒業,同大学院博士課程(都市工学専攻)修了。長岡技術科学大学助教授,アジア工科大学(タイ)助教授,東京大学工学部助教授等を経て,1995年より同大学大学院教授。1996年から国際連合高等研究所教授を兼任。国土審議会委員,産業構造審議会委員。著書に『都市再生のデザイン』『逆都市時代』など。

[23] 1952年福岡県生まれ。都市保全計画,都市景観計画。東京大学工学部都市工学科卒業。同大学院修了。1996年東京大学工学部都市工学科教授。工学博士。アジア工科大学助教授(バンコク),MIT客員研究員,コロンビア大学客員研究員,フランス国立社会科学高等研究員客員教授等を歴任。1996年日本建築学会賞(論文)。著書に『都市保全計画』『西村幸夫 都市論ノート』『西村幸夫 風景論ノート』など。

[24] 1933東京生まれ。200283死去。1956早稲田大学1理工学部建築学科卒業,1958年早稲田大学大学院修士課程修了,菊竹清訓建築設計事務所入所。1967年内井昭蔵建築設計事務所設立。東京YMCAデザイン研究所,東京大学工学部建築学科,早稲田大学理工学部建築学科各講師。日本建築家協会理事(1972年~1974年) ,日本建築家協会副会長(1979年~1981年)。1981年アメリカ建築家協会名誉会員。新日本建築家協会副会長・広報委員長(1988年~1990年)。京都大学工学部建築学教室教授(1993年~1996年),滋賀県立大学環境科学部教授(1996年~2002年)。代表作に,桜台コートビレッジ(1969)世田谷美術館(1986)蕗谷虹児記念館(1987)滋賀県立大学(1997)など。

[25] 「湖国近江の風土,歴史,文化を継承し,自然と共生した美しい居住環境の創出及び循環型地域社会の形成を目指して,地域診断(環境,防災,土地利用,景観,資源,エネルギー等)からまちづくり(コミュニティ活性化,市街地再生,地域文化育成等)への展開をオーガナイズできる人材(コミュニティ・アーキテクト)を育て,県内各地で展開する環境調和型地域再生プロジェクトのリーダーとして養成していく」ことをうたう滋賀県立大学の大学院の人材育成教育プログラム。

[26] 拙稿「タウンアーキテクト」制の可能性「景観法」の実りある展開をめざして」特集景観まちづくりへのアプローチ『ガヴァナンス』,ぎょうせい,20046月など。

[27] 1956神奈川県横浜市生まれ。1980年東京大学工学部建築学科卒業,1982年東京大学大学院修士課程修了。磯崎新アトリエを経て1991年青木淳建築計画事務所設立。作品に「馬見原橋」(1995年)「潟博物館」(1997年)「ルイ・ヴィトン表3道ビル」(2002年)「青森県立美術館」(2005年)「白い教会」(2006年)など。著書に『住宅論—12のダイアローグ』(2002年)『原っぱと遊園地建築にとってその場の質とは何か』(2004年)など

[28] 1968年早大大学院理工学研究科修了。1970fromnow設立。竹中工務店設計部,槇総合計画事務所出向1977年鈴木了2建築計画事務所設立。1997年教授,2004年から2010年早稲田大学芸術学校校長。作品に「麻布EDGE」「成城山耕雲寺」「佐木島プロジェクト」「県立あしきた青少年の家」「金刀比羅宮プロジェクト」など。著書に『非建築的考察』『建築0年』など。日本建築学会作品賞(1997年),第18回村野藤吾賞受賞(2005年),日本芸術院賞(2008年)。

[29] 1943年東京生まれ。1966東京工業大学卒業。1971武蔵野美術大学建築学科講師。1977同大助教授。1983東京工業大学助教授。1991同大教授。2009東京工業大学退官。同大名誉教授作品に「HOUSE F」(1990日本建築学会賞作品賞)「コモンシティ星田」(1992,村野藤吾賞)など。(山口健太)

[30] 195○年目黒区生まれ。建築家。1973年日本女子大学家政学部住居学科卒業。1978年平倉直子建築設計事務所創設。1989年日本女子大学住居学科講師,2007年東京大学建築学科講師。作品に「警視庁目黒警察署3田交番(あかりの交番)」(1995年,目黒区景観賞受賞)「上信越高原国立公園 鹿沢園地自然学習歩道施設 森の小径と鹿沢インフォメーションセンター」(土木学会デザイン賞2009)「羽沢の住まい」(1988年,東京建築賞)「富ヶ谷の住まい ~ウチとソトのうち,おおらかなサニタリー空間, 常盤台の住」(1998年,新日本建築家協会新人賞)など。

[31] 1949年京都市生まれ。伏見工業高校卒業、1967()たち吉入社。1972年独立、インテリア設計事務所を自営。1982 ()若林広幸建築研究所設立。1984 SDレビュー入選、1988年 商環境デザイン大賞、1991年第9回京都府文化奨励賞 日本文化フォーラム日本文化デザイン賞受賞、1994南海電気鉄道(南海)の空港特急車両・南海50000系電車ラピート)デザイン、1995ブルーリボン賞受賞。1996 京阪宇治駅グッドデザイン賞。その他作品に「漬け物の「西利」」「旧毎日新聞ビル」など。

[32] 1953年広島県 神石郡生まれ。19713原工業高校卒業,大成建設入社。1972年月岡建築事務所,1973年新御堂設計を経て1975年フリーのドラフトマン活動1982年新田正樹建築設計工房設立,1995年新田正樹建築空間アトリエ。作品に「ウッドリーム大阪」(1982年)「栄照寺」(1992年)「宝厳寺1」(2000年)など。

[33] 1960滋賀県生まれ。1986京都市立芸術大学大学院修了,石井修/美建・設計事務所。1988年遠藤秀平建築研究所を設立。1990年に「3rd FACTORY志野陶石」でアンドレア・パラディオ国際建築賞を受賞。「Cyclestation 米原」(1994年)「Springtecture 播磨」(1998年)「Slowtecture 3木」(2007年)「Bubbletecture ひょうご」(2008年)など。


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