はじめに
その時(2011年03月11日14時46分)から随分と時が流れた。
しかし,東日本大震災で大津波を受けた地域には,未だに茫漠たる風景が拡がっている。とりわけ,原発事故によって放射能を撒き散らされた地域は,時間が凍結されたように動いていない。
「殺風景」である。風景は殺されたままだ。
新たな動きと言えば,太平洋岸に沿って巨大な壁(防潮堤)の建設が開始されつつあることである。防潮堤や嵩上げ,高台移転を選択しない限り,あるいは放射線量が減らない限り,居住を認めないといった制限が,私たちがこれまで全く見たことのない風景を創り出しつつある。
風景を作り出すのは,こうした「制度」である。この制度を問う必要がある。
声を大にして言いたいのは,被災地の風景は二重に抹殺されつつある,ということだ。殺された風景とそれとは異なる新たな風景創出の提案に被災者は引き裂かれてしまっている。合意形成には時間がかかる。結果として,この「殺風景」は維持され続けることになる。
この「殺風景」をどのような風景へと創生させていくのか。
かつての風景を蘇らせたい,かつての暮らしを取り戻したい,というのが被災者の思いである。しかし,多くの人命が失われ,さらにその十数倍もの人々が仮設居住や移住を強いられる中で,地域社会が大きく変容していくのは避けられない。これは日本社会が歴史上初めて経験する圧倒的な現実である。殺された風景をそのまま再生するのは不可能である。
大津波は至る所で生態系を大きく変えた。海水が引いた後も,塩分が残り続けたことによって動植物の生態は大きく変わった。しかし一方,新たな自然が生成しつつある地区もある。壊滅した集落に守るべきものはないと防潮堤建設を拒否した海岸に新たにできた干潟に多様な生物が棲み始め,新たな生態系が生れつつある。
大きく歴史を振り返れば,海底に沈んだ古代都市や火山灰で埋まった都市,大洪水で流されてしまった都市,台風で壊滅した都市など,天変地異によって風景が一変してしまった事例はいくつもあげることができる。風景の基盤となるのは自然であり,地球の運動である。宇宙の年齢が確定され,地球の運動が精密に明らかにされたにも関わらず,地球には日々予測されない事態が発生し続けている。地球は生きているのである。
どのような風景が創出されるべきなのか?
景観をつくりあげ,享受するのは僕ら人類である。都市は人類が創り出した人工物である。自然に手を加えることによって,人類は自らの文明を築き上げてきた。時として,僕らは築き上げたものを自ら破壊し,景観を一変させることがある。戦争がそうである。とりわけ,近代戦争における空爆は都市を一瞬に破壊し廃墟と化す。広島,長崎への原子爆弾の投下がその極北である。1945年,両都市はまさに「殺風景」と化した。それに先立って,東京,大阪など日本の大都市は空爆を受け,灰燼に帰していた。
それから半世紀余り,日本は復興をとげ,国際社会に復帰し,高度成長をなしとげ,新たな風景をつくり上げてきた。しかし,その風景が東日本大震災の被災地では一瞬にして消えてしまった。
東北の大津波については,明治の大津波,昭和の大津波,チリ地震の津波,東北三陸海岸には繰り返しの津波経験があった。しかし,その経験にも拘らず,地域振興と兼ねて建設され続けた防潮堤を頼りに,住民たちは,それぞれの土地に拘り,海に依存して住み続けてきた。それが過去の大津波の経験を踏まえた解答であったが,にもかかわらず,再び致命的な被害を受けた。しかし,今回については,千年に1度と言われる大災害であり,戦後復興そして高度成長へ向かった半世紀前と異なり,少子高齢化に向かう日本,そしてその縮図と言われる東北地方の復興が容易ではないことは,誰もが直感するところである。
そして,「フクシマ」の風景は,日本社会が,あるいは世界が歴史上初めて経験する,圧倒的な現実である。
東日本大震災の「殺風景」をどのように乗り越えて行くべきか。これを考えるためには,まず,東日本大震災によって「殺された」風景とはどのような風景だったのかを考えなければならない。その上で,新たに創出される風景とはどのようなものかを改めて問うことが必要であろう。
Traverse8号に「景観・風景・ランドスケープ-景観論ノート01」(2007年)という一文を認めた。「景観論ノート01」としており、最後に「以下、続稿」としている。本号でそれを果たしたい。
「続稿」を書き続けて一書にしようと思っていたのだが、随分と時間があいた。実は、一旦書き上げたけれど出版社からOKが出なかった。他の仕事に時間をとられて、原稿はほっぽり出したままになっていた。東日本大震災が起こり、震災復興が遅々として進まず、被災地が殺風景なままであり続けるのを思い、かつての原稿を引っ張り出して、一気に手を入れた。幸い今度は上梓できそうである。以上は、その近著『殺風景の日本-景観形成の作法-』のまえがきである。そして、以下はその予告である
東京風景戦争
大島渚の『東京战争戦後秘話』が封切られたのは1970年であるが,その映画評をめぐる「風景戦争」という言葉が刺激的だった。実際,映画の当初のタイトルは「東京風景战争」で、「映画で遺書を残して死んだ男の物語」というのが映画のサブタイトルであった。2度ばかりこの映画をみたが、その遺書には,延々と東京の風景が記録されているだけである。主人公の科白によれば「泣けてくるような風景」「そこらに転がっているような薄汚い風景」ばかりである。風景をめぐるこの映画が問題にしたのは,「中央にも地方にも,いまや等質化された風景のみがある」という事実であり,「高度成長は,日本列島をひとつの巨大都市として,ますます均質化せしめる方向を,日々,露わにしている」ということであった。
景観あるいは風景という言葉は,「景観・風景・ランドスケープ-景観論ノート01」で議論したように,土地や地域のあり方と深く関わる。昭和戦前期まで,すなわち第二次世界大戦前まで,日本の景観は緩やかに江戸末期に遡る連続性をもっていた。日本列島の景観の歴史的変化を大きく層に分けると,明治維新から昭和戦前期までに形成された景観層は日本の第三の景観層となる。日本列島の原風景,すなわち太古に遡る自然景観を基層(第一の景観層)とすると,人々が住み着き,稲作をベースに形成されたのが第二の景観層である。そのクライマックスは江戸末期である。そして,西洋建築が導入され,産業化の進展とともに生み出されてきたのが第三の景観層である。その第三の景観層が一変し,大きく変転したのが日本の戦後であり,戦後の風景は,第四の景観層を形成することになる。阪神淡路大震災,東日本大震災が襲ったのは,この第四の景観層である。
日本景観の第四層のクライマックスは,1960年から70年に至る10年である。日本の景観層が第三から第四へと転換するこの過程は,それまでの層を重ねていく変化とは異なり,層を剥ぎ取るように変えていく大転換の過程であった。とりわけ,1960年から70年にかけての10年を閾として,日本の景観は一変するのである。
1959年,プレファブ(工業化)住宅の第1号(大和ハウスの「ミゼットハウス」[1])が誕生する。1970年には,毎年建てられる日本の住宅の一割近くの住宅がプレファブとなる。そして,この10年で,茅葺きの民家が日本からほぼ消えてしまう。1960年には全く用いられていなかったアルミサッシュの普及率は,10年後にほぼ100パーセントになる。日本の住宅の気密性が高まりクーラーが普及していく過程とアルミサッシュの普及の過程は同じである。1960年代は,日本の住宅史上最大の転換期である。
どのような風景を創生するべきかを考えるためにはこの歴史的大転換を踏まえておく必要がある。
日本橋:日本の臍
東京オリンピック2020が決まった。東京オリンピック1964から丁度半世紀の時が流れた。振返れば,東京の風景が一変したのは東京オリンピック1964が契機であった。東京に高架の高速道路(首都高速道路)が建設されたのは東京オリンピック1964開催のためである。そして,霞ヶ関ビル(1965年3月起工,67年4月上棟,68年4月オープン)を嚆矢として,日本にいわゆる超高層建築が建設され始めるのが1960年代末である。
10年ほど前、竣工まもないソウルの清渓川再生事業を視察した小池百合子環境相の報告を受けた小泉純一郎首相が,高速道路の下に埋もれてしまった日本橋周辺の景観は醜い,高速道路を撤去したらどうかと発言,マスコミが大きく取り上げて大騒ぎになった(2005年12月)。日本橋の上に架かる高速道路を撤去するということは,清渓川再生事業と同じように,半世紀前の景観を取り戻す,ということである。
慶長8(1603)年に架けられた日本橋は,まさに日本の臍である。完工翌年,全国里程の原点と定められ,東海道,中仙道など五街道の起点となり,現在も日本国道路元票がその袂にある。また,日本橋の中央のまさにその原点の真上の空中に高速道路を跨ぐかたちで元票が浮いている(図1)。
実際,江戸時代の日本橋は,人や物資の集散によって活況を呈した。日本橋川など運河には,魚,米,塩,材木などの河岸が並び,近江商人や伊勢商人などの大店が軒を連ねた。各種問屋,金座,銀座とともに市村座,中村座などの芝居小屋,遊里吉原も立地した(図2)。
明治に入っても,日本橋は東京の臍であり続けた。1878年の郡区町村編成法によって東京市15区の1区となった日本橋区は,兜町に東京証券取引所を中心に証券会社が,室町から本石町にかけては日本銀行をはじめとする金融機関が集中して日本のウォール街と呼ばれた。中央通り沿いに三越,高島屋,東急日本橋店などの百貨店が並ぶ,東京駅八重洲口にも近い地区,また,江戸時代以来の問屋が建並ぶ地区として,日本経済の中心であり続けるのである。
しかし,戦災を受け一帯が灰燼に帰した後,戦災復興から高度経済成長へ向かう過程で,東京は急激に膨張し始め,大きく変貌する。その象徴が,東京オリンピック1964を契機とする高速道路網の建設である。東京の重心は西へと移動し,新宿に高層ビルが林立し始めた。日本橋界隈は,高速道路で空を塞がれるとともに,日本の臍としての地位を失っていくことになる。
現在のアーチ型石橋は1911年に架けられたもので,長さ49メートル,幅27メートル、妻木頼黄(1859~1916)[2]の設計による。すぐれた意匠として評価が高いが,船運を意識したその意匠はモータリゼーション万能の今日となっては見る影もない(図3)。かつての日本の近代化,西洋化の象徴としての意匠も,高速道路の現代性に道を譲らざるをえなかった。川の上なら用地買収の手間暇,費用がからないことが優先されたのである。
日本橋界隈では,清渓川再生事業以前から様々な再生計画が取り沙汰されてきた。東京都は,1994年に『日本橋川再生整備計画への考え方』をまとめ,長期的な抜本対策として,①高速道路の地下化,②超高架化などをうたっている。また,「東京都心における首都高速道路のあり方委員会」(国土交通省・東京都・首都高速道路公団)も,提言(2002年4月)において,日本橋付近の都心環状線の再構築案として,いくつかの地下案とともに高架案をまとめている。取りまとめに当たったのは,中村良夫,篠原修といった土木分野における景観工学の大家である。
大都市にも自然が欲しい,かつての景観が蘇って欲しい,という素朴な声も次第に大きくなりつつあった。地元では,「日本橋地域ルネッサンス一〇〇年計画委員会」「日本橋保存会」などいくつかのまちづくり団体が活動を続け,それらを統合するかたちで設けられた「日本橋みちと景観を考える懇談会」が独自にアイディア・コンペを行うなど,いくつかの提案を試みてきた。
しかし,事業が容易でないことはいうまでもない。日本橋川の上に架かる高速道路の場合,清渓川に沿うだけの単線の高架道路とは違い,いくつかの路線が交差するから,交通計画上,代替案の作成が困難である。そして,清渓川再生がまさにそうであったように,景観ばかりではなく,まちづくり,防災性の向上,環境整備など,様々な課題が複合したプロジェクトとなる。実現への手順,スケジュール,費用対効果,地域づくりの協力体制など,検討すべきことが山のようにある。都市計画に関わる法制度の検討も必要である。様々な権利関係を調整するためには,土地や建物の広さや容積を移転することが必要になるが,その権利変換をコーディネートする役割・仕組みが鍵になる。そして,地域内の合意形成が同じように決め手となることは見えているのである。
日本橋プロジェクトは,「高度成長期のまちづくりから品格のある上級なまちづくりへの転換―経済効率優先・車中心・無秩序な景観(従前)から伝統・文化・歴史の尊重,賑わい空間の創出(今後)へ」を高らかにうたった。そして,「新しいまちづくりを日本橋から全国に広げていくための第一歩―全国の都市再生・国土再生のマイルストーン」を目指す,と宣言した。確かに,日本橋が日本の新たな臍として再生に向かうとすれば,日本の都市景観の帰趨を大きく方向づけることになる筈であった。
それから10年,東日本大震災が東北のみならず東京をも直撃した。超高層建築の揺れ,膨大な帰宅困難者の出現,計画停電・・・首都東京の拠って立つ基盤の脆弱性が露わとなった。
そして,東京オリンピック2020が決まった。
主題とされるのは,首都東京の強靭化である。例えば,東京オリンピック1964のために建設した高速道路網の補修,補強が急がれることになる。東京オリンピック2020の招致委員会が,既存施設の最大限の利用をアピールしたように,東京オリンピック1964の時のように新たな施設をどんどん建てる余裕はいまの日本にはない。ましてや東日本大震災からの復興という最大の課題がある。東京は既存の都市構造を補修強化することのみであるとすれば,この半世紀は一体何だったのかということになる。
東京オリンピック2020が決まって,せめて日本橋の上の高速道路だけでも撤去できないか,という動きがある。問題を先送りするのではなく,日本橋プロジェクトがうたったような日本橋を日本の臍として再生する機会とできるかどうかが問われている。
丸の内:美観論争
東京駅前丸の内に,現在の新丸ビルから見下ろされるように,いささか場違いに思える赤茶けた煉瓦色の迫力ある東京海上ビルディング(現・東京海上日動ビルディング)が建っている(図4)。
日本の近代建築をリードし続けた建築家,前川國男[3](1905~1986)によるこの東京海上ビルディングは,霞ヶ関ビルに先駆けて,日本最初の超高層建築となる筈であった。しかし,そうはならなかった。建設をめぐって,時の政権(首相佐藤栄作)を巻き込む大論争が起こるのである。
ことの発端は1963年に遡る。この年,戦前期より長い間決められてきた,建物の高さを100尺(31メートル)以内に制限する規定が撤廃されるのである。31メートルというとせいぜい10階建ての建物だ。10階建ての建造物であれば,今では日本全国の都市に林立していて珍しくもないが,「超高層」建築というと,当初は31メートルを超えた建物を言った。そうした意味では,この1963年は,日本の都市景観を大きく変えるきっかけとなった年として記憶されていい。
翌1964年は東京オリンピックの開催された年であり,東京―新大阪間に新幹線が開通した年である。上述のように,東京も日本もこの頃を期に大きく変貌していく。東京オリンピックの興奮さめやらぬ1965年1月に設計依頼を受けた前川國男の案は,地上32階,高さ130メートルの「超高層」建築案であった。高さ制限から容積制限へ移行したことを踏まえ,超高層化によって,敷地の3分の2を公共広場として開放するというねらいをもっていた。この手法は,後の「総合設計制度」[4]に基づく「公開空地」の先駆けとして評価されるが,後述のように,この総合設計制度は,それまでに形成されてきた日本の都市景観を大きく変える動因となる。
案は,設計図書にまとめられ,1966年10月に建築確認申請[5]の手続きが取られた。そして,騒動が起こった。「皇居を見下ろすビルは美観上認めない」という判断を東京都が下したのである。知事は美濃部亮吉(1904~1984)[6],革新都政の時代である。後に「美観論争」と呼ばれることになる,この出来事の顛末はおよそ以下のようであった。
美観上の理由で(美観条例を設けて)東京都が建築確認を拒否する一方で,建築基準法上の手続きは進められた。1967年1月,(財)日本建築センターの構造審査会(建築基準法の規定にない特別な建築物の審査を行う機関)は,構造耐力上支障はないとの判断を下している。技術的な認可を得て,法的には準備が整ったことになる。しかし,東京都がなおも建築確認を拒否し続けたことから,建主である東京海上はこれを不服として東京都建築審査会に審査請求を提出,9月に至って審査会は東京都の処分を取り消すという裁定を下した。
1967年10月,構造審査会の報告に基づく大臣認定の手続きが東京都から建設省に送られた。問題は,自治体から国へと移ったことになる。この間,マスコミがこの問題を大々的に取り上げ,国民的話題となった。そして,ついには政治問題化する。時の佐藤栄作首相が「皇居を直接見下ろすようなビルは「不敬」に当る。国民感情からしても好ましくない」と発言するのである。また,実際に東京海上に対して「超高層」ビルの自粛を要請したのであった。
結局,基準階の平面計画(プラン)は変えず,自主的に地上25階,軒高100メートル以下に高さを削ることで認可が下りることになった。1970年のことである。1971年12月に着工した東京海上ビルは,計画開始よりほぼ10年を経た1974年3月に竣工する
「皇居を見下ろす」という政治的問題を除いてみると,ここには,全国各地で勃発した風景戦争の構図をほぼそっくりそのままみることができる。すなわち,高層建築の計画提案,高層化反対のキャンペーン,条例の制定,適法の確認,高さ低減(階数削減)による決着というパターンである。
東京海上ビル建設に伴う美観論争が,建築界にしこりのように残っているのは,超高層建築を推進する側に,建築界の「良心」とされてきた前川國男がいたことである。
東京海上ビルの前身は,1918年に建てられたものである(曽根[7]・中條[8]設計事務所,構造設計,内田祥三[9](1885~1972))。丸の内,すなわち江戸城の御曲輪内と呼ばれた一帯には,明治以後,司法省,大審院,東京裁判所,警視庁などの官庁の他,陸軍省や騎兵隊,工兵隊の兵営,操練場,東京府立勧工場(辰ノ口勧工場)が置かれたが,その内の陸軍用地は,1890年に至って,三菱に払い下げられた。日本橋が「三井村」と呼ばれたのに対して「三菱ヶ原」と呼ばれた。
三菱は1894年からイギリスの経済の中心地ロンドンのロンバート街[10]をモデルとしたオフィス街の建設に着手,1914年にかけて,J.コンドルの設計で1号から21号に及ぶ赤煉瓦造の三菱館を建てた。1914年には東京駅が建てられ,東京海上ビルの後,23年には丸ビルが落成する。丸の内一帯は「一丁倫敦」と呼ばれ,日本橋に対抗する日本のビジネス街として急速に発展していくことになった(図5)。
この丸の内に建てられた大部分の建物は,第二次世界大戦による被災を免れた。1952年に完成した新丸ビルは,従って,百尺の建築制限を守って建てられることになったのである。
日本の近代都市計画の起源とされる東京市区改正条例[11](1888年)はこの一丁倫敦と呼ばれた街並みが東京の中央市区に広がっていくことを想像していた。この想像図の世界はやがて実現していくことになる。
前川國男が求められたのは,この100尺にきれいにそろったビルの景観とは異なった新たな景観の秩序である。それ以前にモデルとされていたのは,アメリカの大都市,とりわけニューヨークで一般的になっていた,地上の敷地面を目一杯使って中央部のみ超高層とするいわゆる墓石型の超高層であった。超高層化によって公共広場(公開空地)を地上に設けるという前川國男の提案する超高層のモデルは,あえなく挫折したのである。
時代は下って,バブル華やかなりし頃,新宿副都心が超高層ビルの林立する街に変わり,ウォーターフロント開発が盛んに喧伝される中で,丸の内「マンハッタン計画」が打ち上げられた。「マンハッタン計画」というのは,日本産業の中枢としての地位をニューヨークのマンハッタンのように維持したいという命名であったが,原子爆弾開発のパンドラの箱を開けた「マンハッタン計画」を想い起こさせて暗示的であった。丸の内に容積率の歯止めが効かなくなるのである。
前川國男の挫折を墓碑銘として,一丁倫敦の記憶もかすかに残す丸の内であり続ける選択もあったのかもしれない。しかし,容積を増やせば増やすほど利潤を得ることのできる一等地を所有する大地主である三菱地所にその選択はなかった。公開空地を設ければ,容積率は1300パーセントになる。さらに,歴史的建造物を復元保存すれば1700パーセントになる。こうして一角に歴史的建造物を残して超高層として建て変えられた建物がある。
「平凡なるもの」という素晴らしいテレビ番組(富山テレビ)がつくられ,保存運動が展開されたが,日本の近代建築の傑作とされる丸の内南口に残る吉田鉄郎(1894~1956)[12]設計の中央郵便局は,中途半端にファサードの壁面を残して超高層ビルに建て替えられた。一方,東京駅は原形通りに保存復元された(2012年完工)。
丸の内は,エアポケットのように残るわずかな歴史的建造物とともに超高層のビル群によって包囲されつつある。第三の景観層において新たに出現した歴史的建造物が新たにランク分けされ,あるものは解体建替え(死刑),あるものは一部保存(執行猶予),あるものは凍結保存(標本化)される。そして,それらを足元に歴史の痕跡として残しながら,ひたすら空に向かって空間を拡張する。これは,日本の第五の景観層である。日本の首都・東京の玄関口,東京駅を取り巻く景観は,日本の景観問題と景観層をそのまま表現している。
東京の美学
東京タワーに登ってみる。あるいは東京新都庁舎の展望室から,さらに新たに出現した新名所東京スカイツリーの展望台から,東京の街を俯瞰してみる。世界中どこの大都市も似たようなものだけれど,東京の景観はとりわけ雑然と見える。ヨーロッパの都市と比べるとその違いは歴然とする。日本橋も東京駅も俯瞰してみれば,雑然とビルが林立する風景の中に埋もれてどこにあるのかわからないのである。新宿御苑や明治神宮などいくつか残された森の緑がせめてもの救いである。
この無秩序さは一体何なのか。
東京の景観を考える時,比較対象として,通い慣れたインドネシアのジャカルタのことを想う。この2つの都市の基礎が造られたのは同じ17世紀なのである。ジャカルタの前身はバタヴィアというが,「じゃがたらお春」[13]の数奇な物語もあって,江戸(日本)とジャカルタとの関係も深い。鎖国(海禁)政策を採っていた日本が,唯一,長崎出島を通じて繋がっていたのがバタヴィアである。
ジャカルタの人口は,現在1000万人を超える。ジャボタベックJABOTABEK(ジャカルターボゴールータンゲランーブカシ)というジャカルタ大都市圏を考えると,さらにはるかに大きい。もっとも,東京も,首都圏として神奈川・埼玉・千葉の近隣3県を加えれば3000万人以上,日本の人口の4分の1を占めるから似たようなものである。
この2つのアジアの大都市は「巨大な村落」[14]とも言われるように,実によく似ている。しかし,印象はかなり異なる。
ジャカルタのムルデカ広場に建つ独立記念塔に登ってみる。東京と同じように雑然とした風景が広がる(図6)。でも,美しいのである。理由ははっきりしている。赤い瓦の家並みが一面に拡がっていて,都市全体が赤い。そして,その赤い家並みに少なくない緑が実に映えているのである。赤い家並みの下は,カンポン(都市村落)の世界[15]である。決して豊かとは言えないバラックの世界である。美しさは従って物質的豊かさではない。皆が同じようにジャワ島の土で焼いた赤瓦を使っている,ただそれだけのことであると言えばそれだけのことである。それに対して,東京の俯瞰景は様々な屋根の色が混然として白色騒音(ホワイト・ノイズ)化してしまっている。ジャカルタのカンポンを覆う赤瓦は,オランダが持ち込んだもので,ジャワのものとは言えないけれどもうすっかり伝統となっている。カンポンの道は曲りくねり,土地の形も大小様々で,全体としてアモルフに見えるけれど,赤い屋根が全体を覆うことでひとつの世界が表現されるのである。
芦原義信は,東京の景観をめぐって,「わが国の首都,東京は,一見,まことに混沌としていて,他の国の首都と比較し,都市計画や都市景観の点でかなり遅れている」と『東京の美学―混沌と秩序―』[16]の冒頭に書く。ところがこの一文は,反語的問いかけであって,東京は決して,「混沌」として「遅れている」のではない,混沌の中に秩序があり,東京には東京の美学がある,と主張するのが『東京の美学』である。
僕は,芦原義信(1918~2003)[17]に建築設計の手ほどきを受けた。少し年上の丹下健三(1913~2005)[18]のような時代の先端を走る派手な建築家ではなく,手堅い建築家として知られていて,そうした建築家にしっかりしたデザインの基礎を教わったのは幸せであったが,基本は「混沌にいかに秩序を与えるか」ということだったと思う。だから,「混沌のなかの秩序」「混沌の美学」というのは芦原建築論の深化である。
『東京の美学』に先だつ『街並みの美学』[19]においては,「N(ネガティブ)」スペースと「P(ポジティブ)」スペースという概念が用いられる。建築家は,建築物(Pスペース)のみに関心をもつけれど,大切なのは建築物と建築物の隙間(Nスペース)である,という主張である。Nスペース,Pスペースによって都市を分析する視点は,博士論文である『建築の外部空間に関する研究』(1960)に示されている。都市の地図を白黒反転させて,すなわち,建物を白,隙間や空地を黒に塗ってみると,隙間の重要性がわかる。隙間すなわち都市の余白,中庭であり,広場であり,人々が集う公共的空間となる。この隙間が大事だというのが芦原都市建築理論であった。
それに対して『東京の美学』は「混沌の美学」を主張する。東京あるいはアジアには,一見,無秩序に見える都市環境のなかに,その生成過程において,ある種の「隠れた秩序」が存在しているのではないか,というのである。「混沌の秩序」「無秩序の中の秩序」という主張と,Nスペース,Pスペースによって都市が構成されるという主張は異なる。『街並みの美学』はあくまで西欧の都市を前提として組み立てられていた。しかし,『東京の美学』には西欧の都市とアジアの都市=東京は異なる秩序があるという視点がある。実際,東京の景観はヨーロッパよりアジアの諸都市に近い。例えば,中心商店街や盛り場などは,漢字の広告が溢れかえる,香港やシンガポールのチャイナタウンに似ている。また,木造住宅が主である点は東南アジアの諸都市に共通性がある。そうした意味では,日本の景観を考える際に西欧の景観がアプリオリに規範となるわけではない。後の章で,景観という概念をめぐって,風景と生態圏をめぐって,また地球環境と景観をめぐって議論するが,景観はそもそも地域の生態系によって拘束されている。そういう意味では,アジアにはアジアの,東京には東京の景観の美学がありうることを前提にすべきなのである。
問題は美学である。『続・街並みの美学』ではゲシュタルト心理学に言及されるが,『東京の美学』は,「カオス」「ファジー」「フラクタル」といった諸理論に触発されたという。フラクタル理論は,景観を一定の型や様式として捉える景観論に対して,景観をよりダイナミックに捉えるためのヒントを与えてくれる。視覚的に分りやすいのはマンデルブロ集合[20]で,その部分を拡大していくと全体と似たような形が現れるがそれらは互いに異なっている。海岸線や地形,樹木など自然の複雑で多様な形も一定の集合のルールによって生み出されており,それを記述できる可能性を示唆してくれる。すなわち,ディテールにおける秩序が実に多様な形態を生み出すという,あるいは,単純なルールが実に豊かな細部を生み出すという,そういうシステムを具体的に想定させてくれるのである。
景観についてフラクタル理論が直接応用可能であるかどうかはわからないが,一定のルールに基づいたかたちから実に多様なかたちが生み出される仕組み,ディテールから組み立てていく都市計画の手法を示唆するように思う。具体的に頭に浮かべているのはイスラーム都市の形成原理である[21]。
東京フロンティア
しかしそれにしても,東京の景観には手がつけようがないのではないか。それどころか,東京オリンピック2020を目指して建替えられる新国立競技場の設計計画建設のプロセスを見ていると,東京の景観という観点,都市景観をめぐる議論の平面すら成立していないように思えてくる。
国立競技場に隣接する東京体育館の設計者でもあり,すぐれた都市論の著作[22]もある世界的建築家,槇文彦(1928~)が「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」[23]を書いて逸早く問題を指摘したのは東京オリンピック2020の決定以前である。槇文彦は、敷地の歴史的,文化的コンテクスト(文脈)を重視する建築家として知られる。学位論文は「群造形(グループ・フォーム)」論であり,代官山集合住宅(ヒルサイドテラス)はその実践例として評価が高い。すなわち,建築単体だけではなく,その集合のかたちを重視する建築家である。
新国立競技場案として決定されたザハ・ハディド(1950~)[24]案は,その規模において都市景観の作法を全く無視したものであること,そしてまた,神宮外苑の歴史的文脈を度外視したものであることにおいて,受け入れられるものではない。もし東京に決まったら「新しいプログラム作りを提案したい」と先の文章は結ばれていた。
そして,実際に決まると具体的に行動に移され,日本を代表する建築家の組織である日本建築家協会(JIA)もそれを支持する。しかし,事態は見直しの方向には動いてはいかない。日本の景観問題の根がここでも浮彫りになっている。その敷地が東京の風致地区の第一号に指定された地区にあることを思えば,日本の「風景戦争」の象徴として末永く記憶されることになる。
新国立競技場の建設をめぐっては,東京の景観を問う以前に,国立競技場の建替えという決定すなわちその選地,規模,機能,維持管理,収支計画などプログラムの問題がある。そして,設計者と設計案の選定,設計競技のプロセスの問題がある。いずれにしても,超「超法規」が予め前提されたり,選定案が要件違反であったり,計画も設計競技の運営も杜撰であったと言うしかない。選定された設計案は惨めな姿に変更されつつある。
公共建築の設計者選定をめぐる問題については続いて述べるが,新国立競技場についても予め開かれた場での多面的な議論が必要だったのである。そして引き続き,東京オリンピック2020が東京に与えるインパクトについて考える必要がある。
上述のように,東京オリンピック1964を契機に東京の景観はがらっと変わった。では,東京オリンピック2020に向けて東京はどう変わっていけばいいのか。少なくとも,新国立競技場のザハ・ハディド案が象徴する方向には東京の未来はないのではないか。
1980年代末から1990年代初頭にかけてのバブル期にしきりに東京が議論された。
ひとつはレトロスペクティブな東京論,もうひとつはポストモダンの東京論,そして東京改造論,当時の東京論は,大きく3つに分けられる。
レトロスペクティブな東京論として,東京の過去をノスタルジックに振り返る構えをとった一群の書物がある。『東京の空間人類学』[25]がその代表であるが,東京にも緑や水がある,起伏に富んだ地形がある,自然と一体化してきた都市生活があった,・・・という素朴な発見が基礎にある。また,『明治の東京計画』[26],『日本近代都市計画史研究』[27]のように,近代都市東京がどのように成り立ってきたのかを明らかにする一連の著作がある。「古き良き」時代,戦前期の東京へのノスタルジーが通奏低音としてある。まずは,都市的生活がなりたった1920年代の東京への関心があり,明治期の東京,さらには江戸へとその関心は遡行する。『乱歩と東京』[28]は,近代都市東京成立期の光と影を析出した秀作である。
ポストモダンの東京論として,ひたすら現在の東京を愛であげる一群の書物があった。バブルへ向かって,東京は国際金融都市へ脱皮する,世界中から金融資本を集め,国際企業が進出することによってオフィスビルが足りなくなる。また,世界のどこかでマーケットが動くから24時間眠ることのない都市となる。そして実際,ポストモダン建築の跋扈によって都市景観は百花繚乱の狂騒に巻き込まれることになった。「いま,東京が世界中でもっとも面白い」というのが,ポストモダンの東京論のスローガンであった。
以上2つの東京論を支えていたのが東京改造論である。戦後まもなくの東京は,戦災によってほぼ壊滅状態,白紙状態であったから,半世紀足らずで,平面的にはほぼ建て詰まるに至ったのは驚くべきことであった。同じ大都市でも,一歩郊外に及ぶと截然と家並みが途絶えて美しい田園風景がひろがる欧米の都市に比べて,だらだらと住宅地が拡がるのが東京の郊外である。しかし,通勤時間を考えても,エネルギー供給,資源,食糧問題を考えても,東京の拡大には限界がある。東京は過飽和都市であり,その拡大のフロンティアの消滅が強く意識されたのが1980年代後半である。
東京改造のフロンティアは,いくつかの方向に求められた。まず,「空へ」である。都心を見ると,山手線内側の建物の平均階数はせいぜい3階であり,上空にはまだまだ容積がある。まず,ターゲットとされたのは,都心に残された未利用の公有地である。旧国鉄の用地が脚光を浴びた。そして,老朽化の進んだ下町にも触手は伸びた。こうした再開発の象徴はアークヒルズ,そして,淀橋浄水場跡地に移転された東京都新庁舎である。こうして東京の重心が移動していくことに対抗して丸の内「マンハッタン計画」が打ち上げられたのもこの頃のことである。アークヒルズに続いて六本木ヒルズ,そして虎ノ門ヒルズ,都心のビル開発を一貫して手がけてきているディベロッパーが森ビル株式会社である(図8)。強力な都市景観の形成者といっていい。
次に,「水辺(ウォーターフロント)へ」である。東京はもともと水辺,海辺の都市であり,水運に支えられて発展してきた。日本橋は,まさにその中心に架けられた橋であった。しかし,工業化の進展とともに,ウォーターフロントは,工場や発電所,港湾施設によって占められるようになった。人々や物資の移動は,鉄道など陸運が主となり,モータリゼーションの時代がやってきた。人々の生活が水との関わりを失っていったのは時代の流れであった。ところが,東京を支える産業構造は大きく転換する。第二次産業から第三次産業への転換である。都民の大半がサービス業に従事するようになるのである。それとともに,ウォーターフロントに立地してきた工場などが他に移転し始める。ターゲットになったのは,ウォーターフロントの工場跡地である。この産業構造の転換によるウォーターフロントの再開発は,東京に先んじて,世界の大都市で起こったことである。
さらに,「地下へ」というプロジェクトも打ち上げられた。東京のど真ん中に数十万人規模の地下都市をつくるというとてつもないプロジェクトも取り沙汰されたのである。
結局は,東京の自然,「古き良き」東京を回顧するレトロスペクティブな東京論も,ひたすら東京の現在を享受するポストモダンの東京論も,東京改造論に飲み込まれていったとみていい。そして,バブル経済が弾けた。「東京フロンティア」と名付けられた東京都市博覧会の中止が,その象徴的出来事となった。
そして,今,東京オリンピック2020開催に向けて,再び,東京のウォーターフロントが注目されつつある。フロンティアを求め続ける都市のあり方はもうそろそろ卒業していい。ましてや,東北大震災の復興という課題がある。
国立マンション
2020年の暮れ,東京都国立市の高層マンションの高さをめぐる訴訟で,東京地裁が住民の景観利益を認め,マンションの一部,20メートルを超える部分の撤去を命じた。これは画期的な判決と評価が高い。
僕は,京都に居を移す前は,国分寺の恋ヶ窪の近くに住んでいて,国立にはしばしば通った。今でも,国分寺には居宅があって時々寄るが,武蔵野には,まだまだ素晴らしい自然,景観が残されている。玉川上水沿いの自然がいい。とりわけ,桜の季節の並木道はえもいわれない。
玉川上水は,羽村から四谷大木戸までのおよそ40キロメートルが1653(承応2)年に開かれ,翌年江戸城まで暗渠で繋がれた江戸の上水道,生命線である。また,18世紀前半,武蔵野の新田開発のための灌漑用水としても用いられた。玉川上水は最終的に東京の改良水道完成で1901年廃止され,水路は1945年の淀橋浄水場廃止まで利用された。この玉川上水に,浄水処理をした下水が流されているが,清渓川再生にも通ずる試みである。
ところで,裁判の帰趨―すなわち高裁では地裁の判決が覆された―を知っていて書くわけではないが,上記の判決は,画期的ではあるが,予断を許さない,というのが直感であった。法的には様々な問題がある。例えば,建築基準法は条例に優先し,建築基準法を満たしていれば結局建築確認が行なわれるという事例は山ほどあるからである。
日本中のマンション紛争には,六〇年代末から七〇年代初頭に遡る前史がある。高層マンションが建つことによって隣接した土地に日影ができるというので,全国各地で紛争が頻発したのである。いわゆる「日照権」紛争である。
実は,この時争われていたのは,単に「日照」の問題ではなかった。今日の「景観」も「環境」もその係争のうちに既に含まれていたとみていい。
マンションが建つことによって,すなわち,新たな住民の加入によって,その近隣に様々な変化が起こるのは当然である。実際,日照のみならず騒音や塵問題など,様々に相隣関係が問題となった。身近な「環境」や景観が大きく変化することに,地域住民は異を唱えたのである。「日照権」という権利概念は,健康で文化的な生活を維持する権利として受け容れやすかった。そこで,日照権を盾に,近隣住民が工事着工を実力で阻止する事態が少なからず起こった。自治体ですら,合意形成に努めず着工を強行したマンション業者に上水道を連結しないといった事態も起きた。業者は相次いで訴訟を起こした。建築基準法を遵守している限り,業者の言い分が認められるのが法的には筋であった。
繰り返し述べるように,日本で建築に関わる最低限の規定は建築基準法である。これは,1919(大正8)年に制定された市街地建築物法を引き継いで,1950年に制定されて,改訂を重ねて今日に至る。複雑な規定が付加されてきたが,基本は,「用途地域(ゾーニング)」規制と「建蔽率(建築面積/敷地面積)」「容積率(ヴォリューム)」規制である。建築基準法を遵守していれば,いかように建造物を建てようと地権者の自由である。日本ほど建築の自由な国はないと言われる。
国は,頻発する日照権紛争に対処せざるを得ず,近隣住民の反発にも理があるという判断から,隣地に対して一定の日照を確保することを条件とする建築基準法の改定が行われることになった。設計者は複雑な計算を強いられ,日影図の作成を義務づけられることになったが,この条件をクリアさえしていれば,建設は認められることになった。一件落着である。
しかし,マンション問題は,上述のように,単に「日照問題」ではなかった。景観問題はその延長戦である。
国立のマンション訴訟の地裁判決は,「景観権」という新たな権利概念を認めたわけではない。判決文は,次のように言う。
「都市景観による付加価値は,・・・当該地域内の地建者らが,地権者相互の十分な理解と結束及び自己犠牲を伴う長期間の継続的な努力によって自ら作り出し,自らこれを享受するところにその特殊性がある。そして,このような都市景観による付加価値を維持するためには,当該地域内の地建者全員が前期の基準を遵守する必要があり,仮に,地建者らの一人でもその基準を逸脱した建築物を建築して自己の利益を追求する土地利用に走ったならば,それまで統一的に構成されてきた当該景観は直ちに破壊され,他の全ての地建者らの前記の付加価値が奪われかねないという関係にあるから,当該地域内の地建者らは,自らの財産権の自由な行使を自制する負担を負う反面,他の地建者に対して,同様の負担を求めることができなくてはならない」
すなわち,財産権への付加価値として都市景観の維持が認められているのである。また,地権者の一致した継続的な努力と自己犠牲が評価されているのである。
国立市には長年にわたって街の環境を維持してきた歴史がある。大学通りへの歩道橋設置についても大きな議論が巻き起こったが,車椅子の障害者や子どもでも渡れるものとすることで折り合いをつけてきた経験もあり,そうした住民との協調関係を基礎にこのマンション計画に対して,新たに地区計画,建築制限を制定した経緯があった。国立が先進的であったのは,相次いで訴訟が行われ,景観権,環境権をめぐって法的概念が争われ,鍛えられてきたからである。
しかし,景観や環境が財産権の付加価値としてのみ問題にされる限り,行き着く先は見えていると言わねばならない。以下に,京都府宇治での僕の経験を記すが,至るところで同じような問題があるのである。
メガ・アーバニゼーション:東京一極集中
国立のマンション訴訟の地裁判決が出された2002年の12月,オランダのライデン大学で開かれた「アジアのメガ・アーバニゼーション-都市変化の指揮者(ディレクター)」と題された国際シンポジウムに招かれ出掛けた。ライデンの運河が凍るほど寒かった記憶が残る。
インドネシアの都市研究で知り合った長年の知己,人類学教室のP.ナスが,アジアの大都市をとりあげて,その変化を主導している指揮者は誰かをめぐって,比較のために東京について報告して欲しい,という。ジャカルタにとってのスハルト・ファミリー,クアラルンプールのマハティールといった,強大な権力を握って都市の行方に影響力をもった特定の個人が想定されているらしかったが,大都市をひとりの指揮者が変化させるというのはピンと来ない。しかし,あるヴィジョンとそれを支える制度が都市の方向を決めるということはある。少し考えて,「未完の東京プロジェクト-破局か再生か-」と題した報告を行った。本になったときには,「東京:投企屋と建設業者の楽園」[29]というタイトルになった。内容そのままである。
しかしそれにしても,地球規模の都市化の流れは止まらない。先進諸国と発展途上国の経済発展の従属的構造はプライメイト・シティ[30](単一支配型都市)を生んできたが,現在ではそのプライメイト・シティがアメーバのようにずるずると農村部を巻き込んでさらに巨大化しつつある。携帯電話とオートバイの普及がその要因とされるが,地方都市と大都市が緊密につながり広大な都市圏が形成される。拡大大都市圏[31]と言われるが,例えばヴェトナムではハノイ,ホーチミン周辺,マレーシアではシンガポールからクアラルンプールまで,インドネシアでは先に触れたジャボタペック圏がそうなりつつある。とてもひとりのディレクターがコントロールできるという話ではない。
一方,日本が人口縮小社会に向かっていくことははっきりしている。その大きなうねりの中で益々加速しながら進行しているのが東京一極集中である。
改革を掲げた小泉内閣の5年間(2001~06),バブル経済崩壊後の「空白の十年」を取り戻すべく,都市再生本部が設けられた。総合設計制度など次々と規制緩和策が打ち出されて,地方都市(宇治市)の都市計画審議会としては実に困った。ぼんやりしていると,地方にはそぐわない規制緩和が自動的に行われてしまうのである。切実なのは地域再生であって,東京一極集中の是正である。
新幹線で上京すると,品川から東京駅にかけて,工事用のクレーンがにょきにょき建っているのに違和感をもった。地方の不況が嘘のようなのである。都市再生緊急整備地域に指定されているのだという。都市再生とは,すなわち,経済活性化であり,そのための構造改革であり,規制緩和である。具体的には,土地の流動化である。
東京には景観問題などないといえるのではないかというのは,容積のみをお金に換算し,その流動化を計ることのみが原理とされていることにおいてである。景観とは「土地の姿」に関わる概念であり,土地が流動化する事態など想定外なのである。
当時の都市再生施策の象徴が,IT(情報技術)長者が蝟集する六本木ヒルズであった。近くの国際文化会館の庭から見ると,六本木ヒルズが実に威圧的に迫ってくる。開発圧力に抗して,保存再生された国際文化会館こそ,都市再生のモデルに相応しい。2007年,日本建築学会は国際文化会館の再生事業に業績賞を送った。
ライデン大学のシンポジウムで僕の発表を聞いたコメンテーターのひとりは,アムステルダムなどヨーロッパの都市は既に完成してしまっているという。暗に,ヨーロッパの都市は日々変化していく活力に欠けて面白みがない,といニュアンスである。確かに,ヨーロッパの都市は,それぞれに完成している趣がある。多くの都市が,第二次世界大戦時に大きな戦災を受けたけれど,歴史的街並みを取り戻している。かつての姿にそのまま復元されたプラハのよう都市もある。
東京には完成ということはあるのであろうか。あるいは,東京の滅亡(死)ということがあるであろうか。無限に拡大し続ける都市があるわけはない。水や電気,ガスなどのエネルギー・資源供給の問題を考えても容易にわかる。また,古来,存続してきた都市は,世界を見渡しても,そう多くはないのである。拡大成長を続ける都市かコンパクト・シティか,スクラップ・アンド・ビルド都市かリサイクル都市か,議論は白熱することになった。
東京の景観形成の歴史を振り返ると,建てては壊しの歴史である。戊辰戦争,関東大震災,太平洋戦争という震災,戦災が決定的であるが,1960年代の高度成長期,そして,1980年代後半のバブル期の建設ラッシュは,戦災にも匹敵する。そして,経済活性化のためにさらに再開発を求める。果てしなく建設と破壊を繰り返すだけの東京に果たして未来はあるのであろうか,という疑問の提出が僕の報告の趣旨であった。
東京は,結局,どうあればいいのか,どういう方向へ向かうのかが景観問題の根底で問われ続けている。東京オリンピック2020開催へ向けての高揚そして狂騒が予想される中でも,否,だからこそ東京と日本の未来の景観をめぐる議論は棚上げにはできないのである。
[1] 大和ハウス工業株式会社が,戦後のベビーブームの子どもたちのための勉強部屋として開発し,1959年に発売した。プレハブ住宅の原点とされ,国立科学博物館の重要科学技術史資料として登録されている。
[2]工部大学校造家学科卒業。ジョサイア・コンドルに学ぶ。5歳年上の辰野金吾ら4人の一期生が卒業するのが翌年であり,日本の近代建築の草創期の建築家のひとりである。東京府に勤務後,議院(国会議事堂)建設のための組織である(内閣)臨時建築局に勤めた。日本の官庁建築家の先駆である。主な現存する作品に他に日本勧業銀行(1899,現千葉トヨペット),横浜正金銀行本店(1904,現神奈川県立歴史博物館),山口県庁舎(1916)などがある。
[3] 拙稿「Mr.建築家-前川國男というラディカリズム」(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー-建築の昭和-』所収)参照。
[4] 公共の利用に開放した空地(公開空地)を設ければ,容積率(延床面積/敷地面積)や高さの規定などを緩和するという制度。1970年に創設され,建築基準法第59条の2に規定されている。具体的にどういう条件でどこまで緩和を認めるかは,それぞれの許可権限を持つ特定行政庁で基準を定めている。
[5] 日本では全ての建築物(十平米未満のものを除く)の建設に際して建築確認の届出が必要とされる。各自治体に設けられた建築主事が統括する部署(建築課,土木事務所など)が届出を建築基準法等法令に照らして適合しているかどうか確認する。確認されれば建設が可能となる。わが国では自治体に建設の許可・不許可の権限を与える許可制をとっていない。
[6] 天皇機関説で著名な美濃部達吉の長男。東京。東京帝国大学経済学部卒業。大内兵衛に師事したマルクス主義経済学者として知られる。1967年より3期12年,東京都知事を務めた。公害防止条例制定,老人医療の無料化,公営ギャンブル廃止,都電廃止,歩行者天国の実施など。『独裁制下のドイツ』『苦悩するデモクラシー』など。
[7] 曽禰達蔵(1853~1937)。工部大学校造家学科卒業,辰野金吾ら第一期生4人の一人。三菱オフィス街の基礎をつくった。
[8] 中條精一郎(1868~1963)。東京帝国大学造家学科卒業。日本郵船ビル,明治屋ビル,講談社ビルなど曽禰達蔵とともに都市事務所ビルの設計によって,都市景観の創出に大きな役割を果たした。慶応技術大学図書館(1912)は重要文化財。長女は宮本百合子である。
[9] 建築構造学。東京帝国大学建築学科卒業。安田講堂など京大キャンパス内の建築を多く手掛ける。1943年に第14代東京帝国大学総長に就任(1945年12月),学徒出陣を命じている。
[10] Lombard Street。ロンドンの金融街いわゆるシティThe
Cityにある英国銀行から東へ300mほどの通り。十三世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放した後から北イタリア,ロンバルディア商人が移住し,貿易とからめ両替・為替業を営んだことに由来する。
[11] 市区改正とは今日でいう都市計画(あるいは都市改造事業)のことである。都市計画Town Planningという言葉もそう古いわけではない。ロバート・ホーム(『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』布野修司+安藤正雄監訳アジア都市建築研究会,京都大学学術出版会,2001年)によれば,英国で最初に用いられたのは1906年であり,少し先駆けてオーストラリアで活躍した建築家J.サルマンの「都市の配置Laying out of the City」(1890)が都市計画の最初の論文だという。日本では大正期に入ると都市計画という用語が一般的に用いられはじめ,大正8(1919)年に都市計画法が成立する。
[12] 富山県福野町の出身。東京帝国大学建築学科卒業。逓信省営繕課に勤務,官庁建築家として活躍。逓信省には一年先輩の日本分離派建築会の山田守もいた。ブルーノ・タウトは吉田の設計した東京中央郵便局を,モダニズムの傑作と讃えた。大阪中央郵便局も吉田の手になる。戦後は日本大学で教鞭をとった。『Das Japanische Wohnhaus』(1935年)『Japanesche Architektur』(1952年)『Der
japanische Garten』(1957年)などドイツ語の著作でヨーロッパに知られる。
[13] 1625?~1697年。南蛮人(イタリア人)と日本人との混血として生まれ,海禁政策によってバタビアに追放された女性。バタヴィアから日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」で知られる。バタビアでオランダ東インド会社の吏員と結婚,三男四女を儲け,夫に死後の裁判沙汰でオランダにも渡っている。白石弘子(2001)『じゃがたらお春の消息』勉誠出版年,L.ブリュッセ(1988)『おてんばコルネリアの闘い』栗原
福也訳,平凡社など。
[14] 江戸は人口百万人の都市であったが,その面積は広大であり,周辺部では農村的生活が行われていた。このような都市の形態は,城壁のない都市は都市ではないとする西欧世界の都市像に相対するものとして「巨大な村落」と呼ばれる。「巨大な村落」としての東京論に,例えば川添登(1979)『東京の原風景』NHKブックスがある。江戸は百万人の都市であったが,その面積は広大であり,周辺部では農村的生活が行なわれていた。「巨大な村落」と規定した東京論に,例えば,発展途上国の大都市の居住地はしばしば「都市村落urban Village」と呼ばれる。アジアの都市と西欧の都市の違いを指摘して「巨大な村落」という言葉が使われる。
[15] 布野修司(1991)『カンポンの世界』パルコ出版
[16] 芦原義信著(1994)『東京の美学―混沌と秩序―』岩波新書
[17] 東京帝国大学工学部建築学科卒業。坂倉準三建築設計事務所,ハーバード大学留学,マルセル・ブロイヤーの事務所を経て帰国後芦原建築設計研究所を開設。法政大学,武蔵野美術大学を経て東京大学教授(1970~79)。代表作にオリンピック駒沢体育館(1964),国立歴史民俗博物館(1980)、ソニービル(1966),東京芸術劇場(1990)など。
[18] 日本近代を代表する建築家。藤森照信(2003)『丹下健三』新建築社がその全軌跡をまとめている。
[19] 芦原義信著(1979)『街並みの美学』岩波書店。芦原義信著(1983)『続・街並みの美学』岩波書店。
[20] フラクタルという概念を提唱したのはブノア・マンデルブロート(1924~2010)である。数学的には,で定義される複素数列{zn}n∈Nがn→∞の極限で無限大に発散しない条件を満たす複素数c全体が作る集合をマンデルブロ集合という。
[21] 『ムガル都市-イスラーム都市の空間変容-』(布野修司・山根周(2008))
[22] 東京大学建築学科卒業,ハーバード大学大学院終了。東京大学教授(1979~89)。作品に「名古屋大学豊田講堂」「代官山集合住宅(ヒルサイドテラス)」「幕張メッセ」など。プリツカー賞(1993),UIA(世界建築家協会)ゴールドメダル(1993),高松宮殿下記念世界文化賞(1999),日本建築学会賞大賞(2001),AIA(米国建築家協会)ゴールドメダル(2010),日本芸術院賞・恩賜賞,文化功労者。著書に『見えがくれする都市―江戸から東京へ』SD選書(1980)など。
[23] 日本建築家協会『建築家』JIA Magazine,2013年8月
[24] Zaha Hadid。イラク,バグダード生れ。AAスクールで学び,レム・コールハースのOMA勤務。英国在住の女流建築家。デコンストラクション(脱構築)の建築の旗手として,新規な形態の建築を次々に手掛ける。近年の作品に「広州大劇院」「リバーサイド博物館」「アクアティス・センター」など。
[25] 陣内秀信(1985)『東京の空間人類学』筑摩書房
[26] 藤森照信(1982)『明治の東京計画』岩波書店
[27] 石田頼房(1987)『日本近代都市計画史研究』柏書房
[28] 松山巌(1984)『乱歩と東京』パルコ出版。
[29] Shuji Funo:
[30] Primate City。一定の地域において圧倒的な人口規模をもつ大都市をいう。首座都市とも訳される。東南アジアでは,フィリピンのマニラ,タイのバンコク,ジャワのジャカルタなど。
[31] Extended Metropolitan Region
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