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2021年3月29日月曜日

現代建築家批評15 建築をつくることは未来をつくること 山本理顕の設計手法

 現代建築家批評15 『建築ジャーナル』20083月号

現代建築家批評15 メディアの中の建築家たち


建築をつくることは未来をつくること

山本理顕の設計手法

 

 山本理顕は、徹頭徹尾、理論家である。そして、社会と空間のラショナルなあり方を問うことにおいて鋭い社会批評家でもある。少なくとも、単なる建築家、建築批評家ではない。例えば、磯崎新や伊東豊雄のように、世界の建築界の動向を見極めながら自らの位置を定めるといった構えはない。建築を媒介としながら社会的空間の編成について提案する、まさに「社会建築家」と言えるかもしれない。

 しかし、その理論が理論だけに終始するだけなのであるとしたら、大きな影響力は持ち得ないことははっきりしている。具体的な建築を現実に実現してみせるから、迫力があるのである。

山本理顕の住居論、建築論は、しかし、はっきり言って、「表現論」を欠いている。空間システム、構工法システムの追求がその設計方法のベースにある。弱点と言えば弱点と言えるが、だからといって、山本理顕の建築表現に力がないかというとそうではない。その理論に耳を傾けさせる基底には表現力がある。そして、その基底にあるのは、次のような深い問いである。

 「私の表現に対する思い入れは、どんなかたちで“私”を超えることができるのか。多少でも普遍性を獲得し得る可能性があるものなのか、あるいは“私”の内部だけに封じ込められるものなのか。表現に対する語り口は“私”にのみ固有の思い入れ、つまり“私”の固有性をどう超えることができるのか。その部分を突破しないかぎり、どんな表現に対する語り口も“私”以外の人々には、まったく効力を持たないと思えるからなのである。つまり、私の表現はどう共感されるのか。その仕組みは、どうなっているのか。そこを明瞭にしない限り、表現については何も語り得ないはずなのである。」[i]

 

 技術という記憶が埋め込まれた素材

「素材」が手がかりとなるのではないかと、上の問いに対して山本理顕は考える。初期の住宅作品群が「精神分裂」(渡辺豊和)と評されたことには前に触れたが、建築を始めたばかりの試行錯誤を、「「表現」の論理と「観察」の論理はまったく別ものなのだ、などと逃げまくらないで、どこかに接点が見つけられるんじゃないか。素材というものの解釈が「表現」に接近するための切り口になりそうに思えた」と素直に振り返っている[ii]

例えば「藤井邸」。鉄筋コンクリート造の上に軽い鉄骨造を載せるつもりが木造となった。僕はL.カーンのある作品を思い浮かべたけれど、木造は本意ではなかったらしい。木という素材を柱梁として用いただけで、「和風」に見えて驚いた。これは木の性能に基づくのではなく、木造が担ってきた歴史性、私たちの「記憶」に基づくのではないか。

木造については、その性能を突き詰める方向も見てみた域がするが、以降、残念ながら、掘り下げられてはいない。鉄とガラスとコンクリート、すなわち近代建築を支えてきた工業材料を前提として、「GAZEBO」「ROTUNDA」「HAMLET」、そして「保田窪第一団地」において、あるスタイルを確立したように見える。

鍵は、「屋根(ルーフ)」である。

GAZEBO」にしても曲率の緩やかなヴォールト屋根がなければ、「図式」だけの建築に留まったかもしれない。もちろん、山本理顕は「屋根」だけに拘ってきたわけではない。むしろ、端正なグリッド構成、ラーメン構造、鉄のディテールを研ぎ澄ませてきた。ポストモダニズム建築の跋扈の後、山本理顕をネオ・モダニズムの旗手にのしあげたのはその研ぎ澄まされたその構造システムとディテールである。

 しかし、その後「アルミプロジェクト」(2004)はその延長として理解できるにしても、「工学院大学八王子キャンパス・スチューデント・センター設計プロポーザル(案)」(2005)「N研究所」(2008)「城下町ホール(仮称)」(2009)になると、いささか異なった展開が見える。これまでの方針は揺れだしたのであろうか、新たな境地を見出しつつあるのであろうか[iii]

 

 仮設としてのシステムズ・ストラクチュア

 山本理顕の最初の公共建築は、実は、横浜博覧会の「高島町ゲート」(1986)である。「私は自分のつくったものを見て、美しいとか凄いとか思ったことは、それまで一度もなかったけれども、この建築のようなオブジェのような現象のような出来事のようなものを見て、掛け値なしにそれを美しいと思った」[iv]という。

 「高島町ゲート」を見て、僕も実に美しいと思った。

60.5mφの足場用の仮設パイプ材を組み合わせて、28mの高さの塔を40本建てた。28mの高さの塔をつくるための部材としては、余りにも脆弱でぐらぐらするので相互に塔を結びつけて全体がスーパーラーメンになるような構造にした。限られた種類の部材、大量に造られ、一般的に使われている部品でかくも豊かな表現が可能になる。石山修武のコルゲート・パイプによる作品にも相通ずるが、よりシンプルなグリッド(柱梁)構造である。山本理顕の「システムズ・ストラクチュア」[v]の原型は、「高島町ゲート」だと思う。

 「岩出山中学校」(1996)「埼玉県立大学」(1999)「広島市西消防署」(2000)「公立はこだて未来大学」(2000)には、鉄骨、プレキャストコンクリート(PC)による一貫して単純なラーメン・グリッドの追求がある。山本理顕が戦後モダニズムの正当な継承者だというのは、まず、このシステムズ・ストラクチュアとそのディテールの追求を根拠としている。ローコストを目指して工業化構法を追求した精神と共通するものがある。

 「GAZEBO」「ROTUNDA」「HAMLET」におけるスティールの既成の丸パイプを使ったディテールの追求に既にその片鱗が見られるが、19世紀の工業製品とかヴィオレ・ル・デュクを参照したというのも興味深い。『システムズ・ストラクチュアのディテール』における伊東豊雄との対談が二人のシステムに対するスタンスの違いを示して興味深いが、伊東が「HAMLET」を「バラック」と評するのが案外的を得ているように思える。バラックという言葉も様々なコノテーションをもつが、「戦場に仮設的に設けられる兵舎」という原義、すなわち、仮設性という点では「高島町ゲート」に通ずる。「邑楽町役場」で提案されたのも、50mmの角パイプを使ったほとんど仮設建築といっていい工法である。

 バブルが弾けた以降、徹底したローコストの追求、工期短縮・・・が要求された。山本理顕のバラック建築の洗練は時代と見事に照応したのである。

 山本理顕にとっての一貫する課題は、「システムが表現に転換する時」[vi]である。

 

 仮説としての制度・施設・空間

 「建築は仮説に基づいてできている」[vii]と山本理顕はいう。「ポストモダンなのかモダニズムなのかデコンストラクティビズムなのか」といっても、新聞の文化欄で話題になっても、一般人にとって日常の生活とは遠く離れた話だ。「形ばっかりで、中身のことなんか何にも考えてない」のが建築家であり、「形なんかどうだっていいのよ、中身が大切なんだから」というのが多くの人たちである。しかし、「建築の“中身”って何?」と山本理顕はラディカルに問う。

 仮説にすぎないじゃないか。

 「住宅擬態論」は既に見たが、「住宅というビルディング・タイプは家族という仮説に基づいてできている」というテーゼは、全てのビルディング・タイプ、公共施設に拡大適用しうる。 学校、図書館、病院、福祉施設、美術館、博物館、劇場・・・全て仮説としての制度によって規定されている。そして、空間の配列がその制度を裏打ちしている。

 「建築は制度に則ってできている。制度の忠実な反映が建築である。ひとつひとつの建築だけではなくて、身近な環境から都市環境まで含めて、およそ、私たちの周辺環境はいわば制度そのものである、という認識は、もはや多くの私たちの常識である。」[viii]

 冒頭に触れたように、公共建築の設計計画をテーマとしてきた「建築計画学」の研究室に所属したことで、制度=施設として予めあり得てしまっている空間の調査を基に設計計画の方法を組み立てることの問題点について否応なく考えてきた。「制度と空間―建売住宅文化考―」[ix]という文章はそうした論考である。 例えば、教育施設について、「ノングレーディング(無学年制)」「チーム・ティーチング」などをうたう「オープンスクール」の出現を前にして、戦後「建築計画学」がやってきたことは一体何だったのかと随分考えた。I.イリイチの『脱学校社会(ディスクーリング・ソサエティ)』、M.フーコーの『臨床医学の誕生』『監獄の誕生』、ハーバーマスの『公共性の構造転換』などが必読書であった。「建築計画学」批判が僕の出発点である。

 山本理顕の「建築は仮説に基づいてできている」は、「建築計画学」批判として実に説得力がある。しかも、建築家を鼓舞するように、制度=空間という常識を「仮説」と言い切る。そして、「制度はそんなに強固ではない」という。

「もし建築が制度の単純な反映でしかないなら、建築の設計者というのは制度を空間に変換する単なる自動筆記機械のようなものである。制度を空間に翻訳する翻訳技術者である。」[x]

 

 地域社会に固有な建築類型

山本理顕の設計手法は、以上のように、予め、身近な全ての空間に、そして既に見たように都市へと適用可能である。というより、空間の成立、空間の編成そのものが、すなわち、建築のプログラムの設定そのものが出発点となる。

近代的な諸施設がそれぞれ「ひとつのビルディング・タイプとして整備されるのはつい最近、日本が近代国家として整備される時期である」。そして、「国家のシステムから日常の生活、地域社会との関係として再整備されるのは、ようやく戦後になってからである」。「国家というシステムから地域社会へという理念を敷衍するための装置が建築だった」。

実に的確な状況認識である。

現在、日本の地域社会は危機的な状況にある。子どもたちが戸外で遊べない、「限界集落」がここそこに出現する。地域社会の崩壊は覆うべくもない。そして公共施設、地域施設のあり方は大きく揺らいでいる。少子高齢社会の到来によって、これまでの施設体系、空間編成の破綻は誰の眼にも明らかになりつつある。小学校・中学校といった教育施設が余り、高齢者のための施設がより必要になるのは当然である。加えて市町村合併がある。山本理顕は、そうした問題を遙かに深いレヴェルで見通していたのである。

日本建築学会の建築計画委員会―僕がその委員長を務める(2006-2009)のは歴史の皮肉だろうか―が「公共施設の再編成と更新のための計画技術」と題した設計競技(2008)を行ったのは、遅きに失していると言わざるをえないが、既に様々な試みが為されていることが明らかになったことは、山本理顕の建築家としての構えの先駆性と正統性を改めて証すことになった。

山本理顕は、「地域社会に固有なビルディング・タイプを本気で考案する必要がある」という。「問題なのは全国画一地域社会であり、そのための日本全国画一ビルディング・タイプである」ことははっきりしているのである。

 

つくりながら考える 使いながらつくる

どうすれば、新たなビルディング・タイプを発見することができるか、あるいは考案することができるか。出発点となるのは、現場(フィールド)である。現場から組み立てる方法がそこでは問われる。手前味噌であるが、アジアの諸都市についての都市組織(Urban TissuesUrban Fabric)研究、あるいは「ティポロジア」研究は、「地域に固有な」「都市組織」「建築類型」を発見するのが目的である。

山本理顕は、『つくりながら考える、使いながらつくる』[xi]という。内田祥哉先生の『造ったり考えたり』[xii]を思い出したが、「つくりながら考える」であり、「使いながらつくる」というところに新たな位相がある。そして、「プロセスが既に建築である」と言い切る。

プロトタイプか、プロセスか。「雑居ビルの上の住居」「岡山の家」「保田窪団地」のような「プロトタイプ」の提示の位相と展開はどう異なるのか。

『つくりながら考える/使いながらつくる』は、プロセスをそのまま本にするユニークな本である。「邑楽町役場庁舎」「公立はこだて未来大学」「横須賀美術館」「東雲キャナルコートCODAN」などの設計プロセスの一端が記されている。スタッフとの本音のやり取りの中で、次のようにいう。

20世紀の建築家たちは常にプロトタイプを目指したように見える。ドミノとかユニバーサル。スペースというプロトタイプを考える。・・・プロトタイプがないとしたら、その都度決定するにはどうしたらいいかという話になるわけでしょう・・・そのときにはじめて住民と呼んでいいのか分からないけど、その建築の当事者が登場するチャンスがあるんだと思う。・・・「住民」という言葉があやしんじゃないの。「住民」って、すごく抽象化されていて誰だかわからない。・・・」

ここでも山本理顕は原理的である。

設計プロセスを論理化すること、その決定プロセスを可能な限りオープンにすることは、逸早く、C.アレグザンダーが提起したテーマである。僕の卒業論文がC.アレグザンダーであったことは既に書いた[xiii]。山本理顕は、そのパタン・ランゲージ論を批判的に総括する。C.アレグザンダーの場合、パターンが余りにも普遍的に想定されているのである。

公共建築の設計計画、あるいはまちづくりにおいて、「住民参加」の手法として「ワークショップ」方式試みられるようになりつつある。しかし、システムを決定する主体とは誰か。山本理顕は「主体性」をめぐって繰り返し問うている[xiv]。「純粋空間」と「生活空間」、「身体感覚」と「共通感覚」、「個人作業」と「共同作業」、「共感される空間」・・・等々をめぐって真摯な思考が積み重ねられている。

「邑楽町役場庁舎」コンペ(原広司審査委員長)は、まさに「プロセスが建築である」ということを具体的に問い確認するものとなった。全ての過程をオープンにしたということは画期的なことであった。そして、「提案は他者のさまざまな見解を受け入れることができるシステムをもっていなくてはならない」「システムの誘起する建築の実現はなんらかの新しい美学に支えられること」という応募条件、評価基準は、山本理顕が考え続けてきているテーマであった。

 

 未来をつくること

 プロトタイプかプロセスか。誰が何を決定するのか。

「邑楽町役場庁舎」の不幸な経緯について、詳細に検討する余裕はここではない。山本理顕設計工場のオフィシャル・サイト[xv]、日本建築学会でのシンポジウム(2007316日)などの報告などに譲りたい[xvi]

 一般的に「住民参加」というけれど、意志決定をめぐる制度的枠組みには大きな壁がある。常に新たな形態を生み出すシステムを支える社会システム(法・制度)が問題なのである。

しかし、「常に新たな形態を生み出すシステム」は、別の次元で問題に出来る。誰がそのシステムを提案するのか、については、山本理顕の答えははっきりしている。システムを提案できるのが「建築家」なのである。「建築家」は、単なる「調停者」ではないのである。

山本理顕の眼は、日本の建築界全体へ、建築社会システム全体へ、日本の建築景観の全体に注がれ始めている。2007年から2008年にかけて、山本理顕は、国土交通省の「(仮称)建築・まちなみ景観形成ガイドライン」検討委員会[xvii]の座長を務めた。僕の「タウンアーキテクト(コミュニティ・アーキテクト)」論を知っていて、僕も委員に招かれた。その行方は日本版CABE[xviii]の展開を含めて、僕自身多大な興味を持っている。

山本理顕は、東洋大学以降、数々の大学で非常勤講師を務めてきている。1989年から2年間、上田篤に招かれて、高松伸とともに助教授を務めている。若い学生を教えること、というより、若者と一緒に考えることに山本理顕は、かねてから極めて熱心である。

Y-GSA(横浜国立大学大学院・建築都市スクール)に移って出したのが、『建築をつくることは未来をつくることである』[xix]である。



[i] 「私的建築計画学」、(原題「設計作業日誌7788―私的建築計画学として」『建築文化』19888月号)

[ii] 同上。

[iii] 山本理顕の主要作品。1986年 GAZEBO1987年 ROTUNDA1988年 HAMLET 1991年 熊本県営保田窪第一団地/199294年 緑園都市計画 /1996年 岩出山中学校1997年 横浜市下和泉地区センター・下和泉地域ケアプラザ /1999年 埼玉県立大学2000年 公立はこだて未来大学 2000年 広島市西消防署 2000年 横浜市営住宅三ツ境ハイツ /2001年 東京ウェルズテクニカルセンター/2002年 Dクリニック/2003年 東雲キャナルコートCODAN1街区/2003年 北京建外SOHO2004年 アルミ住宅プロジェクト/2005年 公立はこだて未来大学研究棟 /2007年 横須賀美術館

[iv] 「細胞都市」

[v] 『システムズ・ストラクチュアのディテール』、彰国社、2001

[vi] GAJapan7620059-10月号

[vii] 『現代の世相1 色と欲』(小学館、1996年)所収。

[viii] 「建築は隔離施設か」、『新建築』、19972月号

[ix] 『見える家と見えない家』、叢書「文化の現在」3、岩波書店、1981年。『スラムとウサギ小屋』(青弓社、1985年)所収。

[x] 「建築は隔離施設か」『新建築』199712月号

[xi] 山本理顕+山本理顕設計工場、TOTO出版、2003

[xii] 内田先生の本刊行委員会、1986年。

[xiii] 拙稿、「現代建築家批評 メディアの中の建築家たち 承前 02 誰もが建築家でありうる ポストモダン以後     ・・・建築家の生き延びる道02」、20082月号。

[xiv] 「計画する側の主体性が問われている」『建築文化』19966月号。「主体性をめぐるノート」『新建築』199911月号。「主体性をめぐるノート2」『新建築』20009月号。

[xv]  http://www.riken-yamamoto.co.jp/sitefolder/ryTopJ.html

[xvi] 「活動レポート 公共事業と設計者選定のあり方-「邑楽町役場庁舎等設計者選定住民参加型設計提案競技」を中心として-」『建築雑誌』(20076月号)

[xvii] 山本理顕委員(座長)、布野の他、岡部明子、木下庸子、工藤和美、宗田好史、蔀健夫、荒牧澄多。

[xviii] 英国のデザイン・レビュー・システム。Committee of Architecture and Built Environment.

[xix] TOTO出版、2007

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