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2021年3月17日水曜日

現代建築家批評03 メディアの中の建築家たち   タウンアーキテクトの可能性 ポストモダン以後 ・・・建築家の生き延びる道03

 現代建築家批評03 『建築ジャーナル』20083月号

現代建築家批評03 メディアの中の建築家たち 


 タウンアーキテクトの可能性

ポストモダン以後 ・・・建築家の生き延びる道03

 

 『建築文化』の「近代の呪縛に放て」のシリーズで宮内康に出会った(1975年)。当時学生たちに最も読まれた評論集である『怨恨のユートピア』(1972年)の著者であり、憧れの存在であった。そして、研究室(吉武・鈴木研究室)の先輩でもあった。

『怨恨のユートピア』は、「序」に「「建築」から「建造物」へ」(「建造物宣言」)という。そして、冒頭に「変質する建築家像―戦後建築運動史ノート―」を置いて、「建築家」のあり方をラディカルに問うている。そして、「遊戯的建築の成立」など、建築の豊かな世界を予感させる多くの文章が収められていた。

出会いをきっかけとして、同時代建築研究会(当初、昭和建築研究会と称した)を設立することになった(197612月)。設立メンバーは、宮内康、堀川勉、布野修司である。浜田洋介ら宮内康が主宰するAURA設計工房のメンバー、弘実和昭など東京理科大学の教え子たち、「雛芥子」から千葉正継、そして「コンペイトウ」の井出建、松山巌が加わった。

 この同時代建築研究会は、『同時代建築通信』というガリ版刷りの通信を出し続けるが(19831990年)、1992103日の宮内康の死(享年55歳)によって活動を停止する。宮内の後半生は、東京理科大学を解雇された、その不当性をめぐる裁判闘争の日々であった。その記録は『風景を撃て』(相模書房、1976年)にまとめられている。そして、『怨恨のユートピア』を含めて、その全評論をまとめたのが『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年)である。昨年、「前川國男展」(2005-2006年)が青森で開かれた縁で、「君は宮内康を知っているか? 怨恨のユートピアー宮内康の居る場所ー」という文章(『Ahaus0520073月)を書く機会があった。彼は七戸に多くの作品を残しているのである。

 同時代建築研究会は二冊の本を世に問うた。ひとつは『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』(現代企画室、1981年)であり、もうひとつが『ワードマップ 現代建築』(新曜社、1993年)であった。

「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」

『ワードマップ 現代建築』の終章で「現代建築家」という文章を書いた。冒頭、チャールズ・ネヴィット編の『パースペクティブズ』(Charles Knevitt, “Perspectives An Anthology of 1001 Architectural Quotations”, Bovis, 1986)を引いて、建築家の定義を列挙した。このチャールズ・ネヴィットは、前述(022月号)の『コミュニティ・アーキテクチャー』の共著者でもある。

 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」(ヴィトルヴィウス『建築十書』第一書第一章)。

 という格調高い引用に続いてあるのが、アンブローズ・ビアズ『悪魔の辞典』の「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」である。

 全部引用したいが、いくつか採録すれば以下のようだ。

 「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、建築家ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン

 「建築について知っている建築家はほとんどいない。五〇〇年もの間、建築はまがいものであり続けている。」 フランク・ロイド・ライト

 「エンジニアと積算士(クオンティティー・サーベイヤー)が美学をめぐって議論し、建築家がクレーンの操作を研究する時、われわれは正しい道に居る」 オブアラップ卿

 「建築家も医者や弁護士と同様色々である。いいのもいれば、悪いのもいる。ただ、不幸なことに、建築の場合、失敗がおのずと見えてしまう。」 ピーター・シェパード

 「建築家は、社会の、様式の、習俗の、習慣の、要求の、時代の僕である。」「建築家の人生は四五に始まる」 フィリップ・ジョンソン

 続いて、『アーキテクト』(R.K.ルイス 六鹿正治訳 鹿島出版会)を引いた。その最後に、建築家のタイプが列挙してある。

 

 名門建築家:エリート建築家/ 毛並がいい

 芸能人的建築家:態度や外見で判断される/派手派手しい

 プリマ・ドンナ型建築家: 傲慢で横柄/尊大

 知性派建築家:ことば好き/思想・概念・歴史・理論 

 評論家型建築家自称知識人流行追随

 現実派建築家実務家技術家

 真面目一徹型建築家:融通がきかない 

 コツコツ努力型建築家:ルーティンワーク向き

 ソーシャル・ワーカー型建築家:福祉/ボトムアップ/ユーザー参加

 空想家型建築家:絵に描いた餅派

 マネジャー型建築家:運営管理組織

 起業家型建築家:金儲け

 やり手型建築家:セールスマン

 加入好き建築家:政治/サロン

 詩人・建築家型建築家:哲学者/導師

 ルネサンス人的建築家

 

 建築家の一般的イメージに彼我の違いはなさそうである。日本にもそれぞれ顔が浮かぶのではないか。しかし、建築家は単なるデザイナーでも、不動産屋でも、コピーライターでも、ドラフトマンでも、芸能人でもない。いったい何者なのか。


 アーバン・アーキテクト

 アジア各地を歩く一方、ある研究会に招かれることになった。仕掛け人は森民夫現長岡市長、当時、建設省(現国交省)の課長補佐であった。「建築文化・景観問題研究会」((財)建築技術教育普及センター)という。建築行政というのは、建築基準法違反の取り締まり行政ばかりで、町並みはちっともよくならない。よりよい、美しい街並み景観をつくりあげるためにはどうしたらいいか。メンバーは、建設省の若手官僚と新進気鋭の建築家で、森民夫が同級生ということもあって座長を務めることになった。今や都市計画学会の学界の重鎮といってもいい大西隆(都市計画学会会長)、西村幸夫の両東京大学教授なども委員に名を連ねていた。

 その議論の結果、「アーバン・アーキテクト」と呼ぶ制度が実施されることになった。その主張は、簡単にいうと「豊かな街並みの形成には「建築家」の継続的参加が必要である」ということである。いかにすぐれた街並みを形成していくか、建築行政として景観形成をどう誘導するか、そのためにどのような仕組みをつくるか、という問題意識がもとになっており、その仕組みに「アーバン・アーキテクト」と仮に呼ぶ「建築家」の参加を位置づけようという構想である。

 しかし、実際、どう制度化するかとなると多くの問題があった。建築士法が規定する資格制度、建築基準法の建築計画確認制度、さらには地方自治法など既存の制度との関係がまず問題になる。さらに、それに関連する諸団体の利害関係が絡む。新しい制度の制定は、既存のシステムの改編を伴うが故に往々にして多くの軋轢を生むのである。「アーバン・アーキテクト」というのは、どうも新たな資格の制定もしくは新たな確認制度の制定の構想と受けとめられたらしい。(財)建築技術教育普及センターは、建築士試験を実施している機関である。そして、その資格の認定を誰が、どういう機関が行うかをめぐって、水面下で熾烈な抗争?があったらしい。

「アーバン・アーキテクト」制の構想は、一方で「マスター・アーキテクト」制の導入と受けとめられたようである。「マスター・アーキテクト制」というのもはっきりしないのであるが、いくつか具体的なイメージがある。 「マスター・アーキテクト」制とは、もともとは、大規模で複合的な計画プロジェクトのデザイン・コントロール、調整を一人のマスター・アーキテクトに委ねる形をいう。住宅都市整備公団の南大沢団地、あるいは滋賀県立大学のキャンパスの計画において、いずれも内井昭蔵をマスター・アーキテクトとして採用された方式がわかりやすい。また、長野オリンピック村建設におけるケースがある。マスター・アーキテクトがいて、各ブロックを担当する建築家(ブロック・アーキテクト)に指針としてのデザイン・コードを示し、さらに相互調整に責任をもつ。もう少し複雑な組織形態をとったのが幕張副都心の計画である。委員会システムが取られ、デザイン・コードが決定された上で、各委員がブロック・アーキテクトとして、参加建築家の間を調整するというスタイルである。いずれも、新規に計画されるプロジェクト・ベースのデザイン・コントロールの手法である。

 しかし、「アーバン・アーキテクト制」は実現されることはなかった。1995117日早朝545分阪神・淡路大震災が起こり、事態は一変することになった。


裸の建築家:京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)

阪神淡路大震災の被災地を歩き回りながら多くを学んだ。

アーバン・アーキテクト制は吹っ飛んだ。それどころではない、コントロール、検査が先だ。そして導入されたのが第三者検査機関による建築確認システムである。

日本の戦後建築とは一体何であったのか。

そして「建築家」はどう責任をとるのか。まちづくり、景観行政以前に、「建築家」の能力が問われることになった。

阪神淡路大震災に大きなショックを受けて、『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』(建築資料研究所、2000年)を書くことになったが、並行して、『戦後建築論ノート』を改訂する機会を得た。『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(れんが書房新社、1995年)である。

全体的に字句の手直しをしたが、骨子は変わらない。増補したのが第四章「世紀末へ」の「Ⅱ 戦後建築の終焉」と「Ⅲ 世紀末建築論ノート―デミウルゴスとゲニウス・ロキ―」である。

『戦後建築論ノート』を書いて15年、その間の歴史の推移はドラスティックであった。ベルリンの壁が破れ、冷戦構造が解体され、ソビエト連邦が崩壊し、世界の枠組み大きく変わった。建築家の行方は袋小路だったと思う。磯崎新は唯一特権的に「大文字の建築」を論(あげつら)うところに追い込まれていた。『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』の最後は「「地球」のデザイン」である。この課題設定は間違っていなかったと思う。

阪神淡路大震災後5年を経て、「京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)」という実験を始めることになった(2000年)。アーバン・アーキテクト制の挫折が悔しかったことが大きい。広原盛明先生の理解と一大支援を得てそれなりの活動を展開することができた。

京都CDLの7年にわたる活動は『京都げのむ』1-6号にまとめられている。その詳細は省かざるを得ないが、京都において様々な問題があり、活動停止に追い込まれることになった。

タウンアーキテクト

しかし、しつこいというべきか。その後、滋賀県で、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座を立ち上げることになった。内閣府の地域再生本部の施策に乗ったかたちである。施策そのものには問題が多いが、地域社会が崩壊するなかで、地域再生を担う職能が求められていることは間違いない

『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』で考えたことは大きく変わっていない。ただ、景観を主軸としたタウンアーキテクトの構想に、防災と地域再生の役割を合わせて考えるようになった。景観をめぐっては、景観法ができた。この法律は使えると思う。今のところ大きな動きはないけれど、タウンアーキトクト制とリンクすればいい[]

タウンアーキテクト制あるいはコミュニティ・アーキテクト制の構想の背景には、言うまでもなく、より切実な事情がある。日本の産業構造が大きく転換する中で、建設業界もまた転換せざるをえないのである。スクラップ・アンド・ビルドの時代は終わった。細かい数字はあげないけれど、極端にいえば、日本の建築家は半減してもおかしくない。

そうした中で、日本の建築家はどう生き延びればいいのか。少なくとも三つの方向が考えられる。

ひとつは、建築ストックの維持管理、その再生活用をめざす道である。

ふたつめは、まちづくりである。クライアントの依頼で仕事をするのではなく、自治体と地域社会を媒介する役割を担う。タウンアーキテクトあるいはコミュニティ・アーキテクトとして生きる道である。

みっつめは、海外、中国、インドに行くことである。建設需要のあるところに建築家の仕事はある。これは建築家の宿命でもある。

 

第三者検査機関の設置以降何が起こったか。耐震偽装問題である。そして、建築士法改正があり、建築界は瀕死の状態へ追い込まれつつある。建築家という職能の蘇生の道はあるのか?

建築士の資格や教育機関の設置基準を強化する動きが加速されつつある。一方、現在国交省で「タウンアーキテクト」を具体的に試行する動きがある。

以下、具体的な建築家に即して考えよう。建築家は果たしてどう生き延びることができるであろうか。

 

 

     


[]拙稿、「タウンアーキテクト」制の可能性―「景観法」の実りある展開をめざして、特集景観まちづくりへのアプローチ、『ガヴァナンス』、ぎょうせい、20046

 

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