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2021年3月12日金曜日

百年前の建築デザイン 国家を如何に装飾するか

 100年前の建築デザイン/国家を如何に装飾するか,特集 100年前のデザイン,『季刊デザイン』no.8,太田出版,200407

 

百年前の建築デザイン

国家を如何に装飾するか

 

布野修司

百年前、建築の世界に革命が起こった。

鉄とコンクリートの、幸か不幸か、偶然の「結婚」である。

しかし、それを革命的だと考えた建築家はおそらくほとんどいなかったのではないか。鉄とガラスとコンクリートを三位一体とする「近代建築」が実現していくのはそれからしばらく経ってからのことである。

百年前、世界の建築デザイン界を席巻していたのは「アール・ヌーヴォー」である。鉄という自在な素材が可能にした新しい建築の鮮烈なイメージは、西欧列強の支配する植民地に徐々に波及し、極東の日本にも届いている。しかし、日本では「アール・ヌーヴォー」以前に、日本の建築の行方そのものが問題であった。帝国議事堂のデザインをめぐって、喧々囂々の議論が戦わされたのは1909年から1910年にかけてのことである。

国家を如何に装飾するか。それこそが日本の建築界の最大のテーマであった。

和風か?洋風か?和洋折衷か?それとも、全くの新様式か?

そして、その解答のひとつが、鉄筋コンクリート造の躯体に、日本の伝統建築の神社仏閣の屋根を載せる「帝冠様式」であった。

 

 

鉄とコンクリートの結婚

 日本に鉄筋コンクリート造の建造物が最初に建てられたのが丁度百年前である。1903年の琵琶湖疎水山科運河日岡トンネル東口の支間7.45mの弧形単桁橋が日本最初の鉄筋コンクリート造土木建造物である。そして、真島健三郎が佐世保鎮守府内のポンプ小屋を建てたのが1904年である。そして、06年には白石直治が神戸和田岬の東京倉庫を鉄筋コンクリート造で建てた。本格的な鉄筋コンクリート造建築の最初のものは、その白石直治の東京倉庫 G 号棟(1910年完成)と言われている。



鉄筋コンクリート造、略してRC造reinforced concrete constructionという。今日われわれには極めて身近である。しかし、それが建築デザインの世界を根底的に変化させ、今日の建築界を決定づけたことを知る人は少ない。

コンクリートそのものは、建築材料として古代ローマから用いられてきた。広くはセメント類、石灰、セッコウなどの無機物質やアスファルト、プラスチックなどの有機物質を結合材として、砂、砂利、砕石など骨材を練り混ぜた混合物およびこれが硬化したものをいう。セメントとは、元来は物と物とを結合あるいは接着させる性質のある物質を意味するが、その利用そのものは古く、最も古いセメントはピラミッドの目地に使われた焼石膏CaSO4H2O と砂とを混ぜたモルタルである。しかし、鉄筋コンクリートは、せいぜい百五十年前に「発見」され、百年前から使われ始めたに過ぎないのである。

1850年頃に、フランスの J. L. ランボーが鉄筋コンクリートでボートをつくったのが最初で、その後1867年にJ. モニエが鉄筋コンクリートの部材(鉄筋を入れたコンクリート製植木鉢や鉄道枕木)を特許品として博覧会に出品したのが普及の始まりである。J. モニエは1880年に鉄筋コンクリート造耐震家屋を試作する。その後ドイツのG.A.ワイスらが86年に構造計算方法を発表し、実際に橋や工場などを設計し始め、建築全般に広く利用されるようになった。建築作品として、最初の傑作とされるのがA.ペレのパリ・フランクリン街のアパートで、建てられたのが百年前(1903年)のことである。


この鉄筋コンクリートは、引張りに強い鉄と圧縮に強いコンクリートを組み合わせる実に都合のいい合成材料であるが、いくつかの「偶然」がその「発明」の条件としてあった。

鉄とコンクリートとの付着力が十分強いこと、コンクリートはアルカリ性であり、鉄はコンクリートで完全に包まれている限りさびる心配がないこと、そして鉄筋とコンクリートの熱膨張率が非常に近いことである。鉄筋コンクリート造建築は、耐久性があり、耐震耐火性のある理想的な構造方法と考えられたのである。

1891年の濃尾地震で鮭瓦造の耐震性が決定的に疑われ始めていた。東京帝国大学に「鉄筋コンクリート構造」という科目が開講(佐野利器担当)されるのは、サンフランシスコ大地震が起こった1905年である。

 

アール・ヌーヴォー

鉄とコンクリート、そしてガラスという工業材料を三位一体とする「近代建築」が成立するのは、しかし、もう少し後のことである。少なくとも百年前に「近代建築」という日本語はない。日本の近代建築運動の先駆けとなったのは「日本分離派建築会」の結成(1920年)であるが、この段階でも「近代建築」という語は使われていない。「分離派」の後、「創宇社」が設立され(1923年)、さらに様々な小会派が乱立した後、それらを大同団結する形で設立された(1930年)のが「新興建築家連盟」であるが、その段階でも、用いられたのは「新興建築」であって「近代建築」ではない。様々なジャンルにおけるヨーロッパの新しい動き、「近代運動」は、「新興芸術」、「新興演劇」、「新興文学」、「新興キネマ」、「新興科学」・・のように「新興」を冠するだけであった。

日本に何時「近代建築」がもたらされたかについては議論[1]があるが、「白い家」と呼ばれたフラットルーフ(陸屋根)の住宅作品が相次いで創られ始めた1930年代後半において、その理念の受容は認められるとされる。ただ、それは木造で白いペンキを塗っただけのものが多く、箱形、フラットルーフという形のみ、「国際賞式」というスタイルのみの移入であった。

ヨーロッパにおける近代建築運動の先駆と目されるオーストリアのO.ワーグナー(18411918年)が『近代建築 Moderne Architektur』を著したのは1895年である。ウィーン美術アカデミー教授就任(19841912)を記念する公開講義をまとめたこの著書において、O.ワーグナーは当時の折衷様式建築を痛烈に批判する。新しい建築は現代生活の要求をとらえ、それを満たす表現を見つけねばならない、必要を満たした形式こそが美しい、というテーゼから、その主張する建築様式は「必要様式 Nutzstil」と呼ばれた。

しかし、O.ワーグナーの一連の作品をもって「近代建築」の成立とは通常言わない。その代表作であるウィーン中央郵便局が竣工するのは1906年であり、市内のアパート群やカール・プラッツ駅(18941901)など市鉄駅のデザインには「装飾」的要素が色濃い。O.ワーグナーと同世代のH.P.ベルラーエ(18561934年)、P.ベーレンス(18681940)、A.ガウディ(18521926年)など「近代建築」の祖と言われる1850年代生まれの建築家たちは、折衷主義建築が支配する未だプレ・モダン的状況を未だ生きていた。O.ワーグナーの弟子であったJ.M. オルブリヒ(18671908年)、J. ホフマン(18701956年)ら建築家を含めて、G. クリムトを中心として創設されたのがウィーン・ゼツェッシオン(1997年)[2]である。ゼツェッシオン、すなわち「分離」(古い体制、過去の様式からの分離)という意味である。日本の近代建築運動が如何にゼツェッシオン運動に影響を受けて出発したかはその命名が示している。イギリスにおけるアーツ・アンド・クラフト運動、ドイツのユーゲント・シュティール(若者様式)、イタリアのスティーレ・リベルティ(自由様式)とともに、ゼツッションのデザインはアール・ヌーヴォーと呼ばれる。百年前にデザイン界を席巻していたのはアール・ヌーヴォーである。

1900年に開通したパリのメトロ(地下鉄)の出入口部分のデザインでアール・ヌーヴォー建築の旗手となったH.ギマール(18671942年)は、パリ16区の集合住宅カステル・ベランジェ(1898)、リールのコアイヨー邸(1900)を経て、パリ郊外ビルモアッソンのカステル・オルジュバル(1905)を設計しつつあった。ブリュッセルのV.オルタ(18611947年)は、タッセル邸を完成(1893)、ソルベイ邸(1900)、グランド・バザール百貨店(1903年、フランクフルト)などで全盛期を迎えつつあった。C.R.マッキントッシュのヒル・ハウス(1903年、グラスゴー)、J.ソンマルーガのパラッツォ・キャスティリオーネ(1903年、ミラノ)、L.サリヴァンのカーソン・ピリー・スコット百貨店(1904年、シカゴ)などが百年前のデザインである。


日本でも、福島邸(1905年、東京、武田五一)、松本邸(1910年、北九州、辰野・片岡事務所)などのほか、赤坂離宮(1909年、片山東熊)にもその影響が見られる。もちろん、アール・ヌーヴォーが支配的になったということではない。時代を制していたのは折衷主義建築である。明治建築を代表する建築として、三菱一号館(1894年、コンドル)、東京裁判所(1896年、エンデ、ベックマン、ハルトゥング)、日本銀行本店(1896年、辰野金吾)などに続いて、横浜正金銀行(1904年、妻木頼黄が竣工したのが百年前である。

 

我国将来の建築様式を如何にすべきや

鉄筋コンクリート造は鋳型にコンクリートを打ち込む形をとる。建築の骨組みは継目のない一体構造である。鋳型さえ出来れば、自由自在に形をつくることができる。しかし、どのような形をつくるのか、それが問題であった。西洋建築の様式、技術の移入一辺倒できた日本の建築界が、その方向性をめぐって日本建築の伝統、アイデンティティを問い始めたのが百年前である。

焦点となったのは帝国議事堂(現国会議事堂)のデザインである。帝国議事堂は、1890年の第1帝国議会に間に合わせるため、木造の仮議院が日比谷に建造されたが、その仮議院が消失したこともあって、以後1897年、1907年と本建築化が浮上する。日本建築学会(会長辰野金吾)は、1908年に「議院建築の方法に就て」を発表、1910年に討論会「我国将来の建築様式」を大々的に催すとともに、「帝国議院準備に関する意見書」を採択するのである。

討論会において結論が出たわけではない。強いて言えば、現在の国会議事堂[3]のスタイルが結論である。簡単に要約すれば、洋風か、和風化、和洋折衷か、あるいは、全く独自の様式(「進化主義」)か、4つの主張が並行する形で出されただけである。最後の「進化主義」様式の主張は伊東忠太のものである。

もともと、「泰西の建築術を研究せし者にて日本建築の趣味を有する者」=大家が設計に当たることが想定されていたのであるが、「日本趣味と西洋趣味との間には一大溝壑が横たわっている」、今日日本では「是非なく西洋風を其まま借用して居るのではありますまいか」と、「建築進化の原則より見たる我邦建築の前途」[4]を書いて論争を仕掛けたのが伊東忠太であった。

討論会は2度行われるが、第1回(1910523日)には、三橋四郎、関野貞、伊東忠太、長野宇平次が参加し、会長辰野自ら司会をつとめた。三橋は「和洋折衷主義」、長野が「欧化主義」で、関野は伊東の「進化主義」を展開する方法について説いた。佐野利器、岡田信一郎、古宇田実らが関野貞に賛意を表している。第2回(78日)は、主論者として曽根達蔵、新家孝正、横川民輔を迎えて繰り返されたが、辰野の結論は以下のようであった。

「考えてみますに標題は討論会と申しますが実際は意見発表会といった具合であります。吾輩は其名論卓説中の一部に対しては賛成であるが一部に対しては不賛成である。又賛成でも不賛成でもないといふ様な節もあるので、要するに吾輩の意見は中間のものになる乎と思ひます。」[5]

実に中途半端な総括であるが、もう少し具体的には、①建築様式は自然的なものであって人為的に製造し得るものではない、②我邦将来の建築様式は洋式と吾が固有式を調和してさらに起こるものである、③建築様式の表現は自然的なものであるが、放任すれば責任放棄であるから、各自信ずる様式の計画案をなるべく多く公表して、様式成立を促す努力をしよう、というのが結論であった。

 

帝冠併合様式

日露戦争から「日韓併合」へ向かうナショナリズムの昂揚の中で、「日本」の起源が問われつつあったことは以上のようであるが、「法隆寺再建非再建論争」[6]が起こった(1905年)のも百年前である。法隆寺が日本最古の建造物であり、世界最古の木造建築であることから、単にその創建年代にとどまらない関心が当時の建築界にはあった。法隆寺のルーツ、すなわち、仏教建築の起源と伝播の経緯についての関心である。『法隆寺建築論』(1898[7])を書いた伊東忠太(1867-1954年)の場合、法隆寺を西欧建築に匹敵するものであることを力説しようとしている。法隆寺に限らない。日本の都城、御所(「大内裏」の制)の原型についての関心もあった[8]。日本の建築文化のアイデンティティが問われる中で、眼は東洋にも向けられる。岡倉天心の『東洋の理想』(1903年)が書かれたのが百年前である。伊東忠太が、「日本建築」の起源を求めて、初めて中国大陸に渡ったのは1901年であり、翌年9月からは3年に及ぶユーラシア大踏査行を行う。彼は、インドやトルコにおける日露戦争における日本戦勝の反響を生々しく伝えている。

ところで、帝国議事堂の建設は、紆余曲折を経た末、1918年に臨時議院建築局が設けられ、設計競技(コンペティション)を実施する運びとなった。応募総数118点と盛況であったが、入選作品については、発表当初から批判が相次いだ。曽根達蔵、伊東忠太、佐藤功一らが「日本的表現」の不足に不満を表明したのみならず、当事者である大熊喜邦(臨時議院建築局)、矢橋賢吉(審査員)も良しとしなかった。



そうした中で、猛烈な抗議を行ったのが下田菊太郎であった。入選作の「欧米追随的態度」を批判し「意匠変更請願」を表明するとともに、自ら「帝冠併合式意匠」という「様式」を提案するのである。


帝冠併合式とは、下田によれば以下のようである。

「帝冠併合式は、・・・先ず全体の意匠として固有の日本式を用ゆるの根本観念を確立したる後ち、之を議院建築上時勢の推移現代の要求に順応すべき必要の改革を加へ、胸壁工事に付ては我欠点を補ふに堅実なる羅馬式を以てし、四隅の屋上には全意匠上より達観して城郭式を採用するも古欧柱型、窓等洋式の美点を採用し、中央屋蓋に至りては我等日本人は勿論欧米人の賛嘆措かざる宮殿本型紫宸様式を備え、其設計を通じて大日本立憲帝国議院として一貫せる意義に依り輪郭の調和と姿態の均整とを得しむるに在り。」[9]

要するに、躯体は西欧建築、屋根は日本の伝統建築様式という折衷様式の提案である。一般に「帝冠様式」と呼ばれるようになるが、もちろん、この様式は下田以前に遡る。百年前にも、煉瓦造の壁体の上に社寺建築風の屋根をのせた建築様式は試みられ始めていたのである。

 




 



[1] 明治維新あるいは開国(1853年)以降、西欧建築の理念や技術が移入され、それが日本の近代建築の母胎を形成したという意味で、日本の近代建築の歴史の起点を幕末から明治初頭に置くのが日本では一般的である。

[2] 最初にミュンヘン・ゼツェッシオンが設立(1892年)され、ウィーンがそれに次ぎ、ベルリンをはじめ、ライプチヒ、ダルムシュタットなど各地に次々と組織がつくられた。

[3] 現議事堂への動きは1917年に改めて始まった。19年設計競技により図案が募られたが当選案の様式が新旧各層の反発を呼びとくに下田菊太郎は議会に働きかけて〈帝冠併合式〉(欧風の壁体に和風屋根を載せる)の採用を請願し賛意を得た。設計は大蔵省内部で進められ20年に着工36年に竣工した。様式は遅れて出現した新古典主義といえナチス・ドイツの様式に通じるものがある。鉄骨鉄筋コンクリート造花コウ岩張り地上3階一部4階。延べ面積約52500m2。すべてに国産材料が用いられた。

[4] 『建築雑誌』No.26519091月。大塚保治が『帝国文学』(第15卷第7号)に「日本建築の将来」を書いて応答し、その「西欧本位の折衷主義」の主張に、再び伊東が「再び日本建築の将来のスタイルについて」(『建築雑誌』No.275190911月)によって反論した。

[5] 「討論会・我国将来の建築様式を如何にすべきや」、『建築雑誌』No.28419108

[6] 法隆寺西院伽藍の金堂、塔、中門、回廊が7世紀初めの推古朝創建の建造物であるか、あるいは一度焼亡して再建されたものであるのかについての論争。1899年、黒川真頼と小杉榲邨が《日本書紀》天智9(670)4月条の法隆寺全焼の記事によって和銅年間(708715)に再建したものという説を唱えていたが、1905年関野貞と平子鐸嶺が非再建説を主張、喜田貞吉が再建説を主張して第1次論争が行われた。193912月石田茂作による若草伽藍の発掘と1945年以来の金堂と塔の解体修理によって明らかになった新事実によって、論争は決着をみた。

[7]  学位論文。1893年に『建築雑誌』に「法隆寺建築論」を書いている。

[8]  片山東熊、「漢土大内裏ノ制」、『建築雑誌』No.4318907

[9]  下田菊太郎、『思想と建築』、1928年。

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