型とディテール:建築のアジア,特集 デザインの細部,『季刊デザイン』,太田出版,no.6,200401
型とディテール:建築のアジア
布野修司
「アジア建築のディテール」というテーマを頂いて正直困った。『アジア都市建築史』[1]という大それたタイトルの本を上梓したのであるが、そこには「建築のディテール」についての記述がほとんどない、のである。おそらく、細部が欠けている、補足せよ、ということであろう。しかし、「アジア」といっても広い。また、「アジア建築」といった概念があるわけではない。さらに、「ディテール」[2]といっても、単に細部を意味するだけではなく、「建築」の全体に関わる概念としても用いられる[3]。はっきりしているのは、「アジア」も「ディテール」も排除することにおいて成立したのが近代建築だということである。ある特定の建築物の「ディテール」を「詳述」することによって、それを解き明かせればそれにこしたことはないのだが、「建築」の「ディテール」の孕む問題を総体的に論じる力量がない。以下は、「アジア」「建築」の「ディテール」について思い浮かぶ断片である。
足のついた屋根
南モルッカのタニンバル諸島に関する民族誌の中でオランダの人類学者[4]が次のように書いている。
「家々はおたがいに隣接していて、ある規則性をもって建てられている。それにもかかわらず、全体は死んでいるように思える。」何故、死んだように見えたのか。「足の上に屋根がかぶさる」ように見えたからである。つまり、タニンバルの家には壁がない、そして窓がない、要するに眼が無くて足だけあるから死んだように見えたというのである。
ヨーロッパにも住居を身体に例える見方があることをここで知るが、「足のついた屋根」という「足pooten」は、人間の足ではなく「四つ足」、野兎や狐、犬の「足」である。
アジアというのは、もともとアッシリア語起源で、「始め」あるいは「日の昇る場所(東、朝の始まる方向)」を意味する。「ヨーロッパereb」すなわち「闇」、「日の沈む場所(西)」の対語である。ところが、「歴史の父」ヘロドトスが、ペルシャ戦争の物語を描いたその『歴史(ヒストリアイ:研究)』において、ギリシア(ヨーロッパ)=自由、ペルシャ(アジア)=隷属という構図を立てて以降、アジアは蔑視の対象に転化していくことになる。ギリシアへアジアから多くの奴隷が供給されており、ギリシア人の自由はその奴隷によって成り立っていた。ギリシア語で奴隷をアンドラポダという。「四本足」と対になる言葉で「人の足」という意味だという。奴隷は「四本足」の羊や牛と同様、「人の足」をもった家畜なのである。アレクサンドロス大王のペルシャ遠征に先立って、家庭教師であったアリストテレスは、「アジアの異民族に対しては動植物を扱うように」と勧告したという。
古代のギリシア・ローマ人たちは、自分たちの世界ヨーロッパ(ギリシア・ローマ)には、自由な市民=真の人間、そして、アジア(アフリカ)には異民族(バルバロイ)=一段劣った人間、さらにその外側には様々な怪物、化け物が住んでいると考えていた。世界の東端にあるインドは「驚異の国」で、一本足のスキアポデス(影足人)、キュノケパロイ(犬頭人)、人間の頭と獅子の身体をもつマンティコラ、ユニコーン(一角獣)、水陸自由に活動するエアレなど様々な異形の人間、不思議な動物が住んでいると考えていた。紀元一世紀の大プリニウスの『博物誌』は、まるで「怪物の百科全書」である[5]。紀元二世紀前半の地理学者で、古典古代の地理的知識の集大成者として名高いプトレマイオスの地図、アジアⅦ(東部アジア)図の周囲には、スキアポデス、キュノケパロイ、頭無し人間が描かれている。
バタック・カロの住居の破風にはヤモリのパターンが表彰されている
冒頭のオランダ人の報告がなされたのは1940年である。ヨーロッパ人にとって、巨大な屋根と高床の住居は、全く見慣れない不思議な建物であった。アジアは、20世紀に入っても猶かつ動物たちが蠢く世界のように思えていたようだ。ムカデやサソリが自由に這い回り、アリやゴキブリが走り回る、鶏や豚が床下に住む。アジアの住居は、とても人間の住居とは思えない代物だった。
もっとも、同じタニンバル島の住居について、先のオランダ人人類学者に半世紀も先駆けて次のように書いたイギリス人博物学者がいる[6]。
「彼らの住居は、床と屋根以外何もないが、とても巧妙な構造をしている………。彼らが使っているほとんどすべてのものが、素晴らしい趣味と驚くべき技術でつくりあげられる彫刻によって、いかに精巧に覆われているかをみたあと、我々は自問しはじめた。第一に、そのように芸術的に発達した人びとが野蛮人でありえるのか。次に、より困難な問いであるが、野蛮とは何か。」
水牛と船
「アジア」の各地には、多様な建築の伝統がそれぞれにある。建築が人々の多様な営みとともにあるのだとすれば、それは当然のことである。様々な地域の、珠玉のような集落や住居の細部について記述すればきりがないけれど、面白いのは、遠く離れた地域の建築様式に類似性や共通性が見えることである。高床式住居はどのように分布するのか、井籠組(校倉式)という木材を横に組む伝統のルーツは何処か、ヴァナキュラー(土着)建築の材料、構法、細部の類似と差異、その相互関係をあれこれ考えるのは実に楽しい。
各地に残る水牛や船のシンボリズム、交叉角の棟飾りの広がりを見ると、ある共通の建築文化が想定される。西スマトラの赤道直下に住むミナンカバウ族の住居は実に特異な形をしている。屋根の形そのものが水牛の角のようだ。ところが、それとそっくりな形が中国南部、石寨山出土の貯貝器の取っ手に見られる。また、東南アジア一帯から出土するドンソン銅鼓に描かれた家屋文もよく似ている。考古学や言語学の知見を合わせると、東はイースター島、西はマダガスカル島に及ぶ広大な領域にはオーストロネシア語族という同一の民族が居住していたのだという。海の世界だけではない。ゲル(蒙古包)がモンゴル高原のみならずはるかトルコにまで及んでいることを知ると、モンゴル帝国こそがユーラシアを制し、「世界史」をつくった[7]ことが実感できる。
気候風土を異にしながら、なぜ、同じような建築形式が選び取られるのか。それを説明する手掛かりを与えてくれるのが、G.ドメニクの「構造発達論」[8]である。例えば、木材で建築物を建てようとする場合、無限にやり方があるわけではない。木組みの創意工夫を積み重ねても一定の架構方法に落ち着いていく。G.ドメニクはそのヴァリエーションを網羅するのである。
「装折」無限
しかしそれにしても、「アジア」の建築について西欧世界は冷たい。『フレッチャー建築史』[9]は、全701頁のうち87頁しか「アジア」に割いていない。しかも、「第二部 西洋以外の建築
非歴史様式 The
Non-Historical Styles 」として、「印度建築」「支那及日本建築」「古代亜米利加建築」「回教建築」が並んでいる。 「古代アメリカ建築」すなわちインディアンの建築と一緒に中国、日本が並べられているのも、「インド」という位置づけだろう。
ヨーロッパを中心として、一段劣ったアジアがあり、さらに周辺に化け物の世界があるという、古代における世界の三重構造観は、キリスト教世界に引き継がれていく[10]。いわゆる「大航海時代」を迎えて、マガリャンイス(マゼラン)の世界周航で「怪物には一度も出会わなかった」という報告がなされたこと、「発見」されたインディオは「真の人間」かという大論争(バリャドリードの論戦、1550年)が行われたこと、等々は単なる歴史のエピソードなどではない。文明と野蛮の二分法は、「文明化の使命」として植民地主義を支えてきたし、アジア・アフリカを停滞社会、遅れた社会としてとらえる西欧中心史観、進歩史観は存続し続けてきた。E.D.サイードの告発するオリエンタリズム[11]、西洋の東洋に対する支配の様式は、今日猶支配的である。
確かに、中国建築というとワンパターンである。宮殿でも、仏寺、道観、文廟、・・・全ての建築が左右対称、四合院という形式である。古来、『営造方式』(1103年)、『魯般営造正式』(明初)、『工程做法』(1736年)、
『欽定工部則例』(1815年)といったマニュアルが整備されてきた。
西洋人による最初の東洋建築史といっていい、ジェームス・ファーガッソンの『印度及東洋建築史』[12]など、あまりに同じで中国には哲学、芸術、文学がない、「建築は芸術として見るべき価値がない、寧ろ一種の工業であって、極めて低級なる、不合理なる、兒戯に類するものである。」とまでいう。
しかし、中国建築の変化は「装折」にある、「装折」の変化の多いこと世界いずれの地方にも見あたらぬ、同じ屋根がどこまでも連なる繰り返しの「群宇の美」を理解しないのか、とくってかかるのが伊東忠太である[13]。「装折」とはディテールのことである。柱、窓、天井、床、戸、・・・斗拱など無窮の変化がある。装飾文様も興味が尽きない。吉祥思想からきた縁起ものが多いが、動物、植物、自然物 、幾何文、人事文、文字文様がある。動物文様を挙げてみれば、龍、鳳、麟、獅、虎、・・・蝙蝠、爬虫類、鳥、魚、これもつきない。そして、色がある。中国建築は色彩の建築である。赤が愛される 白は忌まれる。紫、樺、鼠、茶など間色を用いない。青、赤、黄、白、黒という五色に、陰陽五行の説に従って、方位と季節、そして様々な意味が割り当てられている。
コプト織とエンタシス
「建築」という概念は、そもそも、ヨーロッパのものである。英語のアーキテクチャーは、ギリシア語の「アルキテクトン」に由来する。根源(アルケー)の技術(テクトン)がアーキテクチャーである。根源的技術を司るのが建築家(アーキテクト)である。明治になって西欧の建築技術がもたらされた時、アーキテクチャーに当てられた日本語は「造家」であった。アーキテクチャーとはもう少し高尚であると、伊東忠太が「「アーキテクチュール」の本義を論じて其の訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」[14]を書いて、「建築」という訳語を推奨し、中国でもその訳語が用いられるようになった。ちなみに、中国語の「歴史」も、日本語の訳語の借用である。日本で学んだ清朝の留学生が日清戦争後に中国に持ち帰ったものだ。
伊東は、「アーキテクチュール」を正しくは「大匠道」あるいは「高等芸術」と訳すべきという。「建築」は「美術(ファイン・アート)」に属すべきであって、「工業技術(インダストリアル・アート)」に属すべきものではない。「造家」はあんまりだというわけである。伊東は、そして、「日本建築」が如何に「建築」であるか、を証明しようとする。まず書いたのが「法隆寺建築論」である。すなわち、日本の誇る世界最古の木造建築、法隆寺が如何にヨーロッパの建築、具体的にはアテネのパルテノンに匹敵するか、を力説するのである。そして、それを裏づけるべく試みたのが、7次に亘る中国・インド、ユーラシア大踏査行であった。
パルテノンも法隆寺もエンタシス(柱中央の膨らみ)がある。だから、建築技術はギリシャからはるばる日本にまで伝わったのだ、というのは俗説である。伊東は、もう少し丁寧に法隆寺の各部の比例関係が、黄金比その他西欧美術の概念や尺度に如何に則っているかどうかに心を砕いたのであった。しかし、細部が似ている、ということが、伊東の想像力をかき立てていたことは間違いない。
「西のはづれのエヂプトから出ましたコプチックのつゞれ織が其の図案といひ色合いといひ、私の直感は、これは東のはづれの日本の法隆寺の一隅にある中宮寺の天寿国曼陀羅と、そっくりだなということを感じたのであります。・・・東西幾千里かけ離れて居って、しかも同じやうな性質のものが存在するといふことは実に奇蹟であります。・・・」
コプチックとは原始キリスト教の一派とされるエジプトのコプト人である。コプト織は3世紀ころから発達し,7世紀にエジプトがイスラム文化圏に吸収されるまで続いた。カイロで見たことがあるけれど似ていると言えば似ている。たったひとつの類似例で「アジアはひとつ」というのは乱暴だけれど、ヘラクレスのイメージがインドに伝えられて金剛執像となり、はるか日本にももたらされているように、図像は、われわれの想像を超えた時空を飛び回っていると考えた方がいい。
神々の乗り物
ヒンドゥー建築の世界は、神々のパンテオンである。様々な図像が鏤められていて、細部はめくるめくほど過剰である。神は細部に宿るというけれど、神々で満ちあふれている。その空間を味わうためには、その神々について思い描く必要がある。手掛かりとなるのは、神像の持ち物、着物、乗り物である。また、神々の関係(家族、化身)である。神像は普通4本の手を持ち、それぞれ固有の持ち物を持っている。また、独特の着衣、髪飾り、首飾りをしている。そして、神々は固有の乗り物(ヴァーハナ)として特定の動物と関連づけられている。
シヴァは裸体に虎の衣を纏い、首に数珠と蛇を巻きつけた姿で描かれる。額に第三の眼を持つのが特徴である。そして、手に三つ又の槍(三叉戟)と小さな太鼓、小壷を持つ。最大のシンボルは男根の形をしたリンガである。そして、乗り物はナンディ(牛)である。三叉戟、ナンディ、リンガがあればシヴァである。また、シヴァはしばしば妃パールヴァティ、また息子のガネシャ(聖天)、スカンダ(韋駄天)を加えてシヴァ・ファミリーとして描かれることが多い。富と繁栄、知恵と学問の神ガネシャは象顔でわかりやすいし、戦争の神スカンダの乗り物は孔雀である。シヴァは踊りの王ともされ、「踊るシヴァ」像が人気がある。
ヴィシュヌは5ないし7頭のナーガ(蛇)の傘を頭上にし、アナンタ(永遠という意)竜王の上に通常半跏の形で腰掛ける。四本の腕は、円輪チャクラ、棍棒、法螺貝、蓮華をもつ。乗り物はガルーダ(神鳥)である。上述したように、魚、亀、猪、人獅子はヴィシュヌの化身である。ヴィシュヌの妃ラクシュミー(吉祥天)は富と幸運の女神であるが、水に浮かぶ蓮華の上に立ち手には蓮の花を持つ。富の象徴としてコインや紙幣、宝石類が描かれることが多い。乗り物は象である。
ブラフマー(梵天)は4ヴェーダを表す4つの顔で描かれる。四本の腕には、数珠、聖典ヴェーダ、小壷、杓をもつ。乗り物はハンサ(鵞鳥、白鳥)である。ブラフマーの妃サラスヴァティ(弁才天)は、学問と技芸の神であり、一対の腕に数珠とヴェーダ(椰子文書)を持ち、一対の腕でヴィーナ(琵琶)を弾く。乗り物は孔雀である。水の神であり背後に川が描かれることが多い。
シヴァの妃パールヴァティは様々な異名を持ち性格を変えるが、武器をとって戦う女神となるのがドゥルガーとカーリーである。ドゥルガー女神は10本の腕に様々な武器を持ち、殺戮を行う場面が図像化される。乗り物は虎もしくは獅子である。カーリー女神は、さらに恐ろしく、生首などを持つ姿として描かれることが多い。
その他わかりやすいのは孫悟空のモデルになったともされる猿の神ハヌマーンである。神々の乗り物である様々な動物へ着目することが、『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』の世界とともにヒンドゥーの建築世界に至る近道である。
梵天、弁財天・・・ヒンドゥー教の神々は仏教のパンテオンにもしっかり入り込んでいる。
スタラクタイトのインヴォリューション
イスラームは偶像を禁止する。モスクというと玉葱形のドームがイメージされるが、キブラの方向を示す壁の窪みミフラーブと説教台ミンバルがあればよく、決まった様式があるわけではない。イスラームは、「建築」に拘るところが全くない。異教徒の建造物、その建築様式を借用して、まるで平気である。デリーにあるクトゥブ・モスクはヒンドゥー教の寺院をもとにしたものだし、インドネシアのクドゥス(ジャワ)のミナレット(尖塔)もチャンディ建築そのものである。
しかし、イスラーム建築はとるに足らないのか、というととんでもない。イスラーム建築は、何よりも空間の構成に明快な原理がある。アンリ・スチールランの『イスラムの建築文化』[15]は、見事にその空間原理を解き明かす名著である。例えば、イスファハンのエマーム・モスク(王のモスク)の精緻な幾何学には誰もが驚くであろう。
正方形の部屋にどのように半球形のドームを載せるのか、イスラーム建築の歴史には、建築の原型に関わる創意工夫の悪戦苦闘がある。ペンデンティブやスキンチ・アーチの発明は西欧建築の基礎になっていく。
一方、イスラーム建築の魅力と言えばモザイクタイルの細部である。空間の基本骨格が定まると、内へ内へと装飾が施されていく。ペンデンティーフやドームの内側を飾り立てるスタラクタイト(鍾乳石紋)は眺めていて飽きない。一端様式が確立された後、新たな様式が生み出されることなく細部へ細部へ向かう運動をインヴォリューションという。進歩(エボリューション)ではなく、内なるものへ向かっての深化である。
こうした繊細な装飾を可能にしたのは釉薬タイルによる陶片モザイクである。ペルシャ・カーシャンの青色タイル、カーシー・タイルが知られる。煉瓦をまるごと用いる段階から、碑銘の文字を書いたりする必要から次第に小さな断片が用いられるようになる。純粋な幾何学紋は次第に捨てられ、好んで曲線の花模様が用いられるようになる。花飾り、葉模様、枝模様、蔦飾りなど植物文様が現れるのはモンゴル時代で、その技法が絶頂に達するのは14~15世紀のティームール朝である。
そして、このモザイクタイルの手法だと手間がかかりすぎだと、タイル板、「七彩」と呼ばれる彩色陶器があみだされたのが、シャー・アッバース(1587~1629)によるイスファハン造営の時である。
インド・サラセン様式のイデオロギー
磯崎新の、簡潔にして要を得た「西洋建築」史、すなわち、全「建築」史である「《建築》―――あるいはデミウルゴスの構築」[16]を読むと、「建築」という概念が西欧世界のものであることがよく分かる。「建築として、《》をつけていない、その区別など不必要であった時代が、少なくとも15世紀初頭にブルネッレスキが透視画法の研究に着手して以来、3世紀は継続した。この間、ウィトルウィウスの『建築十書』が規範(カノン)であった。・・・この規範はローマの建築物を基準にした古典主義言語であった。」。
しかし、18世紀にいたって、この「古典主義建築」の規範は揺らぐ。ウィーンにバロック建築の傑作を残したフィッシャー・フォン・エルラッハの『建築図集』(1721年)には、古代アッシリアやインド、中国など異文化の生んだ「建物」が載せられている。聖書の年代記を遥かに超える歴史をもつ「中国」の発見が西欧の歴史観を揺さぶったように、「古典主義建築」を中心に据えた西欧建築の世界は揺さぶられる。磯崎は、15世紀以降の「建築」の歴史を《建築》の解体過程として捉えながら、「建築家」たちがこの「建築」の危機を如何に克服しようとしてきたのか、そして、自ら《建築》に拘り、造物主としてのデミウルゴスを召喚することが如何に必要なのかを磯崎は書く[17]。
この《建築》という規範を携えて、「インド」「新世界」へ向かった建築家たちが何を考えてどのような建築をデザインしたのかは、世界中の植民地建築が示している。日本のいわゆる「明治建築」ももちろん「植民地建築」とみなしていい。
サラセンという言葉は、ユーフラテス川西部の民族を指したが、やがてイスラーム世界全体を意味するようになり、サラセン建築と言えばイスラーム建築の総称となる。インディアン・サラセン建築というとインドのイスラーム建築ということである。ところが、インド・サラセン建築というと、インド建築とイスラーム建築、そして西欧建築の折衷様式、英国建築家たちが工夫の末に生み出した様式をいう。チェンナイ(マドラス)のチャポーク・パレス(1768)が先駆けとされるが、1870年代に流行り出す。インド、イスラーム(ムガール)、英国を融合する、インド帝国のシンボルを創出することが、英国建築家が引き受けた課題であった。J.ファーガソンの著作『印度及東洋建築史』は、実は、そのためのカタログであった。スイントン・ジェイコブスの『建築ディテールのジャイプール図集』全6卷(1890)は、必携参考文献となった[18]。
土着の建築要素を巧みに組み合わせて、西洋建築の骨格の上に統合する、その折衷の手法は植民地建築に共通である。西欧建築に神社仏閣の屋根を載せた日本の帝冠併合様式はその拙い安易な例である。日本に「西欧建築」を伝えたJ.コンドルの設計した鹿鳴館の様式には、明らかにインド・サラセン様式の影響がある。何故J.コンドルは、日本にインド・サラセン様式を持ち込もうとしたのであろうか。
[1] 布野修司編、アジア都市建築研究会著、昭和堂、2003年8月。
[1] 建築のディテールというのは、単に建築の部分、細部を意味しない。ディテールとは、「収まり」のことであり、具体的には「詳細図」のことである。建築の「収まり」という概念は、一言では要約しにくいが、建築の部分がある秩序に従って配置されているかどうかに関わる。例えば、床や壁にタイルを貼る場合、タイルが半端にならないように部屋の大きさなどを決定すること、あるいは部屋の大きさに合わせてタイルの大きさや貼り方を考えるのが「収まり」である。建築が「巧い」「下手」という場合、この「収まり」の「巧い」「下手」が問題にされる。この秩序規範は、近代建築のものといっていいけれど、「建築」そのものの規範でもある。
[1] 全体か部分か、部分か全体か、という問いは「建築」に常に問われている。全体の骨格、システム、型を前提として部分を決定していくのか、部分を積み重ねて全体を構成するのか、建築の設計方法は大きく二分される。もう少し、具体的に、形を先に与えて空間をつくり細部に至るのか(フォルマリズム)、空間を繋ぎ合わせて形をつくるのか(ファンクショナリズム)の違いは大きい。ディテールを以上の全体と部分の関係と無縁と考えるかどうかも、建築観に関わる。
[1] Drabbe,P., “Het
Leven van den Tanenbares Ethnografische Studie over het Tanembareesche Volk(The
Life of the Tanimbarese: Ethnographic Study of the Tanimbarese People)”, 1940. 『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司監訳+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East
Asia,学芸出版社,1997年3月)より。
[1] 伊藤進、『怪物のルネッサンス』、河出書房新社、1998年
[1] Forbes, H.O., “A
Naturalist’s Wanderings in the Eastern Archipelago”, Harper, New York, 1985. in
Waterson, R., “The Architecture of South-East Asia through Travellers’ Eyes”,
Oxford University Press, 1988..
[1] 岡田英弘、『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』、筑摩書房、1992、1999年。
[1] G.ドメニク 「構造発達論よりみた転び破風屋根---入母屋造の伏屋と高倉を中心に」、杉本尚次編『日本の住まいの源流』、文化出版局、1984年。
[1] 古宇田実・斉藤重三郎共訳、岩波書店、1919年。1896年初版 1905年5版改訂。
[1] 岡崎勝世、『世界史とヨーロッパ』、講談社現代新書、2003年
[1] エドワード・W・サイード、『オリエンタリズム』、板垣雄三他監修、今沢紀子訳、平凡社、1986年
[1] James Fergusson,
"History of Indian and Eastern Architecture", John Murray,
London,1876
[1] 伊東忠太、「支那建築史」、伊東忠太建築文献第三巻『東洋建築の研究』上、龍吟社、1936年。
[1] 伊東忠太、伊東忠太建築文献第六巻『論叢・随想・漫筆』、龍吟社、1937年
[1] 神谷武夫訳、原書房、1990年。
[1] 磯崎新、『造物主議論 デミウルゴモルフィスム』、鹿島出版会、1996年、所収。
[1] ただ、デミウルゴスは、もともと公共デモス(国家,市民)のために働く者を意味する古代ギリシア語である。農業以外の部門の活動で生活の糧を得る者を指し、金属工,陶工,石工などから,占者,医者,楽人など専門家、職業人を含んでいた。プラトンは、原素材(ヒュレ)から世界を創る建築(構築)者としての神をデミウルゴスとするが、手工業者は、身体は職業的技術によって痛めつけられ、魂も下賤な仕事のためにいじけていて、「哲学者」にはなる資質がないと言う。プラトンが生きた世界において、職人技は外国(アジア)人と奴隷の仕事であった。磯崎がデミウルゴスの名において問題にするのは、《建築》が「構成(コンポジション)」ではなく、「構築(コンストラクション)」に関わっているということである。「構成」は、装飾や芸術性といった美的な領域に関わり、「構築」は構法、構造、素材といった技術的領域に関わる。そして、歴史的建築の様式、装飾的要素を排除し、「構築」を中心に据えたのが近代建築であった。
[1] Don Lang, Madhavi
Desai, and Miki Desai: “Architecture & Independence The Search for
Identity-India 1880-1980”, Oxford University Press, 1997
[1] 布野修司編、アジア都市建築研究会著、昭和堂、2003年8月。
[2] 建築のディテールというのは、単に建築の部分、細部を意味しない。ディテールとは、「収まり」のことであり、具体的には「詳細図」のことである。建築の「収まり」という概念は、一言では要約しにくいが、建築の部分がある秩序に従って配置されているかどうかに関わる。例えば、床や壁にタイルを貼る場合、タイルが半端にならないように部屋の大きさなどを決定すること、あるいは部屋の大きさに合わせてタイルの大きさや貼り方を考えるのが「収まり」である。建築が「巧い」「下手」という場合、この「収まり」の「巧い」「下手」が問題にされる。この秩序規範は、近代建築のものといっていいけれど、「建築」そのものの規範でもある。
[3] 全体か部分か、部分か全体か、という問いは「建築」に常に問われている。全体の骨格、システム、型を前提として部分を決定していくのか、部分を積み重ねて全体を構成するのか、建築の設計方法は大きく二分される。もう少し、具体的に、形を先に与えて空間をつくり細部に至るのか(フォルマリズム)、空間を繋ぎ合わせて形をつくるのか(ファンクショナリズム)の違いは大きい。ディテールを以上の全体と部分の関係と無縁と考えるかどうかも、建築観に関わる。
[4] Drabbe,P., “Het
Leven van den Tanenbares Ethnografische Studie over het Tanembareesche Volk(The
Life of the Tanimbarese: Ethnographic Study of the Tanimbarese People)”, 1940. 『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司監訳+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East
Asia,学芸出版社,1997年3月)より。
[5] 伊藤進、『怪物のルネッサンス』、河出書房新社、1998年
[6] Forbes, H.O., “A
Naturalist’s Wanderings in the Eastern Archipelago”, Harper, New York, 1985. in
Waterson, R., “The Architecture of South-East Asia through Travellers’ Eyes”,
Oxford University Press, 1988..
[7] 岡田英弘、『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』、筑摩書房、1992、1999年。
[8] G.ドメニク 「構造発達論よりみた転び破風屋根---入母屋造の伏屋と高倉を中心に」、杉本尚次編『日本の住まいの源流』、文化出版局、1984年。
[9] 古宇田実・斉藤重三郎共訳、岩波書店、1919年。1896年初版 1905年5版改訂。
[10] 岡崎勝世、『世界史とヨーロッパ』、講談社現代新書、2003年
[11] エドワード・W・サイード、『オリエンタリズム』、板垣雄三他監修、今沢紀子訳、平凡社、1986年
[12] James Fergusson,
"History of Indian and Eastern Architecture", John Murray,
London,1876
[13] 伊東忠太、「支那建築史」、伊東忠太建築文献第三巻『東洋建築の研究』上、龍吟社、1936年。
[14] 伊東忠太、伊東忠太建築文献第六巻『論叢・随想・漫筆』、龍吟社、1937年
[15] 神谷武夫訳、原書房、1990年。
[16] 磯崎新、『造物主議論 デミウルゴモルフィスム』、鹿島出版会、1996年、所収。
[17] ただ、デミウルゴスは、もともと公共デモス(国家,市民)のために働く者を意味する古代ギリシア語である。農業以外の部門の活動で生活の糧を得る者を指し、金属工,陶工,石工などから,占者,医者,楽人など専門家、職業人を含んでいた。プラトンは、原素材(ヒュレ)から世界を創る建築(構築)者としての神をデミウルゴスとするが、手工業者は、身体は職業的技術によって痛めつけられ、魂も下賤な仕事のためにいじけていて、「哲学者」にはなる資質がないと言う。プラトンが生きた世界において、職人技は外国(アジア)人と奴隷の仕事であった。磯崎がデミウルゴスの名において問題にするのは、《建築》が「構成(コンポジション)」ではなく、「構築(コンストラクション)」に関わっているということである。「構成」は、装飾や芸術性といった美的な領域に関わり、「構築」は構法、構造、素材といった技術的領域に関わる。そして、歴史的建築の様式、装飾的要素を排除し、「構築」を中心に据えたのが近代建築であった。
[18] Don Lang, Madhavi
Desai, and Miki Desai: “Architecture & Independence The Search for
Identity-India 1880-1980”, Oxford University Press, 1997
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