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2021年3月30日火曜日

現代建築家批評16  建築トリックスター  石山修武の軌跡

 現代建築家批評16 『建築ジャーナル』20094月号

現代建築家批評16 メディアの中の建築家たち


建築トリックスター

石山修武の軌跡

 

 不思議な、実に魅力的な「建築家」である。国際的知名度、一般社会へのポピュラリティにおいては、安藤忠雄や藤森照信、伊東豊雄、隈研吾に劣るかもしれないけれど、日本を代表する「建築家」としてよく知られている。東京大学と並んで、数多くの著名「建築家」を輩出してきた早稲田大学のプロフェッサー・アーキテクトでもある。

しかし、石山修武にいわゆる「建築家」のイメージはない。ある意味では変わった「建築家」である。異端児といってもいい。「建築界の放蕩息子」[i]「駄々っ子」[ii]などとも言われる。

第一に、その仕事の全体はいわゆる「建築家」の範疇をはみ出している。石山修武は、「建築家」であるよりも、辛口のエッセイスト、コラムニスト、批評家としての貌を持っている。誤解を恐れずに言えば、建築よりも文章を書くことに意欲的である。若い頃、建築家にとって、つくることと書くことと、どちらが重要か、どちらが歴史に残るか、をめぐってしばしば議論した記憶があるが、いつも「つくることより書くことだ」、と言っていた。「僕は実ハ、何かを書いていないと自滅してゆくタイプだ」と自ら書いているし[iii]、現在も「世田谷村日記」というブログを書き続けている。

 第二に、その建築家としての「作品」は、いわゆるオーソドックスな「作品」とは異なっている。その表現は、デビュー作である「幻庵」(1975年)以降、近代建築の規範を批判することで一貫している。建築のポストモダンの旗手たちが、やがて、ネオモダンに回帰していくなかで、その「依怙地さ」は徹底している。

第三に、その仕事は、通常の意味での建築家の仕事のやり方を逸脱してきた。作品リストをみても、いわゆる公共建築は、吉田五十八賞の「伊豆の長八美術館」(1984年)、日本建築学会賞を受賞した「リアスアーク美術館」(1995年)ぐらいではないか。石山の場合、まちづくりを仕掛けて仕事にするのがむしろ普通だ。また、ツー・バイ・フォー(2×4)部材でつくった遊具を売ったり、日本各地の商品をダイレクトメールで販売したり、活動は多彩である。ある種の運動家といってもいい。

この連載でも何度か触れてきたけれど、石山さんとは『建築文化』の連載シリーズ(197577年)「近代の呪縛に放て」の頃出会った。また、ハウジング計画ユニオン(HPU)を結成し、『群居』を同人としてともに刊行してきた。「幻庵」で華々しくデビューして既に眩しい存在であったが、未だ確固とした仕事もポジションもなく、「建築家」としてどう活きていくかを模索する姿を身近に接して見てきた。

 僕が京都に移って(1991年)からは、ほとんど会う機会はなくなったけれど、その活躍の様子を『室内』などで読みながら、はらはらしながら注目してきた。心底共鳴しているのは、石山さんの近代建築批判が近代建築を支える建築の生産・流通・消費の構造そのもの、凡庸な諸言説を突き続けていることである。

  

 DAMDAN・幻庵・コルゲート

母の実家のある岡山で、疎開中に生まれ東京で育つ。父親は新宿高校の校長を務めた教育者で、祖父も学者だったと聞かされたように思うけれど、その生い立ちについては詳しくは知らない。何故、建築の道を選んだかについては、「岩登りに明け暮れていて、それなら土木だと友人に言われて、間違えて建築に入った」などと書いているが、冗談だろう。早稲田大学理工学部建築学科に入って学部生の時に友人と教会を設計したというから、意欲的な建築学生だったのだと思う。日本が東京オリンピックから大阪万国博Expo’70へ向かう時代である。高度成長期のさらに絶頂期であり、建築界は昂揚していた。

大学院で建築史(渡辺保忠)研究室に学んで、終了と同時に、同級生で白井晟一研究所に2年いた竹居正武[iv]ら同級生と一緒にDAMDANを創設している(1968年)。1988年に早稲田大学教授となるまで、丁度20年間、石山修武の活動のベースとなったのがダムダン空間工作所(1973年設立)である。大学院時代には、GKインダストリアルデザイン研究所(栄久庵憲司)でバイトをしたというが、「インダストリアルデザイン」のセンスを石山はもともと持っているのだと思う。「空間工作所」という命名にその志向が現れている。

「食い扶持はアイデアコンペなどで勝率8割ぐらいだった」とか、「食えなくてバナナの皮を炒めて食べていた」とか、様々な「伝説」を自ら振りまいているが、ダムダン空間工作所がどのような仕事をしてきたかについては、「日本万国博覧会のパヴィリオン設計の下請け、さらには元請けらしきことをする」(1969年)「シェル石油のサービススタンドのシステム開発を手掛ける」(1971年)「アメリカより住宅一軒分の部品を輸入して2×4で建てる」「マツダディーラーの店舗展開のシステム開発を手がける」(1973年)「東芝系列店舗のデザインシステム開発を手がける」(1981年)「サンチェーン店舗のデザインシステム開発を手がける」(1982年)「東京ガス店舗のシステム開発を手がける」(1983年)など断片的に明らかにされている。

石山の場合、こうした仕事は、決して身過ぎ世過ぎの事務所維持のためのものではなかった。大学院生の時に、「セキスイハイムM1」を設計した大野勝彦との出会いもこうした仕事においてである。建築の生産システムそのものが、その建築論、設計手法の根幹に関わることを示すのが一連の工業用コルゲート・パイプを用いた作品である。

川合健二とその自邸(愛知県豊橋市)との出会い(1969年)がやはり決定的であった。僕もまた、遅ればせながら(1980年)川合邸を訪問して本人にインタビューをする機会を得たことがあるが[v]、物としての自邸の迫力とその理論に圧倒された。中谷礼仁がまとめた労作『川合健二マニュアル』(アセテート、2007年)がある。

『川越の家』『望遠鏡』(1973年)『治部坂キャビン』(1974年)を小須田広利らと手掛けた後、生み出されたのが石山修武の出世作であり最高傑作である『幻庵』( 1984年)である。

 

 バラック浄土

 一方、石山の文筆活動も「川合健二」論(『建築』19705月)とともに開始されている。毛綱モン太(毅曠)と交互に連載した『建築』の「異形の建築(「奇館異館」)」シリーズ(19735月~19745月)を僕らは愛読していた。既に触れたが、毛綱モン太の「給水塔の家」のプロジェクト(毛綱邸計画)(『都市住宅』196910月。「北国の憂鬱」と同時発表)は強烈で、「反住器」(1972)は衝撃的であった。石山修武、毛綱モン太(毅曠)の二人がいつに最初に出会ったのかは知らないけれど、二人とも建築史の専攻である。渡辺豊和もそうで、3人揃うと、建築は歴史だよ、というのが常だった。「二笑亭」「栄螺堂」「田谷山喩伽堂」「巌窟ホテル」「吉見百穴」・・・毛綱は専ら歴史を遡行しながら「異形の建築」を掘り起こし、石山は現代の「奇館」を専ら探して来た。実に建築の世界は奥深く、日本にも奇怪な建築があるものだ、という強烈な印象が残っている。石山の独特の感性が探し当てた「作品」群は、処女論集『バラック浄土』(相模書房、1981年)にまとめられることになる。この「バッラク」感覚は、石山に一貫するものである。

 60年代から70年代初頭にかけては、当時の学生たちには全共闘の時代である。何故か、石山本人は口にすることはない。東洋大学で大田邦夫研究室の助手をしていたことがあるが、短期でやめている。学生に対しては実に激しい教師として知られるが、教育という仕事については父親から引き継ぐものがあったのだと思う。『高山建築学校』には第一回(1972年)から鈴木博之とともに講師として参加している。倉田康男が立ち上げたこの場所の驚異的な持続性については、『高山建築学校伝説 セルフビルドの哲学と建築のユートピア』(趙海彦+高山建築学校編集室、鹿島出版会、2004年)がある。

 移動を重ねたジプシースクールを第一期として、高山・数河(すごう)の地を拠点とした、その草創期、一度だけ呼ばれて(1981年)酷い目にあった記憶がある。鈴木、石山というこの二つの強烈な個性の毒気に当てられたのである。

石山の「類稀なる青春」としての『高山建築学校』は、早稲田大学に赴任して以降も『早稲田バウハウス・スクールの実験』(早稲田バウハウス・スクール編、TOTO出版、2000年)へ引き継がれていくことになる。

石山修武が建築家としての道を模索する過程で、もうひとつ注視しておくべきは旅である。初の海外旅行は韓国(1973年)、翌年インド、シルクロード・テヘラン(1978年)、アンナプルナ(1981年)と、とりわけアジアを歩いている。アジアについては、マニラのフリーダム・トゥー・ビルド(F to B[vi]を案内した時(1983年)のことがなつかしい。貧困者のためにセルフビルドのための部品を市場価格より安く売る。石山の「D-D(ダイレクト・ディーリング)方式」、『「秋葉原」感覚で住宅を考える』(晶文社、1984年)と共鳴するところがあったのだろう。頼みもしないのに部品の値段をチェックし出すのである。

 

『群居』・DD方式

『群居』は、198212月に『創刊準備号』、翌年4月に創刊号「特集・商品としての住居」を出して、以降18年間、同人たちの時代の経験と思索を書き留めた。200010月に50号「特集・21世紀の遺言」、そして12月号に『終刊特別号』を出して終止符を打つ。

 この経緯については、この連載の冒頭に書いた[vii]。『群居』は、僕の育った母胎である。編集長であったけれど、全てをリードしたのは「セキスイハイムM1」で知られる大野勝彦である。確認しておくべきは、『群居』はメディアであって、あくまで「実践」が先であった。HPU(ハウジング計画ユニオン)の結成が先であって、『群居』の創刊が後なのである。

『群居』の初心は公式には創刊宣言[viii]に示されている。そして、共有されていたのは小野次郎の「住み手の要求の自己解体をこそー住宅の街路化への提案ー」[ix]である。また、石山修武+大野勝彦+布野修司+渡辺豊和の座談会「箱・家・群居―戦後家体験と建築家―」(創刊準備号)「消費社会の神話と住イメージの商品化」(創刊号)「セルフビルドの可能性と限界」(第二号、1983年)「職人幻想と建築家」(第三号、1983年)に生の形で示されている。

何故、渡辺豊和がHPUなのか。振り返って、今猶、不思議な感じがしないでもない。しかし、「商品化住宅」や「建売住宅」など「建築家」の手を出す領域ではない、と思われていた中で、真っ先に建売住宅を「作品」化(「ロマネスク桃山台」など)したのが渡辺豊和だった。

石山修武は、しかし、『群居』に全精力を注いでいたわけではない。これも伊東豊雄に即して触れたが、並行して一方で「アデル・カルサヴィーヌの会」(伊東豊雄・石山修武・長谷川逸子・六角鬼丈・山本理顕)を結成して(1982年)、「商売」を仕掛けようとしている。また、それ以前に石井和紘、毛綱毅曠、六角鬼丈と「婆沙羅の会」を結成している。

 HPUと平行して、ダムダン空間工作所は、「D-D方式」と呼ぶ直接住宅部材供給システムの試行を開始していた(1980年)。『群居』編集会議では、住宅生産(・流通・消費)供給システムをめぐって、システムかゲリラか、全体か個の表現かをめぐって、いつも熾烈な議論があった。

 大野勝彦のシステム論と石山の部品論が見事に交錯していたのが『「秋葉原」感覚で住宅を考える』である。後にもう少し丁寧に見よう。

 

 松崎・職人共和国・気仙沼

 「幻庵」のあと、石山は、木造のジオデシック・ドーム[x]を手がけるが、なんとなく、オーソドックスな建築家としてのデビューを模索しているようにも見えていた。「つくしんぼ学園」という保育園の写真を見せられて、発表しようか、やめておいた方がいいかとか、わいわい議論した記憶がある。安藤忠雄が「住吉の長屋」(1978年)で、象(㈱象設計集団+㈱アトリエ・モビル)が名護市庁舎で(1981年)で日本建築学会賞を獲った。毛綱毅曠の「釧路市博物館・釧路市湿原展望資料館」(1984年)伊東 豊雄「シルバーハット」長谷川逸子「眉山ホール」(1985年)が続いて、ポストモダン建築の公認化が進行しようとしていた。コルゲート、そしてジオデシック・ドームとは別に石山の建築への一般解を見たい、というのが当時身近にいた僕らの期待でもあった。

石山が仕掛けたのが「伊豆の長八美術館」である。『群居』の刊行を準備していた1982年、ほぼ1年をかけて構想をまとめ、『左官教室』の特集「伊豆長八読本」(9月号)として発表する。小さなメディアかもしれないが、全国の左官職人がついていた。「入江長八」という鏝絵の名手の象徴性もある。時の松崎町の依田町長が乗ったのもよくわかる。絶妙の仕掛けであった。縁を最大限利用する仕掛けが石山の真骨頂である。その経緯は『職人共和国だより 伊豆松崎町の冒険』(晶文社、1986年)にまとめられている。

「伊豆の長八美術館」(1984)によって第10回吉田五十八賞を受賞する。建築家としてスタート台に立ったといっていい。40歳であった。

 松崎での設計活動は、「野外劇場」「ときわ大橋」(1985年)「カサ・エストレリータ」「なまこ壁通り集計計画」「ポケットパーク」「公衆トイレ」(1986年)「時計塔」「浜丁橋」(1988年)「入江橋」(1991年)と続き、まちづくりとして展開されていく。石山は、日本におけるタウンアーキテクトの可能性を逸早く鮮烈に示したのである。「伊豆の長八美術館」は日本建築学会賞の候補になっている。審査員たちが二の足を踏んだのは、岩地地区のカラーリング計画である。地区全体の住宅をうこん色、くちなし色などで統一しようという試みが建築家の横暴、ファッショと評価されたのである。その評価の当否は別として、景観法が施行された(2004年)現在から見るとあまりにも早すぎたといわざるを得ない。

 

 気仙沼・早稲田・リアス・アーク

 こうして、石山はコルゲートからまちづくりへ、職人の世界を媒介としながら向かっていくことになる。松崎から向かったのは気仙沼である。この間、『室内』で「現代の職人」の連載を行い(19855月~939月)、後に本[xi]に編んでいる。そして、気仙沼でのまちづくりは、「同時進行の物語」として企業PR[xii]に連載され、これも『世界一のまちづくりだ』という本[xiii]にまとめられる。

 一方、いわゆる「建築家」としての表現活動も開始される。ロックミュージカル[xiv]の舞台美術の仕事が舞い込んだ1985年以降、美術館やギャラリーの展覧会[xv]にも相ついで出展している。「幻庵」「伊豆長八記念館」をものにした石山への関心が一般に広がる中で、『建築文化』誌は、「特集:石山修武―家づくりへの探検」(19869月)、「特集:石山修武―街づくりへの探検」(19877月)と相次いで特集を組んだ。

 石山修武が早稲田大学の教授に招かれるのはその直後である。44歳であった。早稲田の場合、40歳を過ぎると教授にする、という慣行があったからそう異例とは言えないけれど、石山の上の世代から見ると驚きの人事であった。なにせ、「バラック様」の建築しか作品がないのである。

 この間、僕はアジアに「夢中」であり、学位論文を書くのに全時間を注いでいたから、経緯は全く知らないけれど、石山が「健康建築」批判を繰り返す背後に人事に絡むバトルがあったのではないかと、後になって思ったことがある。

 いま振り返って、早稲田大学にポジションを得て以降の石山が大きく変わった印象はない。松崎から気仙沼へ、その「運動」は回転していく。その「自己運動」の結果が作品として結びついた「リアス・アーク美術館」(1994年)で、プロフェッサー・アーキテクトとして、早稲田大学建築学科では博士の学位に匹敵するとされる日本建築学会賞を受賞するのは1995年である。

『世界一のまちづくりだ』を読むと、松崎と気仙沼の職人たちと、バルセロナでガウディのサグラダ・ファミリアを石工としてつくり続ける外尾悦郎たちが同時並行的に重層するネットワークの要に石山がいることが分かる。石山修武は類稀なる仕掛け人である。

「建築界の放蕩息子」というなら、素手(セルフビルド)で産業社会に挑むドン・キホーテといおう。狷介(けんかい)と山本夏彦に評されたというが、確かに「狷介孤高」の雰囲気がある。含羞(がんしゅう)がその背後にあることも山本夏彦さんの指摘の通りだ。

や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物、時には悪意を持って行動するが、結局は良い結果になることが多い、抜け目ないキャラクターとして描かれることもあれば、愚か者として描かれる場合もある者、トリックスターと言えば、しっくりくるのではないか。

 



[i] 第二回織部賞(1999年)受賞の際の受賞者紹介。

[ii] ごうどゆきお『早大石山修武研究室・建築は終わらない』あとがき、王国社、2001

[iii] 「長い長いあとがき」『石山修武の設計ノート―現場の声を訊け』 (王国社、2003年)。

[iv] 現在も代表取締役を務める。白井晟一研究所をやめて、すぐさま伊政府給費留学生としてローマ大学留学、1969年 アンジェロ・マンジャロッティ事務所(ミラノ)を経て、1971年にDAMDANに復帰している。

[v] 200Cまでの世界 トータル・エネルギー・システムと住宅」『新建築』19807月号(『川合健二マニュアル』、アセテート、2007年、所収)。

[vi] W.キースの率いたハウジング・グループで、市場価格より安く建材部品を供給するワークショップを拠点としていた。

[vii] 「01 メタボリズム批判の行方 ポストモダン以後」20081月号、「02 誰もが建築家でありうる」2月号

[viii] 『群居』創刊の目的:雑誌『群居』創刊の目的は、以下のように簡潔に示される。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出きる限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジア地域との経験交流を積極的に取り上げること等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」(『群居』創刊準備号)。

 基本的には、「建築家」が住宅の問題にもっと積極的に関わるべきだ、というのが創刊の大きなモメントである。また、住宅の問題を家族のあり方、まちづくりのあり方との関係などを含めて、総合的に捉えたい、というねらいがある。さらに、グローバルな視点を大事にし、特にアジアの住宅の問題をとりあげたいという希望があった。そして、様々な業界の利益にとらわれない自由な批評精神が原点である。

[ix] 『建築文化』、19818月号

[x] 「渥美二連ドーム」(1976年)「卵形ドーム」(1981年)

[xi] 『現代の職人』、晶文社、1991

[xii] is19856月~19946

[xiii] 『世界一のまちづくりだ』、晶文社、1994

[xiv] 西部劇場『HOSS

[xv] 板橋美術館「都市に棲む」展、198583日~98日。ギャラリー間「石山修武の仕事 技術の万華鏡」、1986610日~73日。東京国立近代美術館、「近代の見なおし ポストモダンの建築 1960-1986」、198696日~1019日。世田谷美術館「日本の美術館建築」展、1987221日~322日。 

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