長谷川堯 『神殿か獄舎か』、相模書房、一九七二年
キーワード:神殿、獄舎、昭和建築、雌の視角
本書を最初に読んだときの衝撃は今も忘れない。本を読んで著者に会いに行ったのは後にも先にもこの一書である。ちなみに徒党を組んで会いに行ったのは杉本俊多、三宅理一、千葉政継の面々である。六〇年代末の世代として、僕らはまず原広司のいささか難解な『建築家に何が可能か』を貪るように読んだ。しかし、時代が現前させたのは、「建築家に何も可能ではない」、「建築とは暴力である」というテーゼであった。
神殿か獄舎か!。
運動の後退期にこのスローガンは実にわかりやすく耳に入った。近代建築家を「神殿志向」として切って捨てる。そして、建築家は所詮「獄舎づくり」だ、と言い切る。その宣言は妙に時代の気分に合っていた。本書は日本における最初の近代建築批判の書である。日本における近代建築批判の書として、僕はこの『神殿か獄舎か』と磯崎新の『建築の解体』(美術出版社、一九七五年)をあげる。いずれも六〇年代末の雰囲気の中で書かれた。もちろん、二書の近代建築批判の位相は異なる。長谷川堯は磯崎新を神殿志向として予め切って捨てている。
『神殿か獄舎か』の第一の意義は、「昭和建築」という範疇を提出したことである。すなわち、「昭和」の戦前戦後を通じて連続するものとして日本の近代建築思想を捉えたことである。具体的に、「建築の<昭和>の中央を汚す傷のようにかなりの数の歴史様式の建築と、さらにはあのファシズムの横行に付随したいわゆる帝冠式といわれる建築が分断している」が故に「<昭和建築>を戦後建築に顕著な合理性にもとづく近代的な建築の流れとして総合的に把握し、一つのカテゴリーとすることに無理があるように思われる」なかで「昭和のはじめに国際的に起こった近代合理主義建築運動の中で、特にそれが後発工業資本主義国において展開する時、ある歴史生理的必然から生ずるいわば正常な排泄物に近いものが歴史様式特に帝冠様式ではないか」として、<昭和建築>=近代合理主義の建築という規定を行うのである。
長谷川堯が<昭和建築>なる範疇を提出したことの意味は、日本の近代建築を<昭和>という具体的なコンテクストに置いたことである。また、戦前戦後を通じて一なるものを対象化したことにある。
そこで彼が意図したのは、「大正建築」を救うことであった。具体的に『神殿か獄舎か』において大きな評価が与えられているのは豊玉監獄の設計(獄舎づくり!)で知られる後藤慶二のような建築家である。また、前川國男、丹下健三といった近代建築の主流(神殿志向)ではなく、分離派や村野藤吾のような大正期に出自をもつ建築家である。
長谷川堯の評論のわかりやすさはAかBかというディコトミーにある。続いて出された評論集は『雌の視角』(相模書房、一九七四年)と題されるが、「昭和に対する根源的批判は、メスの思想の存在によってのみ可能である」というのがテーゼである。明治以降、日本の建築のあり方を大きく規定してきた構造派を支えた思想をオスの思想、大正期の後藤慶二や分離派を支えた思想がメスの思想である。さらに言えば、メス性とは、自己性であり、想像性であり、身体性である。「外から上から」に対する「内から下から」という言い方もなされている。
こうした単純な図式の反転には当初から違和感があった。ひたすら「内へ」「自己へ」向かえば、近代建築批判が達成できるとは到底思えなかったのである。長谷川堯の一撃は必要であった。続いて上梓された『都市回廊』(相模書房、一九七五年)も含めてその歴史の読み直し作業の意義は大きかった。しかし、その安易な二者択一の図式とその反転がポストモダンの建築を自閉の回路に導き入れたのはおそらく間違いないのである。
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