『建築雑誌』編集長日誌 布野修司
2002年12月
ライデンで凍えながらも楽しい議論
20日に届いた。
2002年12月2日
「建築雑誌」10月号、地域の眼でとりあげた宮崎の矢房さんからメールの転送。
件名 : テレビになるそうです
謹啓 諸塚村矢房です。お世話になります。
もう数日で12月師走、師でなくとも走りたくなる季節ですが、スローフードの世の中、立ち止まって一息ついてみましょうか。
さて、わがむらで取り組んでいる産直住宅をNHKさんが番組にされるそうです。
「都市と農山村が手を取り合うことによって、お互いの暮らしを豊かにしていこう」というのをコンセプトにしているそうです。
以下の予定だそうです。全国版は、あこがれの「ETV2002」です。もし興味のある方はご覧下さい。
A.九州ローカル
1.放送番組 NHK総合テレビ(九州地区のみローカル)
九州沖縄スペシャル「手を結ぶ都市と農村」
2.放送日 佐賀県以外の九州各県→平成14年12月6日(金)19:30~
佐賀県のみ →平成14年12月13日(金)19:3
3.放送内容 諸塚村産直住宅の取り組みをふくむ九州内4か町村のリポート番組
B.全国版
1.放送番組 NHK教育テレビ(全国放送)
ETV2002「産直住宅が繋ぐ都市と山村~宮崎県・諸塚村の取 り組み~」
2.放送日 平成14年12月19日(木)22:00~22:49
3.放送内容 諸塚村産直住宅による都市と山村の交流を紹介
ps. 我々の実践していることは、まちとむらとがともにその長所を生かして短所を補完しあうことで、持続可能な社会をつくって行こうという理念に基づいています。そこにあるものを評価し、それを生かし、生活する。決して経済的には豊かかどうか解りませんが、精神的には豊かなあたたかい関係を保ち、背伸びせず、まちとむらとが対等な関係で、相互扶助して実現できる顔の見える流通システムをつくることで、生きがいのある自立するむらが持続できるのではないかという実験です。まちもむらもそれぞれの人たちが主役で、みんなでつくりあげたネットワークがすべてです。(かかわり方によって、現在主役の人もいれば、かつて主役だった人もいるので、あまり特定の人物だけにスポットを当てないでくださいとお願いはしました。)人によりいろんな視点がありますし、テレビというメディアの特殊性もありますので、どういう番組になっているかは見てみないと解りませんが、7月から4ヶ月間以上、取材日数延20日くらいかけています。結構期待できるのではないでしょうか。
以上です
謹言 諸塚村 企画課長補佐 兼 しいたけの館21館長 矢 房 孝 広
小野寺さんから2月号の原稿の集まり具合の報告。
布野先生
サミタ・マナワドウさん、モハン・パントさん、黄 蘭翔さんの原稿を頂きました。ありがとうございます。先週末が原稿締切。現在38人中16人の原稿が集まりました。行けると思います。
2002年12月4日
15:00より、磯崎アトリエにて、磯崎、松山、藤森、鼎談。あんまり前もって、レジュメをつくったりはしないのだけれど、松山さんが前もって考えたい、ということで、次のような簡単なメモを予め送った。また、僕の建築論集Ⅰ『廃墟とバラック---建築のアジア』をあらためて送った。僕が「アジアの中の日本建築」について考えていることはそうそう変わりはない。
アジアの中の日本建築
世界建築の行方
西欧は依然としてモデルであり続けるのか
世界近代システムの行方(パックス・アメリカーナpart2)と日本建築
アジアの中の日本建築という視点と立場があり得るのか?
Ⅰ 戦後建築とアジア
・・・・・・・・・・白井の天壇、宋廟
磯崎、松山、藤森・・・それぞれのアジア体験
藤森輝信の仕事の意味
磯崎新のアジア戦略
Ⅱ 日本近代の建築にとって、「アジア」はどのようなものでありえたのか。
伊東忠太の評価?
法隆寺論 日本建築のルーツ
東洋建築史学 仏教建築
大東亜建築様式 国民建築様式の課題
日本建築と植民地 近代建築の実験場
Ⅲ 21世紀とアジア建築
ポスト・モダン以後
何が世界建築の鍵となるのか?
日本建築はどうなっていくのか?
もちろん、この通りには進まなかったけれど、話は弾んで優に二時間半を超えた。削り落とすのがもったいない。
名残惜しく終了後、用事があると本郷へ向かう藤森先生を見送って、松山さんと二人で反省会。話は延々続いてつきない。
どうせ明日は京都で編集委員会なんだからと、二人で京都の我が家へ。愚妻も加わって深夜まで歓談。久々思い切り話した感じ。
2002年12月5日
京都川端通り赤垣屋にて第18回編集委員会。 議題は以下の通り。
朝、松山さんを研究室へ案内。松山さんは一風呂浴びると温泉に。
1.前回議論の確認 ……………………………………………………………(資料1)
2.特集企画について
○進行状況の確認
・2月号「アジアのなかの日本建築」…………………………………(資料2)
→特別寄稿の原稿確認
○企画案の審議 …………………………………………………………(資料3)
・4月号?「建築コストと市場-バブル崩壊後の展開と将来」(岩松委員)
・7月号「建築形態の数理」(大崎幹事)
3.連載について……………………………………………………………………(資料4)
・6月号までの執筆者確定
4.その他
・ 前川康氏(前川建築研究室代表)よりの投稿「大洲城天守閣復元について」(第16回委員会提出資料)の再提出原稿について。………………(資料5)
特集について決断しなければならない。もっとも煮詰まったものをという方針だったけれど、4月号は「コスト」で行くことにする。暮れの京都、ということで、岩松、遠藤委員の他、伊加賀委員、古谷幹事も欠席だったから、えいや、と決断するしかないではないか。
後は特に大きな議論はない。突然思いついて、2003年12月特集号「建築学の行方」(仮)についての案をしゃべる。各ジャンル、大学者について書く、あるいはインタビューするというだけのものであるが、皆さんあんまりピントこなかったようだ。トップ・サーティ・アンケートも依然として生きている企画だ。
続いて懇親会。松山さんの教え子という京都女子大学の井上えり子先生もも加わった。岩下委員、八坂委員、青井委員、それに小野寺さん、片寄さんぐらいが京都外からの参加でこじんまりとした楽しい懇親会となった。
二次会は、IWAKI、なんと、浅川委員、二次会目当てに参加。青井先生の学生さんも加わって一転賑やかな大パーティとなった。
2002年12月9日
建築学教室で防火訓練。救護班長に命ぜられる。というか、日常そうなっている(ということを2週間前に知った)。はしご車も登場する本格的訓練は初めての経験である。教護班長は担架で怪我人を救出する役である。何十万円もするんだから大切に扱ってくださいと言われた人形(人形で幸いであった。実際の人間だったら、4階から運ぶのは大変だった。)を二人で救出。「怪我人をひとり救出しました。もうもうと煙が出ております。異臭がしています。」と迫真の報告演技をしたつもりであったが、いささか自分でもとろかった。反省会で、「もうちょっと真剣にやって下さい」などと言われた。
インド大使館から、8月号特集について、お礼のfax。
2002年12月10日
明日、オランダへ出発(International workshop Mega-urbanization in Asia and
Europe: Directors of urban change in a comparative perspective:Leiden, 12-14 December 2002)というので慌ただしい。
発表原稿を直す前に、なんやかやとある。いなくなる間のことを順にイメージしながら用事を片づける。明日は修論の予備審査会(中間発表)だけど出席できない。出席しないのは京大に来て初めてである。4人の予行演習につき合うのは義務だと思うけど、あちらも、ぎりぎりの準備中。五月雨につきあう。インドネシアからのフェリー、タイからナウィットはパーフェクトに近い。パワーポイントの使い方、というよりプレゼンテーションの壺は心得ているし、絵柄もレイアウトもうまい。それに対して日本人学生の方が下手だし、緊張感が足りない。どなりちらしても時間切れだし、いい加減にアドバイスする。
突然お客さん来訪。技報堂の石井さんである。技報堂って皆さんご存じですか?『建築雑誌』の印刷をお願いしている出版社です。印刷というとおこられますね。意欲的に出版活動をされています。かく言う僕も、『建築.まちなみ景観の創造』(建築・まちなみ研究会編(座長布野修司),技報堂出版,1994年1月(韓国語訳 出版 技文堂,ソウル,1998年2月))という本を一冊出さして頂いております。韓国語訳も出ていますから立派なものです。一度小野寺さんから紹介して頂いたことがあるのですが、関西に出張するから寄りたい、というメールを頂いていました。残念オランダです、と返事していたのだけれど、石井さんもさるもの、一日予定を前倒しして、急襲した方がいい、と判断されたらしい。
最初にお会いした時にもそうだったけれど、学生主体の『京都げのむ』に興味があるとおっしゃる。特にどうこうないのだけれど、出版業界の話などする。いくつか企画の話も出る。
最大なのは、『アジア都市建築史』の三校を昭和堂の松井さんに届けること。時間切れである。研究室の金谷君が自宅まで持っていくというので頼む。深夜に金谷君から「任務完了」とメール。「ありがとう」と返す。
2002年12月11日
3:00頃起きてメール。ワークショップの組織者のフレークFreek Colombijnから、「ライデンは寒いよ。運河が凍っていてスケートができるからスケート靴もってこい」とメール。慌てて、セーターを追加する。スラバヤのシラス先生から、ジャカルタのオランダ大使館が休みでヴィザが出ず欠席とのメール。ショック。実は、シラスとライデンで会えることが最大の楽しみだったのだ。こちらもドタキャンしたい気分である。
朝5:50分自宅を出る。乗合タクシーで関空へ。今日は珍しく三人も先客。何カ所か回って結局8人、一人3000円だから、まあ商売にはなるか。我が家付近で10分遅れ、迷いに迷って、関空までぶっ飛ばす。電車の方が気が楽か。
飛行機の中では、論文読み続ける。司会、コメンテーター(ディスカッサンタント)のため、英作文をノートに書き付ける。久々充実した11時間。フランクフルトで2時間待ち時間があって、アムスへ向かう。
スキポール空港は今年二度目だし、何度も来ているから勝手知ったる空港である。ワークショップの事務局のアドヴァイスにトレーン・タクシーが安いと書いてあったので電車に乗る前に買う。3.5ユーロで最寄りの駅から目的地まで送ってくれる。事務局がとってくれた宿はライデン駅から歩ける距離であったが、荷物もある。ライデン駅に降り立つとさすがに寒い。我慢できなくはないけれど、それでも寒い。トレーン・タクシー乗り場を探すと、これまた乗合であった。若いご婦人を先に送って宿へ。宿に着いたのが18:00頃。チェックインすると、ウエルカム・パーティーが開かれている別のホテルへ直行。
Wednesday 11 December
18.00-19.00 informal
drink for those participants who are in town at Hotel De Doelen (Rapenburg 2,
Leiden, tel. 071-5120527).
図表入りの原稿届ける。pdfファイルで送ったのだけれどどうも届いていないようで気がかりであった。19:00までの予定だからぎりぎりである。ナスPeter J.M. Nas、フレークをはじめとする10人ほどの参加者に挨拶する。事務局の中心でメールのやりとりをしたライデン大学国際アジア研究研究所International Institute
for Asian Studiesのロージン女史Drs. Marloes Rozingにもはじめてあった。クスノという若いインドネシアからの建築家と色々話した。
19:30には散会。ホテルに帰ってバタンキュウ。
2002年12月12日
時差ぼけで3:00に目覚める。参加者のペーパーを読む。メールがうまく繋がらない。8:30に出て10分も歩くと会場のライデン大学のLAK Theaterに着く。辺りはまだ暗い。なるほど運河に薄氷が張っている。スケートができるというのはオーバーである。
本日のプログラムは以下の通り。今日は司会の役である。
受付をするとロージン女史が貴方の名前は覚えやすい、という。なぜかというと、Sinji Ono似ているからという。Shuji FunoとSinji Ono、随分違うような気もするけれど悪い気はしない。彼女はフェイエノールトのフアンだという。昨年買ったフェイエノールトのマフラーを僕はしているのだ。
Thursday 12 December
Introduction to the workshop
(chair: Freek Colombijn)
09.15-09.45 room 148 registration
09.45-10.00 room 148 welcome by Freek Colombijn; opening by Wim
Stokhof
10.00-10.45 room 148 Christoph
Antweiler, Makassar and Cologne; directors and directions of urban change
compared (discussant: Ot van den Muijzenberg)
10.45-11.00 room 148 coffee break
国際アジア研究研究所(IIAS)は8年前にできたという。ストックホフ所長の型通りの挨拶の後、早速、ドイツのトライアー大学文化人類学のクリストフが口火を切った。マッカサールとケルンの比較である。なんでMega-Urbanizationなのにマッカサールとケルンなの?(どちらも100万人ぐらいの都市だ)と思ったけれど、どうも理論家として敬意を表されているらしく、トップバッターに配されたようだ。都市の変化の指導者directorというテーマに対して「普通の人間の日常的判断が重要だ」というのが主旨。マッカサールの住区を丁寧に調べてインタビューしているのに好感をもつ。
発表は長くて20分。25分がディスカッションというルールである。
発表が終わると次々に質問が飛んだ。最初が肝心だと、おそるおそる「普通の人の日常的判断が大事だ、というのは賛成だけれど、それをオルガナイズするものの方がダイレクターと呼ぶに相応しいのではないか。トランス・エスニックなアイデンティティはどうやって形成されるのか」などと質問した。よく通じなかった。終わって、インドネシアのカンポンについての英論文手渡す。同じようなフィールドワークをスラバヤでしてきたというと、親しげに日本語で「どうもありがと」と返してくれた。
Introduction to the workshop (chair: Freek
Colombijn)
11.00-11.45 room 147/148 Giuliana Prato, London and Rome
(discussant: Rüdiger Korff)
11.45-12.30 room 147/148 Abidin Kusno, Whither urban nationalism?
Public life in Governor Sutiyoso’s Jakarta (discussant: Pratiwo)
次のセッションのトップバッターは、カンタベリーのケント大学の人類学の可愛らしい女性プロフェッサー、ジュリアナ、フランス語なまりの英語でわかりやすい。しかし、ローマとロンドンの比較はきつい。発表はメロメロであった。何故か「ガーデン・シティ」について力説する。ドイツ、ホヘンハイム大学のコルフがうまくコメント。クリスチャニティの首都ローマと世界経済の首都ロンドンの比較は確かに面白いとか何とかかんとか。コルフも理論家である。スリランカのヘティゲが植民地帝国主義の問題を提起して、プラトン先生立ち往生。
続いて、インドネシア人のクスノ、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校の助教授。この若い先生の英語に舌を巻く。9年アメリカにいると言うから当然だけど、頭も切れる。Abiden Kusno:“Behind the Postcolonial Architecture, urban space and political cultures
in Indonesia”,2000という本も名門出版社Routledgeから出している。隣に座っていたから聞くと、メダン(北スマトラ)出身で、なんとペトラ大学(スラバヤ)の建築学科出身だという。ヨセフ・プリヨトモJosef Prijotomo知ってるか、というと「僕の先生だ。尊敬している。」という。世の中狭い。ヨセフと僕はほぼ同い年で20年来の親友である。
クスノの発表は、ジャカルタ市長に焦点を当てながら、アーバン・ナショナリズムに焦点を当てようとするもの。ディスカッサントは、ジャカルタからやってきたプライウォ。兄貴分として、厳しいコメント。アーバン・ナショナリズムとは何か、その概念規定をめぐって他からも質問が飛ぶ。英語についていけない。司会が不安になる。
12.30-13.45 room 010A lunch break
昼休み、プラトン先生に、バンガローはインド起源であること、ガーデン・シティという理念は植民地体験が大きな基になっていることを伝える。何を読めばいいかとおっしゃるので、R.Homeの“Of Planting and Planning”を教えてあげる。
Centres of trade and industry (chair: Siri Hettige)13.45-14.30 room 147 Zhou Daming, Future development of
extensive metropolitan region & and urbanization of the Pearl River Delta,
China (discussant: Ton van Naerssen)
14.30-15.15 room 147 Gerard Oude Engberink, Rotterdam
(discussant: Hans Schenk)
15.15-15.30 room 148 tea break
広州から来た中山大学の周先生、パワーポイントが使えず、あせりまくる。彼は、無線で接続できると信じて疑わないで来たらしい。彼は、人類学でライデン大学にも同じ環境があると思っていたのである。しかし、このワークショップは都市人類学を中心とするワークショップらしく、OHPが主流である。とりあえず、次のファン・ダイクの南京についての発表を先行することにする。ロッテルダムについて発表する予定のエンベリンクは病気で欠席。エンジニアだからと手伝うも媒体を持ち合わせずどうしても接続できない。周先生は、草稿のみで発表することになる。
ファン・ダイクはエラスムス大学の経済学の先生。南京の情報産業に関するプロジェクトに関わっているらしい。司会の予定だったから、論文に眼を通していたけれど、ちっとも面白くない。案の定、テーマのダイレクターというのは何処に出てくるのかなどと厳しい質問が飛んだ。
周先生、予定が狂って、しどろもどろ。次に英語が下手なのは僕だから偉そうなことは言えない。しかし、周先生中国におけるモビリティの問題などを懸命に答える。
Centres of modernization (chair: Shuji Funo)
15.30-16.15 room 147 Meine-Pieter van Dijk, Nanjing, ICT
policies at different levels of government to develop this Chinese city
(discussant: Siri Hettige)
16.15-17.00 room 147 Soheila Shahshahani, Tehran, a mega-city
built without a vision (discussant: Peter Nas)
A director of urban change in colonial
times (chair: Shuji Funo)
17.00-17.45 room
147 Peter Nas and Kirsten Theuns,
Was H.F. Tillema a director of urban change? (discussant:
Harald Leisch)
南京のレポートがヘティゲの司会に回ったので残りは2つで少し助かる。内容はコーディネートできない、タイム・キーパーに徹すると最初に宣言。テヘランは行ったことがあるけれどビールが飲めなくて困った、と笑いをとって始める。なんとかこなす。テヘランは、ソヘイラ女史の発表。シャヒッド・ベヘシュト大学の先生。読んだところ、一番時間をかけた論文ではないかと思う。20分ではもったいない。a mega-city built without a visionというのに意見が集中。ヴィジョンなき、というのは信じられない、というトーン。しかし、僕は発表全体には好感をもった。
続いて、ナスと大学院生クリステンによるティレマについての発表。スマラン(中部ジャワ)で戦前期に居住環境改善を先導した興味深い人物である。何故か、読めないんだけど4冊ほど僕ももっていると言うと皆さん興味津々。医者であり、写真家であり、作家であり、市会議員であり、会社経営者であり、扇動家であり・・・このティレマをめぐって質問続出。急に思いついて、英領インドのパトリック・ゲデスと比較すべきではないかと口を挟む。なんとか15分オーバー程度でしめくくる。順に当てればいいのだから、楽と言えば楽。後は、ディナーの時にやって下さい、と言って締める。
18.30 dinner at Retaurant De Avonden (address: Choorlammersteeg 1/D, Leiden, tel. 071-5144000)
即、市中のレストランに移動。懇親会。ワークショップの楽しみのひとつでもある。ヨーロッパ側参加者に喫煙者が多い。コルフなどほとんどニコチン中毒である。ジュリアノ女史もお吸いになる。席は喫煙組と禁煙組に分かれた。必然的に禁煙組の席にはムスリムが多くなる。ソヘイラ、プライオ、クスノ、そしてヘティゲとはすぐ仲良くなった。プライオは、なんとアーヘン大学でマンフレッド・シュパイデルの教え子だという。シュパイデルは早稲田を出て、象グループの仲間である。ルシアン・クロールとも親しい。プライオは、ドイツ語、フランス語、英語を話す。今はライデン大学でナスと共同しているが、職がないという。心臓に問題ありということで、塩分を控えて特別注文している。ヨセフもよく知っているというし、クスノも含めて、シラスは来なかったけれどみんな仲間である。
インドネシア、中国、日本組はやや時差ぼけ。ディナーはお開きになりそうにないので、明日の準備もあるということで一足先に抜ける。勝手知ったるライデンの町である。ワインで温まった体には寒さもたいしたことはなかった。
2002年12月13日
やっぱり3:00頃眼が覚める。今日は発表とコメントをしないといけない。多少準備するけど、どうとでもなれ、という気分。ホテルでメールが繋がらない。朝食に行くと、ジュリアノ、フランク、コルフ、ハンス・シェンクなどが同宿であることがわかった。ホテルの前の運河に白鳥が数羽。なんとも言えない不思議な気分である。
Friday, 13 December 2002
In the shadow of the national capital (chair:
Ot van den Muijzenberg)
09.15-10.00 room 147 Marco Bünte, Padang (discussant: Freek
Colombijn)
10.00-10.45 room 147 Manuelle Franck, Surabaya (discussant:
Andrea Kilgour)
10.45-11.00 room
148 coffee break
「国家首都の影」と題して、西スマトラのパダンとスラバヤがテーマ。マルコ・ビュンテはドイツのミュンスター大学の政治学の若い先生。1999年の地方分権化政策のインパクトを評価するという内容。プライオなど、評価はちょっとはやいんじゃないの、すかさず反論。マヌエル・フランク女史は、フランスの地理学者。スラバヤについての地理学者らしい統計データを駆使した真面目な報告。好感をもった。スラバヤとマドゥラ島を結ぶスラマド・ブリッジの建設決定が話題となった。
隣のクスノの様子がおかしい。時差とジャカルタ経由で来たとかで暑さ寒さの急激な変化にやられたらしい。途中で僕にメモを渡して退出。「お前の論文は大変面白い。けれど、気分が悪いから、ホテルで休む。出席できなければ悪しからず」
The
Japanese model (chair: Giuliana Prato)
11.00-11.45 room 147 Shuji Funo, Never Ending Tokyo
projects: Catstrophe? Or Rebirth? Towards the age of community design
(discussant: Chris Dixon)
More Indonesia! (chair: Giuliana Prato)
11.45-12.30 room
147 Pratiwo and Peter Nas, Conflicting directions in
Jakarta (discussant: Giuliana Prato)
12.30-13.45 cafetaria lunch break
いよいよ出番。30頁ほどの原稿を20分は無理だから要点のみ話す。あんまりうまくいかなかったけれど、原稿を読むぐらいなんとかなった。震災、戦災を受けてその都度復興してきた東京、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す日本の都市というのはよほど奇妙と言うか、面白いらしい。「都市の死」というフレーズが異常に受けた。また、満州や台湾、日本の植民都市についての話が関心を惹いたように思う。ディスカッサントのクリス・ディクソンは一番きれいな英語を話す。イギリスの大学の先生だがどこの大学だか聞き忘れた。ヴェトナムの専門家で、T.G.マッギーを盛んに引用しているから、都市社会学が専門か。何点か丁寧なコメントを頂いたけれど、興奮していてあまり頭に残っていない。住宅生産あるいは建設産業と都市開発の関係をしどろもどろに力説して30分切り抜ける。アムステルダムは完成した都市で面白くない、などとナスが発言する。
続いて、プライオがパワーポイントを絶妙に使って、スハルト一家が如何にファミリー・ビジネスとして都市開発を行ってきたかを力説。こちらも大受けであった。
Restructuring of a socialist country
(continued) (chair: Reimar Schefold)
13.45-14.30 room 148 Harald Leisch, Hanoi: Urban planning in a country in transition
(discussant: Shuji Funo)
14.30-15.15 room 148 Chris
Dixon and Andrea Kilgour, Hanoi (discussant: Meine-Pieter van Dijk)
15.15-16.00 room 148 Hans Schenk, Between the imperfect past and the conditional future:
visions of Hanoi (discussant: Christoph Antweiler)
続いて、ハノイが三本。僕がコメントしないといけないハロルド・ライシュはヴェトナム・ジャーマン・センターのプロジェクトでハノイ工科大学に出向中である。いいセンスの論文で共感したけれど、全ての土地が国有であるにも関わらず都市開発のやりかたはまるで日本のようで、よくわからないからさらに説明をもとめた。特にホームレスが何故発生するのかを尋ねた。細かい質問は沢山用意していたけれど時間がなかった。クリスと一緒に発表した大学院生のアンドレアの英語は早くてついていけない。しかし、ハノイについては相当詳しかった。ハンス・シェンクはアムステルダム大学の老教授。論文の内容はイマイチだったけど、物知りではあった。
16.00-16.15 room 148 tea break
出番が終わってほっとする。みると隣に受話器。繋げるとなんなく繋がる。メールがどっさり届いた。
布野先生
山崎氏の件、どうもありがとうございました。
あとは学会事務局からご連絡いただきたいと思います。
なお、伊藤さんにお願いしている件は、国土交通省に依頼していただいて
おります。横須賀市と座談会部分を除いて、これでほぼ事前の原稿依頼は
終わりそうです。2002/12/11 岩松準
出発直前に依頼した4月号「コスト特集」(仮)の原稿依頼。山崎祐司氏が引き受けてくれたらしい。
脇田委員から「1月号アンケートのまとめ」の原稿送付
①アンケート原稿送付用01②アンケート原稿送付用02③自治体アンケート用
④グラフレイアウトimage⑤アンケートデータ
八坂委員から 鹿島・八坂です。
先週京都での編集委員会で、4月号予定(になりました)のコスト特集の座談会で、ゼネコン関係者の人選をおおせつかりました。とりあえず社内の施工系の人に相談しようと思いますが、電子情報がほしいので提案書のファイルをお送り願います。云々・・・
小野寺さんより、2月号座談会原稿・・・・・・・特に緊急のものはない。表紙について鈴木一誌さんから注文が入っている。
Crowded cities (chair: Patricia Spyer)
16.15-17.00 room 148 Siri Hettige, Colombo (discussant: Soheila
Shahshahani)
最後はスリランカ、コロンボ大学の社会学教授ヘティゲ。論文はマヌエル・カステル、アンソニー・キングなどを引いて、一番ラディカル。そう言えば、コルフもルフェーブルとカステルを引いていた。同世代である。あるいは彼らが少し上だろう。ヘティゲの論文は少し理論的すぎるという印象。
18.30~ dinner
at Peter Nas' home
一旦ホテルに戻って、タクシーでナスの家に。三度目である。奥様とは顔見知りだ。日本から持ってきたささやかなお土産を渡す。長女はデルフト工科大学の建築学科を出て活躍中である。随分と色んな人としゃべった。ヘティゲとはスリランカのゴールの調査についてしゃべった。今はコロンボでも調査できるから来い、と言われた。スリランカでは大学の教師はサイドワークがないと大変だといった昼間は聞けない話も出た。午後一杯ダウンしたクスノも元気に顔を見せた。「どうだった」としきりに聞くけど、「みんなに聞いてくれ」。
お開きの時間となって、ドイツ人組とタクシー相乗り。すると、コルフが折角だからもう一件寄っていこう、という。イングリッシュ・パブを覗くと、若者が溢れている。席がないのでホテルに帰って飲む。コルフ、ビュンテ、ハラルド・ライシュ、フノである。そこへアイントホーフェン大学のトン先生が合流。12時近くまで盛り上がる。ドイツは相当アジア研究に力を入れていることがわかった。若い二人には、つい説教じみたことを言ったりする。年ですね。コルフには、日本人研究者のことについても聞いた。タイ研究ということで石井米雄先生の名前が懐かしそうにあがった。
2002年12月14日
最終日である。出番は終わったので、気分爽快である。少し早めに行ってメールを送る。
Saturday, 14 December
Southeast Asian rivals (chair: Soheila
Shahshahani)
09.15-10.00 room
148 Ot van den Muijzenberg and Ton
van Naerssen, Manila (discussant: Zhou Daming)
10.00-10.45 room 148 Greg Bankoff, A question of vulnerabiity and capacity: the
risk of living with flood in Metro Manila (discussant: Manuelle Franck)
午前中はまずマニラが二本であるファン・デン・ムイゼンベルグ先生はアムステルダム大学の大教授の風格。英語もゆっくりとして分かりやすい。マニラの都市計画をめぐって、バーナムからイメルダ・マルコスまで、壺を押さえた話であった。昨晩のトン先生が補足発表。
続くオークランド大のバンコフ先生が実に面白い。昨晩ナス邸であって論文ものすごく面白いと伝えたのであるが、都市形成史を災害史の視点から捉えるという発表である。コミュニティ・ベイスト・リスク・マネージメントといった概念も僕の発表と重なっていた。
10.45-11.00 room 148 coffee break
Southeast Asian rivals (continued) (chair:
Peter Nas)
11.00-11.45 room 147 Rüdiger Korff, Bangkok (discussant: Meine-Pieter van Dijk)
11.45-12.30 room 147 Freek Colombijn, High hopes for tall
buildings, sweet dreams of smart cities; national government plans for the
expansion of Singapore and Kuala Lumpur (discussant: Abidin Kusno)
12.30-13.00 room 147 closing by Peter Nas
コーヒー・ブレークを挟んで、最後のセッションは、理論家二人。コルフは“Futures of Bangkok between Market and Localities”と題してしゃべったけれど、バンコクについてよりも、理論的枠組みにウエイトがあった。早速経済学者であるファン・ダイクが用語について噛みついていた。経済学と文化人類学どこでも同じような議論はある。
一方、フレークの方は意外にもスライド・ショーのようであった。クアラ・ルンプールとシンガポールについては多くが知っているから様々なコメントが飛び交った。しかし痛感したのは建築の世界が如何に知られていないかということである。KLのペトロナス・ツイン・タワー---ピーター・ナス・ツイン・タワーと言ったので皆大笑い---はムスリム風のデザインだというので、建築家はアメリカ人で、デン・ハーグ中央駅前のオフィスビル、アムステルダムの海洋博物館と同じ設計者だよ、と教えてあげた。
最後は、総まとめである。
どんな話題が出たか、ナスがまとめていく。
あくまでテーマは、Directors of Urban Changeだよ。確かに論文には単にMega-Urbanizationを問題にしているものが少なくなかった。DirectorsとはBringing man/woman back inだよ。ひとしきり、議論を総括した後、
「締め切りは2003年4月1日。皆さん論文を書き直して下さい。」字数はと誰かが問うと、すかさず、フレークが
「6,000 words」
100%保証できないけれど、出版するという。
以前書いた論文がドイツの出版社からもうじき出る。
Peter
J.M. Nas (ed.):Indonesian town revisited, Muenster/Berlin, Lit Verlag, 2002である。Shuji Funo:’Spatial Formation of
Cakranegara, Lombok’という論文が掲載される予定だ。
今回も本気でやろうかな、と思う。実に、充実した4日間であった。
2002年12月15日~16日
朝早く、ホテルに強盗の入るハプニング。警察が駆けつける騒ぎに。そのまま起きて帰国の途に。気分よく、機上ではスキポールで買い求めた、John Noble:”The Mapmakers”, Vintage, 2001とSimon Winchester:”Map That Changed the World”,Perennial,2001をペラペラとめくる。関空8:30着。
2002年12月18日
昨日、本日と学位論文公聴会。昨日は、田中麻里委員の公聴会であった。その準備もあるのに、この間、「地域の眼」、そして1月号、2月号特集で大変な時間を使ってもらっている。超人的な活躍である。
ちらっと本棚を見ると、なんとクスノの本Abiden Kusno:“Behind the Postcolonial Architecture, urban space and
political cultures in Indonesia”があるではないか! タイトルに惹かれて購入していたのである。
すぐメールを打つ。即、読めときた。当然である。
2002年12月19日
京都市文化功労賞を受賞した渡辺豊和さんを個人的にお祝いする。つもりでご馳走になった。建築の新しい方法が見つかったとかで、意気盛んであった。その方法をめぐっては、「京都からの発信:建築のフラクタル」と題してホームページで連載中である。http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/
受賞は人を元気にする。こちらも力を分けてもらった気がした。頼まれて以下のように前書きを書いた。
建築コスモロジーの最終局面:---無限連鎖の入れ子空間---建築の全く新たな手法へ 布野修司
これまでに見たことのない建築をつくりたい-というのは不正確だ-、これまでに-人類が、というべきだ-体験したことのない空間を創り出したい、という欲望は、どうやら渡辺豊和を捉えて死ぬまで放さないようである。
そして、彼はその方法を見つけたという。僕の理解するところによると、それは、部分が全体であり、全体が部分であるような、また、平面が断面で、断面が平面であるような、まるで無限の入れ子のような空間構築の方法である。
宇宙と身体、マクロコスモスとミクロコスモスを架橋する建築のコスモロジーを追い求めてきたコスモロジー派の建築家として知られる渡辺豊和であるが、さらに確実に建築の立ち上がる根源へと深化する道を見いだしたようなのである。
最大のヒントは宇治の平等院である。その形態分析は、それが稀有の建築であり、来るべき建築空間のあり方を胎蔵していることを明らかにしたのである。
そのディテールや部分を拡大したり、縮小したり、回転したりする操作の意味が突然閃(ひらめ)いたのだという。側で見ていた僕はあっけにとられるばかりであった。
今のところ平等院だけだ、と彼は言う。そして、だから平等院こそ京都の遺伝子であり、その方法に学ぶことが京都から世界への発信に繋がるのだという。僕の尊敬する東洋史学の泰斗宮崎市定先生が平等院についてまさに日本的であると書いていたことを思い出す。平等院の感性は西アジア、イスラームの感性に繋がっているのである。
渡辺豊和の、この新たな手法は、もしかするととんでもない建築ネットワークを探り当てているのではないかと窃かに思う。
クスノからメール。 Dear Professor
Funo,
I hope this message finds you well. I just finished reading your paper
with great interest. I was also wondering if any books have been written
on modern urban planning in Korean Penninsula during war time
Japan? Hope to stay in touch.
Sincerely
yours, Abidin
建築雑誌の広告についてクレーム。要検討。要調査。
2002年12月20日
最後の授業「世界建築史Ⅱ」、イスラーム建築について一気にしゃべる。午後、宇治市都市計画審議会。「容積率制限緩和適用除外区域の指定について」可決する。要するに緩和しないということだ。続いて、1月19日のワークショップの打ち合わせ。宇治市が少しずつ動き出している。
1月号の表紙文章が脇田委員から届く。
「設計入札・設計者選定を考える基本的視点」
日本建築学会では、「良い建築と環境をつくるための社会システム検討特別調査委員会」を立ち上げ、設計者選定の仕組みのあり方等について具体的な検討を始めている。編集委員会でもその流れをうけ、独自に公共建築の設計者選定のあり方の検討を行った。
ここに取り上げたのは、編集委員会での検討資料である。内容の詳細は特集記事を読んで欲しい。入札に対する基本的な考え方、なぜ自治体は設計入札を行うのか、設計入札の弊害、設計者選定方式を評価する視点、設計入札に代わる設計者選定方式について、検討を行った。
設計入札・設計者選定を考えるための様々なキーセンテンスを読み取ることができるのではないか。荒削りな部分も多いし、詳細な検討は上記委員会の報告を待つべきであるが、今回の特集で示された様々な視点・論点が、今後の設計者選定のあり方ひいては公共建築のあり方へ一石を投じることができればと考えている。
建築雑誌12月号届く。いい調子。しかし、正月休で一歩後退か?
2002年12月21日~23日
親父が体調を崩したという連絡があり、見舞いがてらに久しぶりに松江に帰る。松葉蟹をたらふく食う。
2002年12月24日
一月号用の編集長言送る。以下の通り。
未曾有の難局面
だからこそ、もっと議論を
布野修司
編集委員会を立ち上げるにあたって、いささか肩に力の入ったメモ*1をしたためて一年になる。もちろん、二年目もその指針には変わりはない。紙面が全てであり、それでこの一年を評価して頂くしかない。問題はこの一年でどれだけ実現できたかであろう。以下は自己評価であり、それを踏まえた二年目への心づもりである。
編集会議はとにかく刺激的な議論の場でありたい、というのが第一方針であった。少なくとも、編集長にとって編集委員会は刺激的な場であり続けているけれど、編集委員各自にとって果たしてどうか。
30人もの大所帯となると毎回全員出席というわけにはいかない。しかし、メールによる意見交換が強力である。本格的にメール会議を導入したのは初めてであるが、議論の密度はすばらしいと思う。「編集長日誌」に全ては記録できないけれど、編集長にはほぼ毎日メールが届く。もっとも、新しい企画、寄稿者についてアイディアが出てくるのはビール片手の懇親会(ノミニュケーション)であることが多い。編集会議は長くても二時間半、後は時間の許す限りの懇親会で楽しく情報交換するスタイルはさらに貫きたいと思う。
しかしそれにしても、編集委員はかなりの忙しさである。それぞれの分野で有能な諸先生を編集委員としてお願いしたからであるが、それぞれの現場で未曾有の構造改革が進行しつつあるからでもある。学会の抱える重点課題を列挙してみればわかるように、建築界は未曾有の難局面を迎えているという実感が編集委員会にある。
特集については全員参加が原則である。が、ある程度、担当制をとらざるを得ない。建築学の専門分化は想像以上に進行している感じがある。ただ、全てを委ねるのではなく、各編集委員が理解できないことは扱わない、というのは原則である。特に、松山委員、高島委員など建築界を外からも見据える眼が大きなオリエンテーションになっている。ただ、それでも記事、論考が難しい、という声が届いてくる。わかりやすく、というのは寄稿者への要望でもある。編集委員は全ての原稿に眼を通し、意見をいい、場合によって書き直して頂いている。相当な労力である。寄稿して頂いた先生には不愉快な思いも強い、結果として多くの時間を割いて頂くことになっている。でも、とにかくわかりやすく、ということは心がけたい。細かい話だが、短い文章に「はじめに」「おわりは」はやめる、といった原則も自然に指針となった。
編集作業はかなりのハード・ワークである。ヴォランティアでお願いするのは理不尽だと思うことが少なくない。特に、表紙の素材を用意して、特集の中身をわかりやすくインパクトある形で伝える作業がある。ある意味で楽しい作業であるが、特集内容を再度確認総括する作業が締め切りギリギリにやってくる。結構スリリングである。装丁そしてアート・ディレクションをお願いしたのは鈴木一誌さんだが、表紙にそうした仕掛けがあることを編集委員の大半は当初気がつかなかったのではないか。グラフィック・デザインの力については、是非、鈴木さんの近著『ページの力』(青土社)をご覧頂きたい。編集作業がいかにページの力に関わっているかを今更のように認識する次第である。
お気づきであろうか。全頁カラー化、頁数の大幅削減、大豆インキの使用、まず我が編集委員会が行ったのは紙面の構造改革である。カラー化については「よくお金がありますね」と何人かの先生に言われたのであるが誤解である。紙質や総年間頁数などを見直す経費削減の努力の一環として行ったことである。もちろん、小野寺さん片寄さん、斎藤専務理事、川田部長以下編集事務局の決断である。編集長としては、カラー化には反対が多いのではないかと不安があった。表だった反対意見は今日に至るまで届いていないが、まあ、時代の流れであろう。「建築年報」の通常号(9月号)への繰り込みも大きな転換である。
2002年1月号特集に対して、いきなりメガトン級の投稿が寄せられて身構えた。経緯は「編集長日誌」に記す通りで、4月号にその内容も掲載した。その後もいくつかご意見を頂いたが、大きな議論に展開しそうなものは少なかった。投稿は大歓迎である。各特集、記事をめぐってご意見を是非御寄せ頂きたいと思う。
テーマは山積している。とても2年間24号では足りない、使命感に駆られれば続投したい気分もある。それはともかく、時代の記録者として何がしか我が編集委員会の匂いが香っているのか、大いに不安である。表紙裏頁(松山巖)と最後頁の「建築のアーカイブス」(青井哲人)が編集委員会のアイデンティティを保証していてくれるのではないかと思う。
最後に宣言して目標としたいのは、本誌を月初めにお届けすることである。これだけの雑誌を限られたスタッフと予算で刊行し続けることは奇跡的である。皆様のご協力をお願いする次第である。
*1「ラディカルに考える---歴史に残るテキストを」、2002年1月号
2002年12月27日
第57回アジア都市建築研究会。朴重信君の「韓国巨文島」についての報告。巨文島の古島は、かつて無人島であり、日本人が移民して町をつくった。テーマは面白い。応地先生が久しぶりに参加、いつもながらの鋭いコメント。巨文島を英国が23ケ月に亘って押さえたのは、ロシアとイギリスとのグレート・ゲームの一環で、アフガニスタンの今日に繋がる問題だ、という指摘にはっとさせられる。
応地先生には『アジア都市建築史』の最後の校正をして頂き、今日、最後の「Ⅳヒンドゥの建築世界」の校正を頂く。最後に至っても、真っ赤である。ぞっとするけれど、いい本になる、という確信が持てた。
研究会の後、研究室の忘年会。久々のカラオケも飛び出して、楽しく、2002を締めくくる。
2002年12月28日
小野寺さんより今年最後のメール。
布野先生
「編集委員長より」の校正、ありがとうございます。
布野先生には今年一年大変御世話になりました。
布野先生を意気に感じ全力疾走するうち、瞬く間に終わってしまった一年でした。
改めて12冊を眺めてみますと、いろいろな思いがよみがえります。
最初は新しい仕事の流れで、事務局、編集プロダクション、デザイナー、印刷所と、スムースに流れないことが多かったのですが、ここに来てだいぶ慣れ、風通しもずいぶん良くなりました。1月号の作業もだいたい終わっていて、年明けに細かい作業を終えた上できるだけ早く印刷に回したいと思います。
布野先生はじめ編集委員の先生方には、ボランティアでよくぞここまで、と思うぐらいエネルギーを割いていただき、頭が下がる思いです。編集委員会の内外で議論に割いたエネルギーは、必ず誌面に反映されることも再確認しました。
あと12冊残っておりますが、来年も宜しくお願い申し上げます。
布野先生とって、来年は良い年になるよう祈念しております。
建築学会 小野寺篤
ご苦労様でした。よいお年を。
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