このブログを検索

2021年6月21日月曜日

プレハブリケーション 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993



 プレハブリケーション

 

            




 プレハブと言えば、まず想起されるのが工事現場の「現場小屋」である。あるいは、庭先に置かれる「物置」である。すなわち、「仮の」、「仮設の」、「現場ですぐ組み立てられる」建造物のイメージがある。

 また、プレハブというと一般的に「プレハブ住宅」のことであり、極めて具体的なイメージがある。わが国で最初に販売されたプレハブ住宅は大和ハウスの「ミゼットハウス」である。一九五九年のことなのであるが、それに続いた「セキスイハウスA型」(一九六〇年)、「松下1号型」(一九六一年)、「ダイワハウスA型」(一九六二年)など初期のプレハブ住宅は、平屋建てで一部屋程度のいわばバラックである。そのイメージが強烈なのである。「安普請」で、「画一的」だというのがプレハブ住宅のイメージである。

 しかし、プレハブというのはもともとプレハブリケイティッド(              )の略であり、「前もって予め工場生産された」というのが原義である。「仮の」とか、「安っぽい」といったニュアンスはない。しかし、実際、「安上がり」の建築の代名詞として流布したのは極めてアイロニカルなことであったと言えるかもしれない。

 わかりやすいイメージをまず手に入れておこう。ユニット住宅あるいはユニット構法とよばれるプレハブ住宅がある。日本では「セキスイハイム」が有名であるが、要するに、内外装まで工場で仕上げた直方体のユニットを積み重ねるだけで住宅になるそんな構法である。この構法だと現場ではほとんど作業は要らない。在来構法による木造住宅、大工さんを主体に数ヶ月かけてつくられる住宅と比べてみればその違いは明かであろう。プレハブ建築というのは現場でつくられるのではなく、別のところ(工場)でつくられて運ばれてくるものなのである。

 建築というのは本来一品生産が基本である。そして、現場生産が原則である。建築というのは、古来、それぞれの場所で、一個一個つくられてきた。しかし、このプレハブという建築の形態は違う。プレハブリケーションという概念は、建築の概念を全く転倒させるものと言っていいのである。

 プレハブリケーションという概念が生み出され、プレハブ建築が現れたのは言うまでもなく産業革命以降のことである。すなわち、建築生産の工業化、産業化(                 )とプレハブリケーションとは密接に関わる。建築生産の工業化の進展の指標となるのがプレハブリケーションである。そうした意味では、プレハブリケーションという概念と近代建築の理念とは不可分に結びついているのである。

 現場から自由であるということは、どこでも同じように生産が可能だということである。ということは、現場の条件、例えば天候などに左右されることなく生産が可能だということである。その分工期が短縮できる。また、それぞれの現場で職人など建設労働者をその都度組織する必要はない。すなわち、工業生産化によって、現場生産における不確定要素をできるだけ排除し、工程を合理的にコントロールすることが可能となるのである。建築生産の合理化はまさに近代建築の目指したものであり、プレハブリケーションはその大きな手段となるのである。

 さらにプレハブリケーションの前提のひとつは量産化(               )である。もし一品生産を基本とするならば、プレハブリケーションは必ずしも意味がない。その都度工場をつくっていたんではむしろコストアップにつながるのは当然であろう。コストダウンを計るためには一つの工場、一つのシステムを繰り返し使用する必要があるのである。最も有効なのは、同じ住宅を大量生産するような場合である。この量産化によるコストダウンという理念は、近代建築家の「大衆のための」建築を!というスローガン、建築の大衆化の主張と結びつく。安価で大量の住宅を大衆に供給するためにプレハブリケーションの手法は様々に追求されるのである。

 最も有名なのは、  グロピウスのトロッケン・モンタージュ・バウ(               )と呼ばれた組立て式構法である。一九二七年のワイセンホーフ・ジードルングにおいて始めて試作されたのであるが、厚さ一五センチの金属パネルをボルト接合によって組み立てる方式である。w.グロピウスのこの試作住宅をもとに一九三〇年代にはカッパーハウスというプレハブ住宅が商品化されたのであった。

 レンガ造りやコンクリート造りと違って、モルタルや漆喰など水を使わないことからトロッケン(乾いた)・モンタージュ(組立)・バウ(建築)と名付けられたのであるが、「乾式構法」と訳され、日本の建築家にもすぐさま大きな影響を与える。市浦健、土浦亀城、蔵田周忠らによって同様の試みがなされるのである。また、日本の建築家による試みとして先駆的な位置づけを与えられるのは、前川國男と   同人によるプレモス(      )である。戦後まもなく山陰工業と組んで開発され、北海道、九州などで炭坑住宅として建設されたのであるが、この場合は木造のパネルによる組立住宅であった。

 またもうひとつ、プレハブリケーションの前提となるのは、建築の標準(               )、規格化である。そして、さらに、部品化である。量産化のためには同一のものを繰り返し生産することが基本となるのであるが、建築の場合、されは理念としてはあり得ても、必ずしも一般性があるわけではない。しかし、量産のメリットを追求するためには何らかの規格化が必要である。現実的には、標準型を考えておき、そのヴァリエーションによって個別需要に対応するのが自然である。さらに、建築を様々な部品に分けて構成し、建物は異なっても、できるだけ部品を共通とすることで量産のメリットを追求するのが普通の発想である。部品化という手法もそうした意味では建築生産の建物でも一般的使うことができ市販されるものをオープン部品、特定の建物にしか用いられない部品をクローズド部品という。

 建築生産の工業化、量産化、標準化、部品化といった概念とプレハブリケーションという概念はおよそ以上のようである。プレハブリケーションの手法は様々に進展してきた。もちろん、百パーセントのプレハブリケーションということはあり得ない。どんな建築でも具体的な敷地に建つ以上、わずかでも現場での作業は残るからである。しかし、逆に、今日、プレハブリケーションと全く無縁な建築も存在しない。プレハブ化率とか仕上現場依存率といった指標がよく用いられるのであるが、工場生産された部品を用いない建築は産業社会においてはあり得ないのである。

 こうしたプレハブリケーションという手法によって支えられる建築のあり方に対して、われわれはどのような建築のあり方を展望できるのか。極めて大きなテーマである。近代建築批判の根底に関わるといってもいい。

 プレハブリケーションは、建築を場所(土地)との固有な関係から切り離すことを前提とする。そして、そのことにおいて建築のインターナショナリズムと分かち難く結びつく。しかし、やはり本質的に建築というのは具体的な場所に建つことにおいてのみ意味を持つのではないのか。地域地域で固有な建築の表現が成立するのが本来適ではないのか。建築におけるヴァナキュラリズムやリージョナリズムの主張は、建築の概念そのものに関わっていると言えるであろう。

 プレハブリケーションは、建築を容器としての空間に還元する。すなわち、建築は計量化された空間となる。その空間はどこでも生産可能であり、それ故、どこにも移動可能である。またいつでも交換可能である。こうした建築のあり方、空間のあり方を最もシャープに主張したのはメタボリズム・グループの建築家たちである。すなわち、極めてわかりやすく言えば、諸装置のビルトインされたカプセルによって建築や都市は構成され、その空間単位の移動、交換によって建築や都市の新陳代謝が行われるというのがメタボリズムの思想である。

 しかし、建築は必ずしも計量可能な容器ではない。交換可能な商品でもない。建築の本来的なあり方を考えるために、このプレハブリケーションという概念は極めて重要であり、この概念を如何に解体し、また建築という概念を如何に再構築するかはわれわれの大きな課題といえるであろう。 

0 件のコメント:

コメントを投稿