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2021年6月9日水曜日

韓国朝鮮建築 TBSブリタニカ 宗廟・・・・・

                      

韓国朝鮮建築

 

 

                     

 

宗廟

宗廟▼そうびょう▼Jongmyo▼李氏朝鮮王朝の歴代王と王妃のための祭祀を行う場所。李朝時代、精神世界の秩序を支配した礼制の頂点に立つ場所である。ソウルの昌慶宮の南側に接し、敷地面積は66191坪に及ぶ。斉宮領域、正殿領域、永寧殿領域が順に配置されている。1395年(太祖4年)に完成された宗廟は、創建から200年が経った1592年に豊臣秀吉の軍隊によって防火、焼失する。1608年再建。その後、安置される位牌が増えるにつれて、1668年、1726年、1834年と増築がなされている。正殿は25間(101m)×3間(12m)の規模で、切妻屋根をしている。単純、素朴な空間構成であるが、エンタシス式の列柱が並んだ長大、かつ厳粛な建築である。朝鮮時代には正殿前の廟庭で毎年4回の祭礼を行っていたが、1971年以後は毎年5月第一日曜日に宗廟祭礼を催している。

 

                          

孫東満氏家屋

孫東満氏家屋▼そんとうまんしかおく▼Sondongman-si-kaok▼韓国、慶尚北道慶州郡江東面良洞里所在の住宅。1458年に建てられた数少ない李朝初期の上流住宅。建築規模は約70坪。月城孫氏の大宗家の家である。行廊棟、主屋(内棟)、家廟(祠堂)の三つの領域で構成される。敷地全体は南向きだが、小高い丘の裾野に位置しているため、道からは行廊棟しか見えない。また、斜廊棟は主屋とつなげられて中庭を持つ□の字の平面となっている。特に祠堂は、斜廊マダン(庭)から正面に見えるように最も重要な位置に置かれ、宗家であることを象徴している。全体的に単純な架構と装飾のない素朴な表情は、当時の士大夫住宅の節制をよく示している。

 

 

玉山書院

玉山書院▼ぎょくさんしょいん▼Oksan-seowon▼韓国、李朝時代の大学者晦斉李彦迪(14911553)を奉祀する書院。慶尚北道慶州郡安康邑玉山里所在。1572年に建立された。書院は、儒学研究の「斎」と儒賢配亨の「祠」の機能を併せ持つが、進入部、講堂部、祠堂(廟)部、付属舎の4つの領域から構成されている。進入部に位置する無邊楼の楼下を通って入ると、大きさ12m×18mの中庭があり、これを取り囲む講堂領域が書院の中心空間となる。中庭は、両側にある斎の縁側、前後にある門楼と講堂の板の間(マル)など、開放的である。全部で17棟の建物からなるが、主要建物が進入部から、講堂部、続いて祠堂部が一列の軸線上に配置される全体の構成に特徴がある。

             

 

ソウル文廟成均館

ソウル文廟成均館▼-ぶんびょうせいきんかん▼Seoul-Munmyo-seongkyunkwan▼朝鮮儒学の最高機関。韓国、ソウル市所在。1398年に建立されたが、その後、火事や戦争で度々焼失し、1606年に現在の建物が再建された。成均館は、中国聖賢17位を奉る大成殿及びその左右にある中国と韓国の諸賢182位を奉る「廡」からなる宗教領域と、国立大学の性格を持つ明倫堂のある学校領域によって構成されている。大成殿は5間×4間の大きさで入母屋造りである。正面の1間は吹放しとして開放されている。地方の文廟は郷校ともいい、教育的機能が優先したのに対して、ソウル文廟成均館は宗教的機能を優先し、大成殿を前面とする前廟後学の配置が特徴的である。

 

演慶堂

演慶堂▼えんけいどう▼Yeonkyeongdang▼韓国、ソウル市の、朝鮮時代の王宮昌徳宮の庭園、秘苑の中にある住宅。1828年(純祖28年)建設。1500坪の敷地を持つ99間規模の、王が一般士大夫の生活を真似するために建てた住宅である。内棟、舎廊棟、行廊棟、別棟によって構成されている。女性の空間である内棟と男性の空間である舎廊棟は一般にははっきり区画されるが、ここでは全体的につながっており、大きな特徴になっている。家廟がないことなど、機能的にも通常の住宅とはいえないが、空間の構成、視覚的配慮と技巧は韓国住宅建築中最も秀でたものといわれる。

 

 

密陽客舎嶺南楼

密陽客舎嶺南楼▼みつようきゃくしゃれいなんろう▼Milyang-geksa-Yeongnamru▼韓国、李氏朝鮮時代の密陽邑城の中心施設であった客舎の密州館付属の楼閣。1844年建立。慶尚南道密陽市所在。南原の廣寒楼、清風の寒碧楼とともに朝鮮時代の代表的な楼閣建築である。密陽江の絶壁上に南面する3棟の建物からなり、東側より陵波堂、嶺南楼、枕流閣と呼ばれる。嶺南楼の構造は二高柱五梁(桁)で、前後左右に退(庇)を巡らした建物である。2列の内部高柱に4面の側柱が退梁(繋虹梁)と衝梁で連結され、「退間」が形づくられている。本楼は5間×4間規模で、3棟ともに入母屋の建物である。繋虹梁の木鼻に竜頭を彫刻した点などは、李朝時代後期の装飾的傾向を示し、中期以前の素朴な楼亭建築とは対照的である。

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