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2021年6月13日日曜日

日本の建築家 戦後 近現代建築 TBSブリタニカ

                      

日本の建築家 戦後

 

 

                     

 

 

白井晟一

白井晟一▼しらい・せいいち▼《1905京都~83》◇建築家。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)卒業。その後、ハイデベルク、ベルリンの両大学へ留学、ヤスパースやシュプランガーなどに師事し、ヨーロッパ中世精神史、建築史を学んだ。35年より建築設計に従事し始め、60年「松井田町役場」「善照寺」の設計で高村光太郎賞、69年「親和銀行本店」で建築年鑑賞、日本建築学会賞、74年「ノア・ビル」で日本サインデザイン賞を受賞。独特の精神世界の表現によって「情念の建築家」と称された。文章家、書家としても知られ、主なエッセイに「縄文的なるもの」(56)がある。

 

吉阪隆正

吉阪隆正▼よしざか・たかまさ▼《1917東京~80.》◇建築家。1940年早稲田大学建築学科卒業。50年に第一回仏政府給費留学生としてパリに留学。ル・コルビュジエのアトリエで学ぶ。主な作品に、「ヴェネチア・ビエンナーレ日本館」(55)、「ヴィラ・クゥクゥ」(56)「大学セミナーハウス」(71)などがある。多才であり登山家としても活躍した。「象設計集団」など多くの弟子を育て、その影響力は大きい。『ル・コルビュジエ』(54)以降、著書も多く、死後「吉阪隆正集」(117巻)(8486) がまとめられている。

 

磯崎新

磯崎新▼いそざき・あらた▼《1931大分~.》◇建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。1963年磯崎新アトリエ設立。作品として、「大分県医師会館」(63)以降、「群馬県立近代美術館」(74)「筑波センタービル」(83)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(90)など多くの話題作がある。1970年代から80年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

 

原広司

原広司▼はら・ひろし▼《1936長野県~》◇建築家。東京大学生産技術研究所教授。東京大学建築学科卒業。「田崎美術館」で日本建築学会賞(86)。「ヤマトインターナショナル」(87)で村野藤吾賞。91年「JR京都駅ビル再開発設計競技」において一等入選。「飯田市美術博物館」(88)「新梅田シティー・スカイタワー」(92)「内子町立大瀬中学校」(92)など作品多数。また、世界の住居集落についての研究を展開してきた。主な著書に「建築に何が可能か」(67)「空間<機能から様相へ>」(87)などがあり、建築理論家としても知られる。

 

 

槙文彦

槙文彦▼まき・ふみひこ▼《1928東京~》◇建築家。東京大学建築学科卒(52)。ハーバード大学等で学ぶ。SOM建築事務所、ジャクソン建築事務所に勤務の後、ワシントン大学、ハーバード大学助教授を経て、65年槙総合計画事務所設立。7989年東京大学工学部建築学科教授。59年メタボリズム・グループ結成に参画。群造形理論で知られる。「名古屋大学豊田講堂」(62)、「藤沢市秋葉台文化体育館」(84)で日本建築学会賞。「代官山集合住居」(67)、「幕張メッセ」(88)、「SPIRAL(84)、「京都国立近代美術館」(86)など作品多数。著書に『記憶の継承』(92)などがある。

 

安藤忠雄

安藤忠雄▼あんどう・ただお▼《1941大阪~》◇建築家。独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。デビュー作「住吉の長屋」(76)で日本建築学会賞(79)。自然と建築の調和を追求する建築家として知られ、「タイムズ」(83-91)、「水の教会」(88)、「光の教会」(89)など数多くの傑作がある。また、92年には、「セビリア万国博覧会日本政府館」の設計を手がけた。アルヴァ・アアルト賞(85)、フランス建築アカデミー大賞(89)など数々の賞を授賞。イエール大学、コロンビア大学、ハーヴァード大学の客員教授を歴任。

 

篠原一男

篠原一男▼しのはら・かずお▼《1925.》◇建築家。東京工業大学建築学科卒業。清家清に師事。「久我山の家」(54)以降、傘の家」「大屋根の家」「土間の家」「白の家」と一連の住宅を発表、住宅作家として知られる。「未完の家」以降の一連の住宅作品で日本建築学会賞受賞(71)。独自の住宅論を展開し、「住宅は芸術である」というテーゼが有名。その後、一般建築にも活躍の場をひろげ、「東京工業大学百年記念館」(87)、「熊本県中央警察署」(91)など多くの作品がある。

 

 

吉村順三

吉村順三▼よしむら・じゅんぞう▼《1908東京~.》◇建築家。東京芸術大学名誉教授。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。A.レーモンド建築設計事務所に学んだ後、41年に吉村設計事務所を開設。戦後、東京芸術大学で教鞭をとり、多くの弟子を育てた。坂倉準三、前川國男とともに設計した「国際文化会館」で日本建築学会賞を受賞(55)した。住宅作品を中心とした活動で知られ、「森の家」など、戦後住宅のモデルとなるような住宅作品を数多く手掛けた。「湘南茅ヶ崎の家」で表彰建築物設計賞、72年「ジャパンハウス」でニューヨーク建築家協会デザイン優秀賞。

 

 

菊竹清訓

菊竹清訓▼きくたけ・きよのり▼《1928久留米~.》◇建築家。早稲田大学理工学部建築学科卒業(50)。竹中工務店、村野・森建築事務所を経て、53年菊竹建築研究所設立。川添登・黒川紀章・槙文彦・大高正人らと共にメタボリズム・グループを結成。「か・かた・かたち」論、「代謝建築論」など独自の建築論を展開した。「出雲大社庁の舎」(61)で日本建築学会賞受賞。「スカイハウス」(57)、「ホテル東光園」(63)など多くの作品がある。また、「塔状都市」(59)、「海上都市」(60)といった都市プロジェクトも多く、沖縄海洋博覧会(75)において、アクアポリスを実現させた。

 

黒川紀章

黒川紀章▼くろかわ・きしょう▼《1934.名古屋》◇建築家。京都大学工学部建築学科卒(57)。東京大学大学院で丹下健三に師事し、62年より黒川紀章建築都市設計事務所を主催。60年代の日本の建築界をリードしたメタボリズム・グループの旗手として知られる。後に「中銀カプセルタワービル」(72)に実現されるようなカプセル住宅によって構成される未来都市のイメージをいち早く提示した。「広島市現代美術館」(88)で日本建築学会賞受賞。「国立民族学博物館」、「国立文楽劇場」など作品多数。海外の作品も多い。多彩な活動で知られ、『共生の思想』など著書も多数ある。

 

 

 

大谷幸夫

大谷幸夫▼おおたにさちお▼《1924東京~.》◇建築家、都市計画家。1946年に東京大学建築学科入学、以後60年まで丹下研究室に在籍する。56年、建築家の運動体である五期会の設立に参加、その中心的な存在として活躍する。その後も一貫して、建築、都市のあり方をめぐって発言を続けている。61年、株式会社・設計連合を設立。64年~84年東京大学都市工学科で教鞭をとる。「国立京都国際会館競技設計」において最優秀賞を受賞(63)。「金沢工業大学」(66)「川崎市河原町高層公営住宅団地」(68)、「沖縄コンベンションセンター」など作品多数。

 

池辺陽

池辺陽▼いけべ・ひろし▼《1920東京~.死亡》◇建築家。東京帝国大学建築学科卒業(44)。坂倉建築研究所を経て、東京大学で教鞭をとる。新日本建築家集団(NAU)の創立(47)に参加。住宅建築生産の工業化に取り組んだ建築家、住宅作家として知られる。戦後まもなくの「立体最小限住居」が著名。No.1住宅から番号をつけて百を超える住宅作品を残した。「モデュール研究会」を設立(55)し、空間の寸法体系についての研究を展開した。また、60年代以降、建築と産業界をつなぐ研究会を組織し、その実践を企図した。また、建築設計の方法論についての研究でも知られる。

 

 

 

 

 

清家清

清家清▼せいけ・きよし▼《1918.》◇建築家。東京工業大学建築学科卒業(43)。62年同教授、78年東京芸大教授を経て、デザインシステム主宰。開放的なワンルーム形式のなかに、畳、障子などの伝統的要素を持ち込んだ、50年代初頭の「森博士の家」で注目を集める。近代住宅と伝統をどう考えるか、いわゆる伝統論争のきっかけとなった。その後の「斉藤邸」、「宮城邸」、「坪井邸」、「自邸」など一連の住宅で日本建築学会賞受賞(54)。多くの建築を手掛けたが、一方で、住宅に関する一般への啓蒙に果たした功績が大きい。著書は「家相の科学」(69)「住まいのシステム」(70)など多数に登る。

 

 

浦辺鎮太郎

浦辺鎮太郎▼うらべ・しずたろう▼《1909倉敷~91》◇建築家。34年京都帝大建築学科卒業。倉敷レイヨンを経て、66年浦辺建築事務所を設立。「大原美術館分館」(61)「倉敷国際ホテル」(63)など、地域性を考慮した多くの作品がある。倉紡社長であった大原孫三郎・総一郎父子と共に、故郷倉敷の文化的景観の保存および環境形成に貢献した建築家である。倉紡発祥の工場を開発的保存の手法で転用に成功した「倉敷アイビー・スクエア」(74)は、その代表作品となった。

 

 

坂倉準三

坂倉準三▼さかくら・じゅんぞう▼《1904岐阜~1968.》◇建築家。1927年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業。29年に渡仏し、コルビュジェに学ぶ。40年坂倉準三建築研究所を創設。戦前の「パリ万博日本館」(37)は、鋼、ガラス、石綿スレート版などの現代的材料を用い、しかも日本的情感を生かしたものとして絶賛されグランプリを受賞した。日本への近代建築理念の定着を象徴するものとされる。作品に、「神奈川県立美術館」(51)、「新宿西口広場・ターミナルビル」(66)など多数。55年の「国際文化会館」、60年の「羽島市庁舎」で日本建築学会賞授賞。

 

今井兼次

今井兼次▼いまい・けんじ▼《1895東京~.》◇建築家。1919年早稲田大学理工学部建築学科卒業。翌年同大学の助教授となり、以後65年に退職するまで早稲田大学で教鞭をとった。作品に「早稲田大学図書館」(25)「大多喜町役場」(59)「日本26聖人殉教記念館」(62)「桃華楽堂」(66)など。大正末期から昭和の初期にかけて欧州の表現派の建築家やアントニオ・ガウディ、ルドルフ・シュタイナーを日本に紹介した。自らも彼らの手法を巧みに用い、陶片モザイクなどを多用した装飾的細部の豊かな建築を数多く残した。60年の「大多喜町役場」、63年の「日本26聖人記念館」で日本建築学会賞受賞。。

 

 

                        

建築家戦前                      

 

 

                     

 

 

後藤慶二

後藤慶二▼ごとう・けいじ▼《1883東京~1919.》◇建築家。1909年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、司法省に入り、東京中野の「豊多摩監獄」を設計(15年完成)した。その作品には、イギリスでラスキンらが唱えた中世主義の影響が色濃く、当時の建築界のクラシカルな作風とは一線を画していた。村野藤吾、今井兼次らに強い影響を与えた。夭折であった。主な作品に「豊多摩監獄」(15)、「明治神宮宝物殿コンペ案(三等一席)」(15)、「東京区裁判所」(19)などがある。劇場史研究でも知られ、著書に『日本劇場史』がある。

 

 

吉田鉄郎

吉田鉄郎▼よしだ・てつお▼《1894.死亡》◇建築家。1919年東京帝国大学建築学科卒業。逓信省に勤務し、逓信建築の基礎を築いた。鉄筋コンクリート造の特性を活かして、日本独自の表現を模索することにおいて日本の近代建築史に果たした功績は大きい。31年「東京中央郵便局」は、日本で最初のモダニズム建築として話題となった。柱と梁の真壁造で、日本の木造建築を抽象化した美学がそこにある。洋行後、39年に「大阪中央郵便局」を完成。それ以後北欧建築への傾倒を作品にみせている。著書にドイツ語による「日本の建築」、「日本の住宅」、「日本の庭園」があり、日本建築の海外への紹介という点でも大きな役割を果たした。

 

 

レーモンドアントニン

レーモンド,アントニン▼Raymond,Antonin▼《1881チェコスロバキア共和国・グラドノ~1976.》◇建築家。チェコスロバキア工科大学、プラーグ大学で学び、パリにてA.ペレーに師事する。1915年からフランク・ロイド・ライトに学ぶ。19年、帝国ホテルの設計管理のためにライトとともに来日。以後日本で仕事を行なう。前川國男や吉村順三など多くのすぐれた建築家を育てた。主な作品に、日本に於いてコンクリート打ち放しの住宅として先駆的であった 「レーモンド自邸」(24)や、「聖ポール教会」(34)、「リーダースダイジェスト東京支店」(51)などがある。

 

 

妻木頼黄

妻木頼黄▼つまき・よりなか▼《1859東京~1916.》◇建築家。1878年工部大学校造家学科入学。82年渡米、コーネル大学に学ぶ。84年に卒業。東京府へ勤める。86年臨時建築局からドイツへ留学。88年に帰国。90年から内務省技師。作品には、「東京府庁舎」、「広島仮議院」(ともに94)、和風の「日本勧業銀行」、「東京商工会議所」(99)、さらに「横浜正金銀行」(1904)、「日本赤十字社」(12)など。大蔵省営繕局にあって活躍した明治建築界の巨匠である。帝国議事堂(現国会議事堂)の建設をめぐる、妻木と日本建築学会の辰野金吾の対立は有名である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     

日本近代建築学者

 

 

                     

 

 

内田祥三

内田祥三▼うちだ・よしかず▼《18851972》◇建築家、建築学者。東京帝国大学卒業(1907)後、三菱地所入所。丸の内の三菱13号館の現場など担当。その後大学院で鉄筋コンクリートおよび鉄骨構造学を研究し、その開拓者となる。同大教授、さらに総長を歴任した教育者として著名。建築界の指導者として、辰野金吾、佐野利器に続く位置を占めた重鎮。安田講堂をはじめ、東京大学キャンパスの計画および建築の設計を行った。また、関東震災の際には、震災復興の陣頭指揮にたった。研究分野は家屋防火、建築法規、都市計画におよび、建築学の諸分野の基礎づくりに貢献。日本建築学会、火災学会、都市計画学会の会長などを歴任した。72年文化勲章授賞。

 

 

今和次郎

今和次郎▼こん・わじろう▼《1883弘前市~1973》◇建築家。建築学者。東京美術学校卒業後、創設直後の早稲田大学の建築学科に赴任、多くの建築家を育てる。民家研究の創始者の一人。また、考現学の提唱者として知られる。さらに、服装の研究家としても知られ、自身は、ジャンパーにズック靴のスタイルを通し続けた。衣食住すべてを総合した生活へのトータルなアプローチがその学の特徴である。大震後には「バラック装飾社」をつくって活動している。「考現学」の提唱によって柳田國男に破門されたエピソードは著名。建築作品はないものの、独自の都市研究、生活研究によって、建築界に新たな局面を開いた。

 

 

藤井厚二

藤井厚二▼ふじい・こうじ▼《1888.広島県福山~1938》◇建築学者、建築家。東京帝国大学卒業。京都大学に招かれ(21)、教鞭をとる。自邸を実験台にして通風、熱音、設備などの自然科学的な側面と美的側面との両面から住様式を探求。27年の自邸「聴竹居」は、木造平屋の主屋と閑室から成り、洋風生活を基本に和風生活の雅趣を取り込む。和・用の住様式の狭間で揺れ動いた日本近代住宅の試みの中にあって、ひとつの到達点として評価されている。その研究成果は、住宅論『日本の住宅』(28)に結実した。

 

 

 

西山卯三

西山卯三▼にしやま・うぞう▼《1911.》◇建築学者、建築家。京都大学名誉教授。京都大学建築学科卒業(33)後、石本喜久治事務所、住宅営団研究部を経て、京大講師、営繕課長。戦後同大学助教授、教授を歴任。学生時代にDEZAMというグループを組織して以降、青年建築家連盟を始め、戦後の新日本建築家集団(NAU)など、一貫して建築運動に関わる。食寝分離論に代表される住宅計画理論を確立するなど、日本における住宅研究、住宅問題の理論的研究の権威としての位置を占めてきた。『国民住居論攷』(43)、『これからのすまい』(47)を始めとする住居論の他、地域空間論、建築論、建築家論などに関する著作も多い。

 

 

 

吉武泰水

吉武泰水▼よしたけ・やすみ▼《1916.大分》◇建築学者、建築家。現国会議事堂の意匠を担当した吉武東里の長男として生まれる。東京帝国大学建築学科卒業(39)。同大学助教授、教授を経て、筑波大学副学長に転出(74)。以後、九州芸術工科大学、神戸芸術工科大学の学長を歴任。公共建築の計画、特に病院建築計画の権威として知られる。建築計画学という学問分野の設立と体系化に最も大きな功績があり、多くの建築計画研究者を育てた。作品に、「茨城県立中央病院」(1956)「東大病院全体計画」(60)「青山病院」(60)「栃木ガンセンター」(71)などがある。

 

 

 

 

 

村田治郎

村田治郎▼むらた・じろう▼《1895.9.23山口~1985.9.22》◇建築史家。京都帝国大学建築学科卒業(23)。南満州鉄道会社入社(24)、南満州工業専門学校教授として建築史、建築意匠を担当。この間旧満鉄沿線の歴史的建築遺構の調査、朝鮮の民家研究に努め、アジアにおける住居の発生と展開、中国大陸を中心とする住居形式の地域的交渉と変遷を論じた論文『東洋建築史系統史論』(31)を結実させる。37年に京都帝大教授に就任。中国建築の調査研究を続行し、『支那建築の研究』(41)を著す。さらに日本と中国の間の建築文化の交流を研究、法隆寺研究に新たな局面を開き、同寺金堂の火災後修理を指導するなどして49年に名著『法隆寺研究史』を発表した。日本、朝鮮、中国、インド、イスラームに関する広範な研究で東洋建築史の分野に多大な功績を残す。

 

 

太田博太郎

太田博太郎▼おおた・ひろたろう▼《1912東京~.》◇建築史家。1935年東京帝国大学建築学科卒業。43年に同助教授、60年東京大学教授、73年同名誉教授。74年九州芸術大学工科大学長。武蔵学園長。社寺、宮殿、民家、工匠など日本建築史のあらゆる領域に及ぶ研究を展開する。著作としては、『日本建築史序説』、『建築学体系ー日本建築史』、『奈良六大寺大観』のようにその時代の建築史研究の水準を総括するもののほか多数にのぼる。この他、法隆寺、平城宮跡などの建造物保存事業に多大の寄与をなしている。妻篭宿保存計画を指導し、町並み保存の先例としてこの方面の基礎を築いたことも特筆される。

 


                     

近現代建築

 

 

                     

 

 

明治生命館

明治生命館▼めいじせいめいかん▼東京都千代田区にある生命保健会社の本社ビル。1934年竣工。明治以来の半世紀にわたる様式建築習熟の頂点とされる。設計は様式建築の鬼才といわれる岡田信一郎。ルスティカ積みのベースメント、五階分通したコリント式の大オーダー、二段重ねのアティックという三層構成による堂々たるファサード(正面)と共に、秀逸な全体のプロポーション、細部装飾の充実が注目を引く。構造設計は内藤多仲が担当、設備は所員をアメリカに派遣して最新技術の導入を図った。岡田は遺作となったこの建物の完成を見ることなく1932年永眠した。

 

国立屋内総合競技場

国立屋内総合競技場▼こくないそうごうきょうぎじょう▼1964年竣工。同年に開催された東京オリンピックの水泳競技場として建設された。設計は丹下健三。構造設計は坪井善勝。高張力ケーブルおよび鋼材による吊屋根が二つの三日月形を互いにずらした平面を覆い、15,000人収容の大空間をつくり出している。構造と機能と表現が明快にまとめあげられた希有な建築物である。この建物は丹下の代表作のひとつであるとともに高度成長期の日本を象徴する大架構となった。

 

赤坂離宮

赤坂離宮▼あかさかりきゅう▼東京都港区赤坂にあった紀伊藩上屋敷を1872年に建物、敷地とも旧藩主徳川茂承が献上し、同年、赤坂離宮と命名されたのが始まり。1973年皇城の焼失により、89年まで仮皇居となる。現在の建物は皇太子時代の大正天皇のために計画されたもの。片山東熊が設計を担当し1909年完成。建築様式は当時の欧米の宮廷建築の通例であったネオ・バロック様式が採られた。建築構造では地震を考慮して煉瓦造、石張りの構造体を米国製の鉄骨で補強した点が注目される。室内は最高級の輸入調度品と今泉雄作、浅井忠、黒田清輝など当時の一流芸術家の作品で豊かに装飾された。現在は迎賓館となっている。改修を担当したのは村野藤吾である。

 

    

築地本願寺▼つきじほんがんじ▼東京、築地にある真宗寺院。1934年竣工。伊東忠太(18671954)設計。日本の仏教寺院の中にあってインド・イスラム様式を採る特異な建築。本堂平面は左右対称で中央に円筒状の屋根を持つ。外部は石造で古代インド仏教建築の様式を基本にし、細部にボロブドゥール寺院などの手法が折衷されるが、内部は概ね古来の日本仏寺建築の手法に準拠した造作を持つ。日本建築史、東洋建築史の創始者で、数多くの寺社建築を手がけた伊東の作品のなかでも奇異な作品の一つ。

 

 

筑波センタービル

筑波センタービル▼つくば-.▼筑波研究学園都市における最初の都心施設。1983年竣工。日本初のプロポーザル・コンペ方式によって選出された建築家磯崎新が設計を担当。ローマのカンピドリオ広場のパターンや古典建築の様式など、西欧の歴史的モチーフの不完全な形での引用による様式の相対化が試みられている。また斜めの壁など様々な仕掛けで、ヒエラルキーの欠如、喪失感を感じさせることに成功している。日本のポストモダニズムの初期の代表的建築として位置づけられる。

 

東京文化会館

東京文化会館▼とうきょうぶんかかいかん▼上野公園にある、建築家前川國男の代表作の一つ。1961年竣工。コンクリート打ち放しの独立柱とそれによって支えられた大庇が、両者の垂直性と水平性の特徴的な対比を生み出すとともに、大ホールや小ホールといった各機能を統合している。大ホールは六角形の平面形であり、音響的な評価も高い。ロビーやホワイエの空間は、林立する独立柱、ブルーの天井とライト、落ち葉模様の床タイル等、あたかも上野の森が連続するように配慮されている。また、専門家による、ホール内部の装飾、彫刻、造園などのデザインがこの建築の空間をよりいっそう豊かなものにしている。地下二階、地上四階。

 

開智学校

開智学校▼かいちがっこう▼松本出身の大工棟梁であった立石清重により設計・施工された、初期洋風小学校を代表する遺構。1879年竣工。漆喰塗りの擬洋風建築で、正面中央に、車寄せ、玄関、バルコニー、上部に八角塔を備える。特にバルコニーまわりの装飾、唐破風屋根と天使の装飾の組み合わせなどに当時の洋風建築の特徴がよくあらわれている。木造二階建。重要文化財。

 

 

広島ピースセンター

広島ピースセンター▼ひろしま-.▼資料館と記念館は1955年、国際会議場は89年に竣工。広島平和記念公園内に建つ記念館群の総称。設計は丹下健三。第二次大戦後の日本建築の出発を象徴する建築物。三つの建物から構成され、中心の「広島平和記念資料館」を挟んで、その西側に、「広島国際会議場」、東側に、図書室、集会室等の複合した機能を持つ「広島平和記念館」が建つ。資料館はピロティにより地面から浮き上がり、アーチ状の慰霊碑を通じて、原爆ドームを見通すことができる。ルーバーやピロティ柱のリズミカルな形態が全体的にモニュメンタルな景観を生み出している。

 

名護市庁舎

名護市庁舎▼なごしちょうしゃ▼沖縄県名護市にある鉄骨鉄筋コンクリート造、地上三階建の市庁舎。Team ZOO(象設計集団)+アトリエ・モビルの設計。81年度日本建築学会賞授賞作品。沖縄の強い日差しを遮り、通風を確保し、自然の風と換気によって屋内の居住環境を確保しようとした半外部空間「アサギテラス」と室内を通る「風の道」がこの建築の最大の特徴。伝統的な組積造を表現するために地場産業のブロックが内部、外部に多用される。地域に根差した建築として計画され、ポストモダニズムのひとつの方向性である「リージョナリズム」建築の代表的作品とされる。

 

 

霞が関ビル

霞が関ビル▼かすみがせき-.1968年竣工。三井不動産と山下寿郎の設計。耐震構造学の権威、武藤清が構造設計を担当。世界最初の耐震超高層ビル。建設技術の発達、コンピュータ技術の発展による剛構造から柔構造への構造解析方法の進展によって、地震国日本での超高層ビル建設の道は開かれたが、その可能性を初めて具現化させたものがこのビルである。そして、建築物の高さ制限が撤廃されたことの意味も大きい。これ以降、日本の都市の景観は大きく変わることになる。超高層ビル時代到来の幕開けを記した建造物である。

 

 

東京都新庁舎

東京都新庁舎▼とうきょうしちょうしゃ▼東京都新宿区にある地下3階、地上48階の都庁舎。19864月、9者の指名コンペの結果、丹下健三案が実施案となり、91年に竣工。最高高243mの第一庁舎と163.3mの第二庁舎、都民広場を囲む議会棟から構成され、議会棟-広場-第一庁舎-中央公園という軸が新宿新都心の新たな中心軸となり、国際都市東京のシンボルとなることがうたわれた。スーパーストラクチャー方式が採用され、柱のないフレキシブルな空間、情報機能の充実、災害時の防災拠点としての堅牢性を可能にしている。外壁には濃淡2種類の御影石が採用され、ゴシックリヴァイヴァルともいえる造形が異彩を放つ。

 

東京駅

東京駅▼とうきょうえき▼1914年竣工。辰野金吾後期の代表作。皇居の正面、丸の内の入り口に位置する。国家の表玄関として、中央玄関を天皇家専用、左右を民間用として造られる。当時、多くの追従者を生み、強い視角的効果を持つリズミカルな壁面の構成にその特徴を示す「辰野式」の建築作品である。ゴシック的な赤煉瓦の壁面を、開口部まわりの古典様式的ディテールや、ストリングコースなどの白の石、テラコッタが縦横に分断する。二つの大ドームを含む最上階は戦災にあって失われたままであるが、竣工時の壮大さを惜しみ、両翼ドームの復元を求める声がある。

 

 

住吉の長屋

住吉の長屋▼すみよし-ながや▼建築家安藤忠雄設計。1976年竣工。79年日本建築学会作品賞授賞作。大阪市住吉区の古い木造長屋の連なる一画に建つ。コンクリートの直方体を三つの部分に分割し、中央に中庭を配す。正面ファサードはコンクリートの壁に長方形の入り口が設けられただけで、極めて閉鎖性が高い。一方住居内では、中庭を中心に各部屋が配置され、空に開かれた空間を創造している。単純な形態と装飾を全く廃した打ち放しのコンクリートに特徴がある。都市住宅に自然を取り入れることに成功した珠玉の建築作品。

 

幕張メッセ

幕張メッセ▼まくはり-.▼ 別名日本コンベンション・センター。1989年竣工。槙文彦の設計。東京のウォーターフロント、幕張新都心開発の主要施設となる見本市会場である。国際会議場を中心とした巨大コンプレックスがのびやかな構成のうちにまとめられている。その中核となる大展示場は全長約600mの大空間を曲率約1kmの大屋根が覆う。槙は圧倒的な非人間的なヴォリュームの施設を、ヒューマンなスケールとして感じさせる工夫を試みている。

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