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2021年6月7日月曜日

 進撃の建築家 開拓者たち 第28回 最終回 「戦後建築」の初心とその遺伝子201812(『進撃の建築家たち』所収)



28回 結章                                    建J  201812

 

 「戦後建築」の初心とその遺伝子-

布野修司

 

 


「進撃の建築家」という連載タイトルは編集部から与えられたものである。瞬時に思い浮かんだのが『進撃の巨人』(諫山創)と東大全共闘の機関誌『進撃』であり、それを枕に「いま、若い建築家たちは何に対して「進撃」しようとしているのか?何に向かって闘おうとするのか、「進んで」「撃つ」「闘う」べき「巨人」とは何か?「進撃の建築家」の作品と活動を取り上げながら、自らの半世紀の歴史を重ねてみたいと思う」と連載主旨を記した(序章「闘う建築家」20169月号)。


 

 『進撃の巨人』

 『進撃の巨人』については、「巨人とそれに抗う人間たちの戦いを描く」という謳い文句と累計数千万部というネット情報を知るだけで、その内容についてはずっと気になってきた。そもそも、誰が何に「進撃」するのか、何と「闘う」のか、「進撃の巨人」とは巨人が「進撃」するということであろう、しかし、巨人と闘う人間の物語といい、英語タイトルは「アタック・オン・タイタン(巨人への攻撃)」である。

 『進撃の巨人』について折に触れて口にしていたのであろう、つい最近、全巻持っているというA-Forumの麓絵理子さんから、読みますか?と最初の10巻手渡された。一気に読んで、続きが早く読みたいと思っていたら、なんと、わが息子もe-bookで全冊購入済という。かくして、全26巻(200910月~(120129月~2620188月)(図①)を読んで全容を把握するに至った。「巨人」の描写に違和感があり(気味が悪い)、動画風の音表現とコマ割に戸惑い、登場人物の錯綜する関係に混乱したけれど、物語の重層的な構造には引き込まれた。確かに多くの読者を惹きつける魅力がある。




 物語は、巨人vs人間という単純な設定ではなかった。主人公(エレン・イェーガー)そのものが巨人化する能力をもち、人間対巨人の戦いという構図は、巨人化する人間同士の戦い(巨人戦争)、さらに巨人を操る国家間の戦争という2重、3重の構図となる。すなわち、自立的に営まれてきた三重に囲われた城壁内(パラディ島)と巨人の支配する外部(大陸部)という単純な構図ではなく、外部にもエルディア国とマーレ国の対立があり、収容所がある。エルディア国が立て籠もったパラディ島には王政が敷かれているが、始祖の血を受け継ぐ王家が「不戦の契り」をたてたという。日本の象徴天皇制や平和憲法を想起させ、エルディア国とマーレ国の対立は米ソ(冷戦構造)、米中の対立構造を思わせる。9人の巨人は、核兵器(遺伝子技術、ITC技術)を独占する大国を象徴するかのようである。様々な寓意を読み取ることができる。いまやNHKでアニメの放映が始まっている。宇宙へと、あるいは超未来へと物語を展開すれば、さらに連載は続くであろう。と思いながら、待てよとこの連載を始めた20169月の段階へ『進撃の巨人』の連載を戻ってみたところ(20巻)、その時点では、未だエルディア国の起源やマーレ国の存在は明らかにされていないのであった!

 「進撃の巨人」の主人公たちは104期生である。既に「巨人」化能力をもつものがいるが、誰もが「巨人」となりうる。「進撃の建築家」についても同じであろう。物語の展開は予測不能である。

 

 「第二の戦後建築」:『戦後建築論ノート』 

 「進撃の建築家」としてとりあげてきた建築家たちは30数名となる。なお、その作品を実際に見てその仕事について考えてみたい建築家は少なくない。連載中に、直接間接の情報によって取り上げるべくリスト化した建築家はさらに30数名に上る。当初の依頼は、1616作品、16ヶ月16号の連載であった。

 「311以後の建築家とは。自分語りと重ねつつ、これまでにない建築家像を実践する新世代に焦点を当てる」というリード文が付されてきたのであるが、編集部には、もう少し思惑があった。指令書には「新しい動き方をしている30代、40代の建築家を取り上げる。一見、突然変異的、異端の16人だが、成長時代から成熟時代と大きく劇的 に変化した日本社会では、20世紀的昭和型建築家職能はもはや通用しない。歴史の必然で生まれたミュータントと位置づける。特に311の原発事故後は、拡大型成長的価値観の崩壊と反省という点で日本社会の歴史的分岐点となるであろう。そういう意味で第二の戦後建築が始まったとも言えそうだ。そこで、『戦後建築論ノート』の布野修司がこの16人、16作から何を読み取るか、見ものである。建築への絶望から建築を始めたという布野修司、計画学への問いかけ、建築史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望など、布野修司の自分語りも重ね合わせて16人の建築家 像、建築家職能論を展開する。  とあった。

 1616作品というのは予め無理でありーそれこそ「20世紀的昭和型建築家職能」に拘っていることになろうー、新しい動きをする若い建築家たちを「歴史の必然で生まれたミュータントと位置づける」つもりはない。しかし、『戦後建築論ノート』の著者が若い建築家の新しい仕事をどう位置づけうるかは著者自身も興味があった。「計画学への問いかけ、建築史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望」などについては語れるだろう。『戦後建築論ノート』(図②)にしても、それを増補した『戦後建築の終焉』(図③)にしても、戦後建築の行方を展望しているのである[1]

 

 近代建築批判以後:『建築少年たちの夢』 

 身近に出会ってきた若い建築家たちの仕事に触れようというのが出発点である。それぞれの建築家たちが、同世代の誰の仕事を注目しているか、誰をライバルと考えているかを聞いて紹介してもらう、「進撃の建築家」の輪をつないでいくというのが方針であった。最初に渡辺菊真を選んだのは、アジア・アフリカでの活動、セルフビルドへの共感、太陽建築の展開、京都コミュニティデザインリーグ(CDL)など、連載の軸を体現している建築家だと思ったからである。渡辺菊真(開拓者01)が推薦してくれたのは、Studio Architect増田信吾・大坪克亘、UID Architectsの前田圭介・高橋一平といった面々であった。また、キュレーター・アーキテクトを目指す香月真大(開拓者15)君は実に情報通で、度々リストを示してくれた。女流建築家として活躍している人は誰ですか?と問うと、すぐさま岡野道子、中川エリカ、金野千恵、アリソン理恵、今村水紀+篠原勲、大西麻貴、瀬川翠、冨永美保、永山佑子、古市吉乃、常山未央、岩瀬諒子、植村遙といった面々の連絡先を送ってくれた。しかし、いずれも仕事に触れる機会はつくりだせなかった。東京にいるので、地方に足を運ぶ機会がほとんどつくれなかったのは心残りである。

 もうひとつ下敷きにしてきたのは、『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(2011年)である。「現代建築家批評 メディアの中の建築家たち」と題して20081月から201012月までの3年間、36回にわたって本誌に連載したものをまとめたのだが、実は、最後の3回は「建築の新しい世紀―建築家の生き延びる道」と題して、若い世代について触れている。本にする段階で分量の問題もあって、結局、20世紀前半生まれの世代に限定し、近代建築批判の建築家たち、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団、原広司、磯崎新という9の建築家(集団)のみについて絞った。藤本壮介、ヨコミゾマコト、馬場正尊、佐藤淳、西沢立衛、芦澤竜一、森田一弥、坂口恭平、岡部友彦、藤村龍至、山崎亮といった名を既に挙げている。布野スクールについても、森田一弥の他、渡辺菊真、山本麻子、丹羽哲也、丹羽大介、吉村理、黒川賢一、松岡聡、柳沢究、魚谷繁礼、正岡みわ子、水谷俊博、北岡伸一などがいる、と書いている。すなわち、本連載は、「現代建築家批評」の続編でもあった。

 渡辺菊真が渡辺豊和の遺伝子を引き継ぐように、岡啓輔が石山修武の高山建築学校を引き継ぐように、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕ら9人の「建築少年たちの夢」の遺伝子を確認しようとしたのが本連載である

         

 311 以後

 東日本大震災が日本を襲ったのは『建築少年たちの夢』の2校を終えた直後であった(図⑤)。「あとがき」には次のように書いた(2011411日付)。

2011311日、1446分、東日本大震災が日本を襲った。M9.0、史上最大規模の地震である。本書の二校を終えた直後であった。・・・その後一月を経て、福島の第一原発が未だ収まらない。日本は、あるいは世界は人類始まって以来の経験を共有しつつある。2011311は少なくとも日本の歴史にとって永久に記憶される年月日となるであろう。・・・・この国難ともいうべき日本の危機を前にして、敗戦後まもなくの廃墟の光景がまず浮かんだ。振り出しに戻った、という感情にも襲われた。そして、戦災復興からの同じような復興過程を再び繰り返してはならないと震えるように思った。戦後築きあげてきた日本列島のかたちがそのまま復元されることがあってはならないのではないか。エネルギー、資源、産業、ありとあらゆる局面で日本を見直し、再生させていく、世界に誇れる建築と都市が新たに創造されなければならない。そのために必要なのが「建築少年たちの夢」である。建築を学ぶものはすべてが日本再生のまちづくりに取り組もう。そして、現場で深く考えよう。そこに建築の未来を見出そう。次の世代として、世界をまたにかける建築家が生まれるとしたらその中からである。それは夢などでは決してない。」(図⑤)                 






 日本の戦後建築の歴史を、日本を代表する建築家の足跡を軸に、自らの個人史にも引きつけながら辿ろうとしたのが『建築少年たちの夢』である。後は、続く世代に期待したい、新たな建築の未来を「建築少年たちの夢」にかけたい、というのが『建築少年たちの夢』に込めた思いであった。

 

 アンシャン・レジーム

 311直後、多くの建築家たちはすぐさま動いた。アーキエイドArchi-aidグループの建築家の活動や伊東豊雄などの「みんなの家」がその象徴であるが、身近にも竹内泰グループの番屋建設(図⑥)、滋賀県立大学の木匠塾グループの番屋(図⑦)、陶器浩一グループの「竹の会所」(図⑧)「浜の会所」(図⑨)など、建築の新たな展開を夢見させる動きが展開されてきた。

 しかし、311から7年、事態は、期待していたようには動いてはいないように思える。とりわけ「フクシマ」は止まったままだ。先日、仙台で開かれた日本建築学会大会で「祈りを包む建築のかたちー福島・世界を念いながらー」(司会:大沼正寛、副司会:竹内泰 記録:新井信幸:解題:鈴木浩、基調講演:安田菜津紀:渡辺和生、青井哲人、MC: 坂口大洋)と題する、ある意味画期的な協議会が開催されたのであるが(図⑩)、報告と議論を聞いていて、福島の復興はまだ始まったばかりだ、そんな思いに囚われた。「解題」と題する鈴木浩先生の講演は、地域評価の基本を根底から見直す必要を訴えるものであったし、青井哲人+青井研究室が監修するNPO法人福島住まい・まちづくりネットワークの「福島アトラス」(010203)(図⑪)の刊行は、福島の過去・現在・未来を少なくとも江戸時代に遡って見つめ直そうとするものである。「原発問題」がはるかに長期的な歴史のプログラムを要求していることははっきりしている。





 大災害が露わにするのは、社会に潜在する諸対立、諸差別の構造である。被災地においてそれを一気に克服することはそもそも容易ではない。復興バブルの影響がたちまち日本全体に及んだことが示すように、問題は、被災地にのみあるのではない。あらゆる地域の建築家の日常の仕事のなかにある。それにしても、次々に大災害が日本列島を襲う。気候変動、地球環境問題も含めて、津波被害、原発、すべて人為すなわち人の営みがもたらしたことでもある。「エネルギー、資源、産業、ありとあらゆる局面で日本を見直し、再生させていく、世界に誇れる建築と都市が新たに創造されなければならない」「 戦災復興からの同じような復興過程を再び繰り返してはならない」「戦後築きあげてきた日本列島のかたちがそのまま復元されることがあってはならない」のである。

 しかし、露わになってきたのは、建築産業界のアンシャン・レジーム(旧態依然たる構造)である。重層下請構造の問題は、建設業界だけの問題ではないが、正規―非正規、外国人労働者といったより複雑で鵺(ぬえ)的な支配構造が成立している。戦前戦中の連続・不連続の問題は、「戦後建築」の出自に関わるが、「戦前の国体」が「戦後の国体」に引き継がれてきたように(白井聡『永続敗戦論』(2013)『国体論』(2018))、建設産業のアンシャン・レジームは、戦後も存続してきた(潜在し復活再生してきた)。「建築家」の存在は、ほとんど建設産業の巨大な構造に埋没しつつあるかのようである。「進撃の建築家」たちが挑んでいるのは、この巨大な構造である。

 

 デザイン・ビルド

 四半世紀ぶりに東京に帰ってきて、斉藤公男先生が代表となって2014年に立ち上げられたA-Forumアーキニアリング・デザイン フォーラム(ArchiNeering Design Forum 略称 A-Forum)に、AB(アーキテクト/ビルダー「建築の設計と生産」)研究会をつくっていただいた。斉藤先生、安藤正雄先生、そして広田直行先生らとともに、建築の生産と設計をめぐる様々な問題について議論してきた。まず問題となったのは「新国立競技場」の設計者選定、設計施工をめぐる問題である。続いて「デザイン・ビルド」そして「公共建築の設計者選定(コンペ)」の問題を問い続けてきている。

 日本における建築家の職能確立の過程は、ある意味では挫折の連続の歴史である。戦前の帝国議会に重ねて上程されて成立しなかった建築士法をめぐって争われたのはいわゆる「専兼問題」である。すなわち、建築設計業を専業とするか、施工も合わせて兼業を認めるか、と言う問題であった。背景にあったのは、「建築家」vs「請負」の対立である。第二次世界大戦の敗戦によって、再び、建築家の職能法の成立がGHQ体制下で議論されるが、結局、資格法として建築士法が成立することになる(1950年)。建築界の「アンシャン・レジーム」は維持されることになる。

 そして、設計施工の分離か一貫かという問題は、1960年代を境に大きく転換していく。アトリエを基盤とする個人の建築家では対応できない大規模なプロジェクトが出現してくるのである。建築の危機、建築家の危機が叫ばれたのは1960年代末から1970年代にかけてのことである。そして、1970年代末には、日本で建築家の職能確立を目指す団体である日本建築家協会JIAが公正取引委員会から独占禁止法違反の審決を受けるに至り、改組、会員数の拡大を迫られることになる。

 こうした経緯の詳細は『戦後建築論ノート』『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』(2000年)(図⑫)に譲るが、AB研究会における議論を通じて明らかになるのは、1990年代以降、デザイン・ビルドあるいはPFI事業が一般化しつつあり、ますます、「建築家」の存在基盤は縮小してきたように思える。JIA所属の建築家は約4000人、最盛期の半分であり、平均年齢は60歳を超えるという。

 

 そうした中で、本シリーズでとりあげてきた「進撃の建築家」たちは、それぞれに「闘い」、道を開きつつある。それぞれに評価してきたけれど、一言で言えば、彼らは全て「戦後建築」の初心、そして、近代建築批判の声をあげた「建築少年たちの夢」を確実に引き継いでいるように思える。JIAにしても相坂くんたち若い世代が新たな動きを始めている。彼らがミュータントと見えるとすれば、戦後日本の社会が変質(戦後レジームの総決算)してきたからである。戦後建築の初心を引き受けようとしてきたものには、「巨人の壁」に挑む「進撃の建築家」たちの活躍の場を用意する仕事が残されている。

 『戦後建築論ノート』の末尾には次のように書いた。

 「建築が様ざまな制度を通じてしか自己を実現することがないとすれば、制度と空間、制度とものの間のヴィヴィッドな関係をつねに見続けていく必要があるはずである」

 

  



[1] 日本の建築界の戦中戦後を問うたのが『戦後建築論ノート』(1981615日)である。第二次世界大戦に突入していった15年戦争期と建築の1960年代を重ね合わせて、近代建築の行方、産業社会の乗り越えの方向を展望したのであった。そして、1995117日の阪神淡路大震災は、日本の戦後建築の依って立ってきた根底を揺るがすものであり、その乗り越えの必要をますます意識させるものであった。阪神淡路大震災の大きなショックをバネに『戦後建築論ノート』を増補したのが『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(1995831日)である。

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