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2021年6月22日火曜日

インターナショナル・スタイル 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993


インターナショナル・スタイル

 

 




 インターナショナル・スタイル(国際様式)とは奇妙な言葉である。我々は現在この言葉を、ほとんど建築と同じ意味で使っている。しかし近代建築とは、それまでの様式建築を否定して生まれた建築である。したがって様式(スタイル)という言葉は嫌われたはずの言葉なのだ。

 ではなぜ近代建築が嫌ったスタイルという言葉が、当の近代建築を呼ぶ際に使われているのか。この謎解きをするには、この言葉が初めて使われた原典にさかのぼってみると良い。実はこの言葉が初めて使われたのは、近代建築運動が起こってからおよそ十年後、当初の運動の担い手とは一世代近く離れた若者達によって名付けられたのである。しかも彼らはアメリカ人であった。彼らは近代建築が起こったドイツやオランダを外側の人間として、謂はば旅行者の目で見てまわったのである。

 一九三二年、ヒッチコックとジョンソンの二人によって企画された展覧会がニューヨーク近代美術館で開かれた。これはヨーロッパの新しい建築をアメリカに紹介する展覧会だった。この時使われたインターナショナル・スタイルという言葉は、戦後アメリカが世界の建築の中心となったこともあって近代建築の同義語のようになった。しかしインターナショナル・スタイルという言葉は、既にこのときから、一九二〇年代のヨーロッパの近代建築運動とはあるずれを持った言葉なのである。

 一九三〇年前後は、近代建築の歴史の上で重要な時期であるように思われる。インターナショナル・スタイルという言葉が象徴しているように、この時期近代建築は大きく変質をとげたように思われるのである。まず第一に近代建築が始まって約十年という時の経過によって、第二に発生地であるドイツ、オランダ、ロシアなどから、イタリア、アメリカなどのまわりの国々へ空間的にも移植されることによって。

 インターナショナル・スタイルという言葉は我々に、近代建築の歴史を連続的に見ることを強いている。しかしここでは逆にインターナショナル・スタイルという言葉が持っている奇妙なずれを手がかりに、この言葉が発せられた一九三二年前後を境としての近代建築の変質を見てゆきたい。

 

 一九二〇年代の建築を考える時、我々は現在の目から、現在の建築のもととなったものだけ採り出して評価する傾向がある。こうして一九二〇年代は、インターナショナル・スタイルが形成される過程として描かれる傾向があるのである。しかし一九二〇年代を独自の時代として、現在と切り離して考えてみれば、この時代は新しい建築の在り方を模作する様々な実験の場であったと言えよう。それ自体としては玉もあれば石もある、様々な試行錯誤の場である。こうした視点から、この時代を次の四つに分けて考えてみる。

 

 一、表現主義、構成主義、機能主義等々

 二、ジードルンク

 三、バウハウス

 四、政治と革命

 

 第一番目は、形の構成の方法に関する様々な試みである。二〇世紀に入ると、それまでの組石造にかわって、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の新しい構造方法が普及しだす。組石造は自由に開口部をとれないから、極端に言うと建築家の役割は、あらかじめ与えられた構造体の表面に、様々な様式の中から自分の好みにあった様式を張りつけるということにあった。新しい構造方法を手にした建築家達が否定したのは、そうしたそれまでの建築の在り方である。彼らは表面の意匠だけにかかわっていた建築家の仕事を三次元的、全体的な構成という仕事に転換させた。また様々な様式のうちから恣意的に選ぶという在り方を否定して、一意的に形態が決まるという理論を提示した。機能から形態が決まるという機能主義の理論はその典型で、そのうちの極端なものは決定論に近い性格を持っている。

 二番目のジードルンクとはドイツ語で集合住宅という意味である。十九世紀までの建築家とは結局のところ、形の追求をするというのが仕事であり、生きがいであった。それにはパトロンに恵まれなくてはならない。またもともと建築家とは宮殿や大邸宅、教会などを設計するのが仕事であって、一握りの国王の芸術家であった。一九二〇年代が建築にとって画期的なのは、このとき初めて建築家の側から主体的に何を建てるべきかが問題にされた点である。ジードルンクという労働者のための集合住宅が大きなテーマとなった。形の問題よりも誰の為のものか、今何を社会は必要としているのかが重要視された。

 三番目にあげたバウハウスは教育の問題である。十九世紀まで、そして今でも何ら変わらないが、建築教育の問題は政治や行政の側の問題であった。それに対してほとんど唯一の例外として一九二〇年代のバウハウスがある。ヴァルター・グロピウスという一人の建築家が理想としての建築家像を想定し、実現のための教育方法を考案し、さらに実際に予算をとりつけて実行に移したのであった。バウハウスは、建築家の想像力がどこまで遠く及びえたかを示す里程標となっている。

 最後に、この時期の建築家の行動の典型として、美を追求することより先に政治的な活動に直接関係していった事例を挙げておこう。彼らにとって、自分の設計した建築の造形を誇ることよりも、社会はどうあるべきか、そのために自分は何をなし得るかが問題だった。一九一八年、ドイツで結成された芸術労働評議会は、建築教育の国家統制撤廃、建築家への国家的名誉称号廃止などの建築綱領をかかげ、政治的実現のための政府への働きかけ、あるいは自ら閣内に入ろうという活動を行っている。またこの頃、多くの建築家が革命後のロシアの社会建設に参加するためにでかけていったのである。

 (一九三〇年代以降の形態への自閉化)

 一九二〇年代が、建築家の意識が社会全般まで拡大し、社会の中での建築の在り方を問い直す様々な試みが行われた時代であったとすれば、一九三〇年代は、建築家の意識が後退し、自己の職分を忠実にこなしていく実務家と化していった時代だと言える。そしてこの傾向は戦後に引き継がれたのである。ここでは次の三つの面から、それを検討しよう。

 一、第三帝国様式と社会主義リアリズム

 二、イタリアのラショナリズム

 三、アメリカと戦後の建築

 一九三〇年代に入ると、ドイツとロシアという近代建築の主要な舞台において、主に政治的な圧力による役者の交替が行われた。ヒトラーとスターリンによって、第三帝国様式と社会主義リアリズムというそれぞれモニュメンタルな様式が採用されたのである。新しく舞台に登った建築家は、自己の職分を能率良くこなすテクノクラートであった。しかし同時に、この頃多くの建築家が転向している。またさらに、こうした変化は一部の政治的圧力によるだけでなく、民衆をも含んだ全世界的な判断だったとも言えるのである。たとえば住宅について言えば、インターナショナル・スタイルの陸屋根よりも、ナチスのすすめた切妻屋根の伝統的な住宅の方が人々に好まれた。社会全般の問題として、自らの社会の混乱の原因を分析し、そのための処方を下していくという精神態度自体が放棄され、民族の伝統に同一化することで問題をやりすごそうとする傾向にあった。

 このように一九三〇年代に入るとドイツでは、ナチスのもとで建築の方向転換が行われたのに対して、同じファシズム下のイタリアでは、逆に近代建築の花が開くことになる。しかし一九二〇年代のドイツやロシアの建築と比べると、外見上はインターナショナル・スタイルの建築であるが、その内実はだいぶ異なっている。一九二〇年代の建築が社会の中での建築の在り方を問う試みの結果としてあったのに対して、ラショナリズムの建築は当初から、形態の問題としてのみ考えられて造られているからである。したがってむしろその精神としては、ラショナリズムの建築は同時代の第三帝国様式や社会主義リアリズムに似ているのである。

 最後にアメリカについて述べておこう。インターナショナル・スタイルという言葉の説明を通して初めに述べた通り、アメリカにおける近代建築の移植は一九三〇年代のことであった。この頃、ナチスドイツを逃れた多くの建築家がアメリカに疲れきってきているが、彼らが活動を始め、インターナショナル・スタイルが建築の主流になるのは戦後のことである。戦後、アメリカは世界経済の中心となるので、建築においてもアメリカは世界の中心となった。インターナショナル・スタイルは、一九二〇年代の建築とある断絶を持っているように思われる。一九二〇年代の試行錯誤の実験に対して、戦後の建築は、戦後の安定した経済基盤の上で量の供給と美的洗練だけを追求してきた。インターナショナル・スタイルという言葉を口にするとき、我々はこうした差異を見落として、思わず連続性のみ考えてしまいがちであるが、いま必要なのは、一九三〇年前後の、現在と一九二〇年代を隔てる切断を再確認することなのだと思う。




 

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