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中国建築
四合院住宅
四合院住宅▼しごういんじゅうたく▼SYU HER YUANN JUH JAIR▼中国の住宅建築の典型。中国北方を中心に,吉林、陜西、河南、江蘇、浙江、福建、さらに湖南、湖北、四川、広東、雲南の各省に広範に分布している。「四合院」は,「四合房」とも呼ばれ,文字どおり東西南北に四棟を配して,中央の「院子」を取り込む平面のものをいう。こうした平面配置は住宅だけではなく,紀元前7世紀ごろの宮殿にも、廟にも使われていたことがわかっている。典型的な四合院とされる北京城内の遺構は最も古くて清朝中期であるが,山西省の太行山脈西側の襄汾丁村や平遥城内にある四合院は明代に遡る。
四合院の4棟の呼称は,地域や年代によって異なる。北京では一般に北側の主屋(母屋)を「正房」とか「堂屋」、東・西に向かい合う脇棟を「(東・西)廂房」、南側の棟を「倒座」と呼ぶ。この四合院を南北方向の中軸線上に幾重にも繰り返して重ねてゆき,縦に奥行の深い「院落=(中庭群)」を形成する場合が多い。その中庭群の奥行の重なりを「進」で数え,「一進」「二進」「三進」と称する。
客家住宅
客家住宅▼はっかじゅうたく▼KER JIA JUH JAIR▼中国の江西省、福建省、広東省、広西省、湖南省などに分布する客家の住宅。四合院のような閉鎖的中庭式住宅をとるものもあるが、特徴的なのは主に山間部に分布する四角形もしくは円形の「土楼」建築である。4、5階の版築(はんちく)壁の建物で囲まれ、壁の厚さは一m以上になる。下部の2、3階には窓など入口を設けず,城塞のようである。中庭の中心には平屋建ての冠婚葬祭などが行われる集会所が置かれる。規模が大きくなると、三重の「土楼」で囲まれるものがあり、7、80戸の家族が住む。
徽州住宅
徽州住宅▼きしゅうじゅうたく▼HUEI JOU JUH JAIR▼中国の安徽省東南部徽州地区の、明代から発展してきた住宅。徽州住宅は基本的に四合院をベースにした二階建てであるが、客間、書斎、倒座のほかに庭などの空間が設けられていない。また、増築を繰り返すのではなく完結的である。清代の銭詠氏に著された『履園叢話』には「雕工随處有之,寧國徽州,最盛亦最巧……」と記載され,正門、扉、欄干などの建築細部の彫刻が重要な特徴として注目されている。
抬梁式建築
抬梁式建築たいりょうしきけんちく▼TAIR LIANG SHYH JIANN JWU▼構造の観点から見た中国古代の建築類型。「抬梁」、「穿斗」、「井幹」(校倉)という三類型のうちの一つ。奥行き方向に向かって、礎石の上に柱を立て並べ、柱の上に虹梁を架ける。幾重かの束と虹梁を重ね、棟木を束で支える。その柱梁組を横に並べて桁を渡す。桁はすべて梁で支える。並行するふたつの柱梁組で作られる空間を「間」という。この木組を基本にして,三角形、方形、五角形、六角形、八角形、円形、扇形、万字形、田字形などの建築及び楼閣や塔などがつくられる。中国の北部を中心にして,抬梁式の構造は春秋時代(紀元前770~403)からすでに完成していたと言われている。
穿斗式建築
穿斗式建築▼せんとしきけんちく▼CHUAN DOOU SHYH JIANN JWU▼構造の観点から見た中国古代の建築類型。「抬梁」、「穿斗」、「井幹」(校倉)という三類型のうちの一つ。奥行方向に向かって柱を立て並べ、「穿」(貫)で各柱を貫く。柱と柱の間隔は、抬梁式建築より狭い。桁は直接に柱で支えられる。主に揚子江以南の中国の南部に分布する。漢時代からすでに行われていたといわれる。
明堂建築
明堂建築▼みんどうけんちく▼MING TARNG JIANN JWU▼『周礼・考工記』(紀元前1100年頃)に記載されている古代中国の宮殿や宗教建築の原型。「夏后氏世室」「殷人重屋」「周人明堂」という記述は宮廷建築に関する最も古い文献とされている。後漢時代の『考工記』に関する鄭玄の注釈に基づいた、清代の戴震、焦循、江永、洪頤順、任啓運、王国維などのによる明堂復元論争が有名であるが、その形態が明らかにされたのは近年のことである。明堂建築は五室の構成で、中央に一段高い「台」形式の「堂」があり、四周にそれぞれ四室を配する形式である。各建物はほぼ正方形の重層建築である。近年、秦代の咸陽第一号宮殿址、漢の長安城南郊礼制建築址などが発掘され,考古学の方面からもその存在が証明されつつある。
平江府図碑
平江府図碑▼へいこうふずひ▼PYNG JIANG FUU TWU BEI▼宋代に彫刻された平江(蘇州)の地図。『平江府図』は『天文図』『理図』『帝王紹運図』と併称四大石刻からなる貴重な都市資料。平江は春秋(紀元前770~403)末期、呉国の首都である。江南平原の南北交通の要所にある。紹定2(1229)年に,蘇州の郡守に着任した李壽朋が『呉郡志』を増補して出版させ,同時に坊市の故実を重建させた。この『平江図』はその事業の記念碑として建立されたものであるとされている。
山西晋祠聖母殿
山西晋祠聖母殿▼さんせいしんしせいぼでん▼SHAN SHI JINN TSYR SHENG MUU DIANN▼宋代の道教建築。山西省太原西南懸翁山にあり、春秋時代に建てられたとされる。周の成王の弟である叔虞を祀るために晋祠と呼ばれた。聖母殿と殿前の「飛梁」は北宋の遺構で、献殿は金代の建築である以外、すべて明清以後の建物である。聖母殿は天聖年間(1023~1031)に創建され,崇寧元年(1102)に改築された。幅7間奥行6間(実は幅5間奥行4間で、副階周匝 (裳階が付いている)入母屋式である。前二間が拝殿となるため,繋虹梁によって中央の4本の側柱が省略されている。こうした構造は中国建築の中では極めて特殊である。
河南開封市祐国寺塔
河南開封市祐国寺塔▼かなんかいほうしゆうごくじどう▼HER NAN KAI FENG SHYH YOW GWO SYH TAA▼中国河南開封市の北門内にある磚塔。現在は北宋の塔しか残存されていない。塔の表面は濃い茶色の瑠璃瓦で覆われているので「鉄塔」と俗称される。八角十三層、高さは約55米ある。東西南北にそれぞれ門が設けられているが、北門には階段があり、上の各階へのぼることができる。各階の東西南北の各室に窓が設けられているが、ただ一つを除いて、偽の窓(俗称盲窓)である。塔の表面に飛天、降竜、麒麟、菩薩、仏龕などの装飾が施されている。
江蘇蘇州市寒碧山荘(留園)
江蘇蘇州市寒碧山荘(留園)▼こうそそしゅうしかんへき さんそうりゅうえん▼JIANG SU SU JOU SHYH HARN BIH SHAN JUANG[LIOU YUAN]▼中国の蘇州門外にある明代に造られた庭園。明時代の嘉靖年間(1522~1566)の徐泰時の東園であったが、清時代の嘉慶年間(1796~1820)の劉恕に帰して、改造され寒碧山荘と改称された。園内には十二怪石がある。光緒2年(1876)年再び拡張され、留園と名づけられた。全園の面積は約81アールである。十余本の樹齢2、3百年に及ぶ大木があり、雄大と感じられる黄石を積み重ねて山としている。曲渓楼、五峰仙館、揖峰軒、還我読書処、清風池館、林泉耆碩などの建築が有名であり、戯台、楼館、書房などの建物が多く構築されている。
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