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2021年6月18日金曜日

和風 宮内康・布野修司編/同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

宮内康・布野修司編/同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993


和風

 

 




和風とは「我国在来の風習」のことである。衣食など生活習慣の全般に付いて、また、音楽、絵画、演劇など芸術の諸領域において、すなわち、文化のあらゆる局面において、和風という概念は広範に用いられている。

  しかし、和風という概念はそうわかりやすいものではない。実に曖昧な概念と言えるだろう。すなわち、〈和〉とは何か、〈日本〉とは何か、という問いがその背後にあるのである。日本に固有なものとして古来から伝えられてきたものとは何か。それを明かにするのはそう容易ではないのである。

 そもそも、全く外来文化の影響を受けない、日本に土着的な文化が果してあるのかという問題がある。日本人とは何処から来たのか、日本語のルーツは何か、日本文化のアイデンティティーは繰り返し問われるのであるが、どうも、日本に固有なものを明らかにする試みは失敗し続けているように思えるのである。さらに、和風というのが決して固定的なものではなく、極めて相対的なものであるという問題がある。和風というのは常に外来のものに対置される。和風に対置されるのは例えば唐風であり、洋風である。しかし、外来のものもやがて和風化し、日本化していくプロセスがある。和風も外来文化の影響を受けて変化するのである。新たに移入される外来文化と在来文化との差異を相対的に表すのが和風である。

 和風という言葉ほど今日では一般的ではないのであるが、和様という言葉ある。様式概念として用いられるのが和様という言葉がある。和様という場合は、少なくとも時代背景ははっきりしている。〈やまとことば〉や〈やまとごころ〉が漢語や唐心に対置された時代において、日本古来のものと考えられた〈やまとのかたち〉が和様である。より正確にいえば、飛鳥、奈良時代に唐から伝えられ、平安時代を通じて日本人の感覚と風土にあうように変容した文化様式について、一般的に用いられるのが和様である。

 建築の場合、鎌倉時代以降に中国(宋、元)からもたらされた唐様(禅宗様) 天竺様(大仏様)と区別するために用いられるのが和様である。和様建築の特徴は、装飾が少なくシンプルであること(具体的には長押が構造材として用いられ装飾的意見合いが薄いこと、組物は柱上のみに置かれること、垂木が平行に並べられることなど)、天井が低く、空間が細かく分割されることなどである。

 しかし、この和様建築というのも時代とともに変化していく。禅宗様、大仏様の影響を部分的に、あるいは全体的に受け始めるのである。又、和様建築を特徴づける要素や細部が禅宗様建築にも用いられ始めるのである。そこで、例えば禅宗様建築に特徴的な貫などを部分的に取り入れたものは新和様と呼ばれる。さらに、より全体的影響を受けたものについては折衷様という概念も用意される。和様あるいは和風とはおよそ以上のようである。

 和風建築というと、しかし、今日では一般的に数寄屋建築をいう。数寄屋の内容は時代とともに拡大していくのであるが、茶屋の建築手法や意匠を基本とするのが数寄屋である。〈佗数寄〉(わびすき)あるいは〈さび〉の精神は、日本文化を支える根本精神として、日本に固有な美意識として、しばしば言及されるのであるが、建築についても、和風建築を狭義に規定するとすれば、数寄屋建築を念頭に置いてよいだろう。

 しかし、建築における日本的なるものとは何か、というと、そう単純にはいかない。伊勢神宮のような神社建築や民家建築など、数寄屋のみならず、様々な建築の伝統が日本に固有なものとして取り出されるのである。日本の近代建築の歴史において、実は、日本的なるものとは何かをめぐって繰り返し議論が行われてきたのであるが、必ずしもはっきりしない。今日に至るまで議論はもちこされているのである。

 日本の近代建築の歴史において、日本建築のあり方が繰り返し問われてきたのは、いうまでもなく、西洋か、近代化のプロセスにおいてそのアイデンティティーが激しく揺さぶられてきたからである。国会議事堂の建築をめぐる様式論争である。

 「国家を如何に装飾するか」をめぐるその論争において日本建築の将来のスタイルが大きく問われたのである。議論を単純かすれば、三橋四郎の和洋折衷主義、長野宇平治の欧化主義、伊東忠太の進化主義が様々な意見を代表していたのであるが、日本建築の様式を何を土台として創り出すかをめぐって主張はわかれたのであった。

 第二の搖れは、十五年戦争期、一九三〇年代である。様々な形で、日本回帰の現象が起こる中で、日本趣味、東洋趣味の建築様式が求められるのである。帝冠様式をめぐる議論、一連のコンペをめぐる議論がその搖れを示している。しかし、この時期、建築における日本的なるものをめぐる議論の水準は、必ずしも国際様.式か日本様式かという二者択一的なものであったわけではない。B.タウトによる桂離宮の再発見といわれるものが大きなインパクトとなるのであるが、日本建築の伝統である桂や伊勢に近代建築の合理精神を発見するというのが一般的な構えである。

 戦後、一九五0年代半ばに伝統論争が起こる。丹下vs白井といった対立構図がわかりやすいのであるが、基本的には戦前の議論をそのまま引きずるものであったとみていい。すなわち、日本の伝統的な木割をコンクリートで表現するといった方向がそうである。近代建築の実現と日本建の伝統との幸福な一致が夢みられていたといえるかもしれない。一方、レヴェルは違うのであるが、海外でジャポニカ・ブームが起こっている。日本講和による国際社会への復帰に伴い、日本の畳や障子がもてはやされるのである。

 ジャポニズムというのは、西欧世界におけるエキゾチズムの一種といっていいのであるが、しばしばブームとなる。十九世紀末には多くのジャポネーズが生まれ、西欧世界に大きな影響を与える。浮世絵とアールヌーヴォーの関係はよくしられていよう。

 七〇年代に入って、近代建築批判が顕在化するとともに、再び、日本的なるものが議論のそ上に載る。興味深いことに、近代建築批判のために、日本的表現が対置されるのである。そして、それが建築のポスト・モダンの一つの流行となる。しばらくの間振り返られることのなかった数寄屋が見直されたりするのである。ジャパネスクなどという言葉がつくられ、一時、人口にかいしゃしたのは七〇年代末から八〇年代にかけてのことである。

 以上のように、建築の近代化のプロセスにおいて、一定の周期で、まさに一九一〇年代、三〇年代、五〇年代、七〇年代と繰り返し現れてきたテーマが和風であり、日本的表現である。日本という国家のアイデンティティーが国際的な環境において問われる度に、建築においてもそのアイテンティティーが問われてきたろである。

 和風をめぐる議論はおそらく収れんしない。和ー洋、近代ー伝統、インターナショナリズムーナショナリズムという二極の間を揺れ動くだけである。何をもって日本に固有な建築表現とするかも一致をみることはないだろう。問題は、むしろ、和風という極めて曖昧な表現、もしかするとありもしない固有性をオブラートにくるんで何ものかに全体として対置するそうした思考パターンにあるのではないか。

 極めて素朴な疑問として浮かぶのは、建築の表現として、何故、日本という表現が問題とされねばならないのか、ということである。例えば、ヴァナキュラーな建築を見れば明らかなように、建築というのはより地域的に固有な表現をとって成立してきた筈である。日本という枠組みは一体何を根拠に何処からもたらされるのか、それこそが問題なのである。

 こうして、和風をめぐる問いは振り出しに戻る。〈和〉とは何か。〈日本〉とは何か。〈日本〉をどう捉えるかがそこでは最初から問われているのである。そして、〈日本〉を何か固有なものをもつ一つの全体として捉える見方(例えば、大和史観、単一民族国家観)を捨て去ることにおいてのみ、和風をめぐる議論は揚棄される筈なのである。     





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