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2022年9月23日金曜日

現実とフィクションのあいだを建築的に論じる:映画的建築 建築的映画 五十嵐太郎,図書新聞,20090718

現実とフィクションのあいだを建築的に論じる:映画的建築 建築的映画 五十嵐太郎,図書新聞,20090718

布野修司

 

 題名に惹かれ、一端(いっぱし)の映画少年であった昔、年間200本を超える映画を見て過ごした、また、ドイツ表現主義映画の連続映写会(『カリガリ博士』『ゴーレム』『ノスフェラトゥ』『ドクトル・マブゼ』『ファントム』・・・・)・シンポジウムを開催したこともある学生時代を思い起こしながら手に取った。一読して、いささか後悔、評する資格がないと思った。なにしろ、取り上げられる映画のほとんどを見ていないのである。古今東西の映画がDVDやインターネットで見ることができる、本書はそうした時代の作品である。年間200本見たといっても、毎週土日にオールナイトで「ヤクザ映画」を5本見るといったレヴェルであり、そうした時代のことである。映画の成立する(映画(およびTV)産業が拠ってたつ、あるいはIT産業が用意する)メディア環境の大転換をまず思う。とても批評することは適わないのであるが、本書の概要を紹介して最低限の務めを果たしたいと思う。

 著者は、冒頭序に、映画(映像)と建築をめぐる言説の基本的スタンスの違いを整理してくれている。第一に、映画に登場する建築や都市を論ずるものがある。実在の都市・建築を取り上げるもの(飯島洋一『映画の中の現代建築』)だけでなく、第二に、架空の空間も論考の対象になる。建築が生活の舞台を用意し、都市景観を形成している以上、映画が実在の空間を舞台として用いるのは一般的なことである。現実の空間を形作る建築とそれを舞台として展開される映画は、必ずしもクロスするところはない。映画と建築をめぐってテーマとなるのは、どういう文脈で、映画の場所、舞台が設定されているか、建築がどういう象徴として、またどういう記号として扱われているかである。

現実の空間が舞台として設定される映画でも、セットが用いられる場合がある。これはもはやフィクショナルな空間であり、架空の空間もまた舞台とされる。舞台美術、セット技術、CGやアニメによる空間表現の問題がテーマとなる。著者に拠れば、『戦争と建築』『「結婚式教会」の誕生』に続く作品として、現実とフィクションのあいだを建築的に論じることをテーマとするのが本書である。

映像表現の問題としては、ここまでは古典的といっていい。あくまでも映画は何を表現するかである。なんとなく血が騒いで、S.クラカウアーの『カリガリからヒトラーまで ドイツ映画1918-33における集団心理の構造分析』(1947年)を思い起こして、本棚の奥からぼろぼろになった本を見つけ出した。映画が成立しつつあった過程の、まだ、トーキーがない時代の映画についてのすぐれた映像論である。F.ラングの『メトロポリス』で描かれた未来都市、架空の都市が、『ベルリン・アレキサンダー広場』に帰着する、見事な分析だと思う。映像表現は、時代の芯を捉えているかどうかが鍵である。

 続いて、著者は、映画と建築家の関係を三つに分類する。①映画の登場人物としての建築家(『摩天楼』1949、『冬のソナタ』2002)、②建築家のドキュメンタリー(『マイ・アーキテクト ルイス・カーンを探して』2003、『ヒトラーの建築家アルベルト・シュペーア』2005)、③建築家が自ら製作に関わった映像の三つである。①②は、しかし、「建築的映画」あるいは「映画的建築」というテーマと必ずしもクロスはしない。③は、建築家による自らの作品のプロモーション・ビデオが例として挙げられる。

 本書は、4部からなるが、以上のような整理に従うと、第4部が専ら①②③に関わる。『摩天楼』の他、ル・コルビュジェの『今日の建築』(1930)、イームズ夫妻の『パワーズ。オブ・テン』(1977)、シドニー・ポラックの『スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー』(2005)などが論じられる。おそらく、著者が最も興味を持っているのは第3部「架空の都市」ではないか。宮崎駿のアニメ作品、『新世紀エヴァンゲリオン』など、SFやアニメ作品が専ら扱われる。叙述は最も活き活きしているように思う。第2部「空間と風景」において、映像表現と建築空間の間が問われる。『ブレードランナー』『ブラック・レイン』ぐらいはついていけたが、大半は見ていないから、理解が及ばない点が多々ある。映像、建築、言語の表現の位相の差異を否応なく考えることになる。そして第1部「舞台と美術」では、小津安二郎作品、また美術監督種田陽平の手がけた作品を中心に、映画美術が扱われる。この第1部は、建築家にとっては最も親しい。映画のみならず演劇も含めて舞台美術(設計)は、建築の空間の設計と多くを共有しているからである。

 「映画的建築」というのは、映画のあるシーンを成立させる建築ということであろうか。空間に生起するある一瞬のシーンをイメージして設計するというのは建築家の基本的構えであり、映像作家と建築家はほとんど方法を共有しているといっていい。実際、すぐれた映画監督の絵コンテは建築家のスケッチやパース(透視図)と全く変わらないのである。本書では、美術監督の種田陽平や黒澤明映画の美術を担当した村木与四郎(『東京の忘れものー黒澤映画の美術監督が描いた昭和』)に触れられている。ただ、映像表現がシーンの不連続的連続(モンタージュ)を手法とするのに対して、建築空間は日常生活の時間と空間を引き受けなければならない。

 「建築的映画」というのは、単なる比喩であろうか。あるいは、映画のシナリオや映像が、建築が部材など各部の要素から組立てられるように構成される、具体的な手法についていうのであろうか。

小津安二郎の方法について、「日本映画に建築の方法をもたらした」というドナルド・リチーの指摘(『小津安二郎の美学』)が引かれている。「日本の大工が一定のサイズの畳や襖、同一の骨組みや横架材を使って家を建てるように、小津はいわば感情の基準寸法の映画を組み立てる時に、自分が使おうとする多くの画面のサイズ、そのイメージの輪郭を知っていたし、そしてこれらの画面はどの作品でも全く同じように繰り返し出てくるのである。」 「大工のように、・・・作品の仕上げに着手し、一連の構造上のアクセントとバランスで各場面をつなぎ、・・・完全な住居を作り出す」という「大工のように」は、職人芸といったレヴェルの比喩ではない。小津の場合、実際に映画において(あるいは映画の前提となる)空間を設計しているというのである。

 おそらく、映像によって空間を設計するといった小津映画のような「建築的映画」は、そう多くはないだろう。しかし、SF映画の場合、基本的に背景となる舞台は予め設計されるから全て「建築的映画」といっていい。本書で扱われる映画の多くがSF映画であり、アニメ映画であることは、著者の建築的関心からすれば必然でもある。「架空の都市」が1部を割いて扱われるのもよく理解できる。

 映画(演劇)と建築をめぐっては、集団的表現(制作)あるいは集団的想像力をめぐる問題、映画上映の空間(映画館あるいは上映スペース)の問題などをテーマとして思いつくけれど、本書の関心とは次元が異なっている。欲を言えば、映画の方法と建築の方法をより突き詰めて比較する論考が欲しかったように思う。 



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