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2022年9月19日月曜日

一見バラバラなように見える諸論考が、「都市・建築」の現在をそのまま示して居いる、書評・『都市・建築の現在』,図書新聞,20061125

 書評『都市・建築の現在』

一見バラバラなように見える諸論考が

布野修司

 

本書は、「建築史の研究領域を集成した、日本建築史上・日本出版史上の空前のシリーズ」をうたう全10巻の最終巻である。読者は、当然「都市・建築の現在」を歴史的パースペクティブにおいて位置づけ、「未来」を展望する論考を期待することになる。しかし、集められた諸論考は、あるものは「3 一九六八年――パリの五月革命をめぐる思想と建築」(五十嵐太郎)を論じ、あるものは「6 難民キャンプの現状」(森川嘉一郎)を論じといった具合で、一見バラバラなように見える。この論考のバラバラの寄せ集めは、「建築・都市」の多様性を浮かび上がらせるために「方法論的統一」を求めないとするシリーズに一貫する編集方針に基づくものであるが、「都市・建築」の現在をそのまま示しているというのが第一印象である。

各巻の趣旨は巻頭論文に示されるというから、石山修武の「序 現代の特質―何をもって現代とするか―」が、まず読まれるべきであろう。石山は、まず、建築の工業化=標準化(交通と差異)の問題をとりあげている。建築生産の工業化が「建築・都市」の現在のあり方を決定的に規定するという認識は多くの共有するところであり、極めてオースドックスだと思う。松村秀一論文「1 住宅の生産と流通」、清家剛論文「2 オフィスビルの表現」は、工業化技術の変遷をくっきりと跡づけている。具体的な建築家の建築作品を次々にあげる石山論文は、一般にはわかりにくいと思われるが、この二つの論文でおよそ「都市・建築の現在」は把握できる。松村論文は、プレファブ住宅の歴史を丁寧に描く最良のテキストになっている。清家論文によって、日本に限定されるがオフィスビルの歴史がよくわかる。石山の言うように、二〇世紀はオフィスビルの時代であり、世界中の都市景観を大きく変えたのはオフィスビルである。そして、鉄とガラスとコンクリートといった同じ工業材料によって、また同じ構法によって建てられた超高層が林立する世界中の大都市の景観が似てくるのは当然であった。

石山は、テクノロジーに主導されてきた建築のあり方の究極の姿をコンピューター技術に依拠するフランク・O・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイム美術館に見る。「この建築によって二〇世紀の建築は幕を閉じた」とまで言うが、それが標準化、あるいは「機械の美学」を乗り越えて、極めて遊戯的な、個人的な表現を実現している一方で、その表現が普遍的なコンピューター技術に支えられている、というのがその視点である。石山の文章全体は分裂気味(感覚的)でわかりにくい。「時間、すなわち眼の当たりにせざるを得ない現実の歴史性を生きるのは知覚に頼るしかない。それが、これからの現代の特質である。」と文章は結ばれている。

それに対して、巻末の鈴木博之論文「7 都市と建築 その機能と寿命」は、全巻のまとめの役割を担うが、基調としてわかりやすい。「都市・建築の強さと耐久性」をめぐって、日本近代の歴史を振り返った上で、「成熟期社会の都市と建築」を展望するのであるが、「これまでのスクラップ・アンド・ビルドという体系ではなく、継承と変化に対応する建築のための技術体系が必要とされるのである」というのが結論である。また、建築・都市の長寿命化のためには複合機能性が大事だという。そして、複合機能性を秘めた場所をつくることこそが環境の形成行為であり、文化を築くことだという。

ワイマール・バウハウス大学教授のヨルク・グライダー論文「4 病理としての建築――近代と「美学の生理学」」は、技術と芸術の二律背反の問題を美学の病理として問うている。中川理論文「5 環境問題としての風景論」は、開発と保存の問題を通奏低音としながら「景観問題」を環境問題として問うている。全体を通じて不満があるとしたら、評者が関心を持ち続けているアジア、あるいは発展途上地域の「都市・建築」の問題が触れられていないことである。西欧vs日本の構図が本書の基本に置かれている。この点では、アジアはともかく、日本の中の外国人居住の問題などに触れられず物足りなさはあるものの森川論文に好感をもった。グローバルな都市問題、居住問題は、大きく、先進諸国の「都市・建築」に関わる筈である。

通読して、建築家としての石山修武の「知覚に頼るしかない」という意味が少しわかる。近代建築の巨匠たちが絶大な信頼を置いてきたテクノロジーへの期待は最早ない。また、その延長であるIT技術の留まることのない展開の限界も直感してしまう。建築家がなしうるのは、「状況」を直感しながらつくり続けることである。「1968年」の状況に絡めて、五十嵐太郎は「より純粋な理念に走る思想のほうが過激であり、建築のほうが現実との妥協点をもとめてしまう。ここに思想と建築が交差する永遠のアポリアがある」と結論づける。問題は、「知覚」に頼って行われる現実との妥協の行方である。

果たして、建築の工業化の趨勢は大きく転換することがあるのであろうか。果たして、建築の長寿命化はどのように実現していくのであろうか。「環境問題」は、果たして、「都市・建築」のあり方をどのように変えていくのであろうか。本巻を通じて、以上のような基本的問題は浮かび上がっている。しかし、歴史を見据え、見通す方向性は見えない。近代建築批判の課題は依然として、問い続けるものとして「宙吊り」にされ続けているのである。


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