布野修司:多様化する家族のかたちと住まいのかたち,区政会館だよりNo.129,東京都特別区協議会,200008
多様化する家族のかたちと住まいのかたち
布野修司(京都大学)
日本の家族が揺らいでいる。しばらく以前から、「逆噴射家族」、「漂流する家族」、「家庭内別居」、「疑似家族」、「ホテル家族」、「ポストモダン・ファミリー」といった言葉がジャーナリズムを賑わせるように、これまでにない様々な暮らし方、様々な家族のかたちが現れ始めている。相次ぐ少年による凶悪犯罪、学級崩壊、カルト教団の跋扈・・・。いささか乱暴だけれど、こうした日本社会の病理の根っこにも社会の基礎単位としての家族の揺らぎがあるのかもしれない。
高齢化、晩婚化、少子化、女性の社会進出、熟年離婚・・・等々、日本の家族と家族を取り巻く環境がこの間大きく変化しつつあるのは事実である。家族の基礎である男女(個人と個人)の結びつき(婚姻)が流動化しつつある。親子関係も様々だ。介護制度の導入の背景には明らかに家族関係の変化がある。総じて家族のかたちは多様化しつつある。家族は個人化しつつある、といってもいい。はっきりしているのは、高齢単身者も含めて単身居住の形態が増えることである。
日本の家族がどうなるのか、正直言ってわからない。確かなのは、これまでの家族のかたち、すなわち核家族を基本とする家族(近代家族)モデルは近代国民国家の形成と密接に関連しており(西川祐子『近代国民国家と家族モデル』)、その変化はグローバルに認められる大きな歴史的変化(落合恵美子『近代家族の曲り角』)だということである。
この家族のゆらぎに対して、どのような居住空間を用意すべきか。予め言えるのは、多様な家族形態を受け入れる空間が日本にはほとんど用意されていないことである。
戦後日本の住宅のモデルとなったのは51c型住宅である。51cとは、1951年の公営住宅の標準プラン(間取り)abcのうち、cのタイプということだ。51c型住宅が歴史に記録されるのは、そのプランにおいて、日本の戦後(近代)住宅の象徴となるダイニング・キッチン(DK)が生み出されたからである。
DKと4.5畳と6畳の二部屋からなるこの小住宅(2DK)のプランを生み出したのが食寝分離論(西山夘三)である。狭くても食事の場所と就寝の場所は分ける。そのために食堂が台所と一緒になってもやむを得ない。朝はDKで簡単に食事をして夫婦共に働きに出かける、そんな家族像が戦後日本の出発点である。
その後の展開もわかりやすい。戦後復興から高度経済成長期にかけて住宅の規模は拡大していく。食寝分離が保証された後は公私室の分離が目指される。リビングの誕生である(2LDK)。そして次は、個室の確保が目指される。1960年を過ぎた頃、3DKとか3LDKが日本の標準住宅となった。興味深いのは、この形式が農家住宅にも一気に普及していったことである。こうして日本の住宅と言えばnLDKである。
nLDKとは核家族n人の住居である。今でも住宅の立地と形態(集合住宅か戸建住宅か)を知って、nLDKと聞けば、家族のかたちはイメージできる。驚くべき画一化であるといっていい。しかし、それだけ家族のかたちも一定であったのである。nLDKという空間が家族の形式を表現した。だから日本の戦後家族はnLDK家族である。
しかし、これからはそうは行かない。多様な家族のかたちを許容する空間の形式はどのようなものか。前提となる単位が個人ということであるとすると、空間の単位は個室である。建築家としては、全て個室をつくればいい、というのであれば楽である。その場合、ワンルーム・マンションのような、全て個室群からなる建物で都市ができあがるであろう。
問題は、個と個がどのような関係をとるかである。節税のために、縁もゆかりもない赤の他人が一緒に暮らす例だってある。どんな関係でも許容する形式というのは難しい。都市によって、地域によって、場所によって様々な形式が作り出される必要がある。それが真の多様性であろう。
具体的な例として、コレクティブ・ハウスと呼ばれる形式がある。北欧などのコレクティブ・ハウスは、老若男女、誰でも集まって住む。厨房、居間を共用して、順番に料理を行う。高齢単身者の場合、ケア付き住宅、老人ホームに住むのでなければ、集まって住むかたちはメリットが多い。日本では、グループ・ホームという名で定着しつつある。
世界を見渡せば様々な空間形式がある。インドネシアでは、厨房、バス・トイレを共用し、廊下を共通の居間として使う集合住宅(ルーマー・ススン)が建てられている。様々な事例に学ぶながら、日本でも日本なりの形式が生み出される必要がある。共用空間をどうつくるか、何を共有し、共用するかによっていくつかの形式が分かれる筈である。
しかし、いずれにしても、個と個の関係は変化しうる。全てを予測して空間を用意するのは不可能である。そこで、建築家にはもうひとつ別のアプローチがある。まちにはまちの街区のかたち、居住空間のかたちがあるのではないか、ということだ。家族が社会の基礎単位であるとすれば、都市にも基礎となる空間単位があるのではないか。いずれにしろ、nLDKに代わる、多様で生き生きとした家族のかたちを受け入れる空間が早急に必要であることは間違いない。
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